第07話 夏と冬
美玲は彼を知った。
陵の家庭を知った。生活を知った。事情を知った。
だけれども、一週間に一度だけ、彼とゲームをする時間は続いた。
春が過ぎ、雨が降り続ける季節がやってきた。
傘を手放せなくなったが、美玲は彼を家に誘い続けた。雨でも晴れでも変わらずに、一緒にゲームをやった。
そんな世界すらも、外で降り続ける雨はやがて、蝉の声へと変化する。家の外は大きく様子を変えたが、それでも、二人の時間は日常へと落ちていた。
力強い陽射しが照り続ける日々が続く。そんな日々をより一層に大きな蝉の声が包み込み、その喧騒から逃げるように小学校は夏休みを頭から被った。
美玲は束の間の自由を手にしていた。普段の日常よりも、少しだけ自由だった。
午前十一時、彼女はソファで横になって、何となくテレビを眺めていると、来客を知らせるチャイムが鳴り響いた。
そのチャイムは既に予想していたものだった。ソファを立ち上がり、インターホン越しの人物を確認すると、リビングを抜けて、廊下を抜けて、玄関の鍵を回す。扉を開け放した。
その先に立っていたのは陵だった。
「こんにち……ううん、おはよう。昨日、新しいゲーム、買ってもらったから一緒にやらない?」
そろそろお天道様が真上を通る時間だったが、何となく「おはよう」が正しいと美玲は思った。
「おはよう。そうなんだ。やってみたい」
陵は迷った様子もなく、あっさりと頷く。
「じゃあ、決まりだね」
リビングに置かれたゲーム機を起動する。始まったのは、いかにも二人用と言わんばかりのゲームだった。
元気でポップなBGMが流れ出す。バトル系のRPGで、敵に遭遇するたびに、流れる音楽はがらりと切り替わった。
「緊張感が凄いね」
美玲はぼそりと呟く。少しでも感想を共有したいと思ったから。
「……そうだな」
陵は少し遅れて、ゆっくりと頷く。視界の端で彼を見ると、どこか納得しきれていないような表情をしていた。
陵が操作するキャラクターによって、敵はあっさりと倒されていく。
「上手くなったよね、ゲーム」
初めて一緒に遊んだ頃に比べて、彼は格段に上達していた。今では、ゲームの電源を入れることもできるし、敵を見つけるのも倒すのも美玲より早い。
「慣れた」
「……それは、そうかも」
上手くなったというより、慣れた。その言葉に、美玲は素直に納得した。
「桐崎、そっち行った」
「うん、大丈夫」
再び敵が出現する。美玲のキャラクターに攻撃を仕掛けてきたが、軽やかにかわし、一撃必殺のクリティカルを叩き出した。
敵は、そのまま光の粒子になって消える。戦闘音楽が途切れる。フィールドのBGMに戻った。
「さすが」
陵はあっさりと、けれども確かに、彼女を認めていた。
「ゲームはいっぱいやってるからね」
「それは知ってる」
そのまま、二人は先へ進む。特別な会話もないまま、通路を抜け、曲がり角をいくつか越えた。
やがて、敵の出現がぱたりと途切れる。
「あれ……?」
美玲が足を止める。操作するキャラクターの足音だけがやけに響いた。BGMが静まり、音の数が減っている。
「……ここ、今までと違うな」
陵は画面を見つめ、少しだけ眉を寄せる。美玲は一瞬だけ画面を見回してから、短く答えた。
「たぶん、ボス前」
その言葉と同時に、画面が暗転した。
「……」
「……」
やがて、じわじわと暗転が解ける。画面いっぱいに巨大な敵の姿が映し出された。
動きは遅い。けれど、一歩踏み出すたびに、床が低く鳴る。BGMが切り替わる。さっきまでの軽さはなく、音数の少ない重たい旋律だった。
「……でかいね」
美玲が言うと、陵は短く息を吐く。
「一撃でも貰ったらやばそう」
最初に動いたのは敵だった。大振りの一撃が、画面の端から端までを薙ぐ。
