離れる靴先
イシュが城に泊まり込んで5日目の明け方に、遠くから馬のひずめの音が聞こえて来た。
眠くてはっきりしない頭でぼーっと音を聞きながら、体を動かそうと伸びをする。あの音はイシュだ。絶対、イシュが帰って来たんだ。
仕事だから会いに行かなかったし、寂しいからなるべく考えないようにしてたんだけど、本当はずっと会いたかった。
だから、頑張って起きて「おかえりなさい」って言ってあげよう。
「薫様、アイツ香水臭い奴といます」
淡い光の中でカイがつぶやいた。
うわぁ、びっくり。起きてるなら言ってよね。
「香水臭い?って女の人って事?」
だよね。香水をつけるのは基本的に女の人だ。
それともう玄関に着いたみたい。女の人のせいで完全にタイミングを失った。
「多分、女だと思います。薫様、行きますか?」
「うーん……いいや。待ってるよ。……多分お客さんでしょ?」
頭でこんな明け方に?と言う声が反響する。
ネガティブにしか思考が回らなくなってるんだ。不安。
あー!気になる!誰だろう?!
「カイ、やっぱり行こうかな」
でもその必要はなかったみたいだ。
部屋のドアが開いて、イシュが入ってくる。
カイの尻尾が不機嫌に揺れる。そんなに警戒しなくてもいいのに。
「イシュっおかえりなさい」
私に近づいて来たイシュにぎゅーっと抱きつく。
でも私の大好きな香りはしなかった。
代わりに鼻にまとわり付いたのは、オレンジブロッサムの香水の香り。
イシュのじゃない。
加えて、イシュはいつものように抱きしめ返してはくれなかった。
「……触るな」
「……お前なに言ってんだよ。薫様?無視していいです」
何かを察して私の頭は自動的に理解力の低下をはかったらしい。
聞こえない。カイとイシュの声も聞こえない。
ようやく絞り出したのは苦しい疑問詞。
「………え、なんで」
なんで、全然わかんない。全然。
まず何で近づいちゃいけないのかわかんないし、大体どうしてそんな突然なのよ。
「俺に関わるな、近づくな、それと……さよなら薫、ごめん、じゃあまた」
ますます分からない。
分かりたくない。受け入れたくない。
イシュの顔を見るのが怖い。見たら全てが終わってしまいそう。
顔をあげるのがただ怖くて、イシュの靴先を見つめる。
どれぐらいそうしていただろう。一時間か、一分か、一秒か。
イシュの靴先は離れて行った。
柔らかい夜着にカイが擦り寄る。
もう、立ってはいられない。
「薫様、ベッドに行きますか?乗ってください」
ベッドに横になると、丁度目覚ましが鳴る。
目覚ましは瞬間、私の頭を覚醒させた。
イシュは、行ってしまった。
もし、あの時顔を上げたら、イシュのくるしそうな顔に気づけただろうか?