【プロローグ】
夕方18時47分。
『スーパー激安』——。
鮮魚売り場。
「まだ貼らない……。」
制服姿の少年。
藤崎澪。
18歳。
高校三年生。
れいは鮮魚売り場の前で立ち止まり、じっと一点を見つめている。
視線の先。
生食用サーモンブロック。
400円。
その横——。
白衣姿の店員。
右手には、
値引きシール。
れいの目が僅かに細くなる。
「来た」
店員が、サーモンブロックを手に取る。
ペタ。
『20%引』
れいはシールを確認すると、すぐに首を横へ振った。
「違う」
動かない。
隣。
60代くらいの女性。
チラッ。
女性が、れいを見る。
れいも横目で女性を見る。
「……。」
「……。」
視線がぶつかる。
目的は——。
同じ。
店員が次のシールを貼る。
ペタ。
『30%引』
れいは口元を引き締めたまま呟く。
「まだ……。」
そして——。
店員の手が、再び動く。
ペタ。
『半額』
れいの目が見開かれる。
「来た!」
バッ!
二本の手が伸びる。
「っ!」
先に掴んだのは——。
れい。
サーモンブロックを胸元へ引き寄せる。
「よし!」
400円。
半額。
200円。
れいの口元が緩む。
その瞬間——。
「あーっ! それ!」
れいは目を丸くして、声の主へ顔を向ける。
「んぁ?」
隣の女性が、れいの手元を指差している。
「それ、私ずっと見てたのよ!」
れいは手に取ったサーモンブロックへ視線を落とす。
「これ?」
女性は厳しい目つきのまま、大きく頷く。
「そうよ! そのサーモン!」
れいは、もう一度サーモンブロックを見る。
400円。
半額。
200円。
そして女性を見る。
「……。」
かなり悔しそうだ。
れいは数秒その顔を見つめたあと、あっさりとサーモンブロックを差し出した。
「じゃ、どうぞ」
スッ。
女性が目を瞬かせる。
「あら?」
「ずっと見てたんでしょ?」
「え、ええ……。」
女性は戸惑いながらも、サーモンブロックを受け取る。
その顔。
じわじわと緩む。
「ふふっ」
勝った。
「兄ちゃんありがとうなぁ」
「うちは4人家族なのよ、だから安くて良い物買わないと家計が苦しくてね」
そんな表情。
れいは気にせず、隣の商品へ目を向ける。
「ん?」
もう一つ。
サーモンブロック。
350円。
半額。
175円。
れいが手に取る。
女性の笑顔が止まる。
「……。」
れいは二つを見比べる。
400円。
350円。
大きさ。
ほぼ同じ。
厚み。
ほぼ同じ。
れいの眉が上がる。
「こっちの方が25円安いじゃん」
「えっ?」
女性は眉を跳ね上げると、れいの手元へ身を乗り出した。
れいが持っているサーモンブロック。
350円。
半額。
175円。
女性はすぐに、自分の手にあるサーモンへ目を落とす。
400円。
半額。
200円。
再び、れいのサーモンを見る。
「……。」
さっきまで浮かんでいた勝ち誇った笑みが、ゆっくり消えていく。
れいはそんな女性の変化には気付かず、二つのサーモンを見比べる。
「しかも、こっちの方がちょっと大きくない?」
「えっ!?」
女性は思わず、れいのサーモンへ顔を近づける。
れいも気になったのか、手にしたブロックを横から眺める。
「うん」
今度は少し持ち上げ、上から見る。
「やっぱり、こっちの方が大きい気がする」
女性の口元が引きつる。
自分のサーモンを見る。
れいのサーモンを見る。
自分。
れい。
自分。
れい。
「……そっちの方が良くない?」
れいは首を傾げる。
「そう?」
「ちょっと見せて!」
女性が身を乗り出す。
れいは何の警戒もなく、素直に差し出す。
「どうぞ」
女性は両手に一つずつサーモンを持ち、真正面から見比べる。
右手。
200円。
