第七話「老学者の遺言」
潮の匂いがした。
あの平原の野営地を発ってから四日。街道は次第に下り勾配となり、岩がちの丘陵地帯を抜けると、風の質が変わった。乾いた草原の風ではない。塩と魚と、古い石壁の湿り気を含んだ、重たい風。
港町ミルドアは、断崖の上に張りつくようにして建っていた。
白い石灰岩を積み上げた家々が段々畑のように海に向かって下り、最下段に漁港が広がっている。海は灰青色で、空との境目が曖昧だった。大潮以前には大陸有数の交易港だったというが、今は中小の漁船が並ぶだけの寂れた港町だ。ただし、背後の丘陵地帯には古代文明の遺跡が点在しており、学者や遺跡荒らしが時折訪れるらしい。
「海ね。久しぶり」
メルヴィが断崖の縁から身を乗り出し、深呼吸した。翡翠の瞳に海の光が映り込んでいる。
「あんまり乗り出すな。落ちるぞ」
「大丈夫よ、この手の崖は慣れてるわ。元記録官の出張先って、なぜかこういう僻地ばっかりだったのよね」
リーンは崖の縁に立ち、じっと海を見つめていた。白い髪が潮風に巻き上げられ、広がっている。合わない靴がかぽ、と鳴った。
「リーン。海は初めてか」
「分かりません。でも……大きいです」
「大きいな」
「空より大きいですか」
「空のほうが大きいだろう」
「でも、海のほうが重そうです」
カイは一瞬言葉を止めてから、小さく笑った。「確かにな」と。
四日間の旅路は、穏やかとは言い難かった。カイの頭の中で記憶の「浮上」は続いている。唐突に他人の口調になりかけることが一日に二、三回。切り替わりの「兆し」が増えている。舌先が他人の言葉を形作りかけて、寸前で引き戻す。その度に額に冷や汗が浮かぶ。
あの平原の夜から、何かが変わった。四十人の名前を口にしたことで蓋が少し緩んだのかもしれない。記憶の奔流は以前より騒がしい。だが認めた痛みは、認めなかった痛みよりもわずかに軽い。わずかに、だが。
町の門をくぐった。石畳の坂道を下り、漁港に近い安宿を取る。メルヴィが手際よく交渉し、海が見える三階の部屋を確保した。
「さて。この町に来た目的、忘れてないでしょ」
「忘れてねえよ」
メルヴィが帳面を開いた。
「あたしのツテによると、この町に一人の学者が滞在してるはず。名前はエルド・グラム。古代アストライン文明の研究者で、忘却の大潮の公式見解に異を唱えてる異端の学者。記憶聖庁からは追放済み」
「追放されるほどの異端か」
「神罰説を否定してるのよ。大潮は自然災害でも神の罰でもなく、人為的な魔法災害だって主張してる。聖庁にとっては教義の根幹を揺るがす危険思想よ」
カイは窓辺に腰かけ、港の景色を眺めた。漁船の帆が風に膨らんでいる。
「信用できる人間か」
「学者としては超一流よ。人間としては――まあ、変人ね。あたしが聖庁にいた頃に何度か名前を見たことがある。論文が片端から発禁になってたわ」
「発禁になるほどの研究か。面白いな」
「面白がってる場合じゃないわよ。あの紋章のこと、この人なら分かるかもしれない」
あの紋章。忘れられた町で、ルーカス老人の記憶を通して見た古い意匠。交差する二本の麦穂と円環。記憶聖庁よりも古い紋章。カイの頭の中には、その像がはっきりと残っている。
「どこにいるか分かるのか」
「丘の上の遺跡に入り浸ってるらしいわ。明日、行きましょ」
* * *
翌朝。丘陵を登る石段は古く、所々が崩れて草に呑まれていた。
三十分ほど登ると、遺跡が見えた。白い石柱が十数本、朝靄の中に林立している。かつては神殿か大規模な公共建築だったのだろう。天井はとうに崩れ落ち、壁も半分以上が失われているが、石柱だけが空を支えるように立ち続けている。石の表面には文字とも模様ともつかない古い銘刻が薄れかけながら残っていた。
遺跡の中央、崩れた祭壇の上に、一人の老人が座っていた。
白髪を後ろで束ね、日に焼けた肌に深い皺が刻まれている。痩せているが、背筋は真っ直ぐだ。膝の上に分厚い帳面を広げ、石柱の銘刻と見比べながら何かを書き込んでいる。着ているのは旅で擦り切れた灰色の外套。学者というよりは放浪者に見えた。
だが――カイが近づいた瞬間、老人が顔を上げた。その眼光に、カイは足を止めた。
穏やかな目だった。だがその奥に、研ぎ澄まされた刃のような鋭さが一瞬だけ光った。すぐに消えたが、確かにあった。只者ではない。
「おや。珍しい。こんな朝早くに遺跡を訪ねる者がいるとは」
老人の声は低く、温かかった。石壁に染みた雨水がゆっくり滴るような、急がない声。
「エルド・グラム先生ですか」
