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第十話「最後の講義」

 夜明けの谷底で、三人は追手を振り切った。


 水路を抜けた先の沢を下り、獣道を辿って山の東斜面を降りた。足場の悪い岩場を二時間近く歩き続け、ようやく谷の出口に辿り着いた頃には、空は完全に白んでいた。朝の光が山肌を金色に染め、谷間を渡る風は冷たく、吐く息が白く煙る。


 角笛の音は、もう聞こえなかった。


 谷の出口に広がる雑木林の中に身を隠し、三人は初めて足を止めた。カイは樹の幹に背を預け、水筒の水を一口含んだ。全身が痛んでいた。砦からの脱出で擦り傷だらけの両手、水路を這ったときに打ち付けた膝、そして何より――睡眠を削り続けた身体が、限界に近い重さで軋んでいる。


 リーンは地面に座り、合わない靴に巻かれた布を結び直していた。メルヴィは少し離れた場所で帳面を開き、銘刻石を指先で操作している。


 三人の間に、沈黙が横たわっていた。


 昨夜の裏切りの傷はまだ新しい。カイはメルヴィに視線を向けなかった。メルヴィもカイに話しかけなかった。リーンだけが、二人を交互に見ている。


「……動きが掴めたわ」


 メルヴィが声を上げたのは、三十分ほど経った頃だった。銘刻石を帳面の上に置き、走り書きされた文字を読んでいる。


「聖庁の通信網を傍受した。増援部隊は砦の南側の山道に展開してる。東の水路からの脱出は把握されてない。――少なくとも今の時点では」


 カイは枝を折りながら、視線を上げなかった。


「お前の通信網を使って。裏切り者の道具を」


 メルヴィの手が一瞬止まった。だがすぐに動き出した。


「皮肉ね。でも、使えるものは使うしかないでしょう。それが裏切り者の道具だろうと」


「……ああ」


 カイの声は平坦だった。肯定でも否定でもない。ただ事実を受け入れただけの声。


 メルヴィは帳面の情報を読み上げた。


「砦にはナハトの部隊が駐留している。忘却騎士団の精鋭十五名。セレンの増援とは別の、独立した部隊よ。ナハトはセレンの直接の指揮下にない。騎士団は聖庁に協力しているけど、命令系統は別」


 カイの眉が動いた。


 ナハト。あの日、山道で剣を交えた男。「次に会ったら、お前の口からあの日の全てを聞く」と言い残して去った男。


「……ナハトの部隊が砦にいるのか」


「ええ。エルドの護送の警備支援として、忘却騎士団が派遣された形。でもナハトは聖庁の犬じゃない。あんたが一番よく知ってるでしょう」


 知っている。ナハトは寡黙で実直で、言葉の裏に何も隠さない男だ。聖庁の命令で動いてはいるが、個人としての矜持を手放してはいない。


 カイの頭の中で、策が形を成し始めた。


「ナハトに直接会う」


 メルヴィが顔を上げた。リーンも視線を向けた。


「あたしの通信網で、ナハトの巡回ルートは割り出せる。砦の外壁を巡回する時間帯がある。セレンの兵とは別行動の、騎士団だけの巡回。そこを狙えば――」


「一対一で話ができる」


「ええ。ただし――」


 メルヴィが言いかけた言葉を、カイが遮った。


「信じていいのか。お前のその情報を」


 二度目だった。同じ問い。昨夜、水路の入口を教えられたときと同じ問い。


 メルヴィは帳面を閉じ、カイの目を真っ直ぐに見た。泣き腫らした跡が残る目。だがその奥に、情報屋の冷静さが戻っている。


「信じなくていい。でもこれは、あたし自身の判断で取った情報よ。セレンから渡されたものじゃない。あたしが聖庁の通信網に侵入して、自分の目で確認した。……これくらいしか、今のあたしにできることはないから」


