第一話「死を喰らう男」
死体に触れた瞬間、世界が弾けた。
視界が白く灼け、鼓膜の奥で嵐が吠える。カイ・ヴェルナーの意識は肉体を離れ、他人の人生という名の濁流に呑まれた。
――花畑。陽光に透ける麦穂の海。少女がこちらを振り返り、はにかんで笑う。
「ねえ、あなたの名前は?」
胸が甘く軋む。ああ、これは恋だ。誰かの、初恋だ。
――産声。血と汗にまみれた指先で、小さな命を抱き上げる。こんなに小さいのに、こんなにも重い。涙が止まらない。
「よく来たな、この世界に」
この声は自分のものではない。自分のものであるはずがないのに、歓喜が胸を裂くほどに溢れる。
――瘴気。灰色の霧が集落を呑み込んでいく。妻の手を引いて走る。子供を背に負って走る。逃げても逃げても霧は追いかけてくる。
家を失い、畑を失い、名前を失った者たちの列に加わる。食うために剣を取った。生きるために人を殺した。
いつしか賞金首になっていた。それでも――夜、子供の寝顔を見るたびに、まだ人間でいられると思った。
――そして、最期。暗い路地。背中に走る冷たい痛み。ああ、やられた。振り返ると、若い男が剣を構えている。
皮肉げな顔をした、灰色の髪の――死んだ目をした男。あの目には何の感慨もない。
家族を奪われた痛みも、人を殺す重みも、何もかもすり減らした後の、空洞のような目の男。
俺だ。
カイは奥歯を噛み砕くほど食いしばり、両膝をついた。
石畳に突いた手の下で、まだ温かい死体が横たわっている。賞金首グレン・マーシュ。強盗、殺人、略奪――罪状は山のように積まれていた。しかし、たった今カイの中に流れ込んできた記憶が語る男の人生は、罪状の羅列とはまるで違う色をしていた。
瘴域に故郷を呑まれた、一人の父親の物語だった。
「――くそ」
カイは震える指で死体から手を離し、立ち上がった。路地裏の薄闇の中、自分の呼吸だけが荒い。額に浮いた脂汗を手の甲で拭い、崩れそうになる膝を意志の力だけで伸ばす。
死喰い。
五年前に受けた、この忌まわしい呪い。死者に触れれば、その者の全記憶が強制的に流れ込む。制御は不能。拒否も不能。殺した相手の人生を、一秒の残りなく追体験させられる。
四十二人目。カイは心の中でそう数えた。忘却騎士団の仲間四十人に加え、賞金稼ぎとして仕留めた者たちの分。
「……また一人分、重くなった」
呟いて、空を見上げる。瘴域の辺縁にある町ラクリマの空は、いつも薄い灰色の膜が張ったように曇っている。太陽の輪郭すらぼやけて見えない。この大陸の空は年々くすんでいく。忘却の瘴気が、少しずつ世界を蝕んでいるのだ。
カイは外套の内ポケットに折り畳んだ手配書を仕舞い、死体を路地の奥に引きずった。ギルドに報告すれば検死官が回収に来る。この町にはまだ、その程度の秩序は残っている。
「悪いな」
もう聞こえるはずのない相手に、カイは呟いた。
グレン・マーシュの人生が、まだ頭の中で残響している。子供の笑い声が。妻の温もりが。賞金首に身を落としてなお家族を守ろうとした男の、最後の祈りが。
カイはそれを振り払うように首を振り、路地を出た。
ラクリマは、瘴域の辺縁にしがみつくようにして存在する小さな町だ。瘴域が拡大するたびに住人が減り、今では酒場と宿屋と賞金稼ぎギルドの出張所だけが辛うじて機能している。石畳の隙間からは枯れた雑草が伸び、どこからか錆びた看板が風に軋む音がする。空気には瘴気の甘い腐臭と、酒場から漂う安酒の匂いが混じっていた。
ギルドの出張所は酒場の二階にある。階段を上がると、受付の老人が新聞を広げたまま居眠りしていた。
「おい、じいさん。グレン・マーシュ、仕留めた。路地裏の三番通りに転がしてある」
「……ん?ああ、カイか。早いな。報酬は……ちょっと待て、書類を――」