メルヴィが一歩前に出た。
「先生はやめなさい。ただのエルドでいい。先生と呼ばれるほど世間に認められた覚えはないのでな」
「あたしはメルヴィ・フォルト。こちらがカイ・ヴェルナーと、リーン。あなたの研究について聞きたいことがあって」
エルドの目がカイに向いた。
「カイ・ヴェルナー。――聞いたことがある名だ」
「嫌な方面で有名でな」
「カルドラの虐殺者、とかいう汚名だろう。だが私はあの事件の公式記録を信じていない。聖庁の発表する記録は、十のうち六は改竄だ。残りの四も都合の良い切り取りだ」
カイは眉を上げた。初対面でいきなり核心に近い言葉を投げられた。
「……あんた、なかなか過激だな」
「事実を述べているだけだ。過激に聞こえるなら、それは世間が嘘に慣れすぎているということだよ」
エルドは帳面を閉じ、祭壇から腰を上げた。立ち上がると、背はカイよりも高い。六十代とは思えない、しっかりした足取りで三人の前に歩み寄った。
と――エルドの目が、カイの右手に止まった。
「ほう」
低い声。目が細くなった。
「その手。手袋をしているな。――もしや、死喰いか」
カイの表情が硬くなった。メルヴィが横目でカイを見る。リーンは無表情のまま、エルドとカイを交互に見ていた。
「なぜ分かる」
「手袋だけでは分からんよ。だがカイ・ヴェルナーという名と、カルドラ事変の生還者という情報を合わせれば推測は容易だ。あの瘴域の深部に単身で触れ、なお正気を保っている人間は、死喰いの呪いを受けた者以外にあり得ない」
エルドの目が輝いた。学者の目だった。知的好奇心が炎のように燃え上がっている。
「素晴らしい。実物の死喰いに会えるとは。いくつか聞いてもいいかね」
「……何をだ」
「まず、何人分の記憶が入っている?」
「四十三人だ」
「四十三人! 壮絶だな。では、夢は誰の視点で見る? 自分か、それとも吸収した死者の視点か?」
「……両方だ。混ざることもある」
「興味深い。味覚の記憶は混ざるか? たとえば食事中に、自分が食べているものとは別の味を感じることは?」
「ある。つい最近もあった」
「五感全てに干渉するのか! 聴覚はどうだ。死者の声が聞こえることは。いや、それは愚問か。四十三人もいれば常時聞こえるだろう。では周波数は――脳内の再生だから物理的な音ではないはずだが、現実の音と区別がつかなくなることは――」
「おい」
カイの声が低くなった。
「俺は研究対象じゃねえ」
エルドは一瞬きょとんとして――まったく悪びれずに次の質問を繰り出した。
「記憶の時系列は保たれているかね。つまり、吸収した記憶は死者の人生の順番通りに格納されているのか、それともランダムに――」
「聞けよ人の話を!」
メルヴィが腹を抱えた。
「あっはは! カイ、あんた完全に無視されてるわよ。おじいちゃん学者、すごいわね、あんたの話なんか聞いてない」
エルドがぴたりと止まり、メルヴィを見た。
「おじいちゃん学者?」
「え? ああ、つい」
「老学者と呼びたまえ。おじいちゃんはやめなさい」
真顔だった。声の温度が二度ほど下がっていた。
「いや、大した違いは――」
「大違いだ。『おじいちゃん』は親しみを含むが知性を軽視する。『老学者』は年齢と学識の双方を尊重する。私は後者でありたい」
「……分かったわよ、老学者。老学者エルドね。覚えたわ」
「よろしい」
エルドは満足そうに頷き、再びカイに向き直った。
「さて、どこまで聞いたか」
「俺の話を聞けと言ったところだ」
「ああ、そうだった。では君の話を聞こう。――何を聞きたいのかね」
カイはため息をついた。この老人のペースに巻き込まれている自覚はあった。だが不思議と不快ではない。学術的な興味が先走る性格は、裏を返せば嘘をつけない人間だということだ。カイはそういう人間を嫌いにはなれなかった。
「忘却の大潮について。あんたの研究を聞かせてくれ」
「長い話になるが」
「構わない」
エルドは崩れた石壁に腰かけ、帳面を膝の上に置いた。
「では初めに、公式見解の嘘から話そう」
* * *
記憶聖庁の公式見解――忘却の大潮は「人類の傲慢に対する神罰」である。
古代文明は銘刻魔法を極限まで発展させ、死者の蘇生すら可能にした。その傲慢が神の逆鱗に触れ、罰として人類の記憶を奪う「大潮」が引き起こされた。したがって、記憶は神聖なものであり、聖庁がこれを管理・保護することは神意に適う――というのが聖庁の教義だ。
「だが、おかしな点がある」
