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第九話「裏切りの記憶」

 ヴェルデン砦は、山に喰われた城だった。


 街道を北に三日。山岳地帯に入ってからの道は獣道と見紛うほど荒れ、岩壁の間を縫うように蛇行していた。標高が上がるにつれて空気が薄く、冷たくなり、吐く息が白く煙る。晩秋の山は色を失いつつあった。広葉樹の葉はとうに落ち、針葉樹の暗い緑と灰色の岩肌だけが視界を埋めている。


 三日目の午後。カイたちは、目指す砦を初めて目にした。


 山稜の裂け目。両側を垂直に近い崖壁に挟まれた隘路の奥に、灰色の石壁がそびえている。古い。おそらく百年以上前の軍事要塞だ。正面は切り立った崖に守られ、搦手は山の斜面に呑み込まれるように岩盤と一体化している。砦というよりも、山そのものが城壁に化けたような造りだった。


 記憶聖庁はこの旧要塞を中継施設に転用し、護送中の囚人の一時収容や物資の中継に使っている。メルヴィの情報では、ここにエルドが移送されているはずだった。


「見えたわね」


 メルヴィが帳面を閉じ、砦を見上げた。翡翠の瞳が細まる。


「正面に大門。搦手に通用口が二つ。城壁の上に見張り塔が三基。情報通りよ」


「警備は」


「常駐の聖庁兵が二十から三十。加えて護送の護衛部隊がいるなら、最大で四、五十ってところ。問題は砦の中の構造ね。拘置区画は地下にあるはず。そこまで降りて、エルドを見つけて、連れ出す」


 カイは腕を組み、砦の全景を睨んだ。正面突破は論外。搦手も門が固い。三人で五十人を相手にする力業は無理だ。


「俺たちは三人。正面から行けば三秒で終わる」


「三秒は盛ったわね。十秒はもつわよ」


「嬉しくない」


 リーンが岩場に身を隠した状態で、砦を観察していた。紫の瞳が城壁の輪郭をなぞるように動いている。


「カイ。あの砦、壁に銘刻紋がありません」


「……何だと」


「見張り塔にも、門にも。忘れられた町の集会場には銘刻の痕跡がありました。ミルドアの遺跡にもありました。でもあの砦には、銘刻の気配がありません。古い要塞を転用しただけで、銘刻防壁を追加していないのでは」


 カイの眉が動いた。銘刻防壁がないということは、魔法的な障壁がないということだ。物理的な守りは堅いが、銘刻の守りがないなら別の攻め手がある。


「いい目だ。よく気づいた」


「目は、良いほうだと思います」


「褒めてるんだよ」


「知っています。ありがとうございます」


 相変わらずの平坦な声。だが口の端がかすかに上がっている。カイはそれに気づいていたが、いつも通り口には出さない。


         * * *


 日没後。砦を見下ろせる岩場の陰に野営を張った。


 焚き火は焚かない。煙が砦の見張りに見つかる。代わりに寒さを凌ぐために三人で岩壁に寄り添い、メルヴィが広げた帳面の上で作戦を練った。


「搦手の通用口、北側のほうが死角が多い。ここから尾根伝いに回り込めば、見張り塔の視界を避けて接近できる」


 メルヴィが帳面に砦の略図を描きながら説明する。暗がりの中で銘刻灯の弱い光だけを頼りに、ペンが紙の上を走った。


「通用口の錠前は旧式の機械錠。銘刻錠じゃないなら、あたしの道具で開けられるわ。問題はその先。通用口から拘置区画までは、砦の内部を横断する必要がある。廊下と階段を二つ。巡回兵との遭遇は避けられない」


「巡回の間隔は」


「日中は不規則。夜間は二時間おきに見張り交代。交代直後の十分間が一番手薄。兵が持ち場に着くまでの移動時間分、空白ができる」


「十分か。拘置区画に降りて、エルドを見つけて、連れ出す。厳しいが、不可能じゃない」


 カイは略図を見つめながら頭の中で動線を組み立てた。忘却騎士団時代に叩き込まれた浸透作戦の要領が、身体の奥から蘇ってくる。少人数での敵地潜入は、騎士団の瘴域偵察任務で何度も経験した。――ただし、あのときは精鋭の部下がいた。今は三人。うち一人は非戦闘員の情報屋で、もう一人は記憶のない少女だ。