「後でいい。先に次の依頼をくれ」
立ち止まると、死者の記憶が追いかけてくる。だから走り続ける。カイ・ヴェルナーの日常とは、そういうものだった。
「ちょうどいいのが一件ある」
老人は引き出しから依頼書を取り出した。
「瘴域の境界付近で行方不明者の捜索だ。報酬はまあまあ。ただし、境界線の向こう側に入り込んでる可能性がある。やるか?」
「やる」
瘴域――忘却の瘴気に侵された不毛地帯。踏み入った者は記憶を失い、最終的には存在そのものが世界から忘れ去られる。普通の人間なら近づくことすら躊躇うが、すでに四十人分の他人の記憶を抱えているカイにとっては今さらだった。
――その夜、カイは夢を見た。
何度も見る、同じ夢だ。
灰色の霧の中を走っている。剣を握る手が震えている。周囲に散らばるのは、かつての仲間たちの体。暴走し、もはや人間の意識を失った彼らを、カイ自身の手で斬り伏せた。
そして最後に、一人の少年が立っている。
金色の髪。怯えた瞳。しかしその瞳には、まだ正気の光が灯っている。
「団長――」
少年の声が、霧の中で震える。
フィン。
その名前を呼ぼうとした瞬間、夢が砕けた。
カイは宿屋のベッドの上で跳ね起き、荒い息を吐いた。寝汗で下着が肌に張り付いている。窓の外はまだ暗い。
「……くそ。また、か」
五年間、この夢から逃れられたことは一度もない。四十人の死んだ部下たちの記憶は、昼は死喰いとして、夜は悪夢としてカイを苛む。
特に――フィンの記憶だけは、他のどの死者よりも鮮明に、カイの中で燃え続けていた。
あの日、カルドラの瘴域で何があったのか。カイはそれを誰にも語らない。語れるはずもない。
水差しの水で顔を洗い、眠ることを諦めて装備を整えた。どうせ眠れないなら、早朝から依頼に取りかかるほうがましだ。
夜明け前のラクリマを歩き、町の外れへ向かう。瘴域の境界線は町から半刻ほどの距離にある。年々近づいている。あと数年もすれば、この町も呑まれるだろう。
荒野を歩くにつれ、空気が変わった。鼻の奥に甘い腐敗のような匂いが混じり始める。これが瘴気だ。視界の端が霞み、遠くの景色が水に溶けた絵の具のように歪む。
瘴域の境界線。灰色の霧が地面から立ち上り、壁のように行く手を塞いでいる。行方不明者の足跡が、その向こうに消えていた。
「好き好んで入るやつの気が知れないが……」
自分のことは棚に上げて呟き、カイは霧の中に踏み込んだ。
瘴気が肌にまとわりつく。頭の奥がぼんやりと重くなる。集中力を保たなければ、些細な記憶から順に削られていく。昨日の朝食。三日前に見た景色。一週間前の会話。
十分ほど進んだところで、カイは足を止めた。
霧の中に、白い影があった。
うつ伏せに倒れている。小柄な体。長い銀色の髪が、灰色の地面に扇のように広がっている。ぼろぼろの白い衣服。裸足。
少女だった。
「おい」
カイは警戒しながら近づいた。瘴域の中で倒れている人間。普通なら、すでに記憶を失い、廃人化しているはずだ。下手に触れれば瘴気の感染を受ける可能性もある。
だが――この少女からは、瘴気の気配がしなかった。
瘴域のただ中にいるのに、少女の周囲だけ、わずかに空気が澄んでいる。
カイは屈み込み、少女の肩に手を伸ばした。
その瞬間。
――何も、起きなかった。
カイの指が少女の肌に触れた。温もりがある。生きている。死者ではない。それはいい。だが問題はそこではなかった。
死喰いが、発動しなかった。
生きている人間に触れても死喰いは発動しない。それは当然だ。だが、カイの呪いは「死者」だけでなく、「記憶を持つ者」に対しても微かな反応を示すのが常だった。生者に触れたときも、相手の記憶の「輪郭」がうっすらと感じられる。まるで指先で水面を撫でるように、そこに記憶という水が満ちていることだけは分かる。
