第十二話「忘却の果て」
八日間の旅路の、五日目だった。
大陸を北へ。街道はとうに途絶え、三人は荒野と枯れた森を縫って歩き続けていた。日に日に気温が下がる。吐く息が白くなり、霜を纏った草が靴底で砕ける音がやけに大きく響いた。
空が、おかしかった。
南にいた頃は青かった空が、北に進むにつれて鉛色に沈んでいく。雲ではない。空そのものに膜が張ったように色が濁り、太陽の輪郭がぼやけて昼なのに薄暮のような明るさしかない。
瘴域が近い。
「メルヴィ。瘴域の辺縁まで、あとどのくらいだ」
「帳面の記録と照合すると――もう入ってるわ」
メルヴィが帳面から顔を上げた。翡翠の瞳に警戒の色がある。
「あたしが把握してた辺縁線は三日前の情報よ。それから瘴域が拡大してる。少なくとも十キロ。通常の拡大速度の五倍以上。……異常よ」
「セレンだ。計画を前倒ししてる。北の祭壇で何かを動かし始めた。エルドの記憶にある。祭壇の銘刻が起動すると、周辺の瘴気が活性化する。祭壇を中心に同心円状に――」
言葉が途切れた。カイの口が、勝手に動いていた。
「ヴァルナ・ミーレ・ノクティス・ペルフィキオ――銘刻起動時ニ於ケル瘴気活性化ノ半径ハ、祭壇カラノ距離ノ二乗ニ反比例シ――」
古代アストライン語と、エルドの講義口調が混ざった奇妙な文体だった。カイは歯を食いしばり、口を手で押さえた。
「……またか」
「また、ですね」
リーンが振り返った。紫の瞳に心配の色がある。
「この五日で、頻度が増えています。最初は一日に一回でしたが、昨日は四回。今日はこれで三回目です」
「数えてたのか」
「数えていました」
カイは額を押さえた。頭の中で四十三人分の記憶がざわめいている。瘴域に接近するにつれ、記憶の負荷が増大している。まるで頭の中の記憶たちが、瘴気に感応して共振しているかのように。
自我の輪郭が曖昧になる瞬間がある。ふと気づくと、自分がカイ・ヴェルナーであることを確認しなければならない。その確認作業が、日を追うごとに重くなっている。
「せめて、おかしくなりそうなときは教えなさい」メルヴィが横から口を挟んだ。「あんたが暴走したら止められるのはあたしたちしかいないんだから」
「暴走はしない」
「暴走する人間は全員そう言うのよ」
反論できなかった。二日前の夜、見張り番をしていたとき、気づけば自分の名前がフィンだと思い込んでいた。部下の記憶に引きずり込まれ、焚き火の向こうにカルドラの灰色の霧が見えた。リーンの声で我に返ったが、あと数秒遅ければ完全に自分を見失っていた。
死喰いの限界が、近づいている。
* * *
六日目の朝、景色が一変した。
枯れた森を抜けると、眼前に灰色の荒野が広がっていた。草も木もない。土の色すらくすんで、生命の気配が根こそぎ吸い取られたような大地。風に、甘い腐臭が混じった。
「瘴気だわ。濃度が上がってる」
メルヴィが鼻を覆った。
「ここから先は本格的な瘴域辺縁よ。長時間の滞在は危険」
「リーン。お前は大丈夫か。器の吸収機能が勝手に稼働する可能性がある」
リーンは自分の手を見つめた。白い指先。かつて無意識に瘴気を吸い込んだ指。
「……制御できると思います。前よりも、自分の中の力が分かるようになってきました」
自らの正体を知り、意志を獲得したリーンの言葉には、以前にはなかった落ち着きがあった。器であることを受け入れた上で、自分自身として在ろうとしている。
三人は荒野を進んだ。道中、避難民の集団と何度もすれ違った。家財道具を積んだ荷車。泣きじゃくる子供を抱えた母親。杖をついてよろめく老人。誰もが南を目指している。
ある避難民の男がカイに声をかけた。
「あんたら北に行くのか? やめとけ。村が三つ呑まれた。一晩でだ。住人は自分の名前も、家族の顔も、何もかも覚えてない」
男の目は虚ろだった。恐怖を通り越した、諦めの色。
「世界が終わるんだ。二百年前の大潮が、また来る」
カイは何も答えなかった。男の恐怖は正しい。セレンの計画が成就すれば、第二の大潮が起きる。
だからこそ止めに行く。三人は黙って北へ歩き続けた。
六日目の午後、集落が見えた。
瘴域辺縁の荒野のただ中に、石造りの家々がぽつんと寄り添うように建っている。十数軒の小さな集落。低い石垣に囲まれ、中央に古い井戸がある。荒野の灰色の中で、そこだけが不思議と色を残していた。