「カイ。一つ確認」


 メルヴィが帳面から顔を上げた。


「あたしの報酬の話、まだだったわよね」


「……今か?」


「今よ。命がけの作戦の前に、対価を明確にしておくのは情報屋の基本。死んでから請求できないじゃない」


「お前、今それか!? 作戦会議の真っ最中だぞ」


「だからこそよ。作戦が始まったら落ち着いて話す暇ないでしょ。エルド救出の情報料と、ここまでの旅の諸経費と、危険手当と――」


「全部後払いだ。生きて帰ったらまとめて払う」


「また後払い。あんたの借金、もう小さな領地が買える額よ」


「領主になる予定はない」


 リーンが二人のやり取りを見ていた。紫の瞳が交互に動く。


「メルヴィ。報酬は大事ですか」


「大事よ。お金がなきゃ生きていけないわ」


「では、カイが払えなかったらどうなりますか」


「そのときは――」


 メルヴィが意味深に微笑んだ。


「カイの身体で払ってもらうわ」


「身体で。……臓器を売るということですか」


「違うわよ!」


「リーン、お前もう黙ってろ」


 カイが額を押さえた。作戦会議が脱線しすぎている。だが――悪くない空気だった。砦を前にした緊張が、ほんの少しだけ解れている。メルヴィの空気を読まない発言にも、たぶんそういう計算が含まれていた。この女は、いつだって場の温度を操るのが上手い。


 カイは略図に視線を戻した。


「作戦を詰める。実行は明日の深夜。見張り交代の隙を突いて北側通用口から侵入する。リーン、お前は――」


「行きます」


「まだ何も言ってない」


「カイが『お前は待っていろ』と言おうとしたのは分かります。行きます」


「……読まれてるな」


「最近のカイは分かりやすいです」


 メルヴィが噴き出した。カイは観念したように肩をすくめた。


「分かった。ただし、俺のそばを離れるな。絶対にだ」


「はい」


 作戦の骨子はこうだった。深夜、見張り交代の空白を突いて北側通用口から侵入。メルヴィが錠前を開け、カイが先行して巡回兵を制圧。拘置区画に降りてエルドを解放し、来た道を戻って離脱する。


「一つだけ」


 カイの声が低くなった。


「砦の中で想定外のことが起きたら、撤退を最優先にする。俺が撤退と言ったら、迷わず走れ」


「了解」


「……了解です」


 リーンの声に、わずかな不満が混じっていた。エルドを見捨てる可能性への不満だ。カイはその不満を聞き取ったが、訂正はしなかった。


         * * *


 翌日の深夜。


 月は雲に隠れ、山の闇は底知れなかった。


 三人は尾根伝いに砦の北側に回り込んだ。岩場を這うように進み、枯れ枝を踏まぬよう足元を確かめながら。リーンの合わない靴はメルヴィが布を巻いて音を殺していた。


 北側の通用口が見えた。岩壁に穿たれた小さな扉。上方の見張り塔は死角になっており、巡回兵が最後に通過してから八分が経過している。残り時間は二分。


 メルヴィが扉に取り付いた。外套の内ポケットから細い金属の道具を取り出し、錠前に差し込む。かちり、かちりと微かな金属音。十五秒で錠が外れた。


「開いたわ」


 ささやき声。カイが先に扉をくぐり、剣の柄に手をかけたまま内部の気配を探った。石の廊下。銘刻灯が等間隔に壁に嵌め込まれ、青白い光が冷たく照らしている。人の気配は――今のところ、ない。


「行くぞ」


 三人が廊下に滑り込んだ。扉を静かに閉め、内側から施錠する。退路を断つわけではない。帰路もこの扉を使うが、内側から開けられるようにしておく。


 カイが先頭。メルヴィが帳面の略図を見ながら中央。リーンが最後尾。足音を殺して石の廊下を進む。


 角を曲がった先に、下りの階段があった。拘置区画は地下だとメルヴィは言っていた。この階段を降りれば――


 カイの足が止まった。


 階段の途中に、人影があった。


 聖庁兵ではない。巡回の警備兵でもない。白い僧衣に銀縁の眼鏡。階段の踊り場に立ち、こちらを見上げている。まるで、来ることが分かっていたかのように。


 セレン・アヴァロス。


 記憶聖庁大審判官が、そこにいた。


「やあ。予定より少し遅かったね」


 セレンの声は穏やかだった。まるで旧知の友人を出迎えるように。眼鏡の奥の灰色の瞳には、敵意も焦りもない。


 カイの全身が凍った。


 予定より遅い。その言葉は、自分たちが来ることを知っていたという意味だ。作戦が、最初から読まれていた。


「――罠か」


 カイの声は低かった。剣を抜き放ち、セレンとの間合いを測る。だがセレンの背後の階段から、白い軍装の兵が次々と姿を現した。八人。十人。十二人。銘刻武装を構え、廊下の両側を塞ぐように展開する。


