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深夜、白紙に覆われた我が家に帰ると、死んだはずの元カノ三人から命を求められた件

作者: 熾星
掲載日:2026/07/04


 プロローグ



 二日酔いの頭で目を覚ましたとき、俺は雨に濡れた泥の上に倒れていた。背中には、冷たく硬いものが当たっている。濡れきったシャツ越しに、寒気が骨の奥まで染み込んできた。


 目を開けると、雨水が額を伝って眼に入り、視界がひどく滲んだ。目の前には黒い墓石が立っていた。山林の隙間から差す青白い月明かりの下で、俺はそこに刻まれた文字を読んだ。


 森下翠。


 赤城茜。


 篠原詩織。


 その下に、さらに小さな字があった。


 冥婚の花婿 佐伯悠斗。


 俺の名前は死者として刻まれていなかった。だが、その三つの名前は、全員、かつて俺が付き合っていた女たちだった。


 翠は大学時代に知り合った女だった。おとなしく、俺の言うことなら何でも聞いた。妊娠したとき、俺は面倒になり、彼女に人工妊娠中絶をさせた。そのあと実家に戻ったと聞いたきり、連絡は取っていない。


 茜は広告会社で働いていたころに付き合っていた、金持ちの娘だった。気は強かったが、俺には気前がよかった。俺は彼女から金をだまし取り、競馬とネットカジノで全部すった。その金は、本来なら彼女の父親の入院費、差額ベッド代、保険適用外の治療に使うはずのものだった。


 詩織は文学部出身で、陰気で、繊細で、いつも黒いノートを抱えていた。別れたあと、俺は彼女のプライベートな写真を匿名掲示板とSNSに流した。詩織は大学を辞め、精神科病棟に入ったことがあると聞いた。


 ポケットの中で、スマホが震えた。


 画面の白い光が、墓石の上にぼんやり落ちる。


 匿名のメッセージには、三行だけ書かれていた。


「おめでとうございます。地獄の婿選びゲームへようこそ」


「七日以内に、本物の怨霊を見つけてください」


「間違えた場合、あなたは彼女たちの夫として、永遠に土の中へ埋められます」



 1.スープ


 俺は泥に手をつき、身体を起こした。胃の奥がひっくり返るように気持ち悪い。周囲は深夜の山林だった。杉の木が雨霧の中にびっしりと立ち並び、遠くには廃寺らしき屋根がぼんやり見えた。


 ここは東京ではない。


 昨夜、俺が酒を飲んでいた歌舞伎町でもなかった。


 俺はよろめきながら立ち上がり、山を下りるように走った。靴はぬかるみに沈み、一歩引き抜くたびに、何かが下から足首をつかんでいるような感覚がした。背後から物音はしない。それなのに、あの墓石がずっと俺を見ている気がした。


 借りている一軒家に戻ったころには、もう明け方近かった。


 その家は埼玉の山側、秩父に近い古い住宅地にあった。最寄り駅まで歩いて二十分以上かかる。家賃は高くないし、周囲の家もまばらで静かだった。借りたときは何とも思わなかったが、今はその静けさが異様に感じられた。


 玄関のドアが、細く開いていた。


 昨夜、出かける前に確かに鍵をかけたはずだった。


 ドアを押し開けた瞬間、室内から湿った線香の匂いが流れ出した。客間は様変わりしていた。シーリングライトは消え、天井から赤い紙灯籠がいくつも吊るされている。壁には紙垂と水引のような飾りが貼られ、畳の上には緋毛氈が敷かれていた。


