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第十一話「空の器」

 エルドの記憶が、頭の中で溶け残った氷のように軋んでいた。


 砦を離れて半日。三人は山を北に降り、針葉樹の森の中を歩き続けていた。獣道すら途絶えた斜面を足探りで進み、倒木を跨ぎ、苔むした岩を掴んで体を引き上げる。朝の光はまだ稜線の向こう側にあり、森の底は青白い薄明に沈んでいた。


 カイの頭は休まらなかった。


 四十三人分の記憶。その最新の一層であるエルドの研究記録が、脳の中で勝手に展開されては閉じ、また展開される。まるで帳面の頁が風に煽られて捲れるように、断片的な映像と文字と数式が明滅する。カイの意志とは無関係に。


 変換仮説。北の祭壇。石柱に刻まれた銘刻紋の体系。古代アストライン語の文法構造。瘴域の分布図と年代推定。結晶群の成分分析――。


 エルドが六十年の人生で蓄積した学識の残滓が、カイの脳に馴染もうとして暴れている。四十二人分の記憶の上に一人分が加わっただけのはずだが、この一人分の密度が桁違いだった。研究者の記憶は厚い。一つの事象に対して何重にも考察と仮説が折り畳まれている。


「ヴァルナ・ケルトス・エイナ――」


 また口が勝手に動いた。古代アストライン語の学術用語が舌の上に湧いてくる。カイは歯を食いしばって止めた。


「カイ」


 前を歩いていたリーンが振り返った。銀色の髪が薄明の中で青みを帯びている。紫の瞳がカイの顔を真っ直ぐに見ている。


「また、古代語ですか」


「ああ。……まだ馴染んでない。エルドの記憶が暴れてる」


「無理をしないでください」


「無理はしてない。歩きながら整理できる」


 嘘だった。頭が割れそうだった。だがそれを言えば、リーンが心配する。リーンの感情は日に日に豊かになっている。心配、という感情を覚えたのはいつ頃からだったか。


 メルヴィが後方から追いついてきた。帳面を片手に歩きながら銘刻石を操作している。翡翠の目の下に隈がある。彼女も一睡もしていなかった。


「北への最短ルート、組めたわ。ここから西に迂回して谷を抜ければ、大街道に出られる。聖庁の監視網は東に厚いから、西回りなら隙間を縫える。……ただし、山越えが二回。日数は最短で十日」


「十日か」


「急ぐなら八日に圧縮できる。ただし睡眠を削ることになるわ」


「八日でいく」


「あんた、今の時点で睡眠足りてないでしょ。二日くらい寝てないんじゃない?」


「三日だ」


「死ぬわよ」


「死なない。四十三人分の記憶が脳を刺激してるおかげで、意識だけは落ちない」


「それ全然おかげじゃないわよ」


 メルヴィの声には呆れと、隠しきれない心配が混じっていた。裏切りの傷はまだ二人の間にある。だがこの女は、感情と実務を分けて動ける人間だ。今は実務の時間だった。


「……分かったわ。八日で組む。ただし、途中で一回は休息を入れる。非交渉よ」


「好きにしろ」


 メルヴィは帳面に何かを書き込みながら、ちらりとカイの背中を見た。三日間眠れていない男の背中は、傍目にも消耗が滲んでいる。だが口には出さなかった。今のこの距離感では、下手な気遣いは棘になる。


 三人は再び黙って歩き始めた。


         * * *


 最初の休息を取ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。


 森が途切れ、小さな渓流に出た。苔むした岩の間を透明な水が流れ、冬枯れの木々が水面に影を落としている。日差しが雲の切れ間から射して、水面にちらちらと光を散らした。


 三人は渓流の傍に腰を下ろした。メルヴィが携帯食糧を分配し、リーンが水筒に水を汲んだ。カイは岩に背を預け、目を閉じた。


 整理しなければならなかった。エルドの記憶を。


 目を閉じると、記憶の奔流が待ち構えたように押し寄せてくる。六十年分の人生の残滓。その大半は浄化で削り取られた後の断片だが、最も深い場所に隠された核心部分は密度が凄まじい。


 カイは意識を集中し、記憶の層を一つずつ剥がしていった。


 北の祭壇の位置座標。これは既に取り出した。


 変換仮説の最終形。これも。


 古代アストライン語の文法構造。これが暴走の原因だ。言語体系がカイの脳の言語野に干渉し、勝手に発話を引き起こしている。時間が経てば馴染む。死喰いで吸い上げた四十人の記憶も、最初の数日は似たような暴走があった。