 振り返った。来た方の廊下にも、兵が回り込んでいた。退路が断たれている。


「囲まれてる……!」


 メルヴィの声が強張った。翡翠の瞳が大きく見開かれ、帳面を握る手が震えている。


「悪いけど、抵抗は勧めないよ」


 セレンが一歩、階段を上がった。穏やかな声。穏やかすぎる声。


「カイ・ヴェルナー。元忘却騎士団団長。君の行動は、すべて把握していた。ここに来ることも、北側の通用口を使うことも、見張り交代の隙を突くことも」


「すべて、だと? どうやって」


 カイの眼が刃のように細まった。情報が漏れている。自分たちの作戦を、聖庁は事前に知っていた。作戦の詳細を知る人間は三人だけだ。カイ自身。リーン。そして――


 カイの思考が、一つの答えに到達した。


 身体が動くより先に、脳が拒絶した。ありえない。信じたくない。だが論理は残酷なまでに明晰だった。


 護送ルートの情報を不自然な速さで入手した人間。砦の構造と警備の詳細を三日で調べ上げた人間。作戦会議に同席し、全ての細部を知っていた人間。


 カイは振り返った。


 メルヴィが立っていた。顔が蒼白だった。唇が震えている。翡翠の瞳がカイの視線を受け止め――逸らさなかった。


「メルヴィ」


 カイの声は、自分でも驚くほど静かだった。怒りが沸騰する寸前の、凍るような静寂。


「お前か」


 メルヴィの喉が引き攣った。答えが出てこない。だがその沈黙そのものが、答えだった。


 セレンが口を開いた。


「彼女を責めないでくれ、とは言わないよ。事実だからね。メルヴィ・フォルトは、君たちの行動を逐一こちらに報告していた。ミルドアを発った日から、今夜まで」


 ミルドアから。


 五日前の時点からではない。もっと前から。エルドの護送ルートの情報が速すぎたのは当然だった。聖庁から直接渡されていたのだから。


 カイの頭の中で、これまでの断片が繋がった。あの夜、メルヴィが焚き火の明かりの届かない場所で何かをしていた気配。あのとき胸の奥に生まれた「引っ掛かり」。護送ルートを五日で絞り込んだ不自然さ。「信じる。だが、覚えておく」と自分に言い聞かせた夜。


 覚えていた。覚えていたのに、信じることを選んだ。


 その選択が、今、最悪の形で返ってきた。


「……そうか」


 カイの声に感情はなかった。怒鳴りたい衝動を、意志の力で押し潰している。拳が白くなるほど剣の柄を握り締めていた。


 リーンがカイとメルヴィを交互に見ていた。紫の瞳に困惑が浮かんでいる。状況を理解しきれていない。だが、カイの纏う空気が普段と全く違うことは感じ取っていた。


 セレンが兵たちに目配せした。兵が一歩前に出る。包囲が狭まる。


「降伏を勧める。ここで戦っても犠牲が出るだけだ」


 カイは答えなかった。セレンも、兵も見ていなかった。メルヴィだけを見ていた。


「なぜだ」


 一語。


 メルヴィの目から涙がこぼれた。声にならない声が唇の間から漏れ、肩が震えた。いつもの快活さも、軽口も、何もかもが剥がれ落ちて、その下にあるのは追い詰められた一人の女の素顔だった。


「……ルナ」


 メルヴィが絞り出した名前。カイの知らない名前だった。


「あたしの妹。ルナ・フォルト。聖庁に、囚われてるの」


 涙が顎を伝い、石の床に落ちた。


「情報を渡さなきゃ、あの子がどうなるか分からなかった。セレンに――大審判官に言われたの。『お前の妹の安全を保証する。その代わり、カイ・ヴェルナーの行動を報告しろ』って」


 メルヴィの声が震えていた。だが崩れ落ちはしなかった。涙を流しながらも、背筋は真っ直ぐだった。泣きながら立っている。それが、この女の芯の強さだった。


「最初から……ペルガの闇市であんたに再会したときから、あたしにはもう選択肢がなかった。あの子を守るには、あんたを売るしかなかった。分かってる。最低なことをしてるのは分かってるわよ……!」


 カイは黙って聞いていた。表情が動かない。怒りが消えたのではない。怒りを氷の下に沈めている。信頼を裏切られた男の、静かな冷たさ。


「ルナは――あたしの四つ下の妹よ。あたしが聖庁を辞めた後も、ルナはまだ聖庁の管理区域に住んでた。あたしが離反したから、あの子は人質にされた。あたしが聖庁に逆らえないように」


