第八話「仮面の向こう」
ミルドアを発って五日が経っていた。
街道は海岸線を離れ、北東へ向かって内陸に伸びている。潮の匂いはとうに消え、代わりに晩秋の枯れ草と、遠い山脈から降りてくる冷たい風が頬を刺す。空は高く、灰青色の雲が風に引き延ばされて薄い筋を描いている。
カイは歩きながら、頭の中で地図を広げていた。
目指す先は二つ。近い目標は、エルドの身柄が移送されたであろう記憶聖庁の中継施設。遠い目標は、大陸北部の極地――忘却の大潮の「震源」。だがどちらも手がかりが足りない。エルドの移送先は聖庁の機密情報であり、通常の手段では辿りつけない。
「はい、これ」
メルヴィが隣に並び、帳面の一頁を見せた。
「聖庁の中継施設、候補が三つに絞れたわ」
「……もう絞れたのか」
カイは眉を上げた。ミルドアを発ってからまだ五日だ。記憶聖庁の護送ルートは最高機密に属する。それをこの短期間で三つまで絞り込むのは、いくらメルヴィの情報網が優秀でも速すぎる。
「あたしを誰だと思ってるの。元記録官よ。聖庁の書類の書式を知ってるから、護送命令書の写しが回る場所に目星がつくの」
メルヴィは得意げに帳面を振った。翡翠の瞳が自信に輝いている。
それは理屈としては通る。だが――カイの胸の奥で、かすかな引っ掛かりが生まれた。書式を知っているだけで護送ルートの候補まで割り出せるものだろうか。情報源が別にあるのではないか。
その疑問は、頭の片隅に留められた。今は追及する場面ではない。
「三つのうち、最も可能性が高いのは」
「ここ。ヴェルデン砦。この街道を北に三日ほど行った先の、山岳地帯にある古い要塞を聖庁が中継施設に転用してるの。護送の中継地としてよく使われる場所よ」
「山岳地帯か。守りが堅いだろうな」
「堅いわよ。だから作戦を練る必要があるわけ。――ねえ、リーン。聞いてる?」
リーンは三歩ほど後ろを歩いていた。手にはエルドの図式が描かれた紙を持ち、歩きながらも視線を落として読んでいる。合わない靴がかぽかぽと鳴るのは相変わらずだが、その横顔には以前にはなかった集中の色がある。
「聞いています。ヴェルデン砦。北に三日」
「聞いてるなら歩きながら読むのやめなさいよ。転ぶわよ」
「転びません。足元は見なくても分かります」
言った直後、リーンの足が石に躓いた。体が前に傾ぐ。
「……」
「ほら見なさい」
「今のは、石が悪いです」
「石のせいにするな」
カイが前から手を伸ばし、リーンの腕を掴んで引き起こした。リーンは無表情のまま紙を折り畳み、内ポケットにしまった。
「エルドさんの問い、まだ七つ残っています。歩きながら考えたいです」
「頭の中で考えろ。紙は休憩のときに見ればいい」
「……分かりました」
素直に従うのが、以前のリーンとの違いだった。かつては「分かりました」の後に何の感情もなかった。今は、「分かりました(不本意ですが)」という微かな不満が滲んでいる。小さな変化だが、確かな変化だった。
* * *
六日目の午後。
街道が山裾に差しかかり、岩がちの上り坂に変わった頃のことだった。
カイの足が止まった。
「……伏せろ」
低い声。反射的に発した命令。メルヴィが即座に街道脇の岩陰に身を沈め、リーンの腕を引いて隠した。カイだけが街道の真ん中に立っている。
風が止んでいた。
枯れ草の揺れが消え、虫の声が途切れ、世界から音が抜き取られたような静寂が降りてきた。空気の重さが変わっている。これは瘴気ではない。殺気でもない。もっと根源的な、次元の違う――「圧」だ。