エルドの指が帳面の頁を繰った。びっしりと書き込まれた文字と図式。何十年もの研究の蓄積が、この使い古された帳面に詰まっている。
「大潮の被害分布は均一ではない。もし自然現象や神罰であれば、大陸全土に均等に影響が及ぶはずだ。だが実際には、被害の濃淡がある。大陸北部が最も深刻で、南に行くほど軽微になる。まるで――波紋のように。ある一点から広がった波紋の、中心に近いほど被害が大きい」
「起点がある、ということか」
「そうだ。大潮には起点がある。私はそれを『震源』と呼んでいる。大陸北部の極地――今は瘴域の最深部に呑まれた場所だ。そこで何かが行われた」
エルドの目が鋭くなった。穏やかな老学者の顔が消え、真実を追い続けてきた研究者の顔が現れた。
「大潮は自然現象ではない。神罰でもない。誰かが意図的に行った禁忌銘刻の結果だ。そしてその術者は、まだ生きている可能性がある」
カイの背筋に冷たいものが走った。
「根拠は」
「禁忌銘刻の対価は術者の自己の根幹だ。名前、存在理由、愛する者の記憶――全てを差し出す。だが逆に言えば、肉体が対価に含まれるとは限らない。精神の全てを差し出して、なお肉体だけが残り続けるという地獄が、禁忌銘刻にはあり得る」
エルドは帳面の一頁を開いた。古代の文献から書き写したと思しき銘刻紋の図式が描かれていた。
「そして、もう一つ。これが私の研究の核心だ」
エルドの声が低くなった。
「記憶の変換仮説」
リーンが小さく身じろぎした。カイはそれに気づいたが、口を挟まなかった。
「記憶聖庁の公式見解では、瘴気に触れた記憶は『消滅』する。完全に消え去り、二度と戻らない。浄化で消された記憶も同様だ、と」
「ああ」
「だが、私はそうは考えない」
エルドが立ち上がり、石柱の一つに手を置いた。
「私は三十年以上、瘴域の辺縁部を調査してきた。そこで奇妙な現象を何度も目撃している。瘴気の薄い地帯――辺縁のさらに外側で、記憶が物質に変換されている現象だ」
カイの心臓が跳ねた。
「物質に変換……」
「結晶、あるいは植物。瘴気に分解された記憶が、消滅するのではなく、自然界の物質として凝固する。結晶の中には声が残っており、触れると断片的な記憶が聞こえる。ある場所では、瘴域の辺縁に見たことのない花が咲いていた。花弁に触れると、かつてその地に住んでいた者の笑い声が響く」
カイはメルヴィと目を合わせた。メルヴィの翡翠の瞳が大きく見開かれている。
「――俺たちは、見た」
「何を」
「記憶の結晶を。数日前に立ち寄った町の外れで。瘴域の辺縁部に、半透明の結晶が群生していた。触れると声が聞こえた。消された記憶の断片が、結晶の中に残っていた」
エルドの顔が変わった。
穏やかさが消えた。目が見開かれ、皺だらけの顔に若者のような生気が溢れた。帳面を握る指が震えていた。
「それは――それこそ私の仮説の証拠だ!」
老学者の声が遺跡に反響した。石柱の間を駆け抜ける風よりも、その声のほうが力強かった。
「記憶は死なない。形を変えるだけだ。瘴気に溶けた記憶は消滅するのではなく、分解された後、自然界の物質に再構成される。結晶、植物、あるいはまだ発見されていない形態として。記憶は失われるのではない――変換されるのだ!」
エルドは帳面を広げ、猛然と書き込み始めた。手が震えているのに文字は正確だった。三十年の研究が一つの点に収斂していく興奮が、全身から溢れていた。
「結晶の色は何色だった。大きさは。配置のパターンは。瘴気の濃度との相関は――」
「落ち着けよ、じいさん」
「老学者だ」
「老学者。落ち着け」
エルドは深呼吸をした。だが目の輝きは消えなかった。
「すまない。だが分かってくれ。三十年間、誰にも信じてもらえなかった仮説だ。記憶は消滅するのではなく変換される、と論文に書いたら、翌日に研究室を焼かれた。以来、放浪の身だ」
エルドの声には、長い孤独の重みがあった。穏やかな語り口の裏に、三十年分の疲労が折り畳まれている。
その時だった。
「エルドさん」
リーンの声が響いた。
三人が振り返った。リーンは石柱の傍に立ち、柱に刻まれた古い銘刻を見つめていた。朝の光がリーンの白い髪を透かし、紫の瞳に石柱の模様が映り込んでいる。
「その変換は、逆にできるのですか」
エルドが目を瞬いた。
「逆?」
「結晶になった記憶を、もう一度、記憶に戻すことは。花になった記憶を、もう一度、人の心に返すことは」
沈黙が落ちた。エルドの顔に、驚きと、それからゆっくりと広がる感嘆が浮かんだ。
「……良い問いだ。実に良い問いだ、お嬢さん」
「リーンです」