 婚礼と葬式が混ざったような部屋だった。


 ソファには三人の女が座っていた。


 全員、白無垢を着ていた。純白の裾は床に垂れ、袖口と裾だけが血に浸したように暗く赤く滲んでいる。顔には分厚い白粉が塗られ、唇は黒ずんだ赤に染まっていた。


 左の翠は、うつむいて布の靴を縫っていた。銀色の針が、指先の間をすっと通る。


 真ん中の茜は、果物ナイフを指先で弄んでいた。刃が灯籠の赤い光を受けて、鈍く光った。


 右の詩織は、長い髪で顔の半分を隠し、爪で黒いノートの表紙を一回、また一回と引っかいていた。


 ドアの音を聞いた三人が、同時に顔を上げた。


 翠が針を置いた。柔らかく微笑む。その笑顔には、生きている人間の温度がまるでなかった。


「悠斗、おかえり。ご飯、冷めちゃったよ」


 低い座卓の上には、いくつもの料理が並んでいた。焼き肉のようなものは艶やかに光っていたが、醤油やタレの匂いはしない。雨水に浸した生肉のような、嫌な臭いがした。


 中央の漆椀には、白い丸いものがいくつも浮かんでいた。


 俺は玄関の扉に背中を押しつけ、後ろ手にドアノブを探った。だが、鍵はいつの間にか閉まっていた。


「お前たち……なんでここにいるんだ」


 茜が鼻で笑い、手にしていたナイフを投げた。


 ナイフは一直線に飛び、座卓に突き刺さった。


「今さら知らないふり?」


 詩織がゆっくりと顔を上げた。髪の隙間から覗く眼は、白目ばかりが異様に目立っていた。


「悠斗、言ったよね。ずっと一緒にいたいって」


 翠が漆椀を持って、俺の前まで歩いてきた。彼女の指が俺の手首に触れる。冷蔵庫から出した魚のように冷たかった。


「悠斗、まずはスープを飲んで」


 翠は匙を俺の口元へ差し出した。


 匙の上には、濁った眼球がひとつ乗っていた。


 それが、ゆっくりと動いた。


 黒い瞳孔が、俺を見た。


 俺は反射的に翠を突き飛ばした。漆椀が床に落ち、汁が飛び散る。眼球は俺の足元まで転がり、そこで止まった。


 そして、ぱちりと瞬きをした。


 喉が何かに塞がれたようになった。


 翠はしゃがみ込み、眼球を拾った。表面についた埃をそっと吹き払う。顔の笑みは、少しも崩れていなかった。


「もう。そんなに乱暴にしたら駄目でしょ。せっかく悠斗のために作ったのに」


 俺は、昔と同じように強い口調を作った。


「翠、ふざけるな。全然笑えない」


 以前の翠なら、俺が少し声を荒げただけで怯えて謝った。


 だが、目の前の翠は首を傾げただけだった。その角度は、人間の首が自然に曲がる角度ではなかった。


 翠はもう一度椀を持ち、俺に近づいた。


「ふざける? 悠斗、私は本気だよ」


 茜が座卓からナイフを引き抜き、俺の横に立った。刃の背が俺の頬に当たる。冷たい金属が無精髭を擦り、皮膚の下に細かな寒気を走らせた。


「飲みなよ。翠を悲しませるな」


 俺の顎が茜につかまれた。


 次の瞬間、腥く冷たい液体が口の中へ流し込まれた。喉を通り、胃に落ちる。胃が激しく縮んだが、吐き出すことはできなかった。


 翠は満足そうに、俺の口元についた汁を拭った。爪が皮膚をかすめ、細い痛みを残す。


「悠斗、いい子。今夜は、私からね」



 2.翠の皮膚


 翠は俺を寝室まで引きずっていき、ベッドの上へ押し倒した。


 部屋の中にも、紙垂と赤い紐が張り巡らされていた。枕元には婚礼用の飾り紙が貼られている。墨の文字は水に濡れたように滲み、壁を伝ってゆっくり下へ流れていた。


 翠はベッドの横に立ち、伏し目がちに白無垢の内側の紐をほどき始めた。声は、障子に落ちる雨のように細かった。


「悠斗、覚えてる? 前に言ってくれたよね。私の肌が一番好きだって」


 衣が床に滑り落ちた。


 その身体を見た瞬間、俺は息が止まった。


 翠の首から下には、皮膚がなかった。


 赤い筋肉がむき出しになり、その上を血管が細い虫のように脈打っている。肩も、鎖骨も、胸も、すべてが濡れていた。切り出されたばかりの肉塊のような光沢が、灯籠の赤い光の下でぎらついていた。