 カイは数秒間、メルヴィを見つめた。それから視線を外し、立ち上がった。


「……使う。お前の情報を」


 それだけだった。許したわけではない。だが、必要なものは使う。エルドを助けるためなら。


 メルヴィは小さく頷いた。その目に一瞬だけ何かが過ぎったが、カイはもう見ていなかった。


         * * *


 日が傾く頃、三人は砦の北東にある岩場に陣取っていた。


 メルヴィの情報によれば、ナハトの部隊は日没後に砦の外壁を巡回する。ナハト自身が先頭を歩き、部下を分散配置した後、東側の見張り塔で単独の巡回を行う時間帯がある。その時間は約二十分。


 カイはその二十分に賭けることにした。


「一人で行く。リーン、メルヴィ、ここで待ってろ」


「カイ」


 リーンが立ち上がりかけた。紫の瞳に、微かな不安が揺れている。


「ナハトさんは、あなたの味方ですか」


「分からない。だが――話が通じる相手だ。少なくとも、俺の話を聞く男だ」


 リーンは数秒間カイの顔を見つめた後、静かに座り直した。


「気をつけてください」


「ああ」


 メルヴィがカイの背に声を投げた。


「大丈夫。あんたは口下手だけど、誠意だけは無駄にあるから」


 カイの足が止まった。


「……それは励ましてるのか、貶してるのか」


「両方よ」


「どっちかにしろ」


「口下手は事実。誠意があるのも事実。事実の組み合わせに褒貶はないわ」


 カイは額を押さえた。メルヴィ節は相変わらずだった。裏切りが発覚した翌日だというのに、この女の口は変わらない。だが――その変わらなさに、かすかに救われている自分がいることを、カイは認めたくなかった。


 岩場を離れ、砦の東側に向かって斜面を登った。


         * * *


 日が落ちた。


 砦の東側外壁に沿って、一つの人影が歩いていた。漆黒の短髪。白い軍装の上に黒い外套。二振りの剣を腰に帯びた、忘却騎士団副団長。


 カイは岩陰から姿を現した。


 剣は帯びている。だが抜かなかった。両手を広げ、敵意のない姿勢を示した。


 ナハトの足が止まった。


 闇の中で、二つの視線が交差した。


「……来たか」


 ナハトの声は低かった。驚きはなかった。まるで、いつか来ることを知っていたように。


「約束通りだ、ナハト。――話に来た」


「約束した覚えはない」


「お前が言ったんだ。『次に会ったら、あの日の全てを聞く』と」


 ナハトの目が細まった。あの山道での言葉を、カイは覚えていた。ナハトもまた、忘れてはいなかった。


「……全てを聞くと言った。だが今、お前は聖庁の追跡対象だ。お前と話しているところを見られれば、俺は――」


「知ってる。だから二十分で終わらせる。お前の巡回の空白時間だ」


 ナハトの眉が動いた。巡回時間を正確に把握していることへの、警戒と感心が入り混じった表情。


「……いいだろう。話せ」


 二人は外壁の死角になる岩陰に移動した。砦の銘刻灯の光は届かず、星明かりだけが二人の顔を照らしている。


 カイは深く息を吸った。


「カルドラの話をする。全部じゃない。だが、前に話せなかった部分を」


「フィンのことか」


 カイの心臓が跳ねた。ナハトは最初から、核心を突いてくる。


「……ああ。フィンのことだ」


 闇の中で、カイの声が静かに響いた。


「あの日、瘴域の深部で部下たちが暴走した。記憶を失い、互いを敵と認識して斬り合った。俺は一人ずつ――止めた。三十九人を」


「それは前に聞いた。フィンは最後だった、と。――だが、お前はフィンが暴走していたかどうかを言わなかった」


 カイは目を閉じた。


 五年前の瘴気の中。灰色の霧。剣を振り続けた腕の痛み。血に濡れた手。そして――最後に残った、金色の髪の少年。


「フィンは――暴走していなかった」


 ナハトの呼吸が止まった。


「最後の一人になったとき、フィンの目にはまだ正気があった。周りの全員が暴走する中で、あいつだけが――自分を保っていた。なぜかは分からない。年が若かったからか。記憶の総量が少なかったからか。理由は、今も分からない」


 カイの声が震えた。五年間、この部分だけは誰にも話せなかった。


「フィンは俺に言った。『団長、もう駄目です。僕の中にも入ってきています。あと少しで、僕も――』。あいつは自分が暴走する前に、自分で分かっていた。正気を保ちながら、正気を失いかけている自分を自覚していた」