左手。
175円。
厚み。
大きさ。
色。
脂の乗り。
女性の眉間に、少しずつ皺が寄っていく。
「……。」
れいも横から覗き込む。
「ね?」
女性は答えない。
れいは175円の方を指差す。
「25円安いし」
女性の眉間の皺が一本増える。
れいは二つの大きさを見比べる。
「ちょっと大きいし」
さらに一本。
今度は断面を見る。
「脂ものってそう」
女性の頬がピクッと引きつる。
「もういいわよ!」
「えっ?」
突然声を上げられ、れいは目を丸くする。
女性は200円のサーモンを胸元へ抱える。
「いいの! 私はこれで!」
れいはきょとんとしたまま女性を見る。
「そう?」
「そうよ!」
女性は悔しそうにサーモンを籠へ入れる。
そして175円の方を、れいへ突き返す。
れいは素直に受け取る。
「じゃあ、こっちは俺が」
自分の籠へ。
「ラッキー」
女性の肩がピクッと動く。
れいは気付かない。
175円の値札を見ながら、満足そうに頷く。
「25円浮いた」
女性の肩。
ピクピクッ。
「……。」
何か言いたそうだ。
しかし言えない。
自分から譲れと言って、
譲ってもらった。
その結果——。
もっと安く。
少し大きく。
状態も良さそうな方を、
目の前で持っていかれた。
女性は唇を噛みながら、れいの籠を見つめる。
「……若いのに、やるわね」
れいはきょとんとする。
「何が?」
「なんでもないわよ!」
女性は籠を抱え、その場を離れていく。
れいは、その背中を見送る。
「……?」
首を傾げる。
そして自分のサーモンを見る。
175円。
ニコッ。
「ラッキー」
少し離れた場所——。
その様子を見ていた女性がいた。
まだ若い。
20代前半。
その横。
小さな女の子。
女の子が鮮魚売り場を指差す。
「ママぁ、おさかな?」
母親が少女へ視線を落とし、優しく笑う。
「うん。今日はお魚にしようか」
少女の顔が明るくなる。
「しゃけ!」
母親は少し驚いたように聞き返す。
「鮭がいいの?」
少女は元気よく頷く。
「うん!」
母親は鮮魚売り場を見る。
値札。
398円。
二割引。
手に取る。
値札を見つめる。
「……。」
少し考えたあと、静かに元の場所へ戻す。
少女が母親の顔を見上げる。
「ママ、しゃけ……。」
母親は困ったように笑い、少女の頭を軽く撫でる。
「明日にしようね。今日はお豆腐が安いから」
少女の頬が膨らむ。
「えー」
ぷくっ。
れいは、その声に反応してチラッと親子を見る。
そして自分の籠へ視線を落とす。
175円のサーモンブロック。
半額弁当。
半額のポテトサラダ。
三割引の牛乳。
食パン。
特売の納豆。
インスタント味噌汁。
半額のプリン。
れいは籠の中を確認し、満足そうに小さく頷く。
「完璧」
料理をする気配は——。
ほぼない。
れいはそのままレジへ向かう。
その時——。
コロコロ……。
何かが足元へ転がってくる。
れいが足を止める。
「ん?」
足元。
赤いカプセル。
れいが拾い上げる。
すると——。
「それ、あたしの!」
さっきの少女が慌てて走ってくる。
れいはカプセルを掲げて確認する。
「これ?」
少女が何度も頷く。
「うん!」
れいがしゃがみ、カプセルを少女へ差し出す。
「はい」
少女は両手で受け取る。
「ありがと!」
れいの視線が、カプセルの中へ向く。
小さな恐竜。
れいは興味深そうに覗き込む。
「ティラノサウルス?」
少女の目が大きくなる。
すぐに首を横へ振る。
「ちがうよ! アロサウルス!」
れいはもう一度よく見る。
「あっ、本当だ。前脚三本指だ」
少女が驚いた顔でれいを見る。
「しってるの?」
れいは当然のように頷く。
「知ってるよ」
少女の顔が一気に輝く。