「聖庁を辞めた理由は何だ」


 カイの声は変わらず冷たかった。尋問のような声。だがその冷たさの奥に、聞こうとする意志があった。理由を知らなければ判断できない。感情で断じるのは、カイの流儀ではなかった。


 メルヴィが袖で涙を拭い、顔を上げた。


「あたしは記録官だった。聖庁の記録文書を管理する仕事。地味で退屈で、でも……記録の中に、見てはいけないものがあった」


 声が低くなった。涙は止まっていない。だが目に宿る光が変わった。悲しみから、怒りへ。


「浄化の記録よ。聖庁が『浄化』と称して、何をしているか。公式には、瘴気に汚染された危険な記憶を除去する措置ということになってる。でも実際は違う。聖庁に逆らった市民への、報復よ」


 カイの拳が軋んだ。忘れられた町の記憶が蘇る。広場で膝をつく人々。記憶が抜き取られていく瞬間の、あの虚ろな目。ルーカス老人が八十年間一人で抱え続けた光景。


「反抗的な市民に対して、聖庁は全ての記憶を消すんじゃない。もっと残酷なことをしてたの。……『愛する者の記憶』だけを、選択的に消すのよ」


 沈黙が落ちた。兵たちも、セレンも、動きを止めていた。


「夫の顔だけ忘れさせる。子供の名前だけ消す。親友と過ごした日々だけを抜き取る。それ以外の記憶は全部残す。自分が何かを失ったことは分かるのに、何を失ったか分からない。その空洞が、一生消えない。……それが聖庁の『浄化』の本当の姿よ」


 メルヴィの声が掠れた。


「ルナは、その被害者の一人だった」


 空気が凍った。カイの目が見開かれた。


「あたしが記録官として働いていた頃、ルナはまだ十代だった。聖庁の管理区域で暮らしてて、あたしの仕送りで生活してた。でもルナは……聡い子でね。管理区域の住人の様子がおかしいことに気づいたの。ある日突然、隣人が自分の夫の名前を忘れる。向かいの家の母親が、子供の顔を見ても誰か分からなくなる。ルナは疑問を持って、声を上げた。『何かおかしい』って」


 メルヴィの唇が歪んだ。笑みではない。苦痛の形。


「聖庁はそれを『反抗的な言動』と見なした。そしてルナに――浄化を執行した」


「何を消した」


 カイの問いは短かった。


「あたしの記憶よ」


 メルヴィの声が震えた。


「姉であるあたしの記憶を、全部。ルナはあたしのことを覚えていない。顔も、名前も、一緒に過ごした日々も、何もかも。あたしが会いに行っても、『あなた誰?』って言うの。あたしの妹が、あたしを見て『あなた誰?』って――」


 声が途切れた。嗚咽が込み上げる。メルヴィは歯を食いしばり、こぼれ落ちる涙を止められないまま、それでも立ち続けた。


「それを知って、あたしは聖庁を辞めた。記録官の職を捨てて、情報屋になった。聖庁の非道を暴くために。ルナを取り戻すために。……でも一人じゃ何もできなかった。あたしが離反した瞬間、ルナは人質になった。聖庁の手の中にいるあの子を守るには、聖庁の要求に従うしかなかった」


 カイは長い沈黙の後、口を開いた。


「お前の事情は分かった」


 声は冷たいままだった。だが怒鳴ってはいない。メルヴィの告白を、最後まで聞いた。


「だが、信頼を裏切ったことは消えない」


 メルヴィは頷いた。涙を流したまま、しっかりと頷いた。


「分かってる。……でも、あの子だけは」


 震える声だった。最後の一線。この一言だけは譲れないという、覚悟の滲んだ声。


「あの子だけは、守りたかったの。それが――あたしが、カイを裏切った理由の全部よ」


 廊下に沈黙が横たわった。聖庁兵の鎧の軋む音すら聞こえそうなほどの静寂。


 そのとき、リーンが動いた。


 カイの横をすり抜けて、メルヴィの前に立った。白い髪が青白い銘刻灯の光に照らされ、紫の瞳がメルヴィの翡翠の瞳を真っ直ぐに見つめた。


 リーンの手が伸びた。メルヴィの震える手を、そっと取った。


「あなたは、妹のことを忘れたくなかったのですね」


 一言だった。


 たった一言。だがその言葉が、凍りついた空気を貫いた。


 記憶を一つも持たない少女が、「忘れたくない」という感情を理解している。自分自身は何も覚えていないのに、誰かの記憶にしがみつく痛みを、知っている。リーンにとって記憶は、持ったことのない宝物だ。だからこそ、それを奪われることの残酷さが分かる。