 だが――もう一つ、まだ開いていない記憶の塊があった。


 エルドの記憶の最深部。浄化を免れた核心の中に、カイがまだ直視していなかった領域がある。研究ノートの一冊分に相当する密度で圧縮された知識の塊。北の祭壇に関する考察の、さらに奥。


 カイはそこに意識を向けた。


 記憶が、展開された。


         * * *


 ――エルドの研究室。深夜。机の上に古い文献が広げられている。


 文献の表紙には古代アストライン語で題辞が刻まれている。「大いなる器について」。エルドの手が震えていた。この文献を手に入れるまでに七年かかった。瘴域の辺縁にある崩れかけた図書館の地下から発掘した、唯一の現存写本。


 エルドは文献を読んでいる。カイは記憶の中でその視線を追い、エルドが読んだ文章をそのまま追体験する。


 ――「忘却のヴァス・レーテ。それは我々アストラインの最後にして最大の創造物である」


 カイの心臓が跳ねた。


 ――「記憶の大規模操作を実現するため、我々は器を創った。全ての記憶を吸収し、格納し、そして解放する機能を持つ、人の形をした器を」


 文献の文字が、エルドの記憶の中で鮮明に浮かび上がる。古代アストライン語だが、エルドの理解を通してカイにも意味が伝わる。


 ――「器は空であることが本質である。器自身は記憶を持たない。器は記憶を通過させる存在であり、固有の記憶を保持しない設計とした。空であるがゆえに、全てを受け入れることができる」


 ――「器の吸収機能は自律的に稼働する。散逸した記憶の残滓――後世の者が瘴気と呼ぶものもまた、器にとっては吸収の対象となる」


 ――「記憶結晶もまた、器の吸収機能に反応する。結晶に格納された記憶は、器の接触により結晶から解放され、器の中に取り込まれる」


 カイの呼吸が浅くなっていた。


 散逸した記憶の残滓。瘴気。それを自動的に吸収する。記憶結晶にも反応する。


 リーンだ。


 あの路地裏で瘴気を吸い込んだ少女。記憶結晶に触れると結晶が消える少女。記憶が一切なく、カイの死喰いが反応しなかった少女。


 器自身は記憶を持たない。固有の記憶を保持しない設計。


 だから――死喰いが発動する「相手の記憶」がそもそもなかった。


 記憶の奔流が加速する。エルドの記憶の中で、老学者が文献を読み進めている。


 ――「器の最も重要な機能は『解放リセット』である。器に格納された全ての記憶を、一度に大地に還す。解放が行われたとき、器の中の記憶は消滅するのではなく、変換されて大地の銘刻層に沈殿する。これが、記憶の大規模操作の核心である」


 カイの血の気が引いた。


 全ての記憶を一度に大地に還す。変換されて沈殿する。


 それは――忘却の大潮そのものではないか。


 エルドの記憶の中で、老学者も同じ結論に辿り着いている。帳面に震える文字で書き込まれた一行。


 「忘却の大潮は、器が一度『解放』された結果である」


 カイの目が開いた。


 渓流の水音が耳に戻ってきた。冬の日差し。苔むした岩。透明な水。世界は何も変わっていない。だがカイの中で、全てが繋がった。


 リーンは人間ではない。


 古代アストライン文明が創った「忘却のヴァス・レーテ」。全ての記憶を吸収し、格納し、解放する機能を持つ人造存在。


 リーンに死喰いが効かなかったのは、器に「個人の記憶」が存在しなかったから。


 リーンが瘴気を吸収したのは、散逸した記憶の残滓に対して器の吸収機能が自動的に稼働したから。


 リーンが記憶結晶に触れると結晶が消えたのは、器の吸収機能が記憶結晶にも反応するから。


 そして忘却の大潮は、この器が一度「解放」されたことで起きた。


 全部繋がった。旅の初めから散りばめられていた謎の欠片が、一つの図柄に収束した。


 だが――カイの胸を締め付けたのは、知的な充足感ではなかった。


 リーンは人間ではない。


 その事実が、鉛のように重かった。


「カイ?」


 目を開けると、リーンが目の前にいた。膝をついてカイの顔を覗き込んでいる。紫の瞳に不安の色がある。


「顔色が悪いです。エルドさんの記憶の整理は、まだ苦しいですか」


「――ああ。まだ、少し」


 嘘だ。記憶の整理はもう終わった。苦しいのは別の理由だ。


 目の前のこの少女に、何と言えばいい。お前は人間ではない。古代文明が造った器だ。世界を滅ぼした大潮の原因だ。


 言えるわけがなかった。


「水を汲んできます」


 リーンが立ち上がり、渓流に向かって歩いていった。銀色の髪が日差しに透けて、淡い光を纏っている。裸足の足元に冷たい水が触れ、小さく息を吸う仕草。合わない靴は先ほど脱いで岩の上に並べてある。


