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第五話「忘れられた町」

 平原の街道を三日歩いた。


 ベルガ山脈の稜線が背後に霞むほど遠ざかり、見渡す限りの草地が風に波打っている。大陸中部の平原地帯は、辺縁の瘴域とは空気の色からして違っていた。空が高い。雲が白い。風に瘴気の甘い腐臭が混じらない。それだけで、肺の奥まで深く息が吸えた。街道の脇には名も知らぬ野花が群れ咲いていた。黄色い小花、青い小花、白い穂のような花。踏まないように歩くのが馬鹿らしくなるほど、どこまでも途切れなく咲いている。


 三日前、ベルガ山脈を越えたとき、カイは振り返らなかった。山の向こうにはペルガがあり、ラクリマがあり、ナハトとの戦いの傷痕が折り畳まれている。左腕の切り傷はまだ痛むが、それよりも頭の中の空洞のほうがずっと疼いた。孤児院の記憶が消えた穴。戦闘銘刻の対価として抜き取られた、温かい日々の跡。手を伸ばしても掴めない空白が、不意に脈打つように痛む。


 だが、前を向いた。逃走劇は終わった。ここからは旅だ。


「ねえカイ、地図によるとあと半日で町があるはずなんだけど」


 メルヴィが革表紙の旅行記を片手に、額の汗を拭った。秋とはいえ平原の日差しは容赦がない。


「名前は?」


「リュクセイユ。中規模の交易町で、平原地帯の中継地点。宿も市場もあるってあたしの古い資料には書いてあるわ」


「古いってどのくらいだ」


「……八年前」


「当てにならないな」


「うるさいわね。これでもあたしのコレクションの中じゃ新しいほうよ」


 リーンは二人の少し後ろを黙って歩いている。かぽ、かぽ、と合わない靴の音が、草原の風に乗って等間隔に響く。出会った頃は足音にすら気を配らなかったが、最近は三人の歩調にわずかに合わせようとしている節がある。無意識なのか意識的なのかは分からないが、カイはその変化をいちいち指摘しないことにしていた。


 言葉にすると、壊れるものがある。


 昼を過ぎた頃、街道の向こうに灰色の屋根が見え始めた。石壁の家が数十軒、平原の浅い窪地に寄り添うように建っている。教会の尖塔。市場の天幕。外周を巡る低い石垣。確かに町だった。


 だが、何かがおかしい。


 町の門は開いている。ひとけもある。だが門番がいない。街道の案内板に町の名前が書いてあるはずの場所は、表面が白く塗り潰されていた。いや――塗り潰されたのではない。文字そのものが消えている。木板の表面に、文字があった痕跡だけがうっすらと凹みとして残っている。


「……看板の字が消えてる」


「自然に消えた感じじゃないわね。銘刻で焼き消したような跡よ、これ」


 メルヴィが顔をしかめた。


 町に入った。通りには人がいる。井戸端で洗濯をする女性。荷車を引く男。軒先で日向ぼっこをする老婆。日常の風景だ。瘴域の辺縁に見られるような荒廃はない。建物は手入れされ、畑には作物が育っている。


 だが、町の人々の目が――妙に虚ろだった。


「すみません」


 カイは通りがかりの男に声をかけた。五十がらみの、日焼けした顔の農夫だ。


「この町の名前を教えてくれないか」


 農夫は足を止め、カイの顔を見た。そして――首を傾げた。


「町の名前? さあ……何だったかな。ここは町だが。名前は……」


 農夫の目が泳いだ。思い出そうとしているのではなく、そもそも「思い出す対象」が存在しないような、空を掴むような目つきだった。


「分からんな。いやあ、恥ずかしい。自分の住んでる町の名前が出てこないとは」


 農夫は照れたように頭を掻き、歩いていった。


 カイとメルヴィは顔を見合わせた。


「……偶然か?」


「確かめましょ」


 メルヴィが角の雑貨屋に入り、店主の女性に同じ質問をした。結果は同じだった。町の名前が出てこない。それどころか、この町がいつからあるのか、自分がいつここに住み始めたのか、誰に聞いても答えられなかった。