「すごーい!」
少女が勢いよく母親を振り返る。
「ママ! このおにいちゃん、アロサウルスしってる!」
母親が少し慌てた様子で小走りに近づく。
「あっ……。すみません」
れいの前で軽く頭を下げる。
「ありがとうございます」
れいは立ち上がり、小さく会釈する。
「いえ」
少女は、まだれいを見上げている。
好奇心いっぱいの顔。
「おにいちゃん、きょうりゅうすき?」
れいは少し口元を緩める。
「好きだよ」
少女がすぐに次の質問を投げる。
「いちばんすきなの、なに?」
れいは顎へ指を当てる。
「んー……。」
少し考える。
そして思いついたように答える。
「パキケファロサウルス」
少女の眉が寄る。
「ぱきけ?」
れいは少女の目線に合わせるように、もう一度しゃがむ。
一文字ずつ区切るように、ゆっくり発音する。
「うん。パ キ ケ ファ ロ サ ウ ル ス」
少女は首を傾げながら、慎重に復唱する。
「パキケファロサウルス?」
言えた。
れいの顔が一気に明るくなる。
「そう!」
満面の笑顔。
そのまま、両手を使いながら説明を始める。
「頭の骨が凄く硬くて、頭をぶつけて戦う恐竜だよ」
少女は自分の頭を両手で触る。
「ここ?」
「そうそう、そこ」
れいも自分の頭を指差す。
「人間も使い方は別だけど、頭を使う生物だから一緒じゃん?」
れいは楽しそうに笑う。
「だから好き!」
少女の目がさらに輝く。
「みたい!」
れいは頷く。
「スマホで見られるよ」
少女はすぐに母親の服を引っ張る。
「ママ! パキケファロサウルス!」
母親は少し困ったように笑う。
「はいはい。帰ったらね」
少女が念を押すように見上げる。
「ぜったい?」
母親は笑いながら頷く。
「絶対」
少女が両手を上げる。
「やったぁ!」
その様子を見て、れいも少し笑う。
立ち上がり、少女へ小さく手を振る。
「じゃあね」
少女も大きく手を振り返す。
「ばいばーい!」
れいも小さく手を振った。
レジ——。
店員が商品を読み取る。
「1,482円になります」
れいは財布を開く。
「はい」
1,500円。
店員が釣り銭を差し出す。
「18円のお返しです」
れいは手のひらで受け取る。
「ありがとうございます」
18円。
きっちり財布へ。
————
スーパーを出る。
8月。
夕方。
まだ暑い。
れいはスーパーの袋を軽く持ち上げ、中身を確認するように覗く。
「今日も安く済んだなぁ」
満足そうに袋を揺らしながら歩く。
3分。
信号なし。
横断歩道。
一つ。
コンビニ。
その前を通り過ぎる。
れいが突然、歩数を数え始める。
「一、二、三、四……。」
歩く。
「四十八、四十九、五十」
ちょうど五十歩。
れいは足を止める。
その先。
新しいマンション。
月極駐車場。
その隙間。
木造二階建て。
古い。
かなり古い。
鉄階段。
錆。
外壁。
色褪せ。
廊下。
一本だけ点滅する蛍光灯。
『かたむき荘』
看板。
『荘』の文字が半分剥がれている。
れいは見慣れた建物を見上げることもなく、そのまま階段を上がる。
二階。
一番奥。
205号室。
扉の前で立ち止まる。
「到着」
扉。
古い。
鍵穴。
もっと古い。
れいが鞄を開ける。
真鍮色の鍵。
鍵穴へ——。
差し込む。
回さない。
ピッ。
カチャ。
れいは小さく頷く。
「よし」
扉が開く。
鍵を抜く。
部屋へ入る。
「ただいま」
静かな部屋。
返事はない。
れいは一瞬だけ立ち止まる。
「……。」
靴を脱ぐ。
扉を閉める。
古い畳。
低いちゃぶ台。
小さなテレビ。
最低限の家具。
壁際の古びた襖。
昭和30年代がそこに広がっていた。
れいはスーパーの袋を持ったまま、襖へ向かう。
手をかける。
スッ。
襖を開ける。