 その後ろ姿は、どう見ても一人の少女だった。


 人造存在。器。設計された空の容器。


 だがあの少女は笑うことを覚え、悲しむことを覚え、怖がることを覚え、知りたいと願うことを覚えた。この旅の中で、少しずつ。


 設計上は空の容器だが、使い続けることで中身ができた。器の中に、リーンという人格が芽生えた。


 それでも――真実は真実だ。隠し通すことはできない。いや、隠すべきではない。リーンには知る権利がある。自分が何者であるかを。


 問題は、どう伝えるかだ。


 カイは額に手を当てた。四十三人分の記憶がざわめいている。だがそのどの記憶の中にも、こういう場面で正しい言葉を選ぶ手引きは入っていなかった。


「……あんた、何か見つけたわね」


 メルヴィだった。カイの隣に腰を下ろし、帳面を閉じている。翡翠の目が、横からカイの顔を観察していた。


「エルドの記憶の中に、何かあったんでしょう。さっきから顔が死人みたいよ」


「……俺の顔はいつも死人みたいだろ」


「いつもより三割増しよ。情報屋の目を舐めないで」


 カイは黙った。メルヴィは帳面の端を指で叩きながら、少し声を落とした。


「リーンのこと?」


 カイの沈黙が、答えだった。


 メルヴィは渓流で水を汲んでいるリーンの背中に目を向けた。銀色の髪が風に揺れている。


「……そう。やっぱり、あったのね。エルドの研究の中に」


「知ってたのか」


「知らなかった。でも――予感はあった。聖庁にいた頃、閲覧禁止の文献目録に『忘却の器』って項目があったの。中身は見られなかった。大審判官級の閲覧権限が必要な最高機密。でも項目名だけは目に入った」


「忘却の器」


「ヴァス・レーテ。古代アストライン語よ。あたしはそれが何なのか知らなかった。でも今のあんたの顔を見れば、察しはつくわ」


 カイは深く息を吐いた。


「リーンに話す。全部」


「……分かったわ。でもカイ、一つだけ」


 メルヴィが真剣な目でカイを見た。


「あの子は強い。あんたが思ってるより、ずっと」


 カイは何も答えなかった。リーンが渓流から戻ってくるのが見えた。水筒を両手で持ち、慎重な足取りで岩の上を歩いている。


 水筒をカイに差し出す。


「どうぞ。冷たくて、おいしいです」


 紫の瞳が、真っ直ぐにカイを見ている。


 カイは水筒を受け取った。一口飲んだ。確かに冷たく、うまかった。


「……リーン」


「はい」


「話がある。座ってくれ」


 リーンの表情が変わった。カイの声の調子から、何かを察したのだろう。黙って岩に腰を下ろし、姿勢を正した。メルヴィも隣に座り直した。


「……いいえ。その前に、聞かせてください」


 リーンが先に口を開いた。


「砦を出てから、あなたはずっと苦しそうです。古代語が勝手に出てくるだけではないはずです。何かを隠しています。……わたしのことですか」


 カイは目を閉じた。


 この少女は、本当に鋭い。記憶がない分、目の前の相手の変化に対する感受性が異常に高い。カイの些細な声の揺らぎ、視線の逸れ方、呼吸の乱れ。全てを読み取っている。


「全て教えてください」


 リーンの声は静かだった。震えてはいない。だがその奥に、覚悟のようなものがあった。


「わたしは、自分のことを知りたいのです。たとえそれが、良い話でなくても」


         * * *


 カイは話し始めた。


 エルドの記憶の中にあった古代文献のこと。「忘却のヴァス・レーテ」と呼ばれる存在のこと。古代アストライン文明が記憶の大規模操作のために創造した、人の形をした器のこと。


 全ての記憶を吸収し、格納し、そして解放する機能を持つ、人造存在。


 カイの声は、自分でも驚くほど淡々としていた。感情を込めれば壊れそうだったから、事実だけを積み上げた。


「リーンに死喰いが効かなかった理由。器には『個人の記憶』が存在しない。器は記憶を通過させる存在で、固有の記憶を保持しない設計だった。だから俺の死喰いが発動する相手の記憶が、そもそもなかった」