 通りの向こうで、リーンがベンチに座ったまま人々の行き来を眺めている。紫の瞳が、穏やかだが注意深く町の景色を追っていた。


「三人目に聞いてみるか」


 カイは広場の井戸端にいた中年の女性に歩み寄った。


「俺はカイ。旅の者だ。この町に泊めてもらえる宿はあるか」


「あらまあ、旅人さん。珍しいわねえ。私はマルタ。ええ、宿ならこの通りをまっすぐ行った先に――」


「ありがとう、マルタさん。ところでこの町の名前は?」


「町の名前? うーん……何だったかしら。おかしいわね、舌の先まで出かかってるのに」


 マルタは困ったように笑い、去っていった。


 その十分後。広場を横切るカイに、後ろから声がかかった。


「あらまあ、旅人さん。珍しいわねえ。私はマルタ。どちらからいらしたの?」


 カイは足を止めた。振り返ると、さっきの女性が初対面の笑顔を浮かべて立っている。


「……マルタさん。さっき話しただろう」


「あら? 私、あなたとお話ししたかしら。いえ、初めましてよねえ」


 記憶が保持されていない。それも長期記憶だけでなく、直前の出来事すら抜け落ちている人がいる。


 カイは嫌な予感を覚えながら、もう一度名乗った。


「俺はカイ。旅の者で――」


「まあまあ、カイさんね。私はマルタよ。この町にようこそ」


 三度目の自己紹介だった。カイは額を押さえた。


「……もういい。ありがとう、マルタさん」


「あら、いい男ねえ。お嫁さんは?」


「いない。三回目に聞かれても、いない」


 カイは逃げるように広場を離れた。


 マルタが教えてくれた宿に向かいつつ、カイは判断した。この町は何かがおかしい。一泊では足りない。腰を据えて調べる必要がある。


 宿の二階の部屋を取り、三人で状況を整理した。窓の外では夕暮れの町が穏やかに暮れていく。穏やかすぎるほどに。


「町の名前を覚えている住人はゼロ。町の歴史、成り立ち、自分たちがなぜここにいるかも曖昧。短期記憶にも障害がある人がちらほらいる」


 メルヴィが帳面に書き連ねた情報を読み上げた。


「でも日常生活は普通に送れてる。農作業のやり方は覚えてる。料理も、家族の名前も。忘れてるのは――町そのものに関する記憶だけ」


「瘴域の影響か?」


「それが違うのよ。この辺りは瘴域から十分離れてるし、瘴気による記憶喪失なら個人差が出るはず。ここは全員が同じように忘れてる。まるで、特定のカテゴリの記憶だけを――」


 メルヴィが言葉を切った。翡翠色の瞳が鋭く細まる。


「――抜き取ったみたいに」


「浄化、か」


 カイが呟いた。


 記憶聖庁の「浄化」。危険とみなされた記憶を銘刻魔法で強制消去する行為。カイが騎士団にいた頃にも聞いたことはあった。瘴域から生還した者の汚染された記憶を浄化する、という名目で行われる措置だ。しかしそれは個人に対して行うものであって、町一つを丸ごと浄化するなど、聞いたことがない。


「確かめる方法がある」


 カイは自分の右手を見た。


「町で最近亡くなった人間がいれば、死喰いで記憶を読める」


 メルヴィが息を呑んだ。


「……あんた、それ」


「他に手がないだろう。住人に聞いても堂々巡りだ。死者は記憶を消去されない。浄化は生者にしか効かない」


 リーンがカイの顔を見た。


「カイ。それは、つらいことですか」


「慣れてる」


 嘘だった。死喰いに慣れることなど、ありえない。だが今はそう言うしかなかった。


         * * *


 宿の主人に聞くと、三日前に町外れの家で一人暮らしの老人が亡くなったという。埋葬はまだで、教会の裏手に安置されていると。


 夜半。カイは一人で教会に向かった。メルヴィとリーンは宿に残した。死喰いの発動は、できれば誰にも見せたくない。


 教会の裏手に小さな安置所があった。石造りの簡素な建物。扉は閉まっていたが、鍵はかかっていない。中に入ると、冷えた空気と微かな死臭が鼻を突いた。


 石の台の上に、白布をかけられた遺体が横たわっていた。


 カイは深く息を吐いた。


 死喰いの発動は、いつだって恐ろしい。何度やっても慣れない。他人の人生をまるごと頭に流し込まれる暴力。自分と他者の境界が溶け、一時的に「自分が誰か」が分からなくなる。四十一人分の記憶を抱えた今、新たな記憶を加えることは、すでに限界に近い器にさらに水を注ぐようなものだ。


