没設定の騎士様は、私の筆を狂わせる。
『きゃああああああああああああああ、ぎゃああああ、やめてえええ』
視界が、真っ赤だった。
比喩ではない。網膜を焼くような、彩度を極限まで上げたどろりとした紅。
「……あ、これ。私が指定した『返り血のテクスチャ』だ」
意識が浮上した瞬間、私の口から出たのは、そんなあまりにも職業病じみた呟きだった。
石造りの冷たい壁。鉄格子の隙間から差し込む、計算され尽くした陰鬱な月光。
状況を把握するのに、三秒もかからなかった。
私は、自分がメインシナリオを担当した乙女ゲーム『聖女の祈りと銀の断罪』の世界に、こともあろうに悪役令嬢エリュシオンとして転生してしまったらしい。
そして、もっとも最悪なことに。
「エリュシオン・ローゼンタール。……何か言い残すことはあるか」
目の前に、彼がいた。
漆黒の甲冑に身を包み、夜の色を溶かし込んだような瞳で私を見下ろす騎士。
カシアン。私の最推しであり、そして――このゲームで一番「ひどい設定」を押し付けた犠牲者。
(うわ……本物だ。かっこいい。鎖骨のライン、イラストレーターさんに三回リテイク出した甲斐があったわ……じゃなくて!)
私はガタガタと震える膝を押さえ、壁の隙間に見える時計塔を確認した。針は夜の四時を指している。 このゲームの「悪役令嬢処刑イベント」は、明日の正午。つまり、私の首が物理的に胴体とおさらばするまで、あと二十時間しかない。
「……あの、カシアン様。質問していいかしら」
「黙れ、罪人。貴様に話しかけられる覚えはない」
冷たい。低音ボイスが鼓膜に響く。
ああ、声優さんもイメージ通りだ。最高。……でも、今は死ぬほど怖い!
「その、私が明日死ぬのは確定として。処刑台のギロチンって、まさか私が……いえ、閣下が特注した『黒鉄の処刑刃』を使うんですか?」
「そうだ。貴公の家柄に敬意を表し、この国で最も重厚で、最も切れ味の鋭い刃が用意された」
終わった。
あれは私が「悪役令嬢の最期なんだから、とにかく重々しくて絶望感のあるデザインにして!」と、設定資料集に三ページも割いて細部を書き込んだこだわりの一品だ。切れ味は抜群。
首が飛ぶ瞬間に「ガコン!」と重低音が響くギミック付き。
自分で自分を殺す舞台装置を完璧に作り込みすぎていた。
(どうする私……。このままじゃ、二十時間後には私が書いた『最高の悲劇』のヒロイン(物理)になっちゃう。でも、カシアンを救うルートは、私がプロットの段階でボツにしたはず……!)
カシアンは、実は敵国の王子だ。けれど、この本編ルートではその設定は明かされないまま、彼はただの「人殺しの道具」として使い潰されて死ぬ。私がそう書いたから。
「……カシアン。あなた、左の胸元に、酷い火傷の痕があるでしょう?」
「!? ……なぜ、それを」
カシアンの瞳に、初めて鋭い動揺が走った。よし。フラグはまだ死んでない。
「知っているわ。だって、その傷を付けたのは――」
私なんだから。……設定上で。二十時間のカウントダウンを背中に感じながら、冷や汗まみれで「修正」のチャンスを伺った。
「……なぜ、それを知っている」
カシアンの手に力が入り、革手袋がぎりりと音を立てた。
当然だ。彼の左胸にある火傷の痕は、かつて滅ぼされた彼の祖国の「王の紋章」を焼き消した跡。
このルートでは、彼は誰にもその過去を明かさず、ただの無口な処刑人として一生を終えるはずだったのだから。
「知っているわ。だって、あなたの本当の名前は――」
私は一瞬、言葉を飲み込んだ。
「……カシアン・ド・ヴァルデール。かつて『銀の盾』と謳われた国の、忘れられた王子でしょう?」
牢獄に静寂が落ちた。カシアンの瞳が、驚愕と、それ以上の殺意に染まる。 彼にしてみれば、死にゆく悪役令嬢が自分の最大の弱みを握っているのだ。今すぐここで首を絞められても文句は言えない。