 リーンは黙って聞いていた。表情を変えずに。


「瘴気を吸収したのは、器の吸収機能が自動的に稼働したからだ。瘴気は散逸した記憶の残滓。器にとっては吸収の対象になる」


「記憶結晶に触れると結晶が消えたのも、同じ理由だ。器の吸収機能が記憶結晶にも反応する」


 カイは一度言葉を切った。ここから先が、最も重い部分だった。


「忘却の大潮。二百年前に世界の記憶の大半を奪った大災害。あれは――この器が一度『解放』された結果だった。器の中に格納された全ての記憶が、一度に大地に還された。それが、大潮の正体だ」


 渓流の水音が、やけに大きく聞こえた。


「リーン。お前は――」


 カイの声が詰まった。喉の奥に何かが引っかかって、言葉が出てこない。


 リーンが静かに言った。


「わたしは、その器なのですね」


 カイは頷いた。それが精一杯だった。


 沈黙が降りた。


 長い沈黙だった。渓流の水音。風に揺れる枯れ枝の音。遠くで鳥が一声だけ鳴いて、消えた。


 リーンの紫の瞳は、膝の上に置かれた自分の手を見つめていた。白い指。何度も瘴気を吸い込んだ指。記憶結晶を消した指。


 やがて、唇が動いた。


「私は、人間ではなかったのですね」


 声は震えていなかった。だが、その一言に込められた重みが、カイの胸を打った。


 「わたし」ではなく「私」だった。リーンが自分自身を指すとき、この旅の中で少しずつ柔らかくなってきた「わたし」という呼び方が、この瞬間だけ硬い「私」に戻っていた。


 カイは何を言うべきか分からなかった。慰めの言葉は嘘になる。否定の言葉も出てこない。ただ黙って、リーンの次の言葉を待った。


 リーンはゆっくりと顔を上げた。紫の瞳が、カイを見た。


「つまり私は、とても高性能な器ということですね」


「…………は?」


 カイの思考が一瞬停止した。


「全ての記憶を吸収し、格納し、解放する。古代文明が最高の技術で創造した。これは……かなり優秀な器なのでは、と」


「そういう受け止め方するか!?」


 カイの声が渓流に跳ね返った。


「いや待て。俺は今、お前の正体が人間じゃないって――世界を滅ぼした大災害の原因だって――相当な覚悟で言ったんだぞ。なのに『高性能な器』って自己評価は何だ」


「事実を整理しただけです。カイの報告に基づけば、私は古代文明の最高傑作である可能性が高い。これは客観的に見て、高い評価では」


「客観的にって……お前なあ」


 メルヴィが噴き出した。手で口を押さえているが、肩が震えている。


「あの子、意外と肝が据わってるわね」


「笑い事じゃない!」


「いいじゃない。泣き崩れるより百倍いいわよ」


 カイは頭を抱えた。一世一代の告白(という表現は適切ではないが、心情的にはそれに近い)を、こうもあっさり受け止められると、構えていた側の立つ瀬がない。


 だが――リーンの目を見れば分かった。


 「高性能な器」という軽口の奥に、紫の瞳の底に、確かな揺れがあった。平静を装っているのだ。この少女は、旅の中で覚えた全ての感情を総動員して、今この瞬間を耐えている。


 カイはそれに気づいて、口を閉じた。リーンのやり方を尊重しよう、と思った。


「……まあ、高性能なのは否定しない」


「ありがとうございます」


「褒めてない」


「でも、否定しませんでした」


 リーンの口の端が、かすかに上がった。だが次の瞬間、その微笑みは消え、代わりに何か深い思索の表情が浮かんだ。


「カイ。もう一つ、聞いてもいいですか」


「ああ」


「私の感情は――この旅で覚えた喜びや悲しみや、怖いという気持ちは。それも、器の機能の一部なのですか」


 カイは答えに詰まった。


 エルドの記憶を探る。文献にはこう書かれていた。器は「空であることが本質」であり、「固有の記憶を保持しない設計」だと。だが――感情については何も書かれていなかった。設計者は、器が感情を持つことを想定していなかった。


「違う」


 カイは断言した。


「エルドの文献には、器が感情を持つとは書いていなかった。設計上は空の容器だ。だが――お前は旅の中で自分の記憶を蓄積した。空の容器に、中身ができた。それは設計にない現象だ。つまり、お前の感情は機能じゃない」


 リーンの目が見開かれた。


「お前が怖いと思ったのは、お前自身が怖いと感じたからだ。嬉しいと思ったのも、悲しいと思ったのも、全部お前のものだ。器の設計とは関係ない。旅の中で、お前の中に芽生えたものだ」