 だが――手がかりは他にない。


 手袋を外す。


 白布をめくる。老人の顔が現れた。痩せこけ、皺の深い、しかし穏やかな死に顔。八十歳は超えているだろう。閉じた瞼の下に、長い人生の疲労が刻まれている。この町で生まれ、この町で死んだ人間だ。


「……悪いな。少し、見せてもらう」


 右手を、老人の額に置いた。


 冷たい。体温はとうに失われている。だが、死喰いにとって死者の温度は関係ない。触れた瞬間、指先から何かが逆流してくる。


 世界が、弾けた。


 ――暗転。


 視界が白く灼け、意識が肉体から引き剥がされる。死喰いの発動。カイ・ヴェルナーという人間の輪郭が一瞬ぼやけ、他人の人生という名の濁流に自我が呑み込まれた。


 ……青い空。草原を走る子供の足。裸足の足裏に踏まれる草の柔らかさ。「おーい、ルーカス!」と呼ぶ母の声。振り返ると石壁の家々が並んでいる。家の軒先に掲げられた旗。旗には紋章が描かれていた。交差する二本の麦穂と、それを囲む円環。見覚えのない紋章――いや、「古い」紋章だ。記憶聖庁の紋章でも、聖王国の紋章でもない。もっと古い。時代の違う意匠。


 場面が変わる。


 若い日のルーカスが、町の集会場で老人たちの話を聞いている。この町の歴史。大潮の前から続く町。四百年の歴史を持つ共同体。記憶聖庁が設立される遥か以前から、この土地の人々は自分たちの記憶を自分たちで守ってきた。集会場の壁に、あの古い紋章が刻まれていた。


 場面が飛ぶ。


 ルーカスが二十歳を過ぎた頃のことだった。記憶聖庁の使者が町を訪れた日。白い僧衣の男たちが、町の記録を「保護」すると言った。古い文献を、紋章を、町の歴史を全て記憶聖庁に引き渡せと。町の長老たちは拒否した。「我々の記憶は我々のものだ」と。


 それから――数日後。


 夜。町を囲むように白い軍装の集団が現れた。忘却騎士団ではない。記憶聖庁の実行部隊。「浄化官」と呼ばれる者たち。


 広場に集められた住人たち。浄化官の長が宣告した。


「記憶聖庁の要請を拒否した罪により、本町の記憶を浄化する」。


 銘刻紋が展開された。広場全体を覆う、巨大な紋様。町の住人全員の頭上で紋様が光り、人々が次々と膝をつく。悲鳴。泣き声。だが声を上げた者から順に、その声が小さくなっていく。何を叫んでいたか忘れたように、中途半端に口を開けたまま黙り込む。


 町の名前が消えた。歴史が消えた。聖庁に逆らった記憶が消えた。


 それでいて、日常生活に必要な記憶は精密に残された。農作業の手順。家族の名前。人としての基本的な営みの記憶だけを残して、町の「魂」とでも呼ぶべきものだけを、切除した。


 生かさず殺さず。町は存続する。だが、自分たちが何者であったかを永遠に思い出せない。


 ――それが、記憶聖庁の「浄化」だった。


 老人の記憶の最後の場面。ルーカスは浄化の夜、集会場の地下に隠れていた。浄化の紋様の影響が届かなかった数少ない一人。だが翌朝、全てを忘れた町の人々の中で一人だけ記憶を持っていることの恐怖に耐えられず、ルーカスは沈黙を選んだ。誰にも語らず、一人で全てを覚え続けて、八十年以上を生きた。


 最後の瞬間。ベッドの上で天井を見つめるルーカスの視界。薄れゆく意識の中で、老人は思った。


 ――やっと、忘れられる。


 暗転。


 カイは石の床に両手をついていた。額から汗が滴り落ち、呼吸が荒い。胃がせり上がるような吐き気を、奥歯を噛み締めてこらえた。


 四十二人分の記憶が頭の中で渦を巻いていた。ルーカス老人の八十年が新たに注ぎ込まれたのだ。情報量が多い。脳が軋む。他人の人生を丸ごと一つ追加で抱え込んだ重みが、肩にのしかかる。だが、その痛みよりも、見た光景のほうがずっと重かった。