「リーン。その問いに、私はまだ答えられない。だが、理論上は不可能ではないはずだ。変換が可能なら、還元もまた――」
「もっと知りたいです」
リーンが一歩前に出た。
カイは動きを止めた。リーンの声に、聞き慣れない色があった。平坦でも朴訥でもない。何かを求めている声。手を伸ばしている声。
「変換の条件は何ですか。どのくらいの瘴気の濃度で起きるのですか。結晶の中の記憶は劣化しますか。時間が経つとどうなりますか」
リーンの問いが続いた。普段の彼女からは考えられない量の言葉が、途切れなく溢れ出ている。
エルドが嬉しそうに笑った。皺だらけの顔が、まるで子供のように綻んだ。
「順番に答えよう。まず瘴気の濃度だが、これには閾値がある。高すぎると記憶は完全に分解されてしまい再構成が間に合わない。低すぎると分解そのものが起こらない。辺縁部の、ごく限られた濃度帯でのみ変換が発生する」
「では、その濃度帯を人工的に再現することは」
「理論上は可能だが、技術的には――いや、待ってくれ。今の問いは非常に重要だ」
エルドが帳面に走り書きを始めた。リーンはその手元を覗き込み、文字と図式を追っている。目が輝いていた。
カイはその光景を、少し離れた場所から見ていた。
リーンの横顔。石柱の隙間から差し込む朝日に照らされた白い髪と、図式を追う紫の瞳。その目が、いつもと違う色をしていた。忘れられた町で子供たちと遊んでいたときの無邪気さとも、あの平原の夜に胸の痛みを訴えたときの切なさとも違う。もっと静かで、もっと深い光。
「……お前、今、楽しそうだな」
カイの声に、リーンがぴくりと反応した。振り返った顔に、驚きがあった。
「楽しい?」
「楽しいだろう。その顔」
リーンは自分の頬に手を当てた。口角が、わずかに上がっていることに気づいたようだった。
「……分かりません。でも、エルドさんの話を聞いていると、もっと聞きたくなります。一つ答えが返ってくると、次の問いが浮かびます。それが止まりません」
「それが、楽しいってことだ」
「これが……楽しい」
リーンは自分の手を見つめた。それから、もう一度エルドの帳面に目を向けた。紫の瞳の奥で、小さな炎のようなものが灯ったのを、カイは確かに見た。
知的好奇心。知ることの喜び。空っぽだった器に、また一つ、新しい感情が注がれた。
メルヴィがカイの横に並び、小声で囁いた。
「あの子、変わったわね」
「ああ」
「エルドの話に食いつくなんて。出会った頃のあの子じゃ考えられないわ」
メルヴィの翡翠の目がリーンを見つめていた。その目に、一瞬だけ影が差したのをカイは見た。だが一瞬だけだった。メルヴィはすぐにいつもの快活な表情に戻り、帳面を取り出して書き始めた。
カイは、その一瞬を記憶に留めた。
* * *
午後。エルドに導かれて、遺跡の奥に入った。
白い石柱の列を抜け、崩れた壁を越えると、半地下の広間に出た。天井の一部が崩落して光が差し込み、壁面には古代の銘刻が一面に刻まれている。文字の大半は風化して読めないが、所々に鮮明な紋様が残っていた。
「この遺跡は、大潮以前の古代アストライン文明のものだ。おそらく五百年以上前に建てられた施設の一部だな」
エルドが壁面の銘刻を指差した。
「カイ。あの忘れられた町で見たという紋章を、描いてもらえるか」
カイは地面に屈み、落ちていた石の欠片で地面に紋章を描いた。交差する二本の麦穂と、それを囲む円環。ルーカスの記憶から引き出した、古い意匠。
エルドが腰を屈め、その紋章をじっと見つめた。
「これは古代銘刻術師の印だ」
「銘刻術師?」
「大潮以前の時代、銘刻魔法の研究と発展を担った専門家集団だ。記憶を媒介とした魔法を体系化し、その技術を後世に伝える役割を持っていた。彼らは各地に研究拠点を置いていた。あの町もその一つだったのだろう」
エルドが壁面を指した。そこに、同じ紋章が刻まれていた。麦穂と円環。カイが地面に描いたものと、まったく同じ意匠。
「この遺跡も銘刻術師の施設だったのだ。――五百年以上の時を越えて、同じ紋章が残っている。記憶聖庁は古代の知識を全て封じ、消し去ろうとしてきたが、石に刻まれた記録は瘴気にも浄化にも抗う」
リーンが壁面の紋章に手を伸ばし、指先でそっとなぞった。
「石は、忘れないのですね」
「いい表現だ、リーン。そう、石は忘れない。だからこそ、私は遺跡を歩き続けている」
広間の奥に進むと、石の台座の上に一体の遺骨があった。
白い骨。衣服は朽ち果て、わずかに金属の装飾品が残っている。胸元に銘刻術師の紋章が刻まれた円盤が置かれていた。