 星明かりの下で、ナハトの拳が白く握り締められていた。


「フィンは――俺に頼んだ。『暴走する前に、お願いします』と」


 沈黙が降りた。山の風が二人の間を吹き抜けた。


「……俺は、正気のままの部下を、本人の頼みで斬った。四十人目は――殺しじゃない。頼まれた、んだ」


 カイの声が途切れた。最後の一語がうまく出てこなかった。喉の奥が痺れている。


 ナハトは長い間、何も言わなかった。砦の壁を背に立ち、空を見上げていた。星が散っている。あの日も星は出ていたのだろうか。いや、瘴域の深部に星はない。灰色の霧だけが空を埋め尽くしていた。


「……それを」


 ナハトの声は掠れていた。


「五年間、一人で抱えていたのか」


「報告書には書けない。『部下が自ら死を望んだ』とは」


「書けるわけがない」


 ナハトの目が揺れた。山道で剣を交えたときと同じ、憎悪と崇敬が渦巻く目。だがその中に、今夜は別のものがあった。痛み。カイの五年間の沈黙の重さを、今初めて理解した者の痛み。


「カイ。――お前を恨んでいた」


「知っている」


「仲間を殺した男を恨んでいた。同時に、一人で帰ってきた男を憎めなかった。その矛盾が五年間、ずっと胸の中にあった」


 ナハトは壁から背を離し、カイに向き直った。


「だが今、分かった。お前は仲間を殺したんじゃない。仲間の最後の頼みを聞いたんだ」


「美化するな。結果は同じだ。俺がこの手で斬った。それは変わらない」


「変わらない。だが、意味が違う」


 ナハトの目が定まった。迷いが消えていくのが、闇の中でも分かった。


「……エルドを助けに来たのか」


 カイは答えなかった。だが沈黙そのものが答えだった。


「砦の拘置区画は地下二階だ。階段は二つ。セレンは今夜、砦を離れている。増援の指揮のために南側の山道に出ている」


 カイの目が見開かれた。ナハトがそれを教えるということは――。


「ナハト。お前、それは――」


「俺は何も教えていない」


 ナハトの声は硬かった。副団長の声。命令系統の中にいる男の声。


「俺は巡回中に異常を発見しなかった。東側の外壁に不審者はいなかった。それだけだ」


 沈黙が落ちた。カイはナハトの目を見た。実直で寡黙で、嘘のつけない男の目。その男が今、嘘をつこうとしている。カイのために。


「……恩に着る」


「恩じゃない。借りを返しているだけだ」


「何の借りだ」


「あの日、お前の隣にいられなかった借りだ」


 カイは何も言えなかった。ナハトの言葉は、いつも急所を突く。


「行け。二十分の空白は、あと八分だ」


 カイは頷き、岩陰から身を起こした。砦の外壁に沿って、東側の通用口に向かう。


「カイ」


 背後からナハトの声が追いかけてきた。


「あの日の全て、を聞くと言った。今日聞いたのは――一部だ」


「ああ」


「残りは、また聞く。――逃げるなよ」


 二度目の同じ言葉。カイは振り返らずに答えた。


「逃げない」


 今度は、約束だった。


         * * *


 ナハトの情報通り、東側の通用口は施錠されていなかった。


 カイは一人で砦に侵入した。リーンとメルヴィは岩場で待機させている。今回は潜入だけだ。戦闘は避ける。セレンが不在の今がおそらく唯一の機会だった。


 石の廊下を進み、階段を二つ降りた。地下二階。拘置区画。


 銘刻灯の青白い光が、冷たく通路を照らしていた。石壁の両側に鉄格子の独房が並んでいる。聖庁兵の姿はない。ナハトが巡回を調整したのか、それとも単にセレン不在の夜間は警備が薄いのか。どちらにせよ、今は好機だった。