 翠は自分の身体を撫でた。指先に、粘ついた液体が絡む。


「そのうち、飽きたって言ったでしょ。だから、新しい肌にしたの。まだちゃんと馴染んでないけど、嫌いにならないでね」


 翠はゆっくり身体をかがめ、俺の手を取った。


 そして、その胸元へ押し当てた。


 温かい。濡れている。柔らかい。


 俺は必死に手を引こうとした。だが、翠は離さなかった。かつて俺の一言で泣いた女とは思えないほど、力が強かった。


「悠斗、怖がらないで。どんな姿になっても好きだって、言ってくれたよね」


 翠の顔が耳元に近づいた。舌先が、俺の耳たぶをなぞる。


 恐怖が身体の最後の尊厳まで突き破った。


 俺は漏らした。


 温かい液体がズボンを濡らし、匂いがすぐに部屋の中へ広がった。


 翠の顔から、優しさが消えた。


 彼女は俺を見下ろし、目を少しずつ冷たくしていった。


「汚い」


 翠は浴室へ消えた。


 すぐに水音が聞こえた。続いて、金属がタイルをこする耳障りな音が響く。


 しばらくして、翠はスチールたわしを手に戻ってきた。ベッドの脇にしゃがみ、俺の足首をそっと握る。


「洗えばきれいになるよ。この汚れた皮を削れば、私と同じになれるから」


 どこにそんな力が残っていたのか分からない。


 俺は翠を蹴り飛ばし、転がるようにベッドから落ちた。そのまま這うように寝室を飛び出した。


 客間では、茜が座卓の上に腰掛け、煙草を吸っていた。俺の姿を見るなり、彼女は口笛を吹いた。


「早くない?」


 俺は無視して玄関へ飛びついた。


 ドアノブはびくともしない。


「無駄だよ」


 背後で、金属の落ちる音がした。


 振り返った瞬間、茜の手にチェーンソーがあるのが見えた。刃には暗い赤色の屑がこびりついていた。本物の肉なのか、小道具なのか分からない。


 茜がスターターロープを引く。


 爆音が弾け、家全体が震えた。


「今夜はまだ終わってない。どこへ行くつもり?」



 3.茜のチェーンソー


 俺は玄関に背中を貼りつけたまま、膝から力が抜けていくのを感じた。


「茜、落ち着け。金が欲しいんだろ? 返す。ちゃんと返すから」


 茜はおかしそうに肩を震わせた。


「金? 私があんたの小銭を欲しがってると思ってるの? 欲しかったのは心だよ。あの心は私だけのものだって、言ったよね」


 茜は一歩ずつ近づいてきた。


 チェーンソーの刃が高速で回り、歯の隙間に青い火花が散る。煙の匂いと焦げたような臭いが混ざった。


 俺は靴箱の上にあった花瓶をつかみ、茜に向かって投げつけた。花瓶は彼女の額に当たり、砕け散った。


 血が茜の顔を伝って落ちる。


 だが、彼女は瞬きさえしなかった。


 茜は口元の血を舐め、笑みをますます深くした。


「いいね。そうじゃないとつまらない」


 チェーンソーが振り下ろされた。


 俺は横へ転がった。刃が床に食い込み、畳と木屑が飛び散る。焦げた草の匂いが空気に満ちた。


 一瞬でも遅れていたら、切られていたのは俺の脚だった。


 俺はソファを回り込んで逃げた。茜は後ろから追ってくる。


 客間の家具はチェーンソーで次々に壊されていった。ソファは裂け、綿が舞う。座卓の角は削り取られ、ガラス片が床一面に散らばった。


 詩織はずっと部屋の隅に座っていた。黒いノートを抱え、冷たい目でこちらを見ている。まるで、長く稽古された舞台を鑑賞しているようだった。


「詩織! 助けてくれ!」


 詩織はゆっくりノートを閉じた。


「悠斗、まだ私の番じゃない」


 茜が邪魔な椅子を蹴飛ばし、チェーンソーを横薙ぎに振った。


「脚、置いていけよ!」


 避けきれなかった。


 刃が俺のふくらはぎをかすめた瞬間、肉の中で痛みが爆発した。ズボンの裾が一気に裂け、血が脚を伝って流れ落ちる。


 俺は床に倒れ、目の前が暗くなった。


 茜が俺の胸を踏みつけた。


 チェーンソーが、首のすぐ上で唸っている。音が近すぎて、骨の中まで入り込んでくるようだった。


「頼む……やめてくれ……」


 茜は俺を見下ろした。目には、一片の迷いもなかった。