 メルヴィの顔が歪んだ。堪えていたものが決壊した。声を押し殺した嗚咽が漏れ、膝から力が抜けかけた。リーンの手が、それを支えていた。小さな手。冷たい手。だが離さない手。


「……そうよ。そうなの。あの子が、あたしを忘れても。あたしは、あの子を忘れたくなかった。忘れるわけにいかなかった。姉が忘れたら……ルナのことを覚えてる人間が、この世に誰もいなくなるから……」


 カイは二人を見ていた。怒りはまだ消えていない。胸の奥で、裏切りに対する冷たい感情がくすぶっている。だが同時に、別の何かが胸を突いていた。メルヴィの涙の理由が、理解できてしまう自分がいる。四十二人の記憶を抱えて生きているカイには、「忘れたくない」という執念の重さが、骨の髄まで分かる。


 だからこそ、簡単には許せない。事情を理解することと、裏切りを許すことは、別の話だ。


 カイはメルヴィから視線を外し、セレンを見た。


「大審判官」


「何かな」


「メルヴィの妹。ルナ・フォルト。生きているのか」


 セレンの表情は変わらなかった。穏やかな微笑みのまま。


「生きているよ。聖庁の保護施設にいる。健康だ。――ただし、姉の記憶はない」


「保護施設、ね。人質施設の間違いだろう」


「言い方の問題だよ。事実として、彼女は安全だ。メルヴィが協力を続ける限りは」


 カイの奥歯が鳴った。これが記憶聖庁のやり方だ。記憶を奪い、人質を取り、従わせる。暴力ではなく管理で支配する。


 だが今は、怒りに溺れている場合ではなかった。


 包囲されている。兵は二十人以上。セレン本人もいる。正面から戦えば、勝ち目はない。


 考えろ。カイ・ヴェルナー。状況を整理しろ。


 カイの頭が高速で回転した。


 まず、セレンがここにいるということは、エルドもこの砦にいる可能性が高い。大審判官自らが出向く理由は、重要な案件があるからだ。つまりエルドの居場所は合っている。ただし、今この場で救出するのは不可能だ。


 次に、セレンはカイたちを殺すつもりがない。殺すなら、罠にかけた時点で矢を射ればいい。わざわざ姿を現して会話しているのは、目的が殺害ではなく「捕縛」か、あるいは別の何かだ。


 最後に、退路。通用口は内側から施錠してある。廊下を戻れば脱出できる。だが背後にも兵がいる。突破が必要だ。


「リーン」


 カイの声が変わった。作戦指揮の声。低く、短く、明確に。


「メルヴィの手を離すな。走る準備をしろ」


 リーンの瞳がカイを見た。一瞬の間。それから、小さく頷いた。


「メルヴィ。お前にはまだ聞きたいことが山ほどある。だが今は逃げるのが先だ。――通用口まで走れるか」


 メルヴィが涙を拭い、顔を上げた。泣き腫らした目の奥に、情報屋の目が戻っていた。


「……走れるわ」


「よし」


 カイは左手で外套の内ポケットに触れた。戦闘銘刻は使いたくない。記憶が対価として消える。だが、今この状況を突破するには――


 いや。


 カイは一瞬で別の策を思いついた。


「メルヴィ。お前の銘刻石、まだ持ってるか」


「え? ……ある、けど」


「聖庁の通信網に接続できるんだろう。砦の銘刻灯もその網に繋がっているか」


 メルヴィの目が見開かれた。意図を理解した。


「繋がってる。銘刻灯は聖庁の管理網の末端よ。……まさか」


「やれ。砦中の銘刻灯を落とせ」


 メルヴィの手が動いた。外套から銘刻石を取り出し、指先で紋様を走らせる。元記録官の知識。聖庁の管理網の構造を知っている者にしかできない操作。


 セレンの表情が初めて動いた。


「――止めろ」


 遅い。


 銘刻石が脈動し、砦中の銘刻灯が一斉に消えた。


 完全な闇が落ちた。


 兵たちが動揺する声が聞こえた。視界を奪われた混乱。カイは闇の中で動いた。忘却騎士団の瘴域戦闘術。視界のない戦場で戦うための技術。瘴域では光がない。音と気配だけが頼りの戦闘を、何百時間も経験してきた。


 剣の峰で最も近い兵の武器を弾き、柄頭で鳩尾を突いた。倒れる音。次の兵の気配を読み、身を低くして懐に入る。急所を避けた一撃で昏倒させる。殺さない。殺す理由がない。


「走れ!」


 カイの声に、リーンがメルヴィの手を引いて駆け出した。闇の中を、来た道を辿って通用口へ。メルヴィが銘刻石の微かな光を頼りに先導する。


 背後でセレンの冷静な声が響いた。


「追え。殺すな。生け捕りだ」


 やはり殺す気はない。だが追手は来る。カイは廊下を塞ぐように立ち、追ってくる兵を一人ずつ捌いた。闇の中の戦闘はカイに圧倒的な有利がある。聖庁兵は暗闘の訓練を受けていない。