 独房を一つずつ確認した。空。空。空。四つ目の独房の前で、カイの足が止まった。


 そこにいたのは、エルド・グラムだった。


 ――いや。エルド・グラムだった、と言うべきか。


 老学者は独房の奥の石の寝台に横たわっていた。白い髪は乱れ、拘束具は外されている。衣服は清潔で、傷の跡もない。暴力的な扱いを受けた形跡はなかった。


 だが、その目が――。


 開いている。天井を見つめている。だが何も映していなかった。


 あの鋭い眼光が消えていた。遺跡で帳面を広げ、三十年分の知識を燃え上がらせていたあの目が。リーンの問いに嬉しそうに笑ったあの目が。セレンの尋問に一歩も引かなかったあの目が。


 空洞だった。


 カイは鉄格子に手をかけた。錠前は――開いている。もう閉じ込めておく必要がないと判断されたのだ。中身を抜き取った器に、鍵は要らない。


 格子を開け、中に入った。


「エルド」


 声をかけた。反応はなかった。


「エルド。俺だ。カイだ」


 老学者の目が、ゆっくりとカイの方を向いた。だが焦点が合っていない。カイの顔を見ているのに、カイを認識していない。


「……だれ、かね」


 掠れた声だった。穏やかだった頃の温度を残した、しかし中身のない声。


「カイ・ヴェルナーだ。ミルドアの遺跡で会った。あんたの研究を聞いた。記憶の変換仮説。覚えてるか」


「記憶の……変換……」


 エルドの唇が動いた。だが言葉は形にならなかった。空を掴むように指が動き、すぐに力なく落ちた。


 カイの胸が軋んだ。


 これが浄化だ。記憶聖庁の「浄化」。暴力ではない。血も流れない。叫び声も上がらない。ただ静かに、人間の中身を抜き取っていく。三十年分の研究。六十年分の人生。友人の顔。研究への情熱。朝のコーヒーの味。論文を書き上げたときの達成感。全てが、きれいに、丁寧に、削ぎ落とされている。


 残ったのは、「エルド・グラム」という器だけだった。


 カイは膝をつき、エルドの手を取ろうとした。だが手袋越しの手が触れる前に、エルドの指が動いた。


「……まって」


 エルドの声が、わずかに変わった。空洞の底から、何かが浮かび上がってくるような声。


「きみは……カイ、くん。カイ……くん……」


 カイの心臓が止まりかけた。


 カイ君。エルドはミルドアでカイを「カイ」としか呼ばなかった。「君」呼びはしていたが、「カイ君」と親しみを込めた呼び方はしていなかった。浄化された記憶の大半の中から、この一つだけが――カイの名前だけが、最後に残っていた。


「覚えて……るか、ね。私は……何を、研究して……」


「覚えてる。全部覚えてる」


 カイの声が震えた。


「記憶は消えない。形を変えるだけだ。――あんたの言葉だ、エルド」


 老学者の目に、光が灯った。一瞬だけ。蝋燭の最後の揺らめきのような、微かだが確かな光。


「そう、だ。そう……だった。私は……あれを、残さなければ……」


 エルドの手が伸びた。震える手が、カイの手を掴んだ。手袋越しではない。カイの手袋を避けるように、袖口から覗いた手首を。


 その瞬間、カイは理解した。


 エルドは知っている。カイの死喰いの力を。手に触れれば記憶が流れ込むことを。浄化された頭の中に、その知識だけが――最後の手段として残されていた。


「エルド。あんた、まさか――」


「頼む……カイ君。私の……残りの全部を。受け取って……くれ」


 エルドの手が、カイの素肌を握った。


 死喰いではなかった。エルドは死んでいない。心臓は動いているし、息もしている。通常なら、死喰いは発動しない。


 だが――記憶が流れてきた。


 エルドの意志だった。浄化で大半を奪われた中から、最後に残った記憶の欠片を、自らの意志でカイに押し流している。これは呪いの発動ではない。譲渡だ。一人の老学者が、命懸けで守り抜いた最後の研究成果を、信頼する若者に託す行為。


 世界が、白く弾けた。


         * * *


 記憶の奔流が、カイの頭の中に流れ込んだ。


 四十三人分の記憶がざわめく中に、新しい水脈が切り込んでくる。色が違った。死喰いで吸い上げた記憶は冷たく重い。だがエルドの記憶は温かかった。自ら差し出された記憶には、託す者の体温が残っている。