門も柵もない。だが集落の入口に、手書きの看板が立ててあった。
――「ここはみんなの家です。忘れても大丈夫。わたしが覚えています」
カイは看板の文字を二度読んだ。
「何だ、これは」
「瘴域辺縁の集落……聖庁の記録にもなかったわ」
集落に足を踏み入れると、人の気配があった。井戸端に老人が三人座っている。石壁の陰で子供が二人遊んでいる。軒先で編み物をしている女性。だが――その全員の目が、穏やかに曖昧だった。リュクセイユの住人たちのような虚ろさではない。もっと柔らかい、霧がかったような眼差し。
「あら、お客さま?」
集落の中央、井戸の傍に立っていた若い女が駆け寄ってきた。蜂蜜色の長い髪を後ろで束ね、汚れた前掛けをつけている。この灰色の荒野にはあまりに不釣り合いな、明るい笑顔だった。
「旅の方ですか? 珍しい! 最近は南に逃げる人ばかりで」
「……あんたは」
「イリス・レーネです。この集落で、まあ、何でも屋みたいなことをしています」
イリスの声も仕草も明るい。だがカイは、その笑顔の奥にある微かな影を見逃さなかった。死喰いで四十三人の人生を吸い上げた男の目は、人間の表情の裏側に敏感だ。
「カイだ。こっちはリーン、あっちはメルヴィ」
「カイさん、リーンさん、メルヴィさん。覚えました」
イリスが三人を集落の中へ案内し始めた、そのとき。
井戸端に座っていた老人の一人が、ふらりと立ち上がった。白髪で背の曲がった老人。目は霧がかっていて焦点が合っていない。だがカイの姿を見た瞬間、その顔に歓喜の色が浮かんだ。
「おお……! トルス! トルスじゃないか!」
老人がよろよろとカイに近づき、両手でカイの腕を掴んだ。
「トルス、帰ってきたんだな! おじいちゃんは信じてたぞ!」
「は?」
「ほら、背が伸びたなあ。お前が出ていったときはまだ膝くらいだったのに」
「いや待て、じいさん。俺はトルスじゃ――」
「何を言っとるんだ。トルスはトルスだろう。おじいちゃんの孫だ。間違いない」
「誰だよトルス!」
カイの叫びが集落に響いた。老人はしがみついたまま満面の笑みで「トルス、トルス」と繰り返している。驚くほどの執念で離さない。記憶を失っても握力だけは健在らしい。
「だから俺はトルスじゃない! カイだ、カイ・ヴェルナー!」
「カイ……? お前のあだ名かい?」
「あだ名じゃねえ! 本名だ!」
メルヴィが後方で肩を震わせていた。帳面で口元を隠しているが、目が完全に笑っている。
「ちょっと、メルヴィ、助けろ」
「無理よ。おじいちゃんの孫への愛情に勝てる力なんて、この世にないわ」
リーンが小首を傾げた。
「カイは、トルスさんに似ているのですか」
「似てない! 絶対に似てない!」
「でも、おじいさんはとても嬉しそうです」
「それとこれとは話が別だ……!」
イリスが慌てて駆け寄り、穏やかに老人の手を取ってカイの腕から引き剥がした。手慣れた動作だった。何度も同じことをしてきた手つき。
「ヨーゼフさん、この方はお客様ですよ。ほら、お昼ごはんの時間ですよ」
「トルス、ご飯を食べたら戻っておいで!」
老人は名残惜しそうにカイに手を振った。カイは疲れた顔で手を振り返した。振り返してしまった自分に舌打ちした。
「……すみません。ヨーゼフさんはお孫さんのトルスを待っているんです。三年前に南の町に出稼ぎに行ったきり。……もうそのことも覚えていません。ただ、孫が帰ってくるという気持ちだけが残っていて。若い男の人を見ると、みんなトルスに見えるんです」
カイは黙った。記憶を失っても、感情の残滓だけが残る。孫を待つ気持ち。それが老人の中の最後の光だ。
「この集落の人たちは、みんなそうなのか」
イリスの笑顔が、一瞬だけ翳った。
「はい。ここは瘴域の辺縁です。少しずつ記憶が薄れていきます。でも、すぐに命に関わるわけではない。ゆっくり、ゆっくり忘れていく。だからみんなここに残っています。他に行く場所もないし」
「あんたの記憶は」
「わたしはまだ大丈夫です。若いからかな。でも、いつかは同じになると思います。それまでは――わたしが覚えていてあげないと」
「覚えている?」
「はい。この人たちが名前を忘れたら、わたしが教えるんです。毎朝、全員のところを回って、『あなたの名前はこうですよ、あなたの家族はこうですよ』って。わたしが覚えている限り、この人たちは自分が誰か分かる。忘れても、もう一度知ることができる」