「この遺骨は以前から確認していた。だが私には、この人物が何者で、何を知っていたかを読み取る手段がない」
エルドがカイを見た。
「だが、君にはある」
カイは手袋を外した。五百年前の死者。死喰いが発動するのは「死者の遺体」に触れたときだ。五百年経った遺骨でも記憶が残っている保証はない。
だがやるしかなかった。
「悪いな。少し見せてもらう」
右手を、遺骨の額に当たる部分に置いた。
冷たい。石のように冷たい。何の反応もない。
――来ないか。
と思った瞬間、指先から逆流が始まった。
世界が弾けた。
暗転。
白い光。意識が引き剥がされる感覚。だがこれまでの死喰いとは異質だった。流れ込んでくる記憶が遥かに「古い」。色が褪せ、輪郭がぼやけ、水底に沈んだ絵画のようだった。それでも断片は読み取れた。
――白い神殿。石柱が林立する広大な空間。今いる遺跡の、かつての姿。天井は高く、壁面の銘刻は鮮明で、魔力が満ちていた。
銘刻術師たちが円陣を組んでいる。その中央に若い男が立っていた。聡明な目をした男。胸元に銘刻術師の紋章。この遺骨の生前の姿だ。
場面が変わる。
――会議の席。銘刻術師たちの議論。「大陸北部の瘴気の異常拡大について」。ある術師が報告する。「北の果て、極地の遺跡で禁忌銘刻の痕跡が発見された。何者かが、大陸規模の禁忌銘刻を試みた形跡がある」。
場面が飛ぶ。
――灰色の霧。空が暗い。大潮の前兆だ。銘刻術師たちが慌ただしく動いている。「もう手遅れだ」「誰がこんなことを」。若い術師が走っている。恐怖に駆られた表情で、手に一冊の書物を抱えている。
「この記録だけは残さなければ。後世の者が真実を知るために」
そして、最後の記憶。
大潮の波が押し寄せる。灰色の津波。忘却の瘴気が空と大地を呑み込む。神殿の壁が揺れ、石柱が砕け、仲間たちが次々と膝をつく。記憶が奪われていく。名前が消え、顔が消え、自分が何者だったかが消えていく。
その視界の端に――仮面があった。
記憶の断片が乱れた。大潮のビジョンが唐突に途切れ、別の場面が混入する。灰色の霧。だがこの霧は大潮の瘴気とは質感が違った。もっと濃く、もっと冷たい。見覚えのある霧だった。
霧の中に、仮面をつけた剣士が立っていた。白い仮面。表情のない、のっぺりとした仮面。剣を携え、霧の中に佇むその姿は、微動だにしなかった。
この霧は――カルドラの瘴気だ。
若い術師の記憶ではない。時代が違う。もっと新しい。記憶の断片が混線したのか、あるいは——
暗転。
カイは石の床に片膝をついていた。額から汗が滴り、呼吸が荒い。頭の中で四十二人分の記憶が暴風のように渦巻いている。五百年前の記憶がその上に砂のように散らばった。断片的すぎて一人の人格を成していない。だがノイズのように四十二人の記憶の間に割り込み、頭の中をさらに混濁させた。
「カイ!」
メルヴィの声が遠い。リーンの手が肩に触れた。冷たくも温かくもない、いつもの、何も流れ込んでこない手。
「……大丈夫だ」
嘘だった。頭が割れるように痛い。だが、見たものを伝えなければ。
「エルド。あんたの仮説は正しい」
カイは息を整えながら語った。銘刻術師の記憶。北の極地で禁忌銘刻の痕跡が発見されたこと。大潮がある一点から波紋のように広がったこと。
エルドの顔が蒼白になった。
「やはり。やはりそうだったのか。――三十年の研究が、裏付けられた」
「それだけじゃない。大潮の最中、仮面をつけた剣士がいた」
「仮面の剣士?」
「白い仮面をつけた、表情のない――」
カイは手袋を嵌め直した。仮面の剣士。白い仮面。そしてあの霧——カルドラの瘴気。
ゼロ。
その名前が、自然と頭に浮かぶ。
街道ですれ違った仮面の旅人。あのとき「まだ、若いな……」と呟いた、正体不明の存在。仮面のデザインが似ていた。いや、似ているどころではない。同じだった。
だがなぜ古代の記憶の中に、カルドラの瘴気が混じっている? 五百年前の死者の記憶に、五年前の霧が? 記憶が混線したのか。それとも――
「ゼロはカルドラに関係がある人間なのか……?」
考え込むカイを、エルドが鋭い目で見つめていた。
「仮面の剣士について、心当たりがあるのかね」
「……分からない。まだ断片だ。だが、覚えておく」
指がわずかに震えていた。
* * *
遺跡の入り口に戻り、石柱の間に座って休息を取った。エルドが水筒を差し出してくれた。
「さて、カイ・ヴェルナー。互いの手札を出し合ったところで、提案がある」
「提案?」