前方の街道に、人影があった。
いつからそこにいたのか分からない。一瞬前まで何もなかった場所に、まるで最初からそこに存在していたかのように、一人の人物が立っていた。
長い外套。体格は中肉だが、骨格が常人のそれとは違う。力を抜いて立っているだけなのに、大地に根を張った古木のような揺るぎなさがある。
そして――顔の上半分を覆う、白い仮面。かつては滑らかだったのだろう。今は細かな罅が走り、表面に風雨の痕が刻まれている。だが確かに白い。あの記憶の中で見た仮面と、同じ白。
カイの全身が総毛立った。
見覚えがあった。忘れるはずがない。リーンと二人で旅を始めて間もない頃。夕暮れの街道ですれ違った、あの仮面の旅人。消えるように姿を消し、地面に蒼白い紋様だけを残していった、正体不明の存在。
そして――ミルドアの遺跡で、五百年前の銘刻術師の遺骨から読み取った記憶の中に、カルドラの瘴気と共に映り込んでいた、白い仮面の剣士。
ゼロ。
カイがその名を思い浮かべた瞬間、仮面の人物が動いた。
一歩。
たった一歩。だがその一歩で、二十歩分の距離が消えた。地面を蹴った音がしない。風を切った気配がない。「移動した」のではなく、「そこにいた事実が書き換わった」ような、現実の法則を無視した接近。
カイの手が剣の柄を握り、抜き放った。
遅い。
気づいたときには、仮面の剣士の刃がカイの喉元に伸びていた。ゼロの手にあるのは古い意匠の細剣。刃紋が蒼白く光っている。見たことのない銘刻紋が、刃に沿って脈動していた。
カイは辛うじて体を捻り、首への一撃を避けた。だが続く斬撃が来た。横薙ぎ。正確無比な一閃。カイの剣がそれを受け止めた瞬間、腕に信じがたい衝撃が走った。
重い。
見た目の動きとは不釣り合いな、山が倒れてくるような重量。カイの足が地面に沈み、両腕が軋んだ。
「な――っ」
押し返す間もなく、次の斬撃が来た。突き、薙ぎ、払い。三連の攻撃が息をつく間もなく繰り出される。どれもが致命の一撃であり、どれもが最短距離を通っている。無駄な動きが一切ない。洗練された、というレベルではない。百年、二百年と剣を振り続けた者だけが持ちうる、時間の結晶のような剣技。
カイは後退しながら受けた。受けるのが精一杯だった。反撃の隙がない。相手の動きが速すぎるのではない。速度だけなら、カルドラ事変で遭遇した瘴気の獣のほうが速かった。だがこの剣士の攻撃は、速さではなく「正確さ」で圧倒している。カイが防御を選ぶ前に、防御の穴を突いてくる。読まれている。動きの全てを、完璧に読まれている。
「――っ!」
カイの右腕を浅い斬撃が掠めた。外套の袖が裂け、赤い線が走る。
ゼロが距離を取った。三歩。白い仮面がカイを見下ろしている。仮面の下にある口元は無表情だった。嘲りも、愉悦も、興奮もない。ただ観察している。
「その構え」
声が聞こえた。ゼロの声。低く、乾いた声。感情が磨耗したような、色のない声。
「……忘却騎士団の流儀か。懐かしいな」
カイの心臓が跳ねた。
「お前、騎士団にいたのか」
問いに対する答えはなかった。ゼロの仮面は微動だにせず、沈黙だけがカイの問いを呑み込んだ。
懐かしい、と言った。忘却騎士団の構えを知っている。そして「懐かしい」と形容するほど昔の話。騎士団の歴史は長い。五十年、六十年前の騎士団員なら、今は老齢のはずだ。だがこの剣士の身のこなしは老人のそれではない。
――カルドラ事変で死んだ部下の中に、こいつはいたか?