 浄化の夜、広場で膝をつく人々。記憶が抜き取られていく瞬間の、あの目。何かを叫ぼうとして、叫ぶべき言葉を失い、口を半開きにしたまま虚空を見つめる目。ルーカスは地下からそれを見ていた。仲間の目から光が消えていくのを。八十年、その光景を一人で抱え続けた。


「……浄化、か。町一つ丸ごと」


 拳を握った。爪が掌に食い込む。


 記憶聖庁を内側から見てきたつもりだった。騎士団にいた頃も、聖庁のやり方に疑問は感じていた。だがこれは疑問の範疇を超えている。これは保護じゃない。処罰だ。


 この町の人々は、逆らっただけだ。自分たちの記憶は自分たちのものだと主張しただけだ。その「罰」として、町の魂を抜かれた。名前を。歴史を。誇りを。全てを。


 そして最も残酷なのは、罰を受けたことすら忘れさせたことだった。怒ることも、悲しむこともできない。奪われたことを認識できないのだから。


 老人のルーカスは、その記憶を誰にも語れずに死んだ。八十年間、たった一人で。周囲の誰もが忘れた真実を、ひとりきりで抱え、ひとりきりで老いた。


 ――やっと、忘れられる。


 その最後の言葉が、頭の中で反響した。ルーカスにとって、死は解放だった。覚えていることの重みから、ようやく自由になれる瞬間。


 カイは自分の手を見た。この手で死者の記憶を引き受け、この手で他人の人生の重さを背負う。ルーカスの八十年も、もうカイの中にある。その重みは、カイが死ぬまで消えない。


 遺体に白布をかけ直した。


「……安らかに眠れ、ルーカス。あんたの記憶は、俺が引き受けた」


 教会を出ると、月明かりの下にリーンが立っていた。


「待ってろと言っただろう」


「はい。聞こえていました」


「だったら――」


「カイの顔が見たかったので、来ました」


 カイは一瞬言葉を失い、それからため息をついた。「顔が見たかった」。出会った頃のリーンは、こんなことを言わなかった。


「何を見たか、聞きますか」


「……聞いてどうする」


「分かりません。でも、カイが見たものを知りたいです」


 カイは夜空を見上げた。平原の空は広く、星が散っている。ラクリマの曇った空とは違う。この美しい空の下で、あの浄化が行われた。


「この町は――記憶聖庁に逆らった町だ。罰として、町の記憶を全部消された。町の名前。歴史。自分たちが何者だったか。全部」


 リーンの紫の瞳が、じっとカイを見つめた。


「記憶聖庁は、人を守る組織じゃない」


 カイの声は低く、硬かった。


「記憶を管理する――つまり、支配する組織だ。危険な記憶を消すって名目で、自分たちに都合の悪い記憶を消してる。この町の人々は、ただ自分たちの記憶を守りたかっただけだ。それだけで、こうなった」