「協力だ。君の死喰いと、私の三十年の研究を合わせれば、大潮の真実に辿り着ける。起点は大陸の北の果てにある。私は一人では行けなかった。だが君となら――」
「待ってくれ。俺はリーンを安全な場所に送り届けるのが先だ」
「安全な場所?」
エルドがリーンを見た。
「この少女に安全な場所など、この大陸にはないよ」
静かだが、確信に満ちた声だった。
「聖庁がこの子を追っている限り、どこに逃げても同じだ。だが大潮の真実を解明すれば、聖庁の教義は根底から覆る。力の源泉は『神罰説』にある。それが嘘だと証明されれば、この子を追う理由もなくなる」
カイは黙った。エルドの論理には穴がない。逃げ続けることに限界があることは、カイ自身が一番よく分かっていた。
「……北の果て、か」
「ああ。大潮の起点にして、全ての答えがある場所だ」
リーンがカイを見ていた。紫の瞳が、何かを待っているように。
「考えさせてくれ。一晩でいい」
「急かしはせんよ。ただ、時間はあまりないことだけは伝えておく。瘴域は年々加速度的に拡大している。第二の大潮が来るまでに、おそらくあと数年だ」
エルドの声には焦りよりも悲しみがあった。三十年間、真実を追い続けた老人の、静かな危機感。
カイは遺跡の石柱の間から空を見上げた。午後の光が白い石を金色に染めている。
――その時だった。
空気が変わった。
遺跡を囲む丘陵の上に、白い人影が並んだ。一人、二人、五人、十人。白い軍装に身を包んだ兵士たち。銘刻紋の刻まれた槍を構え、遺跡を見下ろしている。
記憶聖庁の紋章が、その胸に光っていた。
「……囲まれたわね」
メルヴィが呟いた。声は平坦だったが、翡翠の瞳に緊張が走っている。
「エルド。あんた、尾行されてたな」
「かもしれん。いや、十中八九そうだろう。私は聖庁にとって目障りな存在だ。監視がついていても不思議はない」
カイは剣の柄に手をかけた。十人。通常の兵士なら突破できなくはないが、銘刻武装をした聖庁の部隊だ。戦闘銘刻を使えば記憶を失う。使わずに切り抜けられる数ではない。
そして――丘陵の最も高い場所に、一人の人物が立った。
銀縁の眼鏡が午後の光を反射した。
長身。黒髪を短く整え、銀糸の刺繍が施された大審判官の外套を纏っている。三十代前半。だが纏う空気は年齢に不釣り合いなほど重い。立っているだけで、周囲の温度が下がったかのようだった。
セレン・アヴァロス。
記憶聖庁大審判官。
カイは初めて、この男を直に見た。
「カイ・ヴェルナー」
セレンの声は静かだった。丘の上から見下ろす声。怒りもなく、焦りもなく、ただ事実を述べるような平坦さ。
「初めまして、と言うべきかな。報告書では何度もあなたの名前を読んだが」
「初めましてじゃなくて、勝手に会いに来たんだろう。お前が」
「大審判官が自ら動くのは、それだけの価値がある案件だということだ」
セレンが石段を降りてきた。兵士たちは動かない。交渉の場に兵を入れれば、相手は戦闘態勢に入る。それを避けるための単身行動だった。あるいは、その程度の自信があるということだ。
近づいてくるセレンの顔を、カイは観察した。整った顔立ち。理知的な目。感情を徹底的に制御している人間の顔。だがその奥に、単なる冷酷さとは違う何かがあった。信念。揺るぎない信念。こういう目をした人間が一番厄介だと、カイは知っていた。
セレンの視線がリーンに向いた。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、セレンの表情が揺れた。眼鏡の奥で瞳がわずかに見開かれ、口元の線が乱れた。動揺。あるいは、もっと深い名前のつかない感情。
だがそれは瞬きの間に消えた。カイはその揺れを見たが、確信が持てなかった。見間違いだったかもしれない、と思う程度の変化。
セレンの表情は元の冷静さに戻っていた。
「本題に入ろう。カイ・ヴェルナー。その少女を、こちらに引き渡してもらいたい」
「断る」
「最後まで聞きなさい」
セレンが一歩近づいた。距離が五歩まで縮まる。
「引き渡してくれるなら、取引をしよう。あなたの死喰いの呪い――その解呪方法を教える」
カイの呼吸が止まった。
「……何だと」
「記憶聖庁は、死喰いのメカニズムを研究している。あの呪いは古代銘刻の副産物だ。解呪は不可能ではない。方法は存在する。ただし、聖庁の技術が必要だ」
セレンの声には嘘の気配がなかった。少なくとも、カイにはそう聞こえた。五年間どこにも見つからなかった答えを、この男は知っていると言っている。