この少女からは、それすらなかった。
水面どころか、器そのものが空だった。
記憶が、一切ない。
「……何だ、これは」
少女がうっすらと目を開けた。淡い紫色の瞳が、焦点の定まらない眼差しでカイを見上げる。
「あなたは、誰ですか」
掠れた声。感情の色が、一切ない。
「カイ・ヴェルナー。賞金稼ぎだ。お前は?名前は」
「名前」
少女は瞬きをした。その仕草すら、どこか機械的だった。
「分かりません」
「分からない?思い出せないのか」
「思い出す、というのが分かりません。私には、何も――何もないのです」
少女はゆっくりと上体を起こした。銀色の髪が肩から滑り落ちる。華奢な体は見たところ十七、八歳。だが、その瞳は空だった。恐怖も、不安も、安堵もない。何もかもが欠落している。
記憶がないのではない。記憶が、存在しない。
瘴域で記憶を失った者――「記憶なき者」と呼ばれる人々を、カイは何人も見てきた。彼らには共通して、記憶を失ったことへの恐怖や混乱がある。
この少女にはそれがない。苦しんですらいない。まるで最初から何も持っていなかったかのように、ただ静かにそこにいる。
「立てるか」
「分かりません」
「試せ」
少女はカイの手を取り、立ち上がった。足元がおぼつかないが、支えれば歩けそうだ。
「ここにいたら死ぬ。瘴域の中だ。一旦、町まで戻る」
「町」
「ああ。人が住んでる場所だ。……一応聞くが、自分がなぜここにいたか、分かるか?」
「いいえ」
少女の声は平坦だった。自分がなぜ瘴域の中で倒れていたかも分からない。それを不思議に思う感情すらない。
カイは内心で舌打ちした。行方不明者の捜索で来たのに、見つけたのは正体不明の少女だ。
しかし――死喰いが反応しなかった。五年間、触れる者すべてに呪いが反応してきた。この少女が、初めての例外だった。
それが何を意味するのか、今は分からない。だが、放っておくわけにもいかない。
「歩けるな。ついて来い」
「はい」
瘴域を抜けてラクリマに戻るまで、少女はほとんど口を開かなかった。「分かりません」か「はい」か「いいえ」。会話をする気がないのではなく、会話の仕方を知らないかのようだった。
町の入り口に差し掛かったとき、カイはふと気づいた。
「……そういえば、報酬」
足が止まった。
グレン・マーシュの報酬。ギルドの受付で「後でいい」と言って、次の依頼だけ受け取って出てきた。受領手続きをしていない。捜索依頼のほうも対象を発見できていないから報酬は出ない。代わりに拾ってきたのは、身元不明の少女一人。
カイは天を仰いだ。灰色の空が、やけに広く感じた。
「……俺は何をやっているんだ」
「何をやっているか分からないのは、私も同じです」
振り返ると、少女が無表情のまま立っていた。
「……お前、今のは慰めか?」
「慰め、というのが何か分かりません」
本気で分かっていない顔だった。カイは深く溜息をついた。
宿屋に少女を連れ帰り、食事を与えた。少女は出されたパンとスープを黙々と口に運んだ。美味い不味いの反応もない。生存に必要な機能として食べている、というだけの動作だった。
「食ったら少し休め。お前をどうするかは、その間に考える」
「どうする、とは」
「しかるべき場所に預けるってことだ。記憶がないなら、レーテの子らの保護施設がある。記憶聖庁が――」
そこまで言いかけて、カイは口を閉じた。
記憶聖庁。人々の記憶を「保護」する名目で管理する宗教的権威機関。その傘下にある忘却騎士団は、かつてカイが団長を務めていた組織だ。五年前、四十人の部下を死なせ、追放された。
「記憶聖庁は……やめておこう」