「ひどい顔。今夜は運がよかったね。翠が、まだ早く殺すなって言ってたから」


 茜はスロットルを離した。


 チェーンソーの回転が、ゆっくり止まっていく。


 彼女はさらに、俺の傷口を蹴った。


 俺は痛みで身体を丸めた。


「客間に転がってな。リビングでその顔、見せないで」


 俺は傷ついた脚を引きずりながら、客間へ這っていった。


 後ろ手にドアを閉める。


 部屋の中には婚礼の飾りはなかった。あるのは、むき出しのベッドだけだ。


 俺はシーツを裂き、ふくらはぎに乱暴に巻きつけた。血はまだ滲んでくる。痛みは本物だった。


 夢なら、なぜ痛い。


 幽霊なら、なぜ影がある。


 さっき茜が俺を追い回していたとき、彼女の影は壁に揺れていた。皮膚のない翠にも影があった。窓から月明かりが入ってきて、床の血痕までくっきり見えた。


 幽霊に、影はあるのか。


 ドアの外で、ごく軽い足音がした。


 ドアノブがゆっくり回る。


 俺は息を止め、ベッド脇のスタンドライトをつかんだ。



 4.詩織の縄


 ドアが開き、詩織が入ってきた。


 彼女の手にはチェーンソーもナイフもなかった。ただ、あの黒いノートだけを抱えている。


 詩織は部屋に入ると、静かにドアを閉め、鍵をかけた。


 部屋はさらに深い闇に沈んだ。


 詩織はベッドの端に腰を下ろした。長い髪が垂れ、大半の顔を隠す。


「悠斗、私の番だよ」


 俺はスタンドライトの台座を握りしめた。


 詩織はうつむいたままノートを開いた。静かな部屋に、紙をめくる音だけが小さく響いた。


「悠斗、私がどうしていつも下を向いていたか、分かる?」


 俺は答えなかった。


 詩織が顔を上げた。


 彼女の首に、深紅の痕がゆっくり浮かび上がる。


 次の瞬間、詩織の頭が後ろへ折れた。背中に触れそうなほどの角度だった。骨が鳴る、乾いた音がした。


「首が折れているから。あの日、あなたに罵られたあと、私はマンションの屋上へ行った」


 詩織は頭を元に戻し、袖口から麻縄を引き抜いた。


 その場で輪を作る。


「首吊りって、小說みたいに静かじゃないんだよ。苦しいし、痛いし、みっともない。悠斗も試してみて」


 縄の輪が、俺の首に近づいた。


 恐怖が限界を越えた瞬間、それは怒りに変わった。


 俺はスタンドライトの台座を振り上げ、全力で詩織の頭に叩きつけた。


 鈍い音がした。


 詩織は床に倒れた。


 煙のように消えたり、怨霊に戻ったりはしなかった。


 額が割れ、血が流れている。


 熱い、新しい血だった。


 俺はその場に固まり、手についた血を見つめた。


 鉄臭い匂いがはっきり分かる。


 腐った匂いではない。


 俺は震えながらしゃがみ、詩織の鼻先に手を近づけた。息がある。首に触れると、脈があった。速く乱れていたが、確かに生きている人間の脈だった。


 その瞬間、頭の中で何かが弾けた。


 こいつらは幽霊じゃない。


 人間だ。


 翠の剥がれた皮膚は特殊メイク。茜のチェーンソーはおそらく改造品。詩織の折れた首は、手品の仕掛けと偽皮膚で作ったものだ。


 俺は詩織の襟元を破った。


 内側から小型マイクが出てきた。


 壁際の火災報知器では、赤い点が規則的に点滅している。報知器ではない。隠しカメラだ。


 俺は床にへたり込み、思わず笑った。


 笑い声が客間の中で反響する。


 頬についた血を拭うと、視界が少しずつ冷えていった。


 怨霊も、呪いも、全部嘘だ。


 これは、俺を狩るためのリアリティショーだった。


 なら、人間なら痛みを感じる。


 痛みを感じるなら、恐怖もある。


 俺は詩織の身体を探り、折りたたみナイフを見つけた。彼女をベッドの下へ引きずり込み、シーツで手足を縛る。最後に靴下を口の中へ押し込んだ。


 終わると、俺は深く息を吸った。


 こいつらが芝居をしたいなら、俺も最後まで付き合ってやる。



 5.ダークウェブ配信


 俺は足を引きずりながら客間を出た。


 客間は空っぽだった。翠は台所にいる。茜はベランダにいる。おそらく、俺が完全に怯えきっていると思い込んでいるのだろう。誰もこちらを見ていなかった。