リーンを渡せば、呪いが解ける。四十三人分の記憶の重圧から解放される。自分が自分でいられなくなる恐怖から、自由になれる。
カイは拳を握った。
「……呪いを解く代わりに、リーンをどうする気だ」
「保護する。危険な存在を、適切に管理する。それだけだ」
「管理。――お前たちの『管理』がどういうものか、俺は知ってるぞ。忘れられた町で見た。町一つの記憶を消して、それを管理と呼ぶのがお前たちだ」
セレンの目がわずかに細くなった。
「あの町のことを知っているのか。――死喰いで読み取ったか。なるほど、便利な力だ」
「便利じゃねえ。呪いだ」
「では、その呪いから解放されたくはないのか」
沈黙が落ちた。風が石柱の間を吹き抜けた。
「……断る」
カイの声は低く、硬かった。
「リーンは渡さない。呪いは自分でどうにかする」
セレンは表情を変えなかった。だが眼鏡の奥の瞳に、失望のようなものが一瞬よぎった。
「忘却騎士団の元団長か」
セレンの声に、初めて感情が混じった。冷静さの下に押し込められていた、苛立ちのようなもの。
「……あの組織は昔から、到着が遅い」
カイは眉をひそめた。
「何の話だ」
「独り言だ。気にするな」
セレンはそう言ったが、その一瞬だけ、眼鏡の奥の目が別の時代を見ていた。灰色の霧に呑まれていく故郷。待っても待っても来なかった白い軍装。
だがカイにはその文脈は分からなかった。ただ、「到着が遅い」という言葉に込められた重みだけが、空気を伝わって肌に触れた。
「ならば」
セレンの声が元の冷静さに戻った。
「少女を渡さないのなら、代わりにエルド・グラムの身柄を頂こう」
エルドが目を細めた。
「ほう。私の研究が、そんなに目障りかね」
「異端の学者の保護。それが聖庁の責務だ」
「保護。便利な言葉だ。浄化と同じだな」
セレンの手が上がった。
丘陵の上の兵士たちが動いた。十人が一斉に遺跡の中に降りてくる。銘刻武装の槍先が薄青い光を帯びている。
カイが剣を抜こうとした。
「やめなさい、カイ」
エルドの声が鋭かった。
「十人を相手に戦闘銘刻を使えば、お前は記憶を失う。それも一つや二つでは済まない量の記憶を。――今のお前に、それは許されない」
「だが――」
「私は老人だ。残りの人生より、お前たちの旅のほうが長い」
エルドの声は穏やかだった。だがその穏やかさの中に、揺るがない意志があった。
兵士たちがエルドを取り囲んだ。エルドは抵抗しなかった。両手を前に差し出し、銘刻の拘束具をかけられた。
「カイ・ヴェルナー」
エルドがカイの目を見た。皺だらけの顔。だがその目は――若い。三十年分の知識と情熱が燃える、老いることを知らない研究者の目。
「旅を続けろ」
連行が始まった。兵士たちに囲まれたエルドが、石段を登り始める。
エルドが振り返った。
「北の果てに答えがある!」
叫んだ。穏やかな声ではなく、遺跡に反響する、全身の力を込めた叫びだった。
「記憶は消えない! 形を変えるだけだ! それを忘れるな!」
声が石柱の間にこだました。エルドの姿が丘陵の向こうに消えていく。最後に見えたのは、白い髪を風に巻き上げられながら、なお背筋を伸ばした老学者の後ろ姿だった。
セレンが最後にカイを見た。
「考えを変えたら、聖庁の門を叩きなさい。取引の条件は変わらない」
そう言い残して、セレンもまた丘の向こうに消えた。
白い軍装の一団が去り、遺跡に静寂が戻った。
風だけが吹いていた。
* * *
宿に戻る道を、三人は無言で歩いた。
夕暮れの港町が眼下に広がっている。漁港に戻る船の灯りが海面に揺れている。
リーンが口を開いた。
「エルドさんは、戻ってきますか」
「分からない」
嘘はつけなかった。だが、絶望的だとも言えなかった。
「でも」リーンが続けた。「エルドさんの話は、ここにあります」
リーンが自分の頭を指差した。
「わたしが聞いたことは、わたしの中に残っています。全部、覚えています」
「……ああ。俺も覚えている」
メルヴィは二人の少し後ろを歩いていた。いつもなら口を挟むところだが、今日は黙っていた。
* * *
宿の部屋。夜。
窓の外に港町の夜景が広がっている。漁港の灯りと、海の上の月。波の音が遠く、絶え間なく聞こえている。
メルヴィとリーンが寝静まった後、カイは窓辺に腰かけて考えていた。
仮面の剣士。
五百年前の銘刻術師の記憶の中に、カルドラの瘴気と同質の霧が混じっていた。そしてその霧の中に、仮面の剣士が立っていた。記憶の混線か、それとも別の理由があるのか。