カイは窓の外に目をやった。少女を預ける先を考えなければならない。だが今のカイに頼れる伝手は少ない。
――と、そのとき。
窓の外で、馬蹄の音が響いた。一頭や二頭ではない。整然とした蹄鉄の音。軍隊の行進だ。
カイは窓に寄り、通りを見下ろした。
白い軍装。胸に刻まれた銀の紋章――交差する剣と、それを覆う霧の意匠。
忘却騎士団。
「嘘だろ……」
十騎ほどの部隊が町の中央広場に乗り入れ、整列する。先頭の騎馬から降りたのは、漆黒の髪を短く刈り込んだ青年だった。鋭い目つき。引き締まった体躯。白い軍装の上に黒い外套を羽織り、腰には二振りの剣を佩いている。
カイの体が強張った。
ナハト・クロイツ。忘却騎士団の現副団長。そして――かつてのカイの部下だった男。
「全棟捜索。対象は銀髪の少女、年齢推定十七から十八。瘴域からの脱出者の可能性あり。発見次第、確保せよ」
ナハトの声が、窓越しにはっきりと聞こえた。
銀髪の少女。
カイの視線が、ベッドに座っている少女に向いた。少女は変わらず無表情で、窓の外の騒ぎにも無関心だ。
「――まずい」
偶然ではない。この少女を、忘却騎士団が探している。副団長自らが辺境まで出張ってくるほどの重要度で。
考える時間はなかった。階下で扉が叩かれる音がした。騎士団が宿屋の捜索を始めている。
「立て」
カイは少女の腕を掴んで立たせた。
「走れるか?」
「分かりません」
「分からなくても走れ」
窓を開け、外壁の雨樋に手をかける。二階からの脱出は慣れている。賞金稼ぎの日常には、こういう場面が少なくない。
「おい、背中に掴まれ」
少女を背負い、雨樋を伝って裏通りに降りた。着地の衝撃が膝に走る。四十二人分の記憶の重みが、確実にカイの体を蝕んでいる。
裏通りを走る。ラクリマの路地は入り組んでいるが、賞金首を追ううちに裏道の構造は把握していた。
「痛いです」
背中から、平坦な声が降ってきた。
「……は?」
「あなたの背中。骨が当たって、痛いです」
「それは俺が痩せてるって意味か」
「走り方も下手です。上下に揺れすぎます」
「文句があるなら自分で走れ」
「走れるか分かりません、と言いました」
「じゃあ黙ってろ!」
なぜこんな状況で辛辣な評価を受けなければならないのか。記憶がなくて感情も乏しいくせに、口だけは達者らしい。
角を曲がったところで、カイは足を止めた。
目の前に、黒い外套の影が立っていた。
ナハト・クロイツ。
正面から、冷たい眼光がカイを射抜く。
「……久しぶりだな、カイ・ヴェルナー」
その声には、五年分の怒りと、それ以上の複雑な感情が滲んでいた。
「ナハト」
「その少女を渡せ。記憶聖庁の命令だ」
「断る、と言ったら?」
「裏切り者に選択肢はない」
裏切り者。その言葉が、カイの胸に錆びた釘のように刺さった。
ナハトはカルドラ事変のとき、負傷のため出撃できなかった唯一の不参加者だ。生き残ったことへの罪悪感。死んだ仲間への思慕。そして、全員を殺して一人だけ帰ってきたカイへの――憎悪と、認めたくない崇敬。ナハトの瞳の奥に、そのすべてが渦巻いているのが見えた。
「あの日の仲間たちの名誉のためにも、お前を見逃すわけにはいかない」
ナハトが剣の柄に手をかけた。
カイは少女を背中から降ろし、背後に庇うように立った。
「この少女が何者か、お前は知っているのか」
「知る必要はない。記憶聖庁が確保を命じている。それだけだ」
「中身も分からず命令に従うのか。――お前、昔からそういうところは変わらないな」
挑発だった。ナハトの目が鋭くなる。
「黙れ。お前に昔を語る資格はない」
ナハトが剣を抜いた。白銀の刃が薄暗い路地に冷たい光を走らせる。