 カイの声は、自分でも意外なほど力がこもっていた。


 リーンは何も言わなかった。ただ、カイの顔を見つめていた。紫の瞳の表面に、薄い膜のような光が揺れた。泣いてはいない。だが、泣く一歩手前の、感情の水面が揺れている。


 長い沈黙の後、リーンは口を開いた。


「でも、この旅であなたと過ごした記憶は、私のものです」


 静かな声だった。だがその声には、これまでのリーンにはなかった、明確な力があった。


「器として造られたのかもしれません。人間ではないのかもしれません。二百年前の大潮の原因だったのかもしれません。でも――」


 リーンの手が、自分の胸に触れた。心臓がある場所に。


「ここにある記憶は、わたしのものです。カイに出会ったこと。メルヴィと旅をしたこと。エルドさんの講義を聞いたこと。忘れられた町で蝋燭を灯したこと。怖いと思ったこと。嬉しいと思ったこと。全部、わたしの記憶です」


 カイは動けなかった。


 「わたし」に、戻っていた。硬い「私」ではなく、旅の中で少しずつ柔らかくなった「わたし」。リーンは一度揺らぎ、そして自分の力で戻ってきた。


「誰かに設計されたものではなく、わたし自身が積み重ねたものです。だから――これは、わたしのものです」


 メルヴィが目を伏せた。翡翠の瞳に光るものがあった。情報屋は感情を見せない商売だが、今この瞬間だけは、仮面の下の素顔が覗いていた。


 カイは喉の奥が熱くなるのを感じた。何か言おうとして、言葉が出てこなかった。


 代わりに――小さく、頷いた。


「ああ。お前のものだ」


 たった一言だった。だがそれだけで十分だった。


 リーンの瞳から一滴だけ、涙が零れた。頬を伝い、顎の先から落ちて、岩の上に小さな染みを作った。


 リーンはすぐに手の甲で目を拭い、いつもの静かな表情に戻った。だがその目の奥には、さっきまでなかったものがあった。


 意志。


 自分がどうしたいか。自分が何を守りたいか。それを知っている目だった。


         * * *


 メルヴィが咳払いをした。


「さて、と。感動の場面に水を差すようで悪いけど――情報屋として一つ確認させてちょうだい」


 帳面を開き、ペンを構える。


「古代文明の人造存在って、要するに年齢不詳ってこと? 女の子の年齢聞くのは野暮よね」


「……メルヴィ。今の流れでそれか」


 カイの声に力がなかった。


「大事なことよ。記録は正確じゃなきゃ。あたしの帳面にはリーンの年齢が『推定17〜18歳』って書いてあるんだけど、古代文明製だとすると二百年以上前の製造よね。……やだ、年齢欄どうしよう」


「どうもしなくていい」


「『百歳以上・外見年齢17歳』って書いていい?」


「書くな」


「冗談よ。……半分くらいは」


 リーンが首を傾げた。


「年齢は、重要なのですか」


「女の子にとっては微妙な問題なの。でもあなたの場合、気にしなくていいわ。永遠の十七歳って、ある意味最強よ」


「最強、ですか」


「女の武器よ」


「武器は持っていませんが」


「比喩よ、比喩。――ああもう、この子はこういうところが可愛いのよね」


 メルヴィがリーンの頭をぽんぽんと撫でた。リーンはされるがままだった。ただ、目を閉じた。撫でられることの心地よさを、素直に受け入れているように見えた。


 カイはそのやり取りを見ながら、張り詰めていた胸の奥が、わずかに緩むのを感じた。メルヴィのこういうところは、認めたくはないが助かる。重い空気を砕くのが、この女はうまい。


 だが、緩みは一瞬だった。


 リーンの目が開いた。穏やかさが消え、代わりに鋭い光が灯った。


「カイ。一つ、気づいたことがあります」


「何だ」


「器が一度『解放』された結果が忘却の大潮だった。……器とはわたしのことです。つまりわたしが再び『解放』されれば、第二の大潮が起きるのではないですか」


 カイの背筋が凍った。


 自分でも、既に辿り着いていた結論だった。だがリーンの口から聞くと、その現実味が一気に増した。


「エルドの文献には、解放の条件は詳しく書かれていなかった。だが可能性としては――」


「あります。わたしがここにいる限り、第二の大潮の危険はなくならない」


 リーンの声は平坦だった。だがその平坦さは、感情がないからではなかった。感情を押し殺しているからだった。


「記憶聖庁がわたしを追う理由も、これですね。わたしを確保し、管理下に置くか、あるいは……排除するか」


 セレンの顔が脳裏に浮かんだ。あの冷たい目。ミルドアでリーンを見たときの、一瞬の動揺。セレンは器の存在を知っていた。リーンが器だと気づいた。だからあれほど執拗に追ってきた。