 三人を倒したところで、カイも走った。リーンとメルヴィの足音を追って廊下を駆け、通用口に辿り着く。メルヴィが錠を外し、扉が開いた。山の冷気が顔を打った。


 外に出た瞬間、カイの足が止まった。


 砦の大門が開いている。松明の列が山道を登ってくるのが見えた。増援だ。聖庁の増援部隊が、山の麓から上がってきている。松明の数は――三十。四十。数えきれない。


「……嘘でしょ」


 メルヴィが呻いた。


「増援って……こんなに早く? これ、最初から呼んでたのよ。あたしたちが来ることを見越して、最初から増援を配置してた」


 カイの歯が軋んだ。セレンの周到さは想像以上だった。逃げ出すことも想定した上で、外に増援を配置していた。


 退路が塞がれつつある。


「作戦変更だ」


 カイは即座に言った。


「北側の尾根を越えて、裏の谷に降りる。砦の東側に回り込んで山道に戻る」


「……カイ。それ、崖を登るってことよね?」


「登る」


「夜の山の崖を?」


「登る」


「死ぬわよ」


「死なない。たぶん」


「たぶん!?」


 リーンが冷静な声で言った。


「それは、失敗すると思います」


 カイは一瞬沈黙した。


「……根拠は」


「わたしは崖を登ったことがありません。メルヴィも戦闘員ではありません。カイ一人なら可能かもしれませんが、三人では速度が出ません。増援に追いつかれます」


「じゃあどうしろと」


「分かりません。でも、事実は述べるべきだと思いました」


「お前、このタイミングで正論を――」


「正論は、いつ述べても正論です」


 カイは額を押さえた。恐怖を覚えたばかりだというのに、この少女はこんな場面では妙に落ち着いている。


 メルヴィが帳面を開いた。涙の跡が乾ききっていない顔で、それでも情報屋の目が動いている。


「砦の東側……あたしの情報だと、東に古い水路跡があるはずよ。山の湧き水を砦に引き込んでいた水路。今は使われていないけど、トンネルとして残ってるなら――」


「信じていいのか。お前の情報を」


 カイの声は平坦だった。だがその一言が、メルヴィの胸を抉った。


 メルヴィの顔が歪んだ。唇を噛み、拳を握り、それでも目を逸らさなかった。


「……信じなくていいわ。でも、これはセレンから貰った情報じゃない。あたしが記録官時代に見た古い建築図面の記憶よ。あたし自身の記憶」


「古い建築図面か。どのくらい古い」


「六十年以上前のもの。水路が現存してる保証はない。でも、山の岩盤を掘ったトンネルなら崩落していない限り通れるはず」


 カイは二秒間考えた。崖を登るか、水路に賭けるか。どちらも確実ではない。だがリーンの指摘は正しい。三人で崖は無理だ。


「……水路に行く」


 メルヴィの情報を使う。裏切りが発覚した直後に、その裏切り者の情報に命を預ける。皮肉な話だった。だが今は他に選択肢がない。


「東側の岩場を回り込む。メルヴィ、水路の入口の位置は分かるか」


「砦の外壁から東に五十歩。岩盤に穿たれた排水口が目印のはずよ」


「行くぞ」


 三人は岩場に身を沈め、砦の東側へ移動を開始した。増援の松明が山道を登ってくる光が、木々の間から断続的に見える。時間がない。


 砦の外壁に沿って東に走った。岩場の陰を伝い、足音を殺して。リーンの靴に巻かれた布がほどけかけ、メルヴィが走りながらそれを結び直した。二人の間に言葉はなかった。だがリーンの手はまだメルヴィの腕を掴んでいた。離さない。


 外壁から東に五十歩。岩盤の裾に、それはあった。


 苔に覆われた石組みの排水口。人一人が這って通れるほどの大きさ。暗い穴の奥から、湿った空気が吹き出している。


「あった。……あったわ」


 メルヴィの声に、微かな安堵が混じった。


「俺が先に入る。中の安全を確認してから合図する」


 カイは剣を背に負い直し、排水口に身体を滑り込ませた。石の壁は冷たく湿っていた。苔で滑る。這って進むこと十数歩、トンネルが少し広くなった。立てはしないが、膝をついて進める程度の高さ。崩落はない。通れる。