頭の中で四十二人の記憶が渦巻く。部下たちの顔が走馬灯のように過ぎる。だが仮面の下の顔が見えない以上、照合のしようがない。
もう一つ、カイの意識を引いたものがあった。
ゼロの剣。刃に刻まれた銘刻紋が脈動するたびに、蒼白い光が走る。あれは銘刻武装だ。だが――何かがおかしい。
銘刻魔法は記憶を燃料にする。基礎銘刻であれ戦闘銘刻であれ、発動すれば術者の記憶が対価として消費される。カイはそれを骨の髄まで知っている。だからこそ銘刻武装を振るう相手と戦う場合、「相手がどの記憶を対価にしたか」が推測できる。銘刻の規模が大きければ大きいほど、失われる記憶も重い。
だがゼロの銘刻には、その「消費」の気配がない。
カイが知る銘刻魔法は、発動の瞬間に術者の周囲に特有の揺らぎが生じる。記憶という精神の一部が代価として引き抜かれる刹那の空白。目に見えるものではないが、感じ取れる。カイの死喰いの感覚は、他者の記憶の流れに敏感だ。
ゼロにはそれがなかった。銘刻が発動している。蒼白い光が脈動している。だが記憶の消費がない。
「この銘刻……記憶を燃料にしていない?」
カイの呟きに、ゼロの仮面がわずかに傾いた。初めて見せた反応だった。
「気づいたか」
短い言葉。だがそこに、かすかな感情が混じった。興味。あるいは、認識。
「古い方式だ。お前たちが知る銘刻とは異なる」
「古い方式……大潮以前の銘刻術か」
ゼロは答えなかった。代わりに、再び剣を構えた。
来る。
カイは歯を食いしばった。右腕の傷口から血が滴り、剣の柄を握る手が滑る。銘刻を使えば対抗できるかもしれない。だが記憶を消費する。今のカイにとって、記憶の消費は単なる魔法の対価ではない。四十三人の記憶のどれかが消え、その人の人生の痕跡が永遠に失われるということだ。
それでも――
カイは左手を剣の峰に添え、低く構えた。忘却騎士団の戦術構え。銘刻武装なしの、純粋な剣技で立ち向かう構え。
ゼロが踏み込んだ。
今度の攻撃は、先ほどとは質が違った。速度が上がったのではない。密度が上がった。一つ一つの斬撃が、複数の選択肢を含んでいる。突きに見せかけた斬り上げ。斬り下ろしに見せかけた足払い。あらゆる動作が分岐し、カイが対応を選んだ瞬間に最適な一手が確定する。
まるで、未来が見えているかのような戦い方。
カイは三撃目で体勢を崩した。四撃目で剣を弾かれかけ、五撃目が左肩を深く裂いた。
「ぐ――っ!」
膝をつきかけた。だが膝が地面に触れる前に、身体が勝手に動いた。
低い位置からの斬り上げ。忘却騎士団の第三型。瘴域の中で視界を奪われた状態で使う、感覚だけに頼った反撃の型。カイの身体に染みついた、戦場の記憶が動かす一閃。
ゼロの外套の裾が裂けた。
浅い。だが確かに当たった。
ゼロが後退した。今度は五歩。白い仮面の下で、口元がわずかに動いた。
「……いい」
たった一語。だがその声には、先ほどまでなかった温度があった。
「死にかけてから本気になるあたり、お前たちはいつもそうだ」
お前「たち」。
カイはその複数形を聞き逃さなかった。ゼロの口ぶりは、カイ個人に対するものではなかった。もっと広い、集団に対する言葉。かつての忘却騎士団か、あるいは――もっと違う何かか。
「もういい」
ゼロが剣を下ろした。唐突に。圧が消え、空気が元に戻った。虫の声が再び聞こえ始め、風が枯れ草を揺らした。
カイは片膝をついたまま、血に滲んだ手で剣を握り続けていた。全身が震えている。恐怖ではない。純粋な身体的限界。今の短い戦闘で、体力の大半を使い果たしていた。
「……殺す気は、なかったのか」
荒い呼吸の間に問う。
「なかった」
ゼロは剣を鞘に収めた。古い意匠の鞘。蒼白い銘刻紋の残光が、ゆっくりと消えていく。
「試しただけだ」
「試した……?」
「お前が何を選ぶか。記憶を燃やして戦うか、それとも記憶を残したまま戦うか」
カイの眼が見開かれた。
この戦闘は、最初から「テスト」だったのか。カイが追い詰められたとき、銘刻を使うかどうかを見ていた。記憶を燃料にする現代の銘刻を使わず、純粋な剣技で戦い抜いたことを、この仮面の剣士は「見ていた」。