「……誰から聞いた。王子か? それとも、聖女か?」
「誰でもないわ。強いて言うなら、この世界の『神様』から聞いたのよ」
半分は本当だ。私が書いたんだから。 私は震える足で立ち上がり、鉄格子越しに彼を見つめた。
「カシアン。あなたをここで終わらせたくないの。私と一緒に、この最悪なシナリオをぶち壊さない?」
「……狂ったか。貴様は明日、死ぬ。俺の手で」
「いいえ、死なないわ。だってこの牢獄、『バグ』があるもの」
私は振り返り、独房の隅、湿気で苔むした壁の前に立った。
制作中、納期直前のデバッグ作業があまりに面倒で、私はこの牢屋から王宮のテラスへ一気に飛べる「隠しコマンド代わりの抜け穴」を消し忘れていたのだ。
「いい? 今からやることに驚かないでね」
私は、壁の三番目のレンガを右から二回、左から一回、最後に思い切り拳で叩いた。
――ゴゴゴ、と地響きが鳴る。
「……何ッ!?」
カシアンが目を見開く。石壁が不自然にスライドし、暗い通路が姿を現した。
「よしっ、残ってた! 開発チームのみんな、消し忘れをありがとう……!」
「エリュシオン、貴様、一体何を……!」
「説明は後! あと十五時間で、王子の寝室にある『裏切りの証拠』を盗み出さなきゃいけないの。カシアン、あなたも来て。あなたを『ただの道具』として使い捨てるプロットを、私がここで書き換えてあげる!」
カシアンは戸惑っていた。しかし、私が差し出した手――冷酷な令嬢だったはずの私が、必死に、震えながら伸ばしたその手を見て、彼は吸い寄せられるように鉄格子の鍵を開けた。
「……もし貴様が嘘を吐いているなら、その場で斬る」
「ええ、いいわよ。その代わり、もし本当だったら――私の『専属騎士』になってもらうからね!」
私は彼の腕を掴み、暗い隠し通路へと飛び込んだ。
「エリュシオン、足元に気をつけろ。ここは……妙に天井が低い」
「ごめんなさい! 当時、背景グラフィックの容量を削るために通路を極限まで狭く設定しちゃったのよ!」
カシアンに手を引かれ、私たちはネズミ一匹通らないはずの暗闇を突き進んだ。
普通の人間なら迷うはずの迷宮。けれど、私の頭の中には「ミニマップ」が展開されている。
右に曲がればトラップ、左に行けば行き止まり。かつて私が仕様書に書き込んだ通りの不親切な設計が、今は頼もしい味方だった。
(……それにしても、カシアンの手が温かい。私が設定した彼のプロフィールには『孤独に耐えるため、常に心身を冷徹に保っている』なんて書いたけれど、実際はこんなに血の通った人間なんだ)
胸がチクリと痛む。
やがて、行き止まりの壁に突き当たった。私は迷わず、壁にある特定の石を押し込んだ。
「ここを抜ければ、王子の執務室の裏側。……カシアン、絶対に物音を立てないで。あそこには私が配置した『超高性能・聴覚特化型の番犬』がいるから」
「……貴公、本当に何者なんだ? まるでこの城を建てた職人のような口ぶりだな」
隠し扉が静かに開く。 目の前に広がったのは、豪華絢爛な執務室だ。
私は「ライターの直感」をフル稼働させた。物語の整合性を重んじる私なら、悪役が証拠を隠す場所は一箇所しかない。
「あった……。机の三番目の引き出し、二重底の中!」
指を引っ掛け、隠し場所をこじ開ける。
そこには、隣国との密約を記した書簡と、カシアンを「使い捨ての実行犯」として始末するための計画書が収められていた。
「これだわ。これさえあれば……!」
その時、廊下から足音が聞こえた。 夜勤の巡回兵ではない。
この、わざとらしいほど「カツン、カツン」と響く靴音。 間違いない。第一王子、このゲームのメイン攻略対象にして、私を断罪する男の足音だ。
(最悪……! シナリオの強制力!? ここで王子に見つかって、処刑フラグが強化されるイベントなんて書いた覚えはないわよ!)