 台所の灯りは異様に白かった。


 翠は俺に背を向け、まな板の前で骨付き肉を切っていた。彼女の身体にはまだ筋肉の筋が浮いて見えたが、近くで見ると、シリコンと皮膚の間に細い継ぎ目があった。


 よくできている。


 相当金もかかっているはずだ。


 俺は翠の背後に立った。左手で口を塞ぎ、右手の折りたたみナイフを喉元に当てる。


「動くな」


 翠の身体が硬直した。


「悠斗……」


「黙れ」


 ナイフの先がシリコンを破り、その下の本物の皮膚に触れる。血が一滴、滲んだ。


 翠の目がようやく変わった。


 幽霊は、こんな血を流さない。


 幽霊は、痛みで震えたりしない。


「この皮、どこの特殊メイク会社に作らせた?」


 俺は彼女の腕から偽の筋肉を一部剥がした。


 その下には、きれいな皮膚があった。


 翠が叫ぼうとしたので、俺はさらに強く口を塞いだ。


「茜はどこだ」


 翠は怯えた目でベランダを指した。


 俺は翠を殴って気絶させ、物置へ引きずり込んで鍵をかけた。


 残るは、一番厄介な女だった。


 茜はベランダに立ち、客間に背を向けて煙草を吸っていた。チェーンソーは足元に置かれている。赤いカーテンが夜風に揺れ、ゆっくりと翻っていた。


 俺は一歩ずつ近づいた。


 三歩の距離まで来たとき、茜が不意に口を開いた。


「詩織、終わった?」


 俺は声を低くし、詩織の陰気な口調を真似た。


「終わったよ」


 茜が振り返った。


 俺の顔を見て、彼女は一瞬固まった。


 次の瞬間、俺の手にあるナイフと服についた血を見る。


 詩織の血だ。


 茜がチェーンソーに手を伸ばした。


 俺は飛びかかり、ナイフを彼女の肩に突き立てた。


 茜は悲鳴を上げて後退する。俺たちはもつれ合って床に倒れた。


 茜は力が強かった。だが肩を刺され、すぐにはチェーンソーをつかめない。


 俺は茜に馬乗りになり、拳を彼女の顔へ何度も叩き込んだ。


「幽霊のふりして俺を騙したな。幽霊なんだろ? 変わってみせろよ」


 俺は息を荒げながら、血まみれになった茜の顔を見下ろした。


 化粧は崩れ、彼女の目には初めて恐怖が浮かんでいた。


「やめて! 人間! 私は人間だから!」


 俺は茜の髪をつかみ、壁際のカメラへ顔を向けさせた。


「これは何のゲームだ。誰に言われてやった」


 茜の唇が震えている。肩から流れた血が、衣を濡らしていた。


「ダークウェブ……配信部屋が開かれてる。あんたが死ねば、賞金一千万円」


「見てる奴がいるのか」


「見てる。賭けてるんだよ。あんたが誰に殺されるか」


 俺は茜のスマホを見つけた。


 ロックはかかっていなかった。


 画面には、暗い映像の配信画面が開かれていた。コメントがものすごい速さで流れていく。アイコンはすべて匿名の記号だった。


『逆襲した?』


『この男、女たちよりイカれてる』


『止めるな、続けろ』


『投げ銭追加』


 俺はその文字を眺めた。


 胸の奥に、歪んだ快感が湧き上がる。


 こいつらは、誰が正しいかなんてどうでもいい。


 ただ血が見たいだけだ。


 俺は顔を上げ、カメラに向かって笑った。


「残念だったな。お前ら、賭けを間違えたよ」



 6.新しいルール


 俺は三人の女を客間の柱に縛りつけた。


 翠は目を覚ましていた。詩織もベッドの下から引きずり出した。三人は並んで畳の上に膝をついている。


 白無垢はぼろぼろに破れ、顔の化粧は血と汗でぐしゃぐしゃになっていた。もう、怨霊らしい迫力など少しもない。


 俺はソファに座り、茜が残した煙草に火をつけた。


 ニコチンが肺へ入ると、少しだけ頭が冷えた。


 俺は灰を落としながら言った。


「話せよ。昔のことを。先に話した奴ほど、生き残れる可能性が上がる」


 最初に顔を上げたのは翠だった。


「妊娠したとき、あなたは私に一人で病院へ行けと言った。手術のあと、医者に言われたの。もう妊娠しにくいかもしれないって。実家へ戻ったら、親には恥だと言われた。近所にも陰で噂された。行き場がなくて、東京で一人、アルバイトをしながら暮らした」