カイも腰の剣に手をかけた。戦闘銘刻――記憶を対価にする戦闘魔法は使いたくない。何を失うか分からない。前に一度、銘刻を使った後で三日分の記憶がごっそり抜け落ちた。消えた記憶が何だったのか、それすら思い出せない。あの底なしの喪失感だけは、二度と味わいたくなかった。剣術だけで、しのぐ。
ナハトが踏み込んだ。速い。五年前よりも遥かに。カイが騎士団を去った後も、ナハトは研鑽を怠らなかったのだろう。
初撃を辛うじて受け流す。火花が散り、金属の悲鳴が路地に反響した。続く二撃目、三撃目。ナハトの剣筋は正確で無駄がない。教科書的と言ってもいい。それはカイが教えた型だった。
皮肉なものだ、と思う。自分が教えた剣術で殺されかけるとは。
四撃目。カイは受けずに後退し、間合いを開けた。
「お前のことだから腕は鈍ってないかと思ったが」
ナハトが冷たく言った。だが一瞬、その剣先がわずかに揺らいだ。何かを言いかけて飲み込んだように唇が動き、視線がカイの左腕の傷に落ちた。それは一瞬のことで、すぐに冷たい仮面が戻る。
「期待外れだな。五年の放浪で、腑抜けたか」
「腑抜けてないと面倒だろ。お前が」
カイは剣を低く構え直した。問題は体力だ。死喰いの呪いは肉体も蝕む。全盛期なら相手にもならなかったが、今は違う。
再びナハトが迫る。今度は型を崩した変則の斬撃。カイが教えなかった技だ。
刃が外套を掠める。浅い切傷が左腕に走った。
「く――」
体勢を立て直す間もなく、次の斬撃が来る。カイは壁を蹴って横に跳び、距離を取った。
膠着状態に陥りかけたそのとき――。
背後で、異変が起きた。
少女が、立ち上がっていた。
いつの間にか路地の壁に背をつけて座り込んでいた少女が、ゆっくりと歩み出ている。その足元で、灰色の霧がうごめいていた。
瘴気だ。
町の中にまで瘴気が滲み出している。瘴域の境界線が、また少し動いたのか。
少女が、その瘴気の中に手を伸ばした。
カイは叫ぼうとした。やめろ、瘴気に触れるな――。
だが、起きたことは、カイの予測とはまるで違った。
瘴気が、少女に吸い込まれていった。
灰色の霧が少女の指先に集まり、掌に吸収され、消えていく。花が水を吸い上げるように、自然に、穏やかに。少女の銀色の髪が微かに揺れ、淡い光が一瞬だけ瞳に灯った。
――そしてカイは見た。
瘴気が消えていくその直後、少女の手が淡く光った。指先から掌へ、淡い燐光がさざ波のように走り、手首まで昇って、すぐに消えた。それは記憶銘刻魔法の光とも、瘴気の残滓とも違う、カイがこれまで一度も見たことのない光だった。
息が、止まった。
膝の裏が震えている。戦闘の緊張とは違う、もっと根源的な畏れだ。カイは四十二人分の死者の記憶を抱えてきた。瘴域に何度も足を踏み入れてきた。それでも――今この瞬間、背筋を這い上がる感覚は、そのどれとも似ていなかった。
路地を覆っていた瘴気が、嘘のように晴れた。
空気が澄み、視界がくっきりと戻る。残されたのは、しん、と張り詰めた静寂だけだった。風が止み、町の喧騒すら遠ざかったかのように、路地裏が別の世界になっていた。
ナハトの動きが止まっていた。剣を握る手が痙攣するように震え、半歩、後ずさっている。騎士団の副団長として、瘴域に関する知識は誰よりも豊富なはずだ。その彼が、目の前の現象を理解できず、凍りついている。
「……何だ、今のは」
ナハトの声は掠れていた。カイは答えなかった。答えられなかった。
瘴気を吸収した。この銀髪の少女が。忘却の瘴気を、自分の中に取り込んだ。
それは、この世界の誰にもできないはずのことだった。
ナハトの注意が少女に向いた一瞬を、カイは逃さなかった。
彼女を抱え上げ、路地の奥へ走る。背後でナハトの怒声が響くが、カイは振り返らなかった。
入り組んだ路地を駆け、屋根伝いに跳び、市場の雑踏に紛れ、町の反対側にある廃屋に滑り込んだ。
