ジージの思い出
あれは小学生になって初めての夏休みのことだった。
八月ももうすぐ折り返そうとしていたその日はとにかく暑い日で、窓から吹き込んでくる川風までもが熱を帯びていて、ジージの部屋の中は外と変わらないくらいの温度に達していたと思う。
でもジージは汗一つかいておらず、涼しい顔してロッキングチェアに揺られながら分厚い本を読んでいた。
「なにをよんでるの?」
わたしはジージに聞いた。脱いだ麦わら帽子で扇いでみたけど、額から汗は絶えず流れてきた。
ジージは「戦争の本だよ」と答えると本と共にかけていた丸眼鏡をサイドテーブルの上に置いた。
「何度も何度も読んでいるんだが、この時期になるとまた読みたくなってしまう。別に好きなわけではないし、嫌な思い出のほうが多いというのに不思議なもんだ」
そんなことを言いながらジージは居間に移動し、麦茶を出してくれた。わたしがそれを一気に飲み干すと、ジージは居間に腰を落ち着ける前にもう一度台所に踵を返し、麦茶の入ったペットボトルを持って戻ってきて、わたしのコップに麦茶を注いでから腰を据えた。
麦茶をゴクゴクと飲んでいるうちに体の中の暑さは落ち着き始め、居間にある大きな扇風機のおかげで麦茶を飲んでいる間に汗は乾いた。少し体のベタつきが気にはなったが、頭に浮かんだ疑問に比べれば大したことはなかった。
二杯目の麦茶を飲みながらわたしは「なんでこのじきになるとせんそうのほんをよみたくなるの?」と、煙草をくわえたジージの横顔に聞いた。
「もうすぐ終戦記念日だからだよ」
ジージは煙草の煙を吐き出すと言った。
「しゅうせんきねんび?」
「戦争が終わった日のことだよ」
わたしはそう言ったジージの顔を見据えた。そして考えた。麦茶のコップは置いて、腕を組みながら。それから「ジージがせんそうのほんをよみたくなるのと、そのひはなんのかんけいがあるの?」と聞いた。
「なんとなく思い出してしまうんだよ、戦争に行っていた日々のことをね」
「シージがせんそうにいってたの?」
「ずっと昔の話だ」
ジージは笑いながら肯いた。
「まだ私が若くて元気で、この国のために家族のためにと全力で立ち向かうだけの力があったころの話。戻りたくはないけど、時々羨ましくはなる時代。でもその時代のことをちゃんと私は覚えていない。覚えていたのかもしれないけど、年老いた今の私の記憶は虫に食われたみたいに穴ぼこだらけだから、当時の辛さや驚きは他人の噂話程度にしか思い出せないんだ。だからちゃんと思い出すために私は戦争の話を読む。まぁ、老木にはなかなかしんどい作業ではあるがね」
わたしはまた考えた。ジージが使う言葉は本棚に並ぶ分厚い本と同じように難しかったから。でも結局考えたところでわからず、わからないところを塗り潰して、残ったところだけを考え直してジージに聞いた。
「わかくてげんきなジージがつらくておどろいたことってどんなこと?」
ジージは煙草を灰皿の上でもみ消しながら、「戦争は辛いことと驚くことばかりだったからなぁ」と言って遠くを見つめた。その視線は何も映っていないブラウン管のテレビを捉えていたけど、その奥から何かを引っ張り出そうとでもしているみたいに、わたしにはジージがもっとその奥を見つめているように見えた。
「一度だけ敵軍に捕まってしまったことがあってね」
ジージは何も映っていないブラウン管を見据えたまま言った。
「しばらくの間、私とその仲間は敵の陣地にある牢屋に閉じ込められてしまった。どれくらい捕まっていたかは覚えていない。とにかく私たちは牢屋に閉じ込められ続けた。水や食料はもちろんくれないし、仲間の何人かは酷い傷を負っていたけどもちろん治療だってしてはくれない。唯一の救いは敵がそれ以上危害をくわえてこなかったことだけだった。 話しかけてさえこなかったよ、ただ牢屋の中に私たちを閉じ込めておくだけでね。でも次第にそれも辛くはなってきた。怪我をしている仲間は死んでいき、生き残っている私たちもお腹が空きすぎていつ死んでもおかしくない状況に追い込まれていった。そこで仕方なく私たちは死んでいった仲間を食べたんだ」
「なかまをたべた?」
「そう。人間の生の肉を私たちは食べたんだ。とても臭いし、硬くて不味い。お金をもらっても食べたくないような代物だ。でもそんなことは言ってられない。生きるために私たちはその死んでいった仲間たちの肉を食べなければならなかった。一人死んだら食べて、また一人死んだらとそれを繰り返してどうにか生き繋いだ。戦争が終わってようやく解放されたときには私を含めて三人しか生き残っていなかった。捕まったときは十数人もいたのに・・・・戦場で銃で撃たれたり更地みたいになった東京をみたりと戦争中の体験はどれも辛くて驚きの連続だったが、あのときの体験だけは穴ぼこだらけの私の記憶の中でもはっきりと残っている。一番思い出したくはないし、もう二度と体験だってしたくはない。でもあのときのことだけは目を瞑れば簡単に思い出すことができる。あのとき口にした仲間の肉の味もその匂いもすべて、この時期になると私の脳裏に入道雲みたいにいつも漂っているんだ」
そこでジージは口をつぐんだ。相変わらずテレビを見据えたままだったけど、さっきまでみたいにその視線は遠くを見つめてはおらず、ブラウン管の平面をただ捉えているだけだった。