 俺は何も言わなかった。


 次に茜を見た。


 茜は歯を食いしばり、憎悪をむき出しにした目で俺を睨んだ。


「あの五百万円は、父の命をつなぐための金だった。あんたは一時的に借りるだけ、三日で返すって言った。父は転院手続きを待てずに、病院で死んだ」


 思い出した。


 あの金は、競馬とネットカジノで全部消えた。


 詩織はうつむいたまま、かすかな声で言った。


「あなたは写真をネットに流した。大学中に知られた。私は退学して、引っ越して、精神科病棟にも入った。そのあと、三回、自殺しようとした」


 聞き終わっても、俺の心はほとんど動かなかった。


 むしろ退屈だった。


 俺は煙草を灰皿に押しつけた。


「それで? 三人で手を組んで、俺をここへ連れてきて、こんな芝居をしたわけか」


 俺は茜のスマホを掲げ、コメントを三人に見せた。


『殺せ』


『この男が主役だろ』


『賞金はこいつにやれ』


『最後に一人だけ残るのが見たい』


 三人の顔から、少しずつ血の気が引いていった。


 自分たちは復讐者のつもりだったのだろう。


 だが今、自分たちも配信部屋の獲物にすぎないと分かったのだ。


 俺は台所から包丁を持ってきて、三人の前に放り投げた。


 刃が畳の上で、鈍い音を立てた。


「ルール変更だ。生きて外に出られるのは、一人だけ」


 俺は三人の手の縄をほどいた。


 足首は縛ったままにしておいた。


 客間が静まり返る。


 翠は包丁を見つめた。茜は自分の傷口を見る。最初に反応したのは詩織だった。


「聞いちゃ駄目。三人でかかれば、まだこいつを殺せる」


 俺は玄関のそばに立ち、鍵を揺らした。


「ドアの錠は指紋認証と予備の物理鍵に変えてある。俺がいなければ、誰も出られない。十分たっても決まらなければ、この家ごと燃やす」


 俺はライターを取り出し、カーテンの端に火をつけた。


 火はすぐに布を這い上がり、煙の匂いが部屋の中に広がった。


 翠の呼吸が荒くなる。


 彼女は突然、包丁へ向かって飛びついた。


「死にたくない」


 茜が翠を蹴り飛ばし、包丁を奪おうとする。


「どけ!」


 詩織が茜の腰にしがみついた。


「最初に悠斗を殺そうって言ったのは茜でしょ。今さら一人だけ助かるつもり?」


 三人はもつれ合うように争い始めた。


 悲鳴。罵声。布の裂ける音。


 さっきまで支え合っていた復讐者たちは、生きるために、互いの喉へ手を伸ばしていた。


 俺は壁にもたれ、それを見ていた。


 こいつらが用意した恐怖劇より、ずっと面白い。


 茜が包丁を奪い、詩織に振り下ろした。


 詩織が床に倒れ、腕を押さえる。翠は割れたガラス片を拾い、茜の太ももに突き刺した。


 火は大きくなり、煙が低く垂れ込めた。紙灯籠が熱で歪んでいく。


 翠が包丁を拾った。


 両手が激しく震えていた。


 詩織は床に伏せ、恐怖にまみれた顔で翠を見上げた。


「翠、来ないで。私たち、約束したでしょ」


 翠は包丁を構え、詩織を追い詰めた。


「さっき私の首を絞めようとしたときは、約束なんて言わなかったよね」


 客間は血だらけになった。


 白無垢は暗い赤に染まっていく。


 翠は完全に壊れていた。


 最初は詩織。


 次は茜。


 翠は茜の上に馬乗りになり、何度も、何度も包丁を振り下ろした。


 茜が動かなくなるまで。


 最後に、翠は包丁を杖のようにして顔を上げた。


 俺を見て、媚びるように笑う。


「悠斗、私が勝ったよ。連れていって。お願い」


 翠は包丁を手放し、俺のほうへ這ってきた。


 俺は手を差し出した。


 翠の目に、かすかな希望が灯る。彼女は必死に手を伸ばした。


 もう少しで触れる。


 その瞬間、俺は手を引っ込めた。


「悪いな。もう飽きた」


 翠が呆然とした。


「騙したの?」


 俺はドアを開けた。


 夜風と新鮮な空気が、同時に流れ込む。


 最後に一度だけ、燃える家を振り返った。