「セレンの計画は『全浄化』だ。リーンの解放機能を使って、全ての記憶を一度リセットする。……それが奴の狙いだ」


 メルヴィが息を呑んだ。


「全浄化って……世界中の記憶を?」


「ああ。忘却の大潮を、もう一度。今度は意図的に」


「正気じゃないわね」


「セレンは正気だ。あの男は常に合理的だ。世界中の記憶を一度白紙にして、聖庁の管理下で再構築する。それがセレンの考える『完全な秩序』だ」


 沈黙が落ちた。渓流の音が、急に遠くなったように感じた。


 リーンが立ち上がった。


「――わたしがいなくなれば、世界は安全なのでは」


 カイの心臓が止まった。


「器であるわたしが存在する限り、第二の大潮の危険は消えません。記憶聖庁もわたしを追い続けます。カイもメルヴィも、わたしのせいで危険に晒され続けます」


 リーンの声は穏やかだった。穏やかすぎた。まるで天気の話をするように、自分の消滅を語っている。


「わたしがいなくなれば――」


「黙れ」


 カイの声は、低く、硬かった。


 リーンの言葉が止まった。紫の瞳がカイを見た。


 カイは立ち上がっていた。いつの間にか。自分でも気づかないうちに足が動いていた。二歩でリーンの前に立ち、真正面から見下ろした。


「二度と言うな。今の言葉は」


「でも――」


「でもじゃない」


 カイの声が震えた。怒りではなかった。いや、怒りもあった。だがそれ以上に、恐怖だった。リーンの口から「いなくなれば」という言葉が出てきた、その事実への恐怖。


「お前を守る。世界を救う方法は他にもあるはずだ」


「根拠は――」


「ない」


 カイは即答した。


「根拠はない。エルドの文献にも解決策は書いてなかった。北の祭壇に答えがあるかも分からない。だが――」


 カイはリーンの目を見た。紫の瞳。旅の最初、瘴域で拾ったときは空っぽだった瞳。今は違う。喜びを知り、悲しみを知り、恐怖を知り、好奇心を知った瞳。そして今、自分の意志で「わたしの記憶はわたしのものだ」と宣言した瞳。


「お前はたった今、自分の記憶は自分のものだと言った。この旅の記憶は自分のものだと言った。なら、それを守れ。自分で守れ。いなくなるなんて選択肢は、お前自身が否定しろ」


 リーンの目が見開かれた。


「お前がいなくなったら、この旅の記憶は誰のものになる。お前が蓄積してきた喜びや悲しみは、どこに行く。お前が自分のものだと言ったものを、お前自身が捨てるのか」


 言葉が止まらなかった。カイ自身、何をこんなに必死になっているのか、よく分からなかった。ただ、許せなかった。リーンがリーン自身を諦めることが。


 四十三人分の記憶がざわめいた。その中に、フィンの声が混じった。


 ――団長、もう駄目です。


 あのときは止められなかった。フィンの頼みを聞き入れた。あれは正しかったのか、間違いだったのか、五年経った今でも答えは出ない。


 だが、今は違う。


 リーンはまだ生きている。リーンにはまだ未来がある。器であろうが人造存在であろうが、この少女は「わたし」を持っている。その「わたし」を守ることが、今のカイにできる最善だ。


「俺はお前を守る。世界が滅ぶかどうかは知らん。だが少なくとも、お前を犠牲にして世界を救う方法は選ばない。それ以外の道を探す。北の祭壇に行って、エルドの研究を完成させて、器を壊さずに大潮を防ぐ方法を見つける」


 カイの声は、もう震えていなかった。宣言だった。誓いだった。


「お前は俺が守る。だから――いなくなるとか、二度と言うな」


 リーンはカイを見上げていた。


 その目から、再び涙が溢れた。さっきの一滴とは違う。今度は止められなかった。次から次へと零れ落ちて、頬を伝い、顎の先から落ちていく。


 だがリーンは泣き顔を隠さなかった。カイの目を真っ直ぐに見たまま、涙を流した。


「……カイ」


「何だ」


「わたしは、いなくなりたくありません」


 その言葉は、リーンが初めて発した明確な「意志」だった。


 誰かに言われたからではなく。状況に流されたからではなく。リーン自身が、自分の意志で、自分の望みを口にした。


 いなくなりたくない。


 この旅を続けたい。この記憶を守りたい。カイの隣にいたい。


 その全てが、たった一言に凝縮されていた。


「わたしは、わたしの記憶と一緒にいたいです。この旅の記憶。カイの記憶。メルヴィの記憶。エルドさんの記憶。全部、手放したくありません」


 リーンの声は涙で濡れていた。だが弱くはなかった。震えてはいたが、芯があった。


「だから――わたしも、一緒に探します。器を壊さずに済む方法を。北の祭壇で」


 カイは目を閉じた。


 胸の奥で、何かが軋んだ。痛かった。だがそれは悪い痛みではなかった。凍りついていた何かが溶ける痛み。五年間、誰も守れなかった男の心に、守るべきものが明確に刻まれた痛み。