 沈黙が落ちた。風が草原を渡り、リーンの白い髪を揺らした。


「カイ。この町の人たちに、本当のことを伝えますか」


「……」


「あの人たちは、自分たちに何があったか知らずに暮らしています。畑を耕して、食事を作って、笑って。町の名前は思い出せないけれど、それでも穏やかに」


 リーンの言葉は平坦だったが、的を射ていた。この町の人々は確かに穏やかだ。記憶を失ったことすら忘れ、欠落を欠落と認識しないまま、日々を送っている。


「知らないほうが幸せなこともありますか」


 その問いに、カイは答えられなかった。


 ルーカスの最後の言葉が蘇る。やっと忘れられる。あの老人にとって、覚えていることは八十年の苦行だった。忘れた人々のほうが、よほど穏やかに生きていた。


 では、記憶を奪ったのは正しかったのか。


 違う。そうじゃない。問題はそこじゃない。


 だが、正しい答えが見つからない。


「……今は、答えが出ない」


 カイはそれだけ言って、宿に向かって歩き出した。リーンは黙ってついてきた。


         * * *


 翌朝。


 宿の食堂で朝食を取っていると、メルヴィが帳面を広げて報告した。


「昨夜のうちに町中を回ってみたわ。聞き込みの結果、面白いことが分かった」


「寝てないのかお前は」


「情報屋は夜が本番よ。――で、この町の名産品が何か聞いて回ったんだけど」


 メルヴィが渋い顔をした。


「全員、答えが同じなのよ。『名産品? そんなものがあったかしら』って。酒場の主人も、市場の店主も、全員。でも市場には明らかに質のいい蜂蜜が並んでて、棚に古い瓶詰めの技法まで残ってるの。伝統的な蜂蜜の町だったはずよ、ここ。なのに誰も覚えてない」


「浄化の影響だろうな。町の伝統や誇りに関わる記憶は軒並み消されてる」


「ここ、情報屋泣かせの町ね……。聞き込みが何の役にも立たない。質問するたびに『さあ?』で返されるの。八年ぶりにこんなに手ぶらで朝を迎えたわ」


 メルヴィは不貞腐れたようにパンをちぎった。


 朝食後、カイは町を歩いた。ルーカスの記憶で知ったことを、自分の目で確かめるために。


 集会場はまだ残っていた。だが壁に刻まれていたはずの古い紋章は、表面が削り取られていた。浄化のときに証拠も消したのだろう。だがカイの頭の中には、ルーカスの目を通して見た紋章がはっきりと残っている。交差する二本の麦穂と円環。記憶聖庁の紋章よりも古い。聖王国が成立する遥か以前の、古代の意匠。


 この紋章が何を意味するのかは、今のカイには分からない。だが覚えておく。


 町を歩いていると、広場の片隅で子供たちが遊んでいるのが見えた。五、六歳くらいの子供が三人。そしてその中に、白い髪の少女が混じっていた。


 リーンだった。


 子供たちはリーンを囲んで何やら話しかけている。リーンは地面に座り込み、いつもの無表情で子供たちを見上げていた。


「お姉ちゃん、髪きれい!」


「ありがとうございます」


「何で白いの?」


「分かりません」


「お姉ちゃん、これあげる!」


 一人の女の子が、野花を編んだ花冠を差し出した。黄色い小花と青い小花を交互に編み込んだ、素朴だが愛らしい作り。


「ありがとうございます。これは何ですか」


「花かんむり! かぶるの!」


 女の子がリーンの頭に花冠を載せた。だがリーンの髪はさらさらと滑りやすく、花冠はすぐにずるっと額の上まで落ちてきた。


「……前が見えません」


「あ、ずれた! もう一回!」


 女の子がもう一度載せる。今度は後頭部に引っかかり、一瞬持ちこたえたかと思うと、つるりと滑って背中に落ちた。


「あーっ! また落ちた!」


「わたしの頭は、花冠に適していないようです」


「そんなことないもん! もう一回!」


 三度目。女の子は両手で花冠を持ち、慎重にリーンの頭に載せた。今度は斜めにかしいだまま、かろうじて耳に引っかかって止まった。


「……止まりました」


「やった! でもちょっと斜め……」


「斜めでも、載っています。問題ありません」


 リーンの頭に斜めに引っかかった花冠は、なんとも間の抜けた光景だった。カイは木陰から見ていて、危うく吹き出しそうになった。


 だが、次の瞬間。


 別の子供がリーンの手を引いた。


「お姉ちゃん、こっち来て! かくれんぼしよ!」


 リーンは引かれるがままに立ち上がり、子供たちと広場を走り始めた。走るという動作がぎこちない。合わない靴がかぽかぽ鳴る。それでも子供たちは笑いながらリーンの手を引き、リーンは引かれるまま広場を駆けた。


 鬼役になったリーンが、井戸の影に隠れた子供を探す。リーンは真剣そのものの顔で辺りを見回し、木の陰を覗き、ベンチの下を確認する。だが子供は井戸のすぐ裏にいて、リーンが通り過ぎるたびにくすくす笑う。