「じゃあな」



 7.玄関に戻る


 俺はドアを閉めた。


 炎も、悲鳴も、濃い煙も、すべて背後に置いてきた。


 スマホの配信部屋では、視聴者数が狂ったように増え続けていた。コメントが画面を埋め、投げ銭の金額が跳ね上がっていく。


 一千万円。


 もともとは俺を殺した者に支払われるはずの金だった。


 今は、俺のものになるべきだ。


 俺は勝った。


 俺は生き残った。


 山道を下り始めた。


 雨はやんでいた。雲が裂け、月が木々の上に浮かんでいる。濡れた杉の木が夜風に揺れ、沈黙した人影の列のように見えた。


 三十分ほど歩いたところで、俺は足を止めた。


 おかしい。


 このあたりからなら、もう大通りが見えているはずだった。街灯も、コンビニの看板も、見えていい距離だ。


 だが周囲にあるのは、相変わらず黒い森だけだった。


 車の音もない。


 虫の声すらしない。


 スマホは圏外になっていた。


 さっきまで、配信はつながっていたのに。


 俺はさらに歩いた。


 また三十分ほど歩いた。


 前方に、一軒の家が見えた。


 玄関には赤い紙灯籠が揺れている。


 その横には、俺の車が停まっていた。


 俺はその場に凍りついた。


 あれは、俺の借りている一軒家だった。


 俺は確かに山を下っていた。


 なぜ、ここに戻っている。


 信じられなかった。


 俺は方向を変えた。道を間違えたか確かめるため、折りたたみナイフで木の幹に印を刻んだ。


 半時間後。


 俺はまた、その家の前に立っていた。


 赤い灯籠が、静かに揺れていた。


 家は完全な姿でそこにあった。


 火事の跡はない。


 煙もない。


 カーテンすら焦げていない。


 恐怖が、背筋を這い上がった。


 さっきよりも冷たく。


 俺は家の中へ駆け込んだ。


 客間はきれいに片づいていた。血痕も、死体も、壊れた家具もない。畳は平らで、座卓には三皿の料理が並んでいる。


 中央の椀からは、まだ湯気が上がっていた。


 三人の女がソファに座っていた。


 翠は布の靴を縫っている。


 茜は果物ナイフを弄んでいる。


 詩織は爪で黒いノートの表紙をこすっている。


 三人が同時に顔を上げた。


「悠斗、おかえり。ご飯、冷めちゃったよ」


 翠が微笑んだ。


 俺は座卓を蹴り倒した。


 汁が床へ飛び散り、眼球が足元へ転がってきた。


 その眼球が、また瞬きをした。


「俺はお前たちを殺した! 確かに殺したんだ!」


 自分の声が裏返っているのが分かった。


 茜が手にしていたナイフを投げた。


 ナイフは座卓に深く突き刺さった。


「悪い夢でも見た?」


 詩織が、ゆらりと俺を見つめた。


「悠斗、今日は早く休んだほうがいいよ」


 すべてが、もう一度始まっていた。


 俺は、ループの中に落ちていた。



 8.棺の中の声


 俺は家を飛び出し、森の中へ走った。


 枝が顔を切り、茨が服に絡みついた。方向も見なかった。スマホも見なかった。ただ、あの家から一歩でも遠ざかりたかった。


 どれほど走ったのか分からない。


 足元が突然消えた。


 身体が穴の中へ転がり落ちる。


 起き上がろうとしたが、手足が重かった。周囲には月明かりも、木々もなかった。伸ばした手の先も見えない、真っ黒な闇だけだった。


 手が冷たい木の板に触れた。


 上も、下も、左も、右も。


 全部、木の板だった。


 空間は狭く、人一人が横になるだけでいっぱいだった。


 俺は箱の中にいた。


 いや。


 棺の中にいた。


 俺は上の板を狂ったように叩いた。


「助けてくれ! 出してくれ!」


 声は木の中にこもり、外へ届かない。


 空気が薄くなっていく。一回呼吸するたびに、焼けた針を飲み込んでいるようだった。


 頭上から、土を掘る音がした。


 やがて、棺の蓋の上に土が落ちる音が響く。


 翠の声がした。