ゼロがカイを見下ろしていた。仮面の奥の目は見えない。だがその視線に、重みがあった。
「お前もまた、覚えることを選んだ者か」
その言葉が、秋の空気に溶けるように響いた。
「覚えることを選んだ……? どういう意味だ」
ゼロは答えなかった。背を向け、街道の先に歩き出した。
そのとき――背後で、異変が起きた。
岩陰に隠れていたリーンが、崩れるように膝をついた。
「リーン!」
メルヴィの悲鳴じみた声。カイは振り返った。リーンが両手で頭を抱え、身体を丸めている。白い髪が乱れ、顔が蒼白に変わっていた。
震えている。全身が。歯の根が合わない、というのはこのことだ。凍えているのではない。もっと根源的な何か――身体の奥底から湧き上がる、制御不能な震え。
「頭が……痛い……」
リーンの声が掠れた。カイはゼロと自分の距離を一瞬で測り、リーンの元に駆け寄った。
「リーン。俺だ。何が見える。何が聞こえる」
「分かりません。分かりませんが……あの人が……」
紫の瞳が、ゼロの背中を見つめていた。涙は出ていない。だが目が赤く充血し、瞳孔が不規則に収縮している。
吐き気。リーンの喉がひくりと痙攣した。胃の中身を戻しそうになるのを、懸命に堪えている。だがこの身体反応は病気ではないし、怪我でもない。ゼロの「存在」そのものに対する、身体レベルの拒絶反応だった。
ゼロが足を止めた。
振り返った。白い仮面がリーンを見ていた。
長い沈黙。風の音だけが世界を満たしていた。
「お前は」
ゼロの声は変わらず低く、乾いていた。だがそこに、初めて人間らしい感情の残滓が混じった。何の感情かは分からない。悲しみとも、懐かしさとも、諦めともつかない、名前のない色。
「まだ、何も思い出さないのか」
リーンの震えが一瞬止まった。紫の瞳がゼロの仮面を見つめ返す。恐怖に塗り潰された目。だがその奥に、恐怖とは別の何かが瞬いた。反応。何かへの反応。ゼロの言葉が、リーンの中の何かに触れた。
だがそれは一瞬で消えた。次の波が来た。頭痛の波がリーンを呑み込み、再び身体が丸まった。
「……離れろ」
カイが立ち上がった。血に濡れた剣を構え直す。右腕が震えていたが、構うものか。
「リーンに近づくな」
ゼロは数秒間、カイとリーンを見つめていた。それから、ゆっくりと背を向けた。
「その少女を守れ、カイ・ヴェルナー」
名前を知っている。カイはそのことに今さら気づいた。ゼロは最初からカイの名を知っていた。あの街道で「まだ、若いな」と呟いたときから。
「守れ。そして、連れてこい」
「どこへだ」
「北だ。全ての始まりの場所へ」
ゼロの姿が薄れた。消えるのではない。存在が希薄になっていく。影が溶けるように、輪郭が曖昧になり、風景に吸い込まれていく。あの街道の夕暮れと同じ消え方。蒼白い紋様が足元に一瞬だけ浮かび上がり、消えた。
後には何も残らなかった。
枯れ草の原に、秋の風だけが吹いていた。
ゼロが立っていた場所の土を、カイは見つめた。蒼白い紋様の残光はすでに消えていたが、かすかに焦げたような匂いが残っている。現代の銘刻魔法が残す痕跡とは違う。もっと深い、古い。まるで大地そのものに刻まれた傷のような痕跡だった。
カイは地面に片膝をついたまま、剣を杖代わりにして立ち上がった。全身の傷口から血が滲んでいる。だがそれよりも、精神的な消耗のほうが深刻だった。あの数分間の戦闘で感じた「格の違い」は、これまでの人生で経験したことのないものだった。カルドラ事変の瘴気の獣とも、ナハトの精鋭部隊とも違う。ゼロは、もっと根源的な場所に立っている人間だ。――いや、あれを「人間」と呼んでいいのかすら分からない。
* * *
リーンの震えが収まるまで、三十分を要した。
街道脇の岩陰に身を寄せ、メルヴィが水を飲ませ、カイが傍に座っていた。リーンの顔色は少しずつ戻ってきたが、指先の震えはまだ止まっていない。
「……落ち着いたか」
「はい。……いいえ。分かりません」
リーンの声は平坦に戻りかけていたが、微かな揺れが残っていた。