毎朝、全員に「あなたは誰か」を教え直す。記憶の語り部。忘却の侵食に逆らい続ける、途方もない日常。
「……それを、毎日やってるのか」
「毎日です。三年間」
イリスは笑った。終わりが見えない作業を、それでも続けるしかないと分かっている人間の笑い方だった。
* * *
イリスに空き家を案内された後、リーンがイリスに問いかけた。
「さっきのおじいさん。トルスさんのことを忘れているのに、孫を待つ気持ちは覚えているのですか」
「ええ。記憶は消えていくのに、気持ちだけが残るんです。ヨーゼフさんは孫の名前も顔も思い出せない。でも、『大切な誰かが帰ってくるのを待っている』という気持ちだけは消えない」
「それは……悲しいことですか」
イリスは少し考え、首を横に振った。
「悲しくないと言ったら嘘になります。でも――」
笑顔が変わった。明るいだけではない、もっと深い場所から浮かび上がるような、静かな笑み。
「忘れても、この人たちは笑うんです」
カイの手が止まった。
「朝、わたしが名前を教えに行くと、みんな笑顔で『おはよう』って言うんです。自分の名前を知って、『ああ、そうだった』って笑う。家族のことを教えると、嬉しそうにする。忘れているのに。何もかも忘れているのに、教えてもらえば、もう一度笑える」
イリスは井戸端の老人たちに目を向けた。
「わたしが覚えているから。教えるから。だからこの人たちは、毎朝もう一度、自分自身に出会い直せる」
「だが、お前もいつか忘れる」
カイの声は低かった。イリスの笑顔が一瞬止まった。
「……はい。わたしもいつか、この人たちのことを忘れます」
「それでも続けるのか」
「それでも」
イリスは真っ直ぐにカイを見た。明るい茶色の目に、諦念と――それよりもなお強い何かが光っていた。
「忘れたら、誰かがまた教えてくれるかもしれない。そうやって繋いでいけば、記憶は途切れない。途切れても、もう一度繋げる」
カイの胸の奥で、何かが軋んだ。
忘れることは悲劇だと、カイは思っていた。四十三人分の記憶を抱えて、忘れまいとしてきた。一人も忘れないことが、自分の責任だと。
だがこの女は違う。忘れることを前提にしている。忘れることを否定していない。だが絶望もしていない。忘れても、もう一度教えてもらえばいい。もう一度笑えばいい。
忘れることは終わりじゃない。
その可能性に、カイは殴られたような衝撃を受けた。
「……お前は、強いな」
「え? 全然。毎晩泣いてますよ。枕がびしょびしょです」
「泣いてるのか」
「泣きます。でも朝になったら、また教えに行くんです。泣いてる暇は朝にはないので」
カイは何も言えなかった。五年間、四十三人分の記憶を抱えて歩いてきた男が、この瘴域の辺縁で記憶を守り続ける若い女の前で、言葉を失っていた。
* * *
夕方、イリスが集落を案内してくれた。
二十人余りの住人たちは、それぞれに記憶の失い方が違った。名前だけ忘れた者。家族の顔を忘れた者。言葉の一部を失い、片言でしか話せなくなった者。だが共通していたのは、誰もが穏やかだということだった。
記憶を失った恐怖は最初の段階にしかない、とイリスは言った。忘れ続けると、恐怖すら忘れる。残るのは、もっと根源的な何か。人の温もりへの安心感。食事のおいしさ。日差しの心地よさ。言葉にならない、身体の奥に刻まれた感覚。
「リュクセイユとは違うわね」
メルヴィが小声でカイに言った。あの忘れられた町の住人たちは虚ろだった。だがここの住人たちには、虚ろさの代わりに柔らかさがある。
「語り部がいるかいないかの違いだ。リュクセイユには、イリスがいなかった」
メルヴィは帳面に何かを書き込んだ。情報屋の目で、この現象を記録している。
集落の裏手に、イリスが三人を連れていった。
「見せたいものがあるんです」
石垣の向こう、荒野との境目に、不思議な光景が広がっていた。
灰色の大地の上を、淡い光を放つ苔のような植物が覆っている。蒼白い光。夕闇が深まるにつれてその光は強さを増し、地面一帯がぼんやりと発光しているように見えた。
「何だ……これは」
カイは膝をつき、その植物に顔を近づけた。指先ほどの大きさの葉が密集し、一枚一枚が内側から光を放っている。脈動するように明滅していた。