 カイは目を閉じ、奔流に身を委ねた。


  ――若い男が、石造りの講堂で講義を受けている。


 二十代のエルド・グラム。痩せた青年。だが目だけが異様に鋭い。教授の板書を写すのではなく、板書の間違いを探している。ノートの余白に自分の仮説を書き殴っている。学友たちが呆れた顔をしている。


 場面が変わる。


 ――研究室。深夜。エルドは机に向かっている。三十代。白髪がちらほらと混じり始めた頭。周囲に積み上げられた書物と帳面。窓の外は夜で、室内には銘刻灯の光だけがある。だが彼の目は輝いている。手元の帳面に、「記憶変換仮説・第一稿」と書かれている。


 場面が飛ぶ。


 ――記憶聖庁の会議室。エルドが壇上に立ち、居並ぶ聖庁の高官たちの前で論文を読み上げている。「記憶は消滅するのではなく、変換される」。高官たちの顔が硬くなる。一人が立ち上がり、「異端だ」と叫ぶ。


 追放。


 エルドは研究室を追われた。翌日、研究室に火が放たれた。三十年分の蔵書と資料が灰になった。だがエルドの帳面は無事だった。胸に抱いて逃げたからだ。


 場面が変わる。


 ――放浪の日々。エルドは大陸の各地を歩いた。遺跡を巡り、石柱の銘刻を読み、瘴域の辺縁部で結晶を採取した。四十代。五十代。六十代。季節が巡り、年月が積み重なる。だが帳面を広げる手は止まらなかった。


 孤独だった。三十年間、エルドの研究を信じる者は誰もいなかった。「記憶は消えない」と言えば笑われ、「変換される」と言えば狂人扱いされた。だがエルドは書き続けた。仮説を磨き、証拠を集め、帳面を新しくしては古いものを積み上げた。


 ある夜、野営の焚き火の前で、エルドは空を見上げた。星が降りそうなほど近い、山の上の夜空。


 ――誰も信じてくれなくてもいい。真実は真実だ。私が見つけなければ、この仮説は永遠に闇に埋もれる。だから、歩き続ける。


 その記憶の温度が、カイの胸に沁みた。四十三人分の記憶を抱えて歩き続けるカイと、三十年の真実を抱えて歩き続けたエルド。二人の孤独は、形は違うが根は同じだった。


 場面が変わる。


 ――エルドの記憶の中に、一枚の古い肖像画があった。


 遺跡の奥、崩れかけた壁に掛けられた肖像画。エルドがある日の調査で発見したものだ。朽ちかけた額縁の中に、一人の若い男が描かれている。


 聡明な目をしていた。深い知性と、静かな悲しみを湛えた目。整った顔立ち。銘刻術師の古い衣装を纏い、胸元に交差する麦穂と円環の紋章。手には一冊の書物を抱えている。


 カイの意識がその顔に引っかかった。


 どこかで見たような顔だ。いや、見たことがある。だがどこで。記憶を探るが、答えが出てこない。四十三人分の記憶が渦巻く頭の中では、一つの顔を特定するのは針山から一本の針を探すようなものだ。


 肖像画の下に、古代語で銘が刻まれていた。エルドの記憶の中で、老学者がそれを読んでいる。


 ――「アストラインの最後の銘刻術師。大いなる罪を背負いし者」


 エルドはこの肖像画に特別な関心を払っていた。帳面に精密な模写を描き、銘文を写し取っている。この人物が禁忌銘刻に関わった術者ではないか、という仮説の根拠として。


 場面がさらに変わる。


 ――北の映像。


 エルドの記憶の中で、最も強い光を放つ映像だった。


 極北の氷原。白い大地が地平の果てまで広がり、空は藍色に澄んでいる。その氷原の中央に、古代の祭壇が立っていた。


 巨大だった。高さは十数メートルはあるだろう。白い石を積み上げた八角形の台座の上に、銘刻紋が全面に刻まれた石柱が林立している。石柱は七本。それぞれが異なる銘刻を帯び、中央に向かって微かに傾いている。