「あの人が近くにいると、身体が拒否します。理由は分かりません。でも、胸の奥が……割れるように痛くて、頭の中が白くなって、何も考えられなくなりました」
「覚えがあるか。あの仮面の男に」
「ありません。少なくとも、記憶としては」
「記憶としては?」
「身体が知っているような気がします。頭ではなく、もっと深いところで」
リーンは自分の胸に手を当てた。心臓の上。震えは収まったが、鼓動がまだ速い。
「カイ」
「ああ」
「これが……怖い、ということですか」
カイは一瞬、言葉に詰まった。
恐怖。リーンが初めて経験する感情。笑い、悲しみ、知的好奇心。そして今、恐怖。空っぽの器に注がれた四つ目の色は、最も暗い色だった。
「ああ。それが恐怖だ」
「怖い、という感情を初めて知りました」
リーンは自分の震える手を見つめた。それからカイの顔を真っ直ぐに見て、平坦な声で宣言した。
「……もう二度と体験したくありません」
カイは思わず苦笑した。傷口が痛んだが、笑わずにはいられなかった。
「それが普通の反応だ」
「普通……。では、普通の人は、常にこの感情に怯えながら生きているのですか」
「まあ、慣れる。多少は」
「慣れたくありません」
メルヴィが横から水筒を差し出した。
「リーン。もう少し飲みなさい。顔色、まだ悪いわよ」
「ありがとうございます、メルヴィ。……あなたは怖くなかったのですか」
「怖かったわよ! あんな化け物、初めて見たわ! あたしは最初から岩の後ろに隠れてたから、何とか正気を保てたけど」
メルヴィがリーンの背を撫でながら、カイにちらりと視線を向けた。翡翠の瞳に真剣な光がある。あの仮面の剣士が何者なのか。カイとリーンに執着する理由は何なのか。メルヴィもまた、答えのない問いを抱えている。
そのとき、メルヴィの目がカイの全身を上から下まで眺め、呆れたように眉を上げた。
「それにしても、カイ」
「何だ」
「あんたホントに元団長? 弱くない?」
「……」
「いや、だって一方的にやられてたじゃない。団長って、もっとこう、バーッと強いものだと思ってたわ。バーッと」
「うるせえ。相手が悪すぎるんだよ。あれは人間の強さじゃない」
「そうかしら。あたしには、カイが普通に弱いだけに見えたけど」
「お前は岩の後ろから何を見てたんだ」
「全部よ。全部見てたわ。元団長が一方的にボコボコにされるところを」
カイは反論する気力もなく、額を押さえた。傷口からの出血が続いている。とりあえず止血が先だった。
* * *
リーンがカイの傷の手当てをした。
メルヴィは救急用の軟膏と包帯を持っていたが、手先の器用さではリーンのほうが上だった。淡々とした手つきで血を拭い、軟膏を塗り、包帯を巻く。感情は薄いが、手は丁寧だ。
「……上手いな。どこで覚えた」
「分かりません。手が覚えています」
記憶のないリーンの身体には、時折こうした「技術だけの記憶」が残っていることがある。誰に教わったのか、どこで身につけたのか、リーン自身にも分からない。だが手は正確に動く。
右腕の切り傷に包帯を巻きながら、リーンの指がカイの腕に触れた。手袋越しではない、素肌の部分。外套の袖が裂けて露出した二の腕に、古い傷跡がいくつも走っていた。
「あなたの傷跡、古いものもたくさんありますね」
「ああ。元騎士団長だからな。古傷なんて数えたらきりがない」
「これは剣の傷ですか」
リーンの指が、ひときわ古い、白く盛り上がった傷跡をなぞった。二の腕の内側。剣傷ではない。もっと無秩序な、子供の喧嘩でつくような傷。
「……それは違う。昔は孤児院にいたからな。子供の頃はよく喧嘩して――」
言いかけて、言葉が切れた。
カイの口が半開きのまま止まった。目が、どこでもないところを見ていた。
孤児院。
その単語は出てくる。「自分は孤児院で育った」という事実は知っている。だが――。
「……いや」
カイの声が低く、掠れた。
「思い出せない。孤児院のことが、何も」
沈黙が落ちた。風が枯れ草を揺らす音だけが聞こえている。
「喧嘩をしていた、と言った。だが誰と喧嘩したか、思い出せない。どんな孤児院だったかも、院長の顔も、食事の味も。何もかもが――空洞だ。『あった』という輪郭だけが残っていて、中身が全部、抜け落ちている」