「来い」


 合図を送ると、リーンが入り、続いてメルヴィが入った。三人で水路の中を這うように進む。暗闇の中、メルヴィの銘刻石が微かな光を灯した。


 背後の排水口から、兵の声が聞こえた。追手が東側に回り込んできている。だがこの排水口に気づくかどうか。苔に覆われ、岩陰に隠れた小さな穴だ。夜の闇の中では見つけにくい。


 三人は声を殺して水路を進んだ。


 水路は山の岩盤を貫いて、砦の東側の谷へ抜けているようだった。傾斜が緩やかに下り始め、空気の流れが変わった。出口が近い。


 五分ほど這い進んだ先に、星明かりが見えた。


 水路の出口は、谷底の沢に面していた。湧き水が岩の間を流れ、冷たい空気が頬を撫でた。砦の灯りは見えない。追手の松明も、ここからは見えなかった。


 三人は水路を抜け、沢沿いの岩場に身を隠した。


 しばらく誰も口を開かなかった。荒い呼吸だけが闇に溶けていく。逃げ切った。少なくとも、今この瞬間は。


 カイは岩に背を預け、空を見上げた。谷の切れ間から、星が見えた。


「……エルドは、まだ砦の中だ」


 誰に言うでもなく呟いた。救出は失敗した。セレンの罠に嵌まり、増援に追われ、命からがら逃げ出しただけだ。エルドは依然として聖庁の手の中にある。


「カイ」


 メルヴィの声だった。暗闘の中で、翡翠の瞳が微かに光っている。


「あたしに、何か罰を与えるなら――」


「罰?」


 カイの声は疲弊していたが、冷たさは残っていた。


「罰なんかいらない。お前に罰を与えたところで、失われた信頼は戻らない」


 メルヴィが息を呑んだ。


「お前の事情は聞いた。妹を守りたかった気持ちも理解できる。だが、それとこれとは別だ。お前は俺たちの命を危険に晒した。リーンの命も。エルドの救出も、お前の密通のせいで失敗した。その事実は消えない」


「……分かってる」


「分かっているなら、もう泣くな。泣いても何も変わらない」


 メルヴィの嗚咽が止まった。唇を噛み、涙を拭い、深く息を吸った。


「ただ」


 カイの声が、ほんの少しだけ、硬度を落とした。


「ルナを助けたいなら、方法を考えろ。聖庁に屈して情報を渡し続けることが、本当にあの子を守る方法なのか。もっと別の道があるはずだ。――お前は頭のいい女だろう。情報屋なら、情報で戦え」


 メルヴィは答えなかった。だが暗闇の中で、翡翠の瞳がわずかに揺れたのを、カイは見逃さなかった。


 リーンが水路から持ち出した苔を手の中で転がしていた。何か考え込んでいる様子だった。


「カイ」


「何だ」


「メルヴィを、許さないのですか」


 直球だった。この少女は、いつだってそうだ。核心を避けるという概念がない。


「許す許さないの問題じゃない。信頼は、一度壊れたら簡単には戻らない。時間がかかる」


「時間。……どのくらいですか」


「分からない。お前みたいに数字で答えられる話じゃない」


 リーンは小首を傾げた。


「わたしには分かりません。でも、メルヴィの手は温かかったです。わたしに水を飲ませてくれた手と、同じ手でした。裏切る手と、優しい手が、同じ手なのは……不思議です」


 カイは何も言えなかった。


 記憶のない少女の言葉は、時として刃のように鋭い。善悪の判断基準を持たない者が、純粋な観察として述べる事実は、どんな断罪よりも重い。


 裏切る手と、優しい手が、同じ手。それは矛盾ではない。人間とはそういうものだ。――だが、それを受け入れるのに、カイにはまだ時間がかかる。


「……行くぞ。ここにいつまでも留まるわけにいかない。夜明けまでに砦から距離を取る」


 カイは立ち上がった。水路を這ったときの擦り傷と、ゼロとの戦闘の古傷が痛む。だが動ける。


「エルドの救出は、仕切り直す。今回の失敗を踏まえて、別の方法を考える」


「別の方法って……砦にはセレンがいるのよ。増援もある。同じ手は二度と通用しない」


「分かっている。だから別の方法だと言ってる」


「具体的には?」


「……これから考える」


 メルヴィが沈黙した。それからぽつりと、


「あんたって、いつもそうよね。走り出してから考える」


「走りながら考えるほうが性に合ってるんだ」


「それ、褒めてないわよ」


「褒められた覚えもない」


 会話のトーンが、ほんの少しだけ元に戻りかけていた。だが以前のような軽妙さはない。二人の間に、目に見えない亀裂が走っている。それは塞がっていない。塞がるかどうかも分からない。