そして――光の中に、かすかに声が聞こえた。囁き。笑い声。子守唄の断片。
「記憶だ。この植物の中に、記憶がある」
イリスが目を丸くした。
「分かるんですか? わたしたちは『記憶草』って呼んでいるんですけど、正体はずっと分からなくて」
カイの頭の中で、エルドの記憶が共鳴した。
記憶は消えない。形を変えるだけだ。
記憶結晶。リュクセイユで見た、記憶が固体に変化した現象。あれは結晶構造への変換だった。だがこれは植物。記憶が生命の形に変換されている。結晶と苔。形は違うが本質は同じだ。環境条件によって変換先が異なるだけで、記憶が「別の形」に変わるという法則は共通している。
「エルドの仮説が正しいなら……記憶は消えていない。この草の中に、住人たちが失った記憶が生きている」
イリスの目が見開かれた。
「それは……本当ですか」
「確証はない。だがエルド・グラムという学者が三十年かけて磨いた仮説と、この現象が一致している」
「じゃあ……みんなの名前も? ヨーゼフさんのトルスさんのことも?」
「消えてはいないかもしれない」
イリスの目から涙が溢れた。笑顔のまま、涙を流していた。
「それだけで……十分です。消えていないなら」
リーンが静かに記憶草に手を伸ばした。指先が葉に触れる。淡い光が指を包んだ。
「……聞こえます。たくさんの声が。この草の中に、たくさんの記憶がある」
器としての機能が反応していた。だがリーンは吸い込まなかった。触れるだけ。自分の意志で、器の機能を制御していた。
「きれいです。悲しい記憶もあります。でも、きれいです」
メルヴィが帳面に記録を取っていた。
「記憶結晶と合わせて二例目ね。記憶の物質変換。鉱物と植物、二つの異なる形態。……論文一本書けるわ」
「書くのか」
「生きて帰ったらね。情報は金になるの」
カイは記憶草の群れを見下ろした。蒼白い光が荒野の一角を柔らかく照らしている。その光の中に、この集落の住人たちが失った記憶が息づいている。
記憶は消えない。形を変えるだけだ。エルドの言葉が、今この瞬間、目の前の光景と重なった。
* * *
夜、集落の共同の炊事場で夕食を囲んだ。芋と乾燥肉の煮込み。質素だが温かい。
イリスは二十人以上の住人に、一人ずつ声をかけながら食事の世話をしていた。「これはスプーン」「こうやって掬うんですよ」「熱いから気をつけて」。
リーンがその光景を見つめていた。やがて、自分の皿を持って立ち上がった。
「わたしも手伝います」
リーンはイリスの隣に立ち、住人たちの食事の介助を始めた。ぎこちない手つきで老婆のスプーンを口元に運ぶ。合わない靴がかぽ、と鳴る。
「リーンさん、上手ですね」
「全然です。でも……この方が笑ってくれると、嬉しいです」
リーンの紫の瞳に、新しい光があった。共感。他者の笑顔を喜ぶ。器として設計された存在には「不要」だったはずの機能が、リーンの中で確かに芽吹いていた。
「あんた、親の顔してるわよ」メルヴィが横から茶化した。
「してない」
「してるわ。目尻が下がってる」
「下がってない」
「情報屋の目は誤魔化せないわよ」
カイは黙って煮込みを口に運んだ。芋が舌の上で崩れた。温かかった。
カイはリーンを見ていた。旅の始めには空っぽだった少女が、記憶を蓄え、感情を獲得し、今は他者のために動いている。器であることを知った上で、自分の意志で。その変化は小さくて、途方もなく大きかった。
* * *
深夜。カイは眠れずにいた。
四十三人の記憶が渦巻いている。瘴域に近づいたせいで、記憶たちが騒いでいる。
――団長、もう駄目です。
――記憶は消えない。形を変えるだけだ。
――逃げろ。霧が来る。
俺はカイ・ヴェルナー。二十六歳。元忘却騎士団団長。死喰いの呪い持ち。
だが確認するたびに、その輪郭がわずかに薄れていく感覚がある。
不意に、カイの体が動いた。寝台から立ち上がり、外に出ていた。自分の意志ではなかった。
――外は寒い。見張りの兵はどこだ。ここは砦ではない。カルドラではない。
違う。カイは足を止めた。
カルドラで命を落とした部下――第三小隊の隊長マルクの記憶だ。深夜に巡回に出る習慣が、カイの体を動かしていた。
「……マルク。お前の番じゃない。俺の体だ」
声に出して言った。馬鹿げているが、声に出すことで自分を取り戻せる。
だが手が震えていた。今回は気づけた。次は?