「……ああ。一緒に行こう」


 目を開けると、リーンが泣き笑いのような表情で立っていた。涙の跡が頬に光っているが、口元には微かな笑みがある。


 この瞬間、カイとリーンの関係は変わった。


 守る者と守られる者ではなく。保護者と被保護者ではなく。


 同じ目的を持ち、同じ道を歩く、対等なパートナーに。


 メルヴィが帳面を閉じ、立ち上がった。目元を袖で擦っている。


「ちょっと。あたしまで泣かせないでよ。情報屋が泣いたら信用問題だわ」


「泣いてるじゃねえか」


「泣いてない。目にゴミが入っただけよ。両目同時に」


「両目同時にゴミが入る確率を知りたいか」


「知りたくないわ。黙りなさい」


 メルヴィは鼻をすすりながら、リーンの肩に手を置いた。


「リーン。あたしも一緒に行くわ。……借金の回収もあるしね」


「メルヴィ」


「泣いたら負けよ、あたしは。だからこれはゴミ。ゴミなんだから」


 リーンが小さく笑った。声を出して笑うのは珍しかった。


「ゴミが、両目に入ったのですね」


「そうよ。この山は埃っぽいのよ」


 三人の間にあった緊張が、溶けていくのが分かった。真実は重い。だが三人で分ければ、一人分の重さは三分の一になる。


         * * *


 午後の光が傾き始めた頃、カイはエルドの記憶をもう一度整理していた。


 リーンの正体が分かった今、エルドの研究の全体像が違って見える。変換仮説は、器の「解放」機能の学術的な説明だった。記憶は消滅するのではなく変換される。大地の銘刻層に沈殿する。それは器が記憶を「解放」したとき、記憶が消えるのではなく形を変えて大地に還る、ということだ。


 ならば――大地から記憶を還す方法もまた、存在するはずだ。


 エルドの最後の一文が、頭の中で響いている。


 「北の祭壇はその鍵である。記憶の変換が可能なら、還元もまた――」


 結論には至っていない。だが方向は示されている。北の祭壇で、記憶の還元を実現する手段が見つかれば、器を壊す必要はない。大潮の再発を防ぎつつ、失われた記憶を取り戻す道が開ける。