 そして祭壇の周囲に――記憶の結晶が群生していた。


 半透明の結晶が、氷原の雪の中から突き出している。大小さまざま。大きいものは人の背丈ほど。小さいものは拳ほど。全てが淡い光を帯び、脈動するように明滅している。結晶の中に声があるのが分かった。囁き。泣き声。笑い声。何千、何万という記憶の断片が、結晶の中で生き続けている。


 エルドはこの場所を訪れたことはなかった。だが古い文献と遺跡の銘刻を照合し、この祭壇の存在と位置を突き止めていた。記憶の中にあるのは、エルドが帳面の上に再構成した「推定図」だ。だがその推定図は、三十年の研究の集大成として、恐ろしく精密だった。


 北の祭壇。忘却の大潮の震源。エルドが「全ての答えがある場所」と呼んだ場所。


 その位置座標が、エルドの記憶の中に刻まれていた。


 場面が最後に変わる。


 ――エルドの仮説の最終形。


 帳面の最後の頁に、エルドが書き残した言葉。


 「記憶は消えない。形を変えて大地に還る。ならば、大地から記憶を還す方法もまた、存在するはずだ。北の祭壇はその鍵である。記憶の変換が可能なら、還元もまた――」


 文章はそこで途切れていた。エルドが拘束される前に書いた、最後の一文。結論には至っていない。だが方向は示されている。


 記憶の奔流が、収束していった。


         * * *


 カイは独房の石床に膝をついていた。額から汗が滴り、呼吸が荒い。頭の中が嵐のように渦巻いている。四十三人分の記憶の上に、エルドの六十年の人生が薄い層のように重なった。一人分の人格として独立するほどの量はない。浄化で大半が削ぎ落とされた後の残滓だ。だがその残滓の中に、三十年の研究の核心が凝縮されていた。


 エルドは賢い男だった。浄化されると分かっていて、最も重要な部分だけを意識の奥底に隠した。聖庁の浄化術は表層から削っていく。最も深い場所に埋めた記憶は最後まで残る。エルドはそれを知っていて、研究の核心を――北の祭壇の位置と、変換仮説の最終形を、意識の最深部に押し込んだのだ。


 命がけで守り抜いた、最後の研究成果。


 それが今、カイの中にある。


 カイはエルドの手を見下ろした。老人の手はまだカイの手首を握っていた。だが力が抜けていく。指が緩み、ゆっくりと離れていく。


 エルドの目が、再びカイを見た。


 今度は――光があった。最後の一滴の光。蝋燭の炎が消える直前の、一瞬だけ明るくなるあの光。


「カイ君」


 エルドの声は穏やかだった。あのミルドアの遺跡で初めて会ったときと同じ、石壁に染みた雨水がゆっくり滴るような、急がない声。


「私の記憶を……忘れないでくれるかね」


 カイの視界が滲んだ。熱い何かが目の奥から込み上げてきた。


 四十三人分の記憶を抱えて五年間歩いてきた。他人の記憶で溺れそうになりながら、一人も忘れまいとしてきた。部下たちの名前を、声を、笑顔を、夢を。全て覚えている。忘れるものか。忘れてたまるか。


 この老学者もまた、同じだ。三十年間、真実を一人で抱えて歩いた。誰にも信じてもらえなくても、書き続けた。火に焼かれても、帳面を胸に抱いて逃げた。記憶が浄化されても、最後の一欠片を意識の底に守り抜いた。