「見つけられません」


「こっちだよー!」


 子供が飛び出した。リーンの目の前で。


「……いました」


「お姉ちゃん、ぜんぜん見つけるの下手!」


「はい。下手です」


「もう一回やろ!」


 何度も繰り返された。リーンは何度鬼になっても同じ場所を探し、子供たちは何度でも同じ場所に隠れ、何度でも笑った。この町の子供たちは記憶を保持できないから、毎回が新鮮なのだ。そしてリーンもまた、遊びの「コツ」をなかなか学習しない。不思議な組み合わせだった。忘れ続ける子供たちと、最初から何も持たない少女。


 そして――花冠がまた落ちた。走った拍子にリーンの頭から滑り落ち、草の上に転がった。女の子が拾い上げ、笑いながらリーンに駆け寄る。


「また落ちた! お姉ちゃんの頭、つるつる!」


 女の子がリーンの頭をぺたぺた触った。リーンはされるがままになっていた。


「ねえお姉ちゃん、笑って!」


「笑う、ですか」


「そう! 楽しいときは笑うんだよ!」


 リーンは首を傾げた。


「楽しい、が分かりません」


「分かんなくても笑えるよ! ほら、こうやって!」


 女の子が満面の笑みを作ってみせた。歯が一本抜けた、無邪気な笑顔。


 リーンはその顔を見つめた。じっと、数秒。


 それから――ぎこちなく口角を上げようとした。うまくいかない。頬の筋肉が、笑い方を知らない。表情筋が固まったまま動かない。


「お姉ちゃん、へんな顔!」


 女の子が腹を抱えて笑った。他の子供たちも笑った。リーンの中途半端な表情と、斜めにかしいだ花冠と、かぽかぽ鳴る靴と、全部がおかしくて、子供たちは転げ回って笑った。


 その笑い声に包まれて。


 リーンの口から、声が漏れた。


「――ふ」


 小さな、本当に小さな声だった。


「ふ、ふふっ」


 リーンが、笑っていた。


 声を上げて。口角が上がり、目が細くなり、頬が薄く色づいて。それは器用な笑顔ではなかった。ぎこちなくて、どこか不格好で、それでいて――これ以上ないほど、本物の笑顔だった。


 子供たちが「お姉ちゃん笑った!」と歓声を上げた。リーンは自分が笑っていることに気づいていないようだった。ただ、子供たちの笑い声と、頭からずり落ちた花冠と、自分のぎこちない表情の全部がおかしくて、声が止まらなかった。


 木陰から見ていたカイは、息を止めた。


 あの少女が笑っている。出会ったときから表情の乏しかった、感情の起伏がほとんどなかった、空っぽの器だった少女が。花冠を斜めにかぶって、合わない靴を鳴らして、子供に囲まれて、声を上げて笑っている。


 胸の奥が、締めつけられるように熱くなった。


「……悪くない」


 誰にも聞こえないように呟いた。呟いてから、自分の声が少し震えていることに気づいた。


         * * *


 午後、カイはメルヴィを連れて町の外れに向かった。ルーカスの記憶の中に、町の東側に瘴域の辺縁部があるという情報があったからだ。出発前、カイはリーンに告げた。


「リーンは宿で待ってろ。瘴域の辺縁部だ、念のためな」


 リーンは紫の瞳でカイを見つめ、小さく頷いた。


「瘴域がこんな近くまで来てるの? 地図上はまだ余裕があるはずなのに」


「地図が古いんだろう。瘴域は年々広がってる」


 町の東の門を出て、草原を十五分ほど歩いた。風向きが変わった。微かに、あの甘い腐臭が混じる。瘴気の匂いだ。だが濃度は薄い。瘴域の中心部とは比べものにならないほど希薄な瘴気。辺縁部の、さらに外側。


 そこに――光があった。


 草原の一画に、半透明の結晶が群生していた。


 高さは膝ほど。淡い青紫の光を帯びた、氷のような結晶の柱が、数十本。草の間から突き出るように生えている。結晶の表面は滑らかで、内部には細かい紋様のような模様が漂っている。紋様はゆっくりと揺れ動き、まるで結晶の中で何かが呼吸しているかのようだった。夕暮れの光を受けて、群生地全体がぼんやりと発光している。西日の橙色と結晶の青紫が混ざり合い、周囲の草原が不思議な色に染まっていた。