息を切らせて壁に背をつける。腕の中の銀髪の少女は、相変わらず気の抜けた視線をカイに向けている。
「……お前、さっきの。瘴気を吸い込んだだろう。あれは何だ」
「分かりません」
「分かりませんじゃない。お前、自分が何をしたか分かってるのか。瘴気だぞ。触れただけで記憶が削られる、あの瘴気を――」
「手を出したら、なくなりました」
彼女は首を傾げた。不思議そうにすらしていない。ただ起きたことを報告しているだけだ。
カイは額に手を当てた。
記憶が一切ない。死喰いが反応しない。瘴気を吸収する。忘却騎士団が全力で探している。――そして、あの光。瘴気を吸収した直後、彼女の手に走った、見たことのない燐光。
何一つ、まともな説明がつかない。
しかし一つだけ確かなことがある。この少女を記憶聖庁に引き渡してはならない。論理的な根拠はない。だが、カイの中の何かが――四十人分の死者の記憶が、あるいは自身の直感が、警鐘を鳴らしている。
「……面倒なことになった」
カイは溜息をつき、廃屋の天井を見上げた。
それから、あることに気づいて顔を顰めた。
「……あ」
「どうしましたか」
「報酬。グレン・マーシュの報酬、受け取ってない。ギルドに戻れねえ」
逃走した今、ラクリマには戻れない。ナハトが町を封鎖しているだろう。つまり、賞金首を仕留めた報酬は手に入らない。
カイは二度目の天仰ぎをした。今度は灰色の空すら恨めしい。
「一文無しで、身元不明の少女を抱えて、忘却騎士団に追われる逃亡生活。――最悪だ」
「最悪、というのは、良くない状態のことですか」
「ああ。とびきり良くない状態のことだ」
「では、今あなたが最悪なのですね」
「……自覚はある」
夕暮れが近づいていた。廃屋の隙間から差し込む光が赤みを帯び始める。
ここに長居はできない。夜のうちに町を出て、次の町を目指す。彼女をどうするかは、その道中で考えるしかない。
カイは立ち上がり、装備を確認した。剣、短刀、携帯食糧少々、水袋。金はほぼない。
「行くぞ」
「どこへ」
「分からん。とりあえず、ここじゃないどこかへ」
「あなたも、分からないことが多いのですね」
「……うるさい」
廃屋を出る直前、カイはふと足を止めた。
夕陽の残光の中、銀髪の少女がこちらを見ていた。銀色の髪が赤く染まり、淡い紫の瞳に茜色の光が映り込んでいる。
空っぽの瞳。なのに、不思議な存在感がある。記憶も感情もない器のはずなのに、そこに確かに「誰か」がいる。
カイは目を逸らした。
だが、脳裏にこびりついて離れない光景がある。あの路地裏で、瘴気を吸い終えた直後の彼女の手。指先から掌へ、淡い燐光がさざ波のように走った、あの一瞬。ナハトは気づかなかっただろう。彼女自身も気づいていないかもしれない。だが、カイの目は確かに捉えていた。
あれは何だったのか。あの光は、何を意味しているのか。
灰色の空の下、元騎士団長の賞金稼ぎと、記憶を持たない少女の逃避行が、こうして始まった。
ラクリマの町を出る頃には、空はすっかり暗くなっていた。振り返れば、町の灯りがぽつぽつと瘴気の中に滲んでいる。
カイは前を向き、歩き出した。
背中には四十二人分の記憶の重み。傍らには、記憶を一つも持たない少女。
記憶を喰らう者と、忘却の少女。二人の旅路は、まだ始まったばかりだった。
――不意に、前を歩く彼女の手が夕闇の中でちらりと見えた。白い指先。あの燐光が宿った、細い手。
カイは小さく呟いた。
「――こいつ、何者だ」
答える者はいない。薄闇の中、少女の銀髪だけが、微かに揺れていた。
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