カイは自分の腕の傷跡を見つめた。確かにここにある傷。この傷がついた瞬間の記憶は――ない。
カルドラ事変で戦闘銘刻を使ったとき、対価として消えた記憶。あの瘴域からの撤退戦の直後、意識が戻ったときに気づいた空洞。あのときは混乱の渦中で、失ったものの意味を噛み締める余裕がなかった。だが今、穏やかな秋の午後に、リーンの冷たい指先が古い傷跡に触れたことで、その空洞の底のなさが改めて突きつけられた。
「……銘刻魔法の対価だ。戦闘銘刻は、術者が何を失うか選べない。魔法のほうが対価を選ぶ。俺の場合、持っていかれたのは……子供の頃の記憶だった」
リーンの手が止まっていた。包帯を巻く手が、そっとカイの腕の上で止まったまま動かない。
「カイ」
「何だ」
「あなたの記憶が、変換されて残っているとしたら」
カイが顔を上げた。リーンの紫の瞳が、真っ直ぐにカイの目を見ている。
「エルドさんの仮説が正しいなら。記憶は消えない、形を変えるだけだと言いました。ならば、あなたの孤児院の記憶も、どこかに形を変えて残っているかもしれません」
「……」
「わたしは信じます。見つけたら、お返しします」
信じます、とリーンは言った。記憶を一つも持たない少女が、記憶は消えないと信じると言った。その言葉の重さを、本人は理解しているのかいないのか。
カイは何も言えなかった。ただ、リーンの手が再び動き出すのを待ちながら、秋の空を見上げた。灰青色の雲が薄く伸びて、光を透かしている。
あの孤児院の空は、どんな色をしていただろうか。
思い出せなかった。
リーンが包帯の端を結んだ。丁寧な仕事だった。カイは袖の裂けた外套を着直し、傷の痛みを確かめるように右腕を軽く振った。動く。戦える。それで十分だ。
「ありがとう」
「どういたしまして」
リーンの声は平坦に戻っていた。だがその目がカイの腕の傷跡を見つめる視線には、先ほど生まれた何かが残っていた。他者の痛みを知った目。記憶を失う苦しみを理解し始めた目。記憶を持たない少女が、記憶を失った男の痛みに寄り添おうとしている。その構図の皮肉さと、同時に生まれる温かさを、カイは噛み締めていた。
* * *
記憶聖庁 中継拘置施設 ヴェルデン砦。
石造りの尋問室は、灯りが少なかった。高い天井の隅に銘刻灯が一つだけ灯り、冷たい青白い光が部屋を満たしている。壁には防音の銘刻が刻まれており、この部屋で交わされる言葉は、外には一音たりとも漏れない。
石の机を挟んで、二人の人間が向かい合っていた。
一方は銘刻の拘束具で両手を繋がれた白髪の老人。エルド・グラム。連行されてから数日が経つが、その目は衰えていない。拘束された手で膝の上の帳面を広げることはできないが、頭の中の三十年の研究は誰にも奪えない。
もう一方は、銀縁の眼鏡をかけた長身の男。セレン・アヴァロス。大審判官の外套を椅子の背にかけ、腕を組んで座っている。机の上には、エルドの研究資料が広げられていた。護送時に押収した帳面や走り書きの紙片。三十年分の知識の断片。
セレンは一枚の紙片を手に取った。記憶の変換仮説の図式が描かれている。
「記憶の変換か」
セレンの声は静かだった。尋問官の威圧ではない。学術論文を読み上げるときの声。
「面白い仮説だ。瘴気に分解された記憶が消滅するのではなく、自然界の物質に再構成される。結晶、植物、あるいは未知の形態として。――理論としては美しい」
「理論が美しいかどうかなど、どうでもいい」
エルドの声も静かだった。拘束された囚人の卑屈さはない。
「重要なのは事実だ。瘴域の辺縁部で観察された現象が、この仮説を支持している」
「観察か。確かに、辺縁部の結晶に関する報告は聖庁にも上がっている。我々はそれを瘴気の副産物として処理していたが」
「処理。便利な言葉だな。見たくないものを視界から排除する、お前たちの得意技だ」
セレンの眼鏡の奥で、瞳がわずかに細くなった。だが声は乱れなかった。
「グラム。一つ聞きたい」
「何だ」
「たとえ記憶が別の形で残ったとしても」
