揺れる袖口。
薫が倒れるのがまるでコマ送りのように見えた。一瞬の戸惑いもなくただ本能のままに動こうとした俺は、はたとマリアのことを思い出し、ギリギリの理性を総動員してじわじわと元の場所に戻る。代わりに全神経をそちらに向けた。
ぽすっという柔らかい音がして、どうやらあの犬、いや白オオカミが薫を受け止めてくれたんだろうと理解する。ギッと睨まれた気配がしたが、やり返す気はなかった。なぜなら俺は、始めてカイに感謝していたのだから。
そんなこともあって、俺の気分は最悪で、心の安らぎどころか自分への嫌悪感が募って行くだけの日々が続いていた時。
「イシュがこんなに弱ってるとこなんて、子供の時以来じゃないの?写真とっとこう」
マリアが来てからというもの、パッタリと消息を立っていたアルデールが何処からかまた湧き出て、この夜中に俺を訪ねてきた。 寝たいのに強制的に話をする体制に持っていかれて、それだけでストレスが溜まっているような。……過労死しそうだ、早く帰ってくれ。
「うざい帰れ、写真撮るなアホ、話ってなんだ早く終わらせろうざいから」
「ひどいなぁ、イシュは。最近僕がどれほど君のために働いたと思ってるの」
そのへラリとした笑顔をやめて欲しい。お前は人を労わることを知らないのか、ていうか本当に帰ってくれないか。口を開くのも億劫になってきて、心の中で悪態をつきながらも、俺は渋々話を聞く体制を整えた。というのも、こいつが仕事をしたというのは俺の興味をそそる話題TOP10に入るのだ。それぐらい、珍しい。
「うわ、何その目ヤメテくんない、俺結構ナイーブだからね。ていうか今絶対ひどいこと考えてるでしょ」
「前振りはもういいから話を始めろよ……」
続きを促すと、やっとと言うか何と言うか、アルデールの顔が久しぶりに引き締まった。
「分かったよ。一応言っておくけど、今から話すことは機密事項だから、情報漏れは許されないよ」
マリアの家が不正を働いていて、その証拠をつかんだ。まだ公にはされていないが時期に王位の剥奪と逮捕措置が取られるだろう。また、この件にはマリアも関わっているとされており、証拠を掴み次第、同等の措置を取る予定。
「つきましては、イシュ・エドワール7番隊長に正式にマリア嬢の誘導をお願いしたい」
その話は結果として俺の眠気を吹き飛ばし、更には気力まで取り戻した。これは、多分アルデールに感謝せざるをえないだろう。
「……喜んでお受けいたします、アルデール王子」
俺は何年ぶりかにアルデールにこうべを垂れた。
計画が実行されたのはそれから約2日後。まずは俺が婚約解消を切り出す。そこがスタートラインだ。マリアは面白いほど簡単に苛立ちを見せた。マリアの眉間には深くシワが寄せられている。
「何故?」
「あなたがいない間に沢山の事があったんですよ、ブティックの前で会ったでしょう?あの少女と私は、特別な関係にあります」
愚問だ。きっとこんな計画がなくても俺ははっきり理由を言えた。そしてこれは、第1の引っ掛けでもあった。ここで、マリアの中で何かが切れるだろう。その証拠にマリアはじっとうつむき、少し肩を揺らし、直後、口元に笑みを浮かべながら話し出した。
「あぁ、そうなの。だけど、婚約解消なんて許さない。ねぇ、イシュはご存知?私、綺麗なものも、可愛いものも、美味しいものも、大好きですのよ。気に入った物は全部手に入れて、毎日楽しく暮らすの」
こういう女だ。人が幸せになるぐらいなら、自分の幸せを投げ打ってでも人を不幸にしたい。……哀れ、俺は何の戸惑いもなく剣を抜いた。
「許して頂ければと願っていたのですが、」
これは、最終段階であり、賭でもあった。ここでマリアが逆上して毒の使用を早まれば俺の負け、冷静さを残して俺の行動を見極めるようなら俺の勝ちだ。マリアの体が不自然にこわばって数秒、俺はマリアの左袖が微かに振れるのを見逃さなかった。自前に情報がなければ見逃してしまうような、微かな動き。
確定だ。今度こそ、ハッキリと見た。袖口からチラリと見えたのは、一見、何も入っていないかのように見える小瓶。
あぁ、賭けは俺の勝ちだ。剣を素早く引くと、マリアの笑みが濃くなった。しかしそれも、俺がドアに向かうまで。次の瞬間聞こえてきた、マリアの焦ったような、微かに疑問を含んだ声が聞こえるか聞こえないかのうちにドアは開かれ、4番隊の面々が確保に向った。
間もなくかしゃり、と確かに手錠のかかった音が聞こえて振り向くと、憎悪に染まった真っ青な目がこちらを見すえていて、ふと気がついて足元を見る。無色透明の液体が小さな小瓶と共に転がっていた。もう流石に何も感じることはなく、俺はただだまってマリアを見据えた。
それからのことはただ怒涛、とも言うべきか、アルデールの一言でマリアは決定的に崩されて恐ろしく従順になった。どうやらこれから取り調べを受けるようだ。
「お疲れー俺は部屋に帰って寝るから、イシュも帰るなりなんなり好きにしてよー?じゃあねー」
アルデールはマリアを完全に4番隊に任せて、部屋に帰って行った。やはり相変わらずユルいやつ、と思う。
俺はこれから報告書、アルデールには始末書がそれぞれ綺麗に残されていたけど、俺だって今日は帰りたい……久々に。
普段ならやってしまうし、家に仕事は持ち込みたくないタイプだ。だけど今、俺は一刻も早く薫に会いたかった。はやく薫に会って抱きしめて、それで……そんなことを考え始めたら、もう馬車を呼んで待っている時間なんて俺にはなくて、馬小屋に走った。
久々に馬にまたがり、一心不乱に坂を下る。……もうすぐ会える。もう、なにも問題なく、誰も邪魔なんてしない。
もうすぐシリアス章終わります!!