「深めに埋めて。目が覚めたあと、暴れないように」


 続いて、茜の声。


「釘は全部打ち込んだ。出られるわけない」


 詩織の声は、とても小さかった。


「もう少し、生かしておいてもよかったのに」


 俺は、ようやく思い出した。


 昨夜、新宿のバーで飲みすぎた。


 店を出たとき、あいつら三人に会った。


 白無垢なんか着ていなかった。普通の服だった。


 翠はコンビニの袋を提げていた。茜は車にもたれて煙草を吸っていた。詩織は、あの黒いノートを抱えていた。


 彼女たちは笑いながら、家まで送ると言った。


 俺は、また女に好かれていると思った。


 車に乗ったあと、翠が水のボトルを差し出した。


 それを飲んだあとは、何も覚えていない。


 墓地で目覚めたのは、現実ではなかった。


 幻覚だった。


 三人は俺を山へ連れてきて、あらかじめ用意していた棺に押し込んだ。水には強力な幻覚剤が入っていた。そばには細い通気管が残されていたから、しばらくは死なずに済んでいた。


 白無垢。


 眼球のスープ。


 チェーンソー。


 折れた首。


 全部、俺自身の恐怖と罪悪感が作り上げた映像だった。


 ダークウェブ配信も、逆襲も、俺が自分に都合よく作った生存の夢にすぎない。


 勝ったと思っていた。


 だが、俺は最初からずっと、この木箱の中に横たわっていただけだった。


 頭上の音が止まった。


 通気管が引き抜かれた。


 最後の新鮮な空気が断たれる。


 穴から土が流れ込み、俺の顔に、口に、鼻の中に落ちてきた。俺は激しく咳き込んだ。だが吸い込むのは、さらに濃い土の匂いだけだった。


 翠の声が、最後に降ってきた。


「悠斗、来世では少しはまともな人間になってね」


 それきり、すべてが静かになった。



 9.永遠の花婿


 窒息で身体が痙攣し始めた。


 肺が破れそうだった。


 真っ暗な視界の中に、奇妙な色が浮かぶ。


 赤い灯籠。


 白い婚礼衣装。


 濡れた畳。


 黒いノート。


 俺はまた、あの家の玄関に立っていた。


 手はドアノブにかかっている。


 これが幻覚だと分かっていた。


 自分がもうすぐ死ぬことも分かっていた。


 だが、幻覚剤は時間を引き延ばしていた。


 一分が一年になる。


 十年になる。


 永遠になる。


 俺の脳が完全に止まるまで、俺はこの悪夢を何度でも繰り返す。


 ドアを開けた。


 客間には、血に染まった白無垢の女たちが三人、ソファに座っていた。


 翠は布の靴を縫っている。


 茜はナイフを弄んでいる。


 詩織は爪で黒いノートの表紙をこすっている。


 三人が同時に顔を上げた。


 六つの目が、俺をじっと見つめていた。


「悠斗、スープを飲んで」


 翠が漆椀を持ち、俺のほうへ歩いてくる。


 汁の中で、あの眼球がゆっくり動いた。


 黒い瞳孔が、俺の顔に向けられる。


 叫びたかった。


 だが声が出なかった。


 このあと何が起こるか、俺は知っている。


 俺はスープを飲まされる。


 寝室に引きずり込まれる。


 チェーンソーで追われる。


 彼女たちが人間だと気づく。


 逆襲する。


 逃げ出す。


 もう一度、玄関に戻る。


 そして、棺の中の闇に呑み込まれる。


 何度も。


 何度も。


 永遠に逃げられない。


 永遠に目覚めることもできない。


 そのとき、俺はようやく、あのメッセージの意味を理解した。


 七日間を生き延びろ、という意味ではなかった。


 死ぬ直前の幻覚の中で、この七日間を永遠に繰り返せ、という意味だった。


 翠が匙を俺の口元へ差し出し、優しく笑った。


「悠斗、今夜は誰を選ぶ?」


 俺は三つの顔を見つめた。


 喉の奥から、壊れたような声が漏れた。


 ようこそ、地獄へ。



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