ガタッ。
カシアンが即座に私の腰を引き寄せ、影に潜ませた。
彼の体が重なる。冷たい鎧の感触と、彼自身の熱い鼓動が伝わってきて、心臓が跳ねた。
扉が開き、王子が部屋に入ってくる。
彼はデスクの上に置いてあった「処刑命令書」を眺め、不敵に笑った。
「……明日の正午。ようやくあの目障りな令嬢も、使い道のなくなった騎士も、まとめて掃除できる」
その言葉に、カシアンの体が微かに震えた。 私は彼の指をぎゅっと握りしめた。
『大丈夫。私が、あなたの物語をバッドエンドで終わらせない』 言葉には出さず、ただ指先に力を込めて伝えた。
王子が部屋を去るまでの数分間が、永遠のように感じられた。
やがて気配が遠のき、私たちは再び隠し通路へと滑り込む。
「エリュシオン。証拠は手に入った。……このまま城の外へ逃げるぞ。俺が道を作る」
カシアンの提案は、もっともだった。
今の彼なら、私を連れて国境を超えることもできるだろう。 けれど、私は首を振った。
「ダメよ、カシアン。それでは、あなたが『逃亡犯』になってしまう。……私が望むのは、あなたが胸を張って、この国の、あるいはあなたの国の王として返り咲くエンディングなの」
「だが、戻れば貴様は処刑台に上ることになる!」
「大丈夫。シナリオの穴は、もう見つけてあるわ」
東の空が白み始めていた。
私たちは再び、湿った地下牢へと戻る。 鉄格子の中に私が入り、カシアンが外から鍵をかける。
「……信じているぞ、エリュシオン。いや――俺の『神様』」
カシアンの切実な瞳が、夜明けの光を反射して銀色に輝いた。 私は牢獄の冷たい床に座り込み、残された数時間、頭の中で「大逆転のスクリプト」を組み立て始めた。
王子の隠し部屋から証拠の書簡を奪い出した頃には、東の空が白んでいた。
全力で走り、隠し通路を戻り、私は再び牢獄の中にいた。逃げ出すことは簡単だった。
けれど、ここで私が逃げれば、エリュシオンの罪は確定し、彼女の処刑を執行できなかったカシアンが代わりに責任を問われ、処刑される。それは私が書いた「没プロット」の一つだ。
そんな最悪な伏線回収、絶対にさせない。
「……残り一時間だ」
カシアンが鉄格子の外で、絞り出すような声を出した。
その手には、私が盗み出した「王子の裏切りの証拠」が握られている。
「カシアン、それをしかるべき場所に?」
「ああ。……だが、間に合うかどうかは分からん。広場にはすでに群衆が集まっている」
その時。カツン、カツンと乾いた音が響き、牢獄の天井にある高窓から水滴が落ちてきた。雨だ。 ただの雨ではない。空がひび割れたかのような、激しい豪雨。
「嘘……このタイミングで……!」
「ひどい雨だ。まるでお前の死を、世界が望んでいるかのように」
違う。違うのよ、カシアン。
これは、私が設定した『断罪の涙』。悪役令嬢の処刑を最高に盛り上げるために、「このシーンだけは絶対に雨を降らせて。魔法で空を固定してでも!」と、私が仕様書に赤字で書き込んだ演出なのだ。この雨は人々の声をかき消し、視界を奪い、処刑台の上の孤独を際立たせる。
――私のこだわりが、私の助かる道を塞いでいた。
(声が届かない……。これじゃ、処刑台の上で証拠を突きつけても、民衆には何も聞こえない!)