白い壁。
新しいフローリング。
対面式のシステムキッチン。
大型冷蔵庫。
浴室乾燥機。
天井埋め込み式エアコン。
壁際。
ロボット掃除機。
襖一枚を隔てた先に、まるで別の家が広がっていた。
れいは何事もなかったように中へ入る。
スーパーの袋をキッチンへ置く。
175円のサーモンブロックを取り出す。
値札。
もう一度見る。
「ふふっ」
口元が緩む。
「175円」
冷蔵庫へ収納。
続いて、
半額弁当。
半額のポテトサラダ。
牛乳。
納豆。
プリン。
次々と入れていく。
最後に食パンとインスタント味噌汁を棚へ置く。
料理をするための広いシステムキッチン。
綺麗だ。
とても綺麗だ。
ほとんど使われていないから。
れいが冷蔵庫を閉める。
制服のネクタイを緩める。
そのまま廊下を進む。
奥。
一枚だけ違う扉。
分厚い。
れいは親指をセンサーへ押し当てる。
ピッ。
カチャ。
扉が開く。
大型モニター。
十二枚。
パソコン。
複数台。
サーバー。
無停電電源装置。
壁。
五つの時計。
東京。
ニューヨーク。
ロンドン。
シンガポール。
香港。
れいは中央の椅子へ座る。
背もたれへ軽く体を預ける。
「さてっと」
カチッ。
パソコン起動。
次々と画面が点灯する。
株価。
為替。
債券。
商品先物。
企業情報。
ニュース。
中央モニター。
『生体認証』
れいが指を置く。
ピッ。
『認証成功』
画面が切り替わる。
藤崎 澪
18歳
総資産
10,428,671,980円
れいの眉が僅かに上がる。
「ん?」
数字を見る。
一秒。
二秒。
「増えてる」
マウスを動かす。
クリック。
今日の運用益。
+17,000,000円。
れいは数字を確認する。
「千七百万か」
それ以上の反応はない。
興味なさそうに背もたれへ体を預ける。
「ふーん」
画面を閉じる。
今度はスマートフォンを手に取る。
家計簿アプリ。
今日の食費。
1,482円。
入力。
「昨日が……。」
画面をスクロールする。
数字を見比べる。
れいの目が僅かに大きくなる。
「216円安い」
ニッ。
「よし!」
一千七百万円。
無反応。
二百十六円。
満面の笑み。
嬉しそうにスマートフォンを机へ置く。
その横。
机の端。
一枚の写真。
中学校の卒業式。
まだ十五歳だったれい。
その隣。
父。
母。
兄。
四人。
笑顔。
れいの表情が少しだけ変わる。
手が伸びる。
写真立てに触れる。
写真の中の三人を見る。
「ただいま」
父。
母。
兄。
順番に視線を移す。
れいは微笑む。
「今日もちゃんと増やしといたよ」
指先。
写真の端をゆっくり撫でる。
「だから——」
言葉が止まる。
視線が僅かに落ちる。
「……。」
数秒。
れいは写真から手を離す。
顔を上げる。
いつもの表情へ戻る。
「サーモン食べよ」
椅子から立ち上がる。
キッチン。
冷蔵庫。
サーモンを取り出す。
包丁。
まな板。
れいはサーモンブロックを置く。
「……。」
切る。
ただ切る。
皿へ。
醤油。
わさび。
以上。
れいは出来上がった皿を見つめる。
「よし」
料理と呼べるかどうかは——。
かなり怪しい。
投資専用ルーム。
十二枚のモニター。
誰もいない部屋。
静かに数字だけが動き続ける。
10,428,671,980円。
その金があれば、
高級マンションにも住める。
毎日、高級レストランにも行ける。
欲しい物の大半は、
買える。
それでも——。
キッチン。
175円のサーモン。
れいは一切れ摘まむ。
醤油へ。
わさびを少し。
口へ運ぶ。
モグモグ。
「うまっ」
嬉しそうに、もう一切れ。
15歳の卒業式。
その帰り道から——。
れいは、
一人になった。




