傷付けたのは、俺だ。
俺は何をしてるんだ。
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机の上に溜まった山のような書類を見てげんなりする。
いつもはこんなに溜めないし、夏休みの宿題もコツコツやるほうだが、ルーに任せっきりだったのが祟って、後はサインだけの仕事が山積みになっている。
俺がまた逃げ出す事を見越してだろう、隣で見張っているルーの視線が痛い。
仕方ない、と渋々仕事を始めようとした時、部屋の扉が勢いよく開いた。
入って来たのは、執務をしないと名高いアルデール王子。
ルーがやや緊張気味に姿勢を正す。
「イシュきみ、お茶会来るよね?」
「あぁ、行く」
「じゃあ、待ってるよ!じゃねー」
ほぼ条件反射で答えていて、あ、ヤバイと気がついた時にはドアはもう閉まってた。
……めんどくさい。
という訳で、どうにか仕事を終わらせてお茶会に来た訳だが、速攻帰りたい。
家に帰れるんだったら帰って薫に会いたい。
何が悲しくて野郎と茶なんて飲まなきゃいけないんだ。
「んーっ紅茶がおいしいねぇ。あれ、イシュ手が止まってるぞー」
輝かんばかりの笑顔で話しかけてくるアルに寒気が走る。なんだこいつ、気持ち悪い。しかもあと少なくとも30分はこいつのちゃらんぽらんな話を聞いていなくてはならないと思うと頭痛がする。
もういいや、非常に失礼だが要件を聞いてしまおう。こいつも大概失礼なんだから気にしないだろうし。
「アル、要件はなんだ」
質問した後で気がついた。アルに、要件なんかあるのか。
普通に暇だからとか言いそうでいやだ。
「要件?あぁ、要件ね。なんかさー、あの子帰って来ちゃうっぽいんだよねー」
思いのほか真剣な声で返答されてすこし戸惑う。
「あの子?」
「うん、マリアちゃん」
しばらくフリーズしていたらしい。アルがもう一度繰り返す。
「イシュ?あんまり長く会ってなくて忘れちゃった?キミの、婚約者だよ」
アルの言葉に記憶が次々とフラッシュバックされる。
もともと、愛ある婚約ではなかった。
マリアの長いホワイトブロンドと、ぱっちりしたアイスブルーの瞳は容姿端麗と評判だったが、何度かパーティーで会う度に性格に難ありな事がわかった。
面食いで自己中心的。しかもあちらの両親はひどく親バカだった。
マリアはアルの従兄弟に当たる人物だ。つまり俺よりも身分が上な訳で。
だから婚約の話が来た時も断れなかったんだ。
そもそも、王族は王族同士で結婚するモノであり、マリアも一度はアルと婚約したが、自己中心的が2人集まったせいか、どうもソリが会わなかったらしい。
以来、2人の仲は壊滅的だ。
この国では王の血を絶やさないため、保険に2、3人と婚約する事が許される不思議な制度がある。もちろん結婚の際は1人に絞るが、簡単にいうと側室なようなモノだろうか。今はそんな制度を引っ張り出してくる物好きなんて居ないと思ってたが、どうやらマリアは例外らしい。
アルと別れたマリアの話は王国中に広がり、同時にマリアが婚約者を直々に選び始めたのも噂になった。それも美男ばかり。流石面食い。
婚約の話は俺のところへもやって来た。相手の言い分はこうだ。
「君は容姿も美しいから、マリアに相応しいだろう?それにマリアはえらく君を気に入っててね」
つまり俺は顔で買われた訳で。ついでに身分も低いから言い返しもしなくて、娘が機嫌を損ねる事もないだろうという訳だ。
それから、いい迷惑な事にマリアは自分でかき集めた他の婚約者を放ったらかしに、俺のところへ通い、したくもないお付き合いが始まった。
キスしろ、と言われたらしたし、抱け、と言われたら抱いた。
俺の心は冷えきって、来れからもこんな生活が続くのかと、嫌に悲観的になったりもした。
そんな時、マリアがサパの寄宿学校に通う事になった。
3年程離れる事になると至極残念そうな顔で言われたが、全然残念じゃない。そんなの、むしろ大歓迎だ。
マリアが居なくなって2年ぐらいの頃か。薫がやって来た。
見た途端に運命を感じた。しっかりと。
薫を、好きで好きで仕方ない。ていうか可愛すぎだろ。
離れ難くて、他の男に触られようモノなら自分を制御できるかも分からなかった。取り合えず、マリアなんかと比べ物にならない。
初めは、マリアの事を考え、手を引こうかと思った。しかしそれも最初の数秒。
俺は抗えず手を伸ばした。そしてあの夜、俺は薫の運命とやらだと聞いた時から、なんとか婚約解消出来ないか考えていたのに、今帰ってくるのか。
まだ3年たってないし、空気読め。
「イシュ?ねぇちょっと無視しないでよ。きみさ……いい加減僕泣いちゃうよ?王子泣いちゃうよ?」
「……婚約解消」
漢字にするとたった四文字なのにマリアに言えないってどういう事だ。
一応言っておくと、決して怖くはない。いや、ある意味での恐怖か。
マリアは自分の思い通りにならないモノが気に食わないのだ。だから傷付ける。
もちろんそれが人に向かう事だってある。それはつまり……つまり、薫にも怒りの矛先が向かいかねないという事だ。
恐怖と、それよりも先に途てつもない怒り。
薫が傷つくかもしれない。
あいつがそんな事をしても守りきれる自信はある。だけど、絶対に会わせたくない。
「帰る」
「え、ちょ、イシュ!」
城からはしばらく帰れないだろう。薫を傷付ける事になるだろう。
相当の覚悟はしていたつもりだったのに。
今、目の前で揺れる小さな肩にどうにかなりそうだった。
抱きしめようと手を伸ばすが、出来なかった。傷付けたのは、俺だ。