 足が止まった。こんな光景を美しいと思う自分に、少し驚いた。瘴域の辺縁という不穏な場所にあって、その光景だけが切り取られたように静謐で、この世のものとは思えない清浄さを湛えていた。


「何、これ……」


 メルヴィが息を呑んだ。


 リーンが後ろからついてきていた。またしても「待ってろ」を無視している。だがカイはもう怒る気力がなかった。この少女は「待ってろ」の意味を理解した上で無視しているのだから、怒ったところで無駄だ。


 カイは結晶に近づいた。瘴気の匂いはあるが、体に影響が出るほどの濃度ではない。辺縁部の、ごく薄い瘴気の中で、この結晶は生まれているようだ。結晶の根元を見ると、草と土の隙間から自然に生えている。人の手で作られたものではない。


 手袋を外し、結晶に触れた。


 冷たい。氷よりも冷たい。だが凍傷を起こすような温度ではない。冷たさの奥に、微かな温もりがある。矛盾した感覚。指先に伝わるのは温度だけではなかった。


 ――声が聞こえた。


 遠い。かすかで、判然としない。だが確かに、人の声だった。


 「……ここは、私たちの町……」


 「麦穂の紋章は、四百年の……」


 「子供たちに伝えなければ……」


 断片的な声。途切れ途切れの言葉。記憶の欠片。


 カイは手を離し、後ずさった。


「……この結晶、記憶だ」


「記憶?」


「この町から消された記憶が――瘴気に溶けて、ここで結晶になってる。消されたはずの記憶が、形を変えて残ってる」


 メルヴィが目を見開いた。


「そんなこと、あり得るの? 浄化で消された記憶は完全に消滅するはずよ。記憶聖庁の公式見解では――」


「公式見解を信じるのか? ここにあるのは事実だ」


 カイは再び結晶に触れた。声が流れ込む。この町の名前を呟く声。祭りの日の歓声。子守唄。記憶聖庁に逆らうと決めた日の長老の演説。全てが断片で、全体像は掴めない。だが確かに、ここに残っている。


「記憶が、形を変えて残っている……?」


 カイは首を傾げた。瘴気は記憶を蝕み、消滅させるものだと思っていた。だが実際には、消滅ではなく「変換」が起きているのか。記憶は瘴気に溶けた後、完全に消えるのではなく、条件が揃えば結晶として凝固する。


 理屈は分からない。だが現象は目の前にある。


 リーンが一本の結晶の前にしゃがみ込んだ。結晶の光がリーンの白い髪と紫の瞳に反射して、少女の顔を淡い青紫に染めた。


「声が聞こえます」


「触ったのか?」


「いいえ。触らなくても、聞こえます。……泣いています。誰かが」


 カイとメルヴィは顔を見合わせた。リーンには、触れなくても結晶の中の記憶が聞こえるのか。あのときは気にも留めなかったが、ペルガの闇市でも、リーンが通りかかった結晶が一瞬光を失う現象があった。この少女と記憶の結晶の間には、何か関連がある。


 リーンは結晶の前から動かなかった。青紫の光に照らされた横顔は、どこか痛みを堪えているようにも見えた。


「リーン。離れるぞ」


「……はい」


 立ち上がったリーンが、一度だけ振り返って結晶を見た。その目に浮かんでいたのは、カイがこれまで見たことのない表情だった。悲しみとも哀れみとも違う。もっと根源的な、何かと共鳴しているような目。