 それがどれほど非現実的な希望か、カイは分かっていた。だが希望がなければ歩けない。ゼロでない可能性に賭けて進むしかない。


 リーンが傍にいた。渓流の傍に膝を抱えて座り、水面を見つめている。その横顔は穏やかだった。さっきまでの激情が嘘のように、静かな表情で流れる水を眺めている。


「カイ」


「何だ」


「人間ではないわたしを、人間のように扱ってくれて、ありがとうございます」


 カイは鼻を鳴らした。


「人間のように、じゃない。お前はお前だ。器だろうが人間だろうが関係ない。俺がメシを食わせて、名前をつけて、一緒に旅をしてきた。それは変わらない」


「はい」


「それに、人間じゃないとか言い始めたら、四十三人分の記憶を抱えてる俺だって十分に人間離れしてる」


「それは……確かにそうですね」


「否定しろよ。そこは」


「事実は事実です」


 リーンの口元に、微かな笑みが浮かんだ。カイはそれを見て、視線を逸らした。


         * * *


 日が落ちかけた頃だった。


 メルヴィが帳面の上の銘刻石を弄っていた手を止め、顔を上げた。翡翠の目が鋭くなっている。


「カイ。通信が入った」


「通信?」


「銘刻通信よ。あたしの受信網に、銘刻信号が飛び込んできた。しかも暗号化なし。発信元は――」


 メルヴィの声が途切れた。銘刻石の表面に浮かび上がった文字を読んでいる。その顔から、血の気が引いていくのが分かった。


「セレンよ」


 カイの全身に緊張が走った。


「セレン・アヴァロスから。……宛先はあんた。カイ・ヴェルナー指名よ」


「読め」


 メルヴィは銘刻石を持ち上げた。青白い光が彼女の顔を照らしている。


「――『北の祭壇で待つ。全てに決着をつけよう』」


 短い文だった。たったそれだけの言葉。だがその一文に、セレン・アヴァロスという男の全てが詰まっていた。


 無駄のない言葉。感情の装飾のない、合理主義者の宣告。


「発信源の位置特定は」


「できない。セレンはそのくらいの対策はしてるわ。でも――暗号化なしで送ってきたのは、あたしたちに傍受させる意図があったってことよ。これは罠じゃない。挑戦状よ」


 カイの顔を、リーンとメルヴィが見ていた。


 北の祭壇。エルドの記憶が示す、全ての答えがある場所。セレンもまた、そこに向かっている。あるいは、既にそこにいる。


「全浄化を止められるのは、北の祭壇だけだ。セレンもそれを知っている。だからそこで待っている。俺たちが来ることも分かっている」


「罠に飛び込むの?」


「罠じゃない。メルヴィ、お前が今言っただろう。これは挑戦状だ。セレンは正面から決着をつけるつもりだ」


「それが罠だって言ってるのよ。セレンは合理的な男でしょう。正面から堂々と戦ってくれるなんて保証はどこにもないわ」


「ああ。だがどのみち行くしかない。北の祭壇は俺たちの目的地でもある。セレンがいようがいまいが、行かなければならない場所だ」


 メルヴィは帳面をぱたんと閉じた。溜息を一つ吐き、肩をすくめた。


「分かってたわよ。聞いてみただけ。……ルートは組んである。八日。あたしの情報網を総動員するわ」


「頼む」


「頼むじゃなくて、お金払って」


「生きて帰ったら」


「また後払い!」


 リーンが立ち上がった。


 合わない靴がかぽ、と鳴った。相変わらず足に合っていない。だがこの音も、旅の記憶の一つだ。リーンが一歩踏み出すたびに鳴る、この間抜けな音。


「行きましょう」


 リーンの声は静かだった。だがそこには、さっきまでなかった芯があった。


「北の祭壇へ。全てに、決着をつけに」


 カイはリーンを見た。


 瘴域で拾った少女。記憶を一切持たない空白の存在。名前すらなかった。カイが古語から取って「リーン」と名づけた。


 あのときの空っぽの紫の瞳は、もうどこにもなかった。


 今のリーンの目には、意志がある。自分がどうしたいか。自分が何を守りたいか。どこに向かうか。その全てを知っている目だった。


「ああ。行くぞ」


 カイは歩き出した。北へ。


 エルドの記憶が頭の中で静かに脈打っている。四十三人分の記憶の重み。その中に、エルドの最後の言葉が響いている。


 記憶は消えない。形を変えるだけだ。


 ならば、リーンの中にある記憶もまた、消えはしない。器であろうと、人造存在であろうと、リーンが蓄積した「わたしの記憶」は、リーンのものだ。誰にも奪わせない。


 三つの影が、夕暮れの森を北に向かって歩いていく。


 先頭はカイ。灰色の髪に夕陽の残光が赤く差している。手袋に包まれた手が、剣の柄を確かめるように触れた。


 隣にリーン。銀色の髪が風になびいている。合わない靴がかぽかぽと鳴る。だがその足取りは、旅の初めとは違う。自分の意志で踏み出す、確かな一歩だった。


 少し後ろにメルヴィ。帳面を小脇に抱え、銘刻石を操作しながら歩いている。翡翠の瞳が、前を歩く二人の背中を見守っている。


 セレンが待っている。北の祭壇で。


 全浄化。世界中の記憶のリセット。二百年前の大潮を再現するという、狂気の計画。


 それを止める。リーンを守りながら。世界を守りながら。器を壊さずに。


 不可能に近い。だが、不可能ではない。エルドが三十年かけて示した方向がある。北の祭壇に答えがある。


 あと八日。


 カイは空を見上げた。茜色から藍色に変わりゆく空の中に、北の方角を指す一番星が灯り始めていた。


「リーン」


「はい」


「さっきの言葉、覚えておけ」


「どの言葉ですか」


「『この旅の記憶は、わたしのもの』。あれだ」


 リーンは少し驚いたような顔をして、それから頷いた。


「はい。覚えています。忘れません」


「ああ。忘れるな。何があっても」


 リーンの紫の瞳が、一番星の光を映して静かに光った。


「忘れません」


 その声は、空の器が発する音ではなかった。


 自分の中身を知り、自分の意志を知り、自分の望みを知った一人の少女の声だった。


 三つの影は、北へ向かって歩き続けた。


 夜が降りてくる。星が一つずつ灯っていく。北の空は暗く、深く、遠い。


 だがその先に、答えがある。


 記憶は消えない。形を変えるだけだ。


 ならば――この旅の全てもまた、形を変えて、いつか光になる。


 北へ。


 全てに、決着をつけるために。

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