正午。広場。
私は引き立てられ、処刑台の階段を上った。目の前には、あの重厚な、漆黒のギロチン。
雨に濡れて、鈍く光っている。カシアンが、執行人として私の隣に立った。
その顔は、雨のせいか、絶望に濡れているように見えた。
「カシアン、合図をしたら、あのギロチンの横にある『装飾の宝珠』を壊して」
「何を言って……」
「いいから! 忘れたの? 私は『神様』から聞いたのよ。あそこが、この演出の、たった一つのバグ(緊急停止スイッチ)だって!」
群衆の罵声は雨音に消え、王子の勝ち誇った顔が遠くに見える。カシアンがレバーに手をかける。 私は大きく息を吸い込み、叫んだ。
「カシアン、今よ!!」
彼が動いた。レバーではなく、剣の柄で処刑台の柱に嵌め込まれた青い宝珠を粉砕する。
瞬間、世界が静止した。降り注いでいた豪雨が、まるで巻き戻されるように空へと吸い込まれていく。雲が割れ、舞台を照らすスポットライトのような陽光が、私とカシアンを射抜いた。
「なっ……何事だ!?」
王子の動揺した声が、静まり返った広場に響き渡る。
「皆様、お聞きなさい! この雨が止んだのは、不実な者を天が拒んだ証拠です!」
私は懐から、魔法で防水処理を施しておいた「証拠の書簡」を高く掲げた。ライターの特権だ。
どの書類が重要で、どう見せれば観客(民衆)が納得するか、その「見せ場」の作り方は誰よりも知っている。
「ここに、第一王子と隣国の内通を示す証拠があります! そして――私の隣に立つこの騎士こそが、その陰謀によって国を追われた真の英雄、カシアン・ド・ヴァルデール閣下です!」
どよめきが広がる。私はカシアンの左胸、火傷の痕がある場所を指差した。
「そこにあるのは、呪いではない。王家の血にのみ反応する、真実の紋章! カシアン、今こそあなたの『名前』を、このシナリオに刻みなさい!」
カシアンは一瞬、呆然と私を見た。そして、彼は笑った。
私が一度も書いたことのない、氷が溶けるような優しい、けれど力強い笑みで。彼は剣を抜き、天に掲げた。私が設定していなかったはずの、まばゆい銀色の光が彼を包み込む。
(……ああ。設定を超えた。私の推しが、私の書いた文字を超えて、今、本当のヒーローになったんだ)
◇ ◇ ◇
数ヶ月後。王宮のバルコニーからは、平和な街並みが見渡せた。
王子は追放され、カシアンは自国の正当な後継者として、そしてこの国の英雄として迎えられた。
私はというと、悪役令嬢としての罪を雪ぎ、なぜか「予言の聖女」として崇められる羽目になっていた。
「……おかしいわね。こんなハッピーエンド、一文字も書いてなかったんだけど」
手元のノートに、新しく始まった日々を書き留める。すると、背後から大きな手が私の肩を抱いた。
「エリュシオン。また一人で、妙な文字を書き連ねているのか」
カシアンだ。かつての無機質な漆黒の鎧ではなく、今は王族の気品漂う白い礼装に身を包んでいる。
「カシアン様。……ねえ、これからのあなたの人生、どういう展開がいいか希望はある?」
「希望?」
彼は私の耳元に顔を寄せ、少しだけ意地悪そうに囁いた。
「そうだな。……『生涯、妻を離さず甘やかし続ける』という設定を、今すぐそこに書き加えてくれ。それ以外は認めん」
私は赤面し、ペンを落としそうになった。
「ちょ、ちょっと、そんなベタな展開……ライターとして恥ずかしいわよ!」
「ふん、構わん。これは俺が勝ち取った、俺たちのシナリオだろう?」
私は観念して、真っ白なページに新しい一文を書き込んだ。
――そして、彼らはいつまでも、幸せに暮らしました。(※ただし、砂糖吐くほどの激甘設定で!)
【完】