 結晶群のそばを離れながら、メルヴィが小声で言った。


「この現象、記録しておくべきね。記憶聖庁の公式見解と完全に矛盾してる。浄化された記憶は消滅する、と聖庁は言い張ってるけど、実際には残ってる」


「ああ。いつかこの謎を解ける人間に会えるかもしれない。――覚えておく」


 町への帰り道、三人は夕焼けに染まる平原を歩いた。結晶群の淡い光が背後に遠ざかっていく。


 メルヴィがカイの横に並び、声をひそめた。


「ねえカイ。あの結晶、あの子が近づいたとき、少し明るくなってなかった?」


「……気のせいだろう」


 気のせいではないことは、カイも分かっていた。だが今は、考えたくなかった。リーンが何者なのか。その答えに近づくことが、この先何を意味するのか。


「それと、あの紋章のこと。ルーカスの記憶で見た古い紋章、あたしが聖庁にいた頃にどこかで見た気がするのよ。思い出せないけど……古い文献の中だったかしら」


「思い出したら教えてくれ」


「高くつくわよ」


「借金に上乗せしろ」


「あんたの借金、もう利息だけで家が建つわよ」


 軽口を叩きながら、カイは考えていた。忘れられた町。浄化の真実。記憶の結晶。古い紋章。一つ一つの断片が、まだ形を成さない大きな絵の欠片のように散らばっている。


         * * *


 その夜。宿の屋根の上で、カイは一人で星を眺めていた。


 足音がした。窓から器用に這い出してきたリーンが、屋根の斜面に座った。今日は「待ってろ」とは言わなかった。


「今日、笑ったな」


 リーンは一瞬きょとんとして、それから小さく頷いた。


「……はい。あれが、笑うということでしたか」


「自覚なかったのか」


「口が勝手に動きました。声も、出そうと思って出したのではありません。勝手に、出ました」


「それが笑うってことだ。勝手に出るもんだ」


 リーンは膝を抱え、空を見上げた。花冠はもう落ちてしまったが、髪に黄色い小花の花弁が一片だけ残っていた。


「カイ。あの子たちは、明日にはわたしのことを忘れていますか」


「……たぶん」


「そうですか」


 リーンの声に、悲しみの色はなかった。ただ、事実を確認しただけのような平坦さ。だがカイは思った。半年前のリーンなら、この質問自体をしなかった。


「でも」


 リーンが続けた。


「わたしは、覚えています。あの子たちのこと。花冠のこと。笑ったこと。わたしの中に、残ります」


「……ああ」


「わたしは記憶がありません。でも、今日からの記憶は、あります。これは、幸せなことですか」


 カイは、答えるまでに少し時間がかかった。


「幸せなことだ」


 リーンは頷いた。そして、もう一度、ぎこちなく笑おうとした。昼間のような自然な笑いではなく、意図的に作ろうとした笑顔は少しいびつだった。だがそのいびつさが、カイの胸の奥を温かく締めつけた。


 ――その瞬間。


 頭の中で、声が響いた。


 カイ自身の声ではない。死喰いで吸収した記憶の中の誰かの声。だが誰の記憶かが分からない。四十二人分の記憶が重なり合った深淵の底から、一つの声が浮上してきた。


 低い。掠れている。老人の声でも、若者の声でもない。石碑に刻まれた文字がそのまま音になったような、時代を超えた、途方もなく古い声。


 「――その子に触れるな」


 カイの体が強張った。


 声は続いた。静かに。しかし、骨の髄まで染み込むような確信を持って。


 「全てが終わる」


 リーンが隣で空を見上げている。花弁のついた白い髪が夜風に揺れている。ぎこちない笑顔の余韻が、まだ頬に残っている。


 その穏やかな横顔と、頭の中で響く不吉な警告の落差に、カイは背筋を凍らせた。


 誰の記憶だ。四十人の部下の誰かか。今日読み取ったルーカスか。それとも――もっと古い、自分でも気づいていなかった記憶の残滓か。


 答えは出なかった。


 声は消えた。頭の中が、元通りの喧騒に戻る。四十二人分の記憶のざわめきの中に、あの警告は溶けて消えた。


 だがカイの手は、微かに震えていた。


「カイ? どうしましたか」


 リーンが首を傾げた。紫の瞳が、月明かりの中でカイの顔を覗き込む。


「……何でもない。風が冷えてきた。中に入るぞ」


「はい」


 リーンが窓に向かって這い出す。カイはその背中を見つめた。小さな背中。白い髪。合わない靴。今日初めて声を上げて笑った、空っぽの少女。


 全てが終わる。


 その警告の意味が、カイには分からなかった。分からないことが、何よりも恐ろしかった。


 平原の夜空に、星が無数に散っている。記憶の結晶が放っていた淡い光と、どこか似た冷たい輝き。


 忘れられた町は、静かに眠りについていた。自分たちの名前も、歴史も、失われた魂のことも知らないまま。


 カイは最後に一度だけ空を見上げ、窓の中に消えた。


 頭の中で、あの声の残響が――まだ、消えずにいた。

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