セレンは紙片を机の上に置いた。指先が図式をなぞる。
「苦しみの記憶が花に変わったところで、その花を見て泣く者がいる。それは救いか?」
エルドが目を細めた。
「母親を失った子供の悲しみが結晶になったとする。その結晶を拾った者は、母を失う痛みを追体験する。消えたはずの苦しみが、形を変えて世界に残り続ける。変換は保存だ。保存は継承だ。苦しみが永遠に継承され続ける世界が、本当に望ましいのか」
沈黙が落ちた。
エルドは拘束された手を見つめた。それから、セレンの目を見た。
「……お前は、頭のいい男だな。大審判官」
「答えになっていない」
「答えよう。苦しみの記憶が花になって、それを見て泣く者がいる。それは確かに苦しみだ。だが、泣くことができるのは、記憶が残っているからだ。泣くことすらできない世界と、泣ける世界と、どちらが人間的だと思う」
セレンの表情は変わらなかった。だが眼鏡の奥の目が、一瞬だけ別の場所を見た。灰色の霧に呑まれていく故郷。泣き叫ぶ母の顔が、瘴気に溶けて消えていく。あの日の記憶は、セレンの中に今も鮮明に残っている。消えなかった。消えなかったから、二十年以上経った今でも、夢に見る。
「記憶は残酷だ」
セレンの声は穏やかだった。穏やかすぎた。
「忘れることが救いになる人間がいる。全てを覚えていることが拷問になる人間がいる。お前の仮説が正しいとすれば、この世界には救いがないということだ、グラム。記憶が決して消えないのなら、苦しみもまた消えない」
「苦しみが消えないことと、苦しみに意味がないことは違う」
「意味? 苦しみに意味を見出すのは、苦しんでいない者の贅沢だ」
二人の視線が交差した。石の机を挟んだ二つの知性。どちらも譲らない。どちらも嘘をついていない。
セレンが立ち上がった。外套を手に取り、肩にかけた。
「尋問は終わりだ。明日も来る」
「いつでも来い。私の答えは変わらん」
セレンは背を向けた。扉に手をかけ、振り返らずに言った。
「変わらなくていい。だが考え続けろ、グラム。お前の仮説が正しいかどうかは、この世界の未来に関わる」
扉が閉まった。石の部屋に、エルドだけが残された。
老学者は拘束された手で膝を叩き、小さく呟いた。
「考え続ける、か。私はずっとそうしてきたよ、若者」
* * *
夜。
街道脇の林に野営地を作った。焚き火の灯りが木々の間に揺れ、煙が夜空に細く昇っている。
リーンとメルヴィが眠った後、カイは焚き火の番をしながら、昼間の戦闘を反芻していた。
ゼロ。
あの圧倒的な強さ。記憶を消費しない古い銘刻術。「お前もまた、覚えることを選んだ者か」という謎めいた言葉。
そして、リーンに向けた「まだ、何も思い出さないのか」。
リーンへの問いかけが、最も引っかかっていた。
「思い出さないのか」。その言葉は、リーンが「かつて何かを知っていた」ことを前提にしている。完全忘却者のリーンに、思い出すべき何かがある。ゼロはそれを知っている。
リーンは何者なのか。
ゼロは何者なのか。
そして、二人の間にある関係は何なのか。
焚き火が爆ぜた。赤い火の粉が舞い上がり、夜の闇に溶けた。カイは右手を見た。手袋の下の手。死者の記憶を喰らう呪われた手。
「覚えることを選んだ者、か」
独り言が漏れた。確かに、カイは覚えることを選んでいる。死喰いの呪いは、選択の余地なく死者の記憶を奪う。だがカイはそれを「捨てる」ことをしなかった。四十三人分の記憶を、重いと知りながら抱え続けている。
銘刻魔法を使えば記憶は消せる。自分の記憶も、死者の記憶も。だがカイはそれをしない。四十人の部下たちの記憶を消すことは、彼らを二度殺すことだと感じている。
覚えることを選んだ。ゼロはそれを見抜いた。
あの仮面の下に、何があるのか。
忘却騎士団の流儀を知っていた。「懐かしい」と言った。だが年齢が合わない。あの身のこなしは老人のものではなく、あの銘刻術は現代のものではない。エルドが語った「大潮の術者は、まだ生きている可能性がある」という言葉が脳裏をよぎった。
二百年前の禁忌銘刻の術者。肉体は残り、精神の全てを対価にした者。