ゼロ。
あの仮面の旅人がカルドラに関わる人間だとしたら、五年前の事変で何があったのか。カイの記憶は混濁しているが、灰色の霧の中の人影が断片的に蘇ることがある。
だが確証はない。断片だけが散らばっている。
北の果てに答えがある。
エルドの叫びが耳に残っていた。
カイは右手を見た。手袋の下の手。死者の記憶を喰らう、この呪われた手。セレンは知っている。聖庁は死喰いのメカニズムを研究している。
呪いを解く方法がある。だがその対価は、リーン。
――解呪すれば、四十人の記憶はどうなる。
消えるのか。残るのか。それとも、形を変えるのか。
エルドの仮説が頭をよぎった。記憶は消えない。形を変えるだけだ。それが本当なら、四十人の灯火は消えない。カイの中から消えても、どこかで形を変えて残る。
それは救いだろうか。答えは出なかった。
窓の外で、海が月光に照らされていた。灰青色の海面が、銀色に光る道を作っている。その道は北に向かって伸びていた。
北の果て。
カイは窓を閉め、ベッドに横になった。目を閉じると、頭の中で四十三人の記憶がざわめいた。その隙間に、五百年前の銘刻術師の記憶の断片が砂粒のように散らばっている。一人分の人格にはならない。だが消えもしない。
仮面の剣士の姿が、闇の中に浮かんでは消えた。
眠りは浅く、夢は深かった。
* * *
翌朝。
カイが目を覚ますと、リーンが窓辺に座って海を見ていた。あの平原の朝と同じだ。ただし今日の彼女の手には、エルドが置いていった帳面の切れ端があった。昨日、エルドが議論の最中に破いて渡した、記憶の変換仮説の図式が書かれた紙。
「それ、まだ見てたのか」
「はい。見ていると、新しい問いが浮かびます。でも、答えてくれる人がいません」
リーンの声には寂しさがあった。自覚はないかもしれないが、確かにそこにあった。
カイはベッドに座ったまま、リーンの横顔を見た。
「エルドの分は俺が覚えてる。三十年分の研究は無理だが、昨日聞いたことは全部。答えられる範囲なら答える」
リーンが振り返った。紫の瞳に、小さな光が灯った。
「本当ですか」
「嘘をついてどうする」
「では、一つ目の問い。変換の閾値について、エルドさんは瘴気濃度〇・三から〇・七ヘクスの範囲と言っていましたが、あれは辺縁部の自然濃度の話ですか、それとも銘刻術師の施設内の制御された濃度の話ですか」
「……お前、昨日の話を全部覚えてるのか」
「はい」
カイは額を押さえた。記憶のない少女の記憶力が、四十三人分の記憶を抱えた自分よりも正確だという事実に、何とも言えない気持ちになった。
メルヴィが寝返りを打ち、薄目を開けた。
「……朝から何の学術討論よ。うるさいわ……」
「起きろ。出発するぞ」
「どこに」
「北だ」
メルヴィが目を開けた。翡翠の瞳がカイを見つめる。
「決めたのね」
「ああ。エルドの言葉を、無駄にしたくない」
メルヴィは数秒間カイの顔を見つめ、それからゆっくりと起き上がった。表情に何かが過ぎった。苦しみに似た何か。だがそれは一瞬で、すぐにいつもの快活な笑顔が被さった。
「まあ、あたしとしては情報のネタになるなら、どこでもいいわ。北ね。寒そうだけど」
「嫌なら置いていく」
「置いていかれたら借金の取り立てができないでしょ。行くわよ」
リーンが立ち上がった。エルドの図式の紙を丁寧に折り畳み、外套の内ポケットにしまった。
「カイ。北の果てに行けば、エルドさんの問いの答えも見つかりますか」
「分からない。だが、探す価値はある」
リーンは小さく頷いた。
窓の外で、港の漁船が朝の海に出ていく。白い帆が風を孕み、灰青色の海原に滑り出していく。
老学者の遺言が、カイの胸の中で反響していた。記憶は消えない。形を変えるだけだ。その言葉を携えて、三人は再び旅路についた。
港町ミルドアの白い町並みが、背後に遠ざかっていく。潮の匂いが薄れ、代わりに秋の草原の乾いた風が戻ってくる。
カイは一度だけ振り返った。丘の上の白い石柱が朝日に輝いている。あそこに、老学者は三十年の研究を一人で磨き続けていた。
四十の灯火を一人で抱えて歩く自分と、三十年の真実を一人で抱えて歩いた老学者。ならば、俺たちも忘れない。
仮面の剣士の影が、頭の奥で揺れている。ゼロの正体。大潮の真実。エルドの仮説。セレンの取引。全ての断片が、まだ形を成さない大きな絵の欠片として散らばっている。
だが、歩みを止めるわけにはいかない。
カイは前を向いた。街道は北へ伸びている。
記憶は消えない。
形を変えるだけだ。