 リーンが立ち上がり、沢の水で手を洗った。冷たい水が白い指の間を流れる。


「カイ。一つ、聞いてもいいですか」


「何だ」


「エルドさんを、助けますか」


「助ける」


 即答だった。迷いがなかった。


「作戦は失敗した。メルヴィに裏切られた。セレンに罠を仕掛けられた。全部分かってる。だがエルドは自分を犠牲にして俺たちを逃がした。あの借りは返す。何があっても」


 リーンは頷いた。小さく、しかし確かに。


「わたしも、助けたいです。エルドさんは……わたしに、考えることの楽しさを教えてくれました。それは、忘れたくない記憶です」


 忘れたくない記憶。記憶のほとんどない少女が、そう言った。


 メルヴィがその言葉を聞いて、かすかに目を伏せた。忘れたくない記憶。忘れさせられた妹。忘れられた姉。全てが、この旅の中で繋がっていく。


 カイは沢沿いの道を見下ろした。谷は暗く、先は見えない。だが、山の向こうにはまだ道がある。


「増援がいるなら、砦を正面から攻める手は完全に消えた。別のアプローチが必要だ。エルドが砦から移送される可能性がある。セレンが俺たちをおびき出すために、エルドを別の場所に移す可能性もある。動きを読んで、護送中を狙うか――」


「あるいは」


 メルヴィが口を開いた。目が赤い。だが声は落ち着きを取り戻していた。


「聖庁の内部から情報を取るか。……あたしの通信網は、まだ生きてるわ。セレンはあたしが裏切ったことを知ってるけど、通信網自体を潰されたわけじゃない。逆手に取れる可能性がある」


「裏切り者の通信網を、か」


「皮肉ね。でも、使えるものは使うしかないでしょう」


 カイはメルヴィを見た。長い、重い視線だった。信頼を裏切った女を、もう一度信じるかどうか。答えはまだ出ていない。出せるはずがない。


「……考えておく」


 それだけ言って、カイは歩き出した。


 沢沿いの道を、谷の下流へ。夜明けまでに砦から離れなければならない。追手が水路に気づけば、ここまで辿り着くのは時間の問題だ。


 メルヴィが続き、リーンが最後尾を歩いた。三人の足音が谷に響く。以前と同じ隊列。だが空気は違った。カイの背中は、メルヴィに対して壁を作っている。メルヴィもそれを感じている。リーンだけが、いつもと変わらぬ歩調で歩いている。変わらぬ、というのは正確ではない。リーンの中では何かが変わった。裏切りと赦しについて、この少女は今、初めて考え始めている。答えは出ていない。だが考え続けている。


 東の空が、かすかに白み始めていた。山の稜線が薄い紫色に縁取られ、星が一つずつ消えていく。


 砦の方角から、角笛の音が聞こえた。低く、長い音。追跡の合図だ。聖庁兵が動き始めている。


 カイは歩調を速めた。谷の先に何があるか分からない。だが後ろには戻れない。


「ペースを上げるぞ。追手が来る」


「どこに向かうの」


「まず山を降りる。それから――」


 言いかけて、カイは口を閉じた。


 その先の言葉が、まだ見つからなかった。エルドを助ける。それは揺るがない。だが方法が見えない。手札が足りない。信頼できると思っていた仲間が情報を漏らしていた。敵は周到で、こちらの動きを読み切っている。


 それでも。


 カイは拳を握り、前を向いた。


 考えろ。走りながら考えろ。答えはまだない。だが、問いを持ち続ける限り、答えは必ずどこかにある。エルドの言葉だ。考え続けることに意味がある。


 角笛が再び鳴った。今度は近い。


 三人は谷を駆け下り始めた。夜明けの薄明かりが岩肌を白く染め、吐く息が闇に溶けていく。追手の足音はまだ聞こえない。だが確実に近づいている。


 カイの頭の中で、四十二人の記憶がざわめいていた。部下たちの声が遠い戦場から響いてくる。団長、次の手は。団長、指示を。


 次の手。


 それを見つけなければ、全てが終わる。


 東の空が白みを増した。星が消え、雲が灰色に浮かび上がる。山の冷気が三人の頬を打つ。


 カイは走りながら、振り返らなかった。砦は背後の闇に沈んでいる。あの中にエルドがいる。まだ手が届かない。だが届かせる。必ず。


 どんな手を使ってでも。


 たとえ――裏切り者と共に走ることになろうとも。


 谷の向こうで、朝の最初の光が山の稜線を焼いた。

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