――まさかな。
カイは首を振った。仮説が先走りすぎている。確証がない断片を繋ぎ合わせても、正しい絵にはならない。
だが、一つだけ確かなことがあった。
ゼロは「北」と言った。エルドも「北の果てに答えがある」と言った。ゼロとエルド、二つの全く異なる情報源が、同じ方角を指している。
北の果て。忘却の大潮の震源。全ての始まりの場所。
そこに行けば、答えがある。
だがその前に、やるべきことがある。
「……エルドを、助けに行かないとな」
焚き火に小枝をくべた。炎が一瞬大きく膨らみ、カイの顔を照らした。灰色の髪に火の粉が散り、黒い瞳に焔が映り込んでいる。
あの老学者は、カイたちの旅のために自分を差し出した。三十年の研究も、自身の身の安全も投げ打って、「旅を続けろ」と叫んだ。
借りは返す。それが、カイ・ヴェルナーの数少ない流儀だった。
ヴェルデン砦。メルヴィの情報が正しければ、エルドはそこにいる。山岳地帯の要塞。守りは堅い。だが不可能ではない。――不可能であってたまるか。
カイは焚き火から視線を上げ、夜空を見た。雲が切れ、星が散っている。北の空に、ひときわ明るい星が一つ。
ゼロの「覚えることを選んだ者」という言葉が、まだ頭の中で反響していた。あの仮面の向こうに、何があるのか。敵なのか。味方なのか。それとも、そのどちらでもない何かなのか。
答えは出ない。だが、立ち止まるわけにはいかない。
リーンが寝返りを打った。毛布からはみ出た白い髪が、焚き火の光に照らされて金色に光っている。リーンの寝顔は穏やかだった。昼間の恐怖の残響は、眠りの中では届かないようだった。
メルヴィも眠っている。帳面を胸に抱いたまま。あの帳面に何が書かれているのか、カイは見たことがない。情報屋の帳面は商売道具だ。覗くのは礼儀に反する。
だが、ふと気になった。メルヴィがエルドの護送ルートを五日で三つまで絞り込んだこと。元記録官の知識だけで、それは本当に可能なのか。
疑問は頭の隅に押し込めた。今は信じる。メルヴィは仲間だ。この旅で何度も助けられた。
――信じる。だが、覚えておく。
カイは焚き火に背を向け、夜空を見上げた。
北の空の星が、静かに瞬いていた。
* * *
翌朝。
出発の準備をしながら、カイは二人に告げた。
「ヴェルデン砦に向かう。エルドを助け出す」
メルヴィが帳面を広げた。
「作戦は?」
「まだない。砦の構造と警備の情報がいる。お前の情報網で探れるか」
「探れるわ。ただし時間がかかる。砦に着くまでの三日で何とかする」
「頼む」
リーンが荷物を背負い、立ち上がった。
「カイ。あの仮面の人は、また来ますか」
「分からない。だが来るなら、今度は俺が先に気づく」
「来ても、今度は負けないでください」
「……善処する」
「善処では困ります」
「お前、最近遠慮がないな」
「遠慮という概念を、まだ完全には理解していません」
メルヴィが笑った。朝の光の中で翡翠の瞳が輝いている。
「はは。リーン、あんたいいわね。カイ相手に遠慮しなくていいわよ。この男にはそのくらいがちょうどいいの」
「そうですか。では遠慮しません」
「おい」
三人は街道に出た。朝靄が薄く立ち込め、遠くの山脈が灰色の影として浮かんでいる。空気は冷たいが、歩き出せば温まる。
カイは前を向いた。北へ延びる街道。その先にヴェルデン砦があり、エルドがいる。そしてさらにその先に、全ての答えがある場所がある。
仮面の向こうに何があるのか。
ゼロの正体。リーンの過去。エルドの仮説。セレンの信念。カイ自身の空洞。全ての断片が、少しずつ近づいてきている。まだ絵にはならない。だが輪郭が見え始めている。
「覚えることを選んだ者」。
ならば、覚え続けよう。この痛みも、この謎も、この旅で出会った全てを。
たとえ仮面の向こうに、どんな真実が待っていようとも。
カイは歩き出した。枯れ草を踏む三人分の足音が、朝の街道に響いた。リーンの合わない靴が、かぽかぽと鳴っている。その音がどこか心地よいと感じている自分に気づいて、カイは小さく口の端を上げた。
北の空は晴れていた。