 この人の記憶を忘れるなど、あり得ない。


「……忘れるものか」


 カイの声は震えていた。頬を伝うものを拭う余裕もなかった。


 エルドの顔に、微笑みが浮かんだ。静かな、穏やかな、三十年分の孤独が報われたような微笑み。


「ありがとう。――良い生徒だ、カイ君」


 その言葉を最後に、エルドの目から光が消えた。


 死んではいない。心臓は動いている。呼吸もある。だが目はもう何も映していなかった。記憶の全てを託し終えた器が、静かに空になった。


 記憶の死。


 肉体は生きている。だがエルド・グラムという人間は、もういない。


 カイは膝をついたまま、老学者の手を握り続けた。冷たくなっていく手。脈はある。だが温もりは失われつつある。


 涙が石の床に落ちた。


 四十三人分の記憶を抱えてきた男が、四十三人目の記憶の重みに、静かに泣いていた。


         * * *


 砦を出たのは、深夜だった。


 カイは来た道を辿り、東側の通用口から外に出た。ナハトの部隊との接触はなかった。闇の中を岩場まで歩き、リーンとメルヴィが待つ場所に戻った。


 二人の顔を見た瞬間、メルヴィが息を呑んだ。


「カイ。あんた、目が――」


「エルドに会った。……遅かった。浄化されていた」


 リーンが立ち上がった。紫の瞳が大きく見開かれている。


「エルドさんは」


「生きている。だが記憶がない。全て浄化された。……最後の一欠片だけを、俺に託してくれた」


 リーンの表情が変わった。唇が震え、眉が歪み、目が潤んだ。泣いてはいない。だが泣く寸前の、感情の淵に立っている顔だった。


「エルドさんの……研究は」


「ここにある」


 カイは自分の頭を指差した。


「全部、俺の中にある。北の祭壇の位置も、変換仮説の結論も、あの人が三十年かけて磨き上げた全てが」


 リーンは何も言わなかった。ただ、カイの顔を真っ直ぐに見つめ、小さく頷いた。その頷きに、言葉にならない何かが詰まっていた。


 メルヴィが水筒を差し出した。カイは受け取り、一口飲んだ。冷たい水が喉を通る。


 そのとき――異変が起きた。


 カイの口が、勝手に動いた。


「ヴァルナ・ケルトス・エイナ・ミーレ。アストラ・ノーヴァ・レーテ・フォルマ――」


 流暢な古代語だった。カイの知らない言語。だが口は止まらない。エルドの記憶の中にあった古代アストライン語の学術文献が、カイの舌を借りて勝手に再生されている。


「ミーレ・ヴァルナ・ケルトス・アラートゥス・ペルフィキオ――」


 カイは自分の口を手で押さえた。


「何語だ今の!?」


 メルヴィが目を丸くしていた。リーンも同様だった。


「あんた、古代アストライン語を喋ってるわよ。流暢に」


「知るか! 俺は古代語なんか一言も知らない!」


「でも今、完璧な文法で喋ってたわ。発音も正確だったわよ。まるで母語みたいに」


 カイは頭を抱えた。エルドの記憶が馴染む前に、学術知識が勝手に溢れ出している。六十年分の研究者人生の中に蓄積された膨大な学識が、カイの脳の中で暴れている。


「……エルドの記憶が、まだ整理できてない。時間が要る。勝手に口が動くのは――四十三人のときもあった。しばらく続くかもしれない」


「カイ」


 リーンが静かに言った。


「エルドさんの言葉が、あなたの口から出てくるのなら。……エルドさんは、まだここにいるということですか」


 カイは答えに詰まった。


「……分からない。だが、記憶は消えない。エルドはそう言った。形を変えるだけだ、と」


「はい」


 リーンはそれ以上何も言わなかった。だが目を閉じ、小さく何かを呟いた。エルドの名前を呼んでいるように見えた。


         * * *


 三人は夜の山を降りた。


 砦から十分に距離を取った場所で、短い休息を取った。焚き火は焚かない。追手の目を避けるため、岩陰に身を寄せて体を休めた。


 カイは目を閉じ、エルドの記憶を整理し始めた。四十三人分の記憶の上に、新たに加わった一人分。だがこれは死喰いで吸い上げた記憶とは質が違った。託された記憶は温かい。重いが、冷たくない。


 エルドの人生が、頭の中で静かに再生されている。若き日の情熱。論文が認められたときの喜び。追放の日の屈辱。放浪の中で見つけた結晶の輝き。そして最後の微笑み。


 カイ君。私の記憶を、忘れないでくれるかね。


 忘れない。忘れるものか。


 カイは目を開けた。夜空に星が散っている。その中に、北の空に一際明るい星がある。


「北の祭壇の位置が分かった」


 声に出した。メルヴィとリーンが顔を上げた。


「エルドの記憶の中にあった。大陸最北端。氷原の中央。古代の祭壇と、その周囲に群生する記憶の結晶。――エルドが三十年かけて突き止めた場所だ」


「それが、次の目的地?」


 メルヴィの声には疲労が滲んでいたが、情報屋の目が光っていた。


「ああ。エルドは北の果てに答えがあると言った。ゼロも北と言った。二つの情報源が同じ方角を指していた。そして今、エルドの記憶が正確な位置を教えてくれた」


 カイは目を閉じた。記憶の中の映像を、意識の表面に引き上げる。


 極北の氷原。白い大地。藍色の空。八角形の台座。七本の石柱。そして無数の記憶結晶。


「氷原の中央に、古代の祭壇がある。七本の石柱が立ち、周囲に記憶の結晶が群生している。エルドの仮説では、そこが忘却の大潮の『震源』だ。大潮を引き起こした禁忌銘刻が行われた場所」


「遠いわね」


「遠い。だが行く」


 リーンが空を見上げた。紫の瞳に星が映っている。


「カイ。エルドさんの研究を、あなたが受け継いだのなら」


「ああ」


「わたしも行きます。エルドさんの問いの答えを、見つけに」


 カイは頷いた。


 エルドの記憶の中で、あの肖像画の顔がちらつく。聡明な目。銘刻術師の衣装。どこかで見たような顔。答えは出ない。だが、いつか思い出す予感がある。記憶は消えない。形を変えて残る。ならば、この引っかかりもまた、いつか答えに辿り着く。


 メルヴィが帳面を閉じ、立ち上がった。


「北に行くなら、ルートを組まなきゃ。氷原までの最短経路、補給地点、聖庁の監視網の隙間。……全部、あたしが調べるわ」


 カイはメルヴィを見た。裏切りの傷は、まだ塞がっていない。だがこの女は、自分にできることをやろうとしている。罪悪感を胸に抱えたまま、それでも前に進もうとしている。


「……頼む」


 一言だった。許したわけではない。だがその一言の中に、昨日よりもわずかに柔らかいものが混じっていたことに、メルヴィは気づいていた。翡翠の瞳が一瞬だけ潤み、すぐに目を伏せた。


「任せなさい。――借金に情報料を上乗せするけど」


「好きにしろ」


 リーンが静かに立ち上がった。合わない靴がかぽ、と鳴った。


「カイ。エルドさんの最後の言葉を、もう一度聞かせてください」


「……『私の記憶を、忘れないでくれるかね』」


 リーンは目を閉じた。数秒間の沈黙の後、ゆっくりと目を開けた。紫の瞳は濡れていなかった。だがその奥に、深い何かがあった。


「わたしも、忘れません。エルドさんの声。エルドさんの笑顔。変換仮説の図式。石柱の銘刻の話。全部、覚えています」


 記憶のない少女が、覚えていると言った。それが、この旅で得た数少ない宝物の一つだった。


 夜明けが近づいていた。東の空が薄い紫色に染まり始めている。


 カイは北を向いた。エルドの記憶が頭の中で静かに脈打っている。三十年分の研究。一人の老学者が命がけで守り抜いた真実。その重さが、四十三人分の記憶の上に、温かい層として加わった。


 四十三人目の記憶。


 正確には死喰いではない。だがカイの中に入った記憶として、同じ重さがある。いや――託された記憶は、奪った記憶よりもなお重い。信頼の重みが加算されているから。


 北の祭壇。記憶の結晶が林立する氷原。忘却の大潮の震源。


 目的地が、初めて明確になった。


「行くぞ」


 カイは歩き出した。


「北へ。――エルドの研究を、完成させに」


 東の空に、朝の最初の光が射した。山の稜線が金色に燃え、夜の闇が後退していく。


 三つの影が、北に向かって歩き始めた。


 カイの頭の中で、エルドの記憶が静かに響いている。あの穏やかな声。石壁に染みた雨水がゆっくり滴るような、急がない声。


 記憶は消えない。形を変えるだけだ。


 ならば、この記憶もまた――形を変えて、いつか誰かの中で花になる。


 北の空に、一つの星がまだ消えずに残っていた。明けの明星。夜と朝の狭間で最後まで輝き続ける星。


 エルド・グラムの最後の講義は、終わった。


 だがその講義の内容は、一人の男の記憶の中で、これからも続いていく。

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