陵のキャラクターが先に動き、次いで美玲のキャラクターが続く。二人は派手な一撃を、ぎりぎりでやり過ごした。
「反撃いこっ」
「わかった」
陵のキャラクターは刀を振る。美玲のキャラクターは魔法を放つ。巨大な敵の体表に攻撃が当たり、ほんの少しだけグラフィックが揺れた。
「効いてる」
陵の声には、わずかに温度があった。
敵が怒り狂ったように動きを速める。連続攻撃。回避。反撃。
ふたりの間に言葉はほとんど交わされない。それでも、動きが噛み合っていた。
「桐崎、無理するな」
「大丈夫」
美玲は答えながら、敵の動きを見ていた。攻撃の前に、ほんの一瞬だけ、動きが止まる。
「……今だ」
自分に言い聞かせるように、呟く。最後の攻撃が決まる。クリティカルの文字が、小さく、けれど確かに表示された。
敵は低い音を残し、その場に崩れ落ちる。派手な演出はない。ただ、勝利を告げる表示だけが、静かに現れた。BGMが切り替わり、緊張がほどけていく。
勝利を告げる表示が消え、画面がゆっくりと落ち着いた色合いに戻る。派手な演出はなく、フィールドの入口のような場所に、ふたりのキャラクターが立っていた。
「……終わり?」
陵が、少しだけ間を置いて言った。
美玲は画面を見つめたまま、首を横に振る。
「ううん。たぶん、ここから」
「ここから?」
陵は聞き返す。
「ステージ一個目、みたいな感じ。次があるやつ」
「……ふうん」
陵は、画面に表示された地図やアイコンを眺める。
何が変わったのか、何が始まったのかまでは、まだ掴めていない様子だった。
「じゃあ、さっきのは……」
「最初のボス、かな」
「ふうん」
納得したのか、していないのか。陵はそれ以上は聞かず、コントローラーを軽く持ち直した。
そのときだった。画面の端に小さくセーブポイントの表示が出る。
「あ、ここでセーブできる」
美玲が言うと、陵は画面を見てから頷く。
「じゃあ、今日はここまでだな」
決定音が短く鳴り、データ保存の表示が出る。数秒後、画面が静かに切り替わった。
ポップなBGMが止まり、リビングに現実の音が戻ってくる。その瞬間、美玲は気づいた。カーテンの隙間から差し込む光が、さっきよりも低く、柔らかくなっていることに。
「……もう、こんな時間」
壁に掛けられた時計は、午後五時を少し回っていた。さっきまで画面の世界に入り込んでいたからか、時間の感覚が曖昧になっている。
「長かったな」
陵はそう言いながら、コントローラーをテーブルに置いた。
「うん。でも、あっという間だった」
美玲も同じようにコントローラーを置く。窓の外では、まだ蝉の声が鳴いている。けれど、その音も、昼間ほどの勢いはなかった。日常が、静かに戻ってきていた。
陵は立ち上がり、床に置いていたバッグを手に取った。中身を確かめるように口を少し開けてから、肩に掛け直す。
「そろそろ、帰る」
陵は淡々とそう言った。相談するでも、確かめるでもない。言葉は短く、それ以上続く気配もなかった。
「うん」
美玲は、考えるより先に頷いていた。引き留める理由も、引き留めたいという気持ちも、言葉にするほどの形を持っていなかった。
陵はそのまま玄関へ向かう。
迷いのない足取りだった。何度も通った道のように、角を曲がり、靴のある場所まで歩いていく。
その背中を見た美玲は、ほんの一瞬だけ不思議に思った。この空間に、彼がとても馴染んでいるように見えたからだ。
美玲も後を追って、廊下を歩く。窓の隙間から入り込んだ夕方の空気が、床の上をゆっくりと満たしていた。
「また、続きやろう」
陵はスニーカーに足を通し、踵を軽く鳴らして揃えながら言った。
それは約束というほど強い言葉でもなく、別れを惜しむ調子でもない。ただ、次があることを前提にした、いつも通りの声だった。
「来週も水曜日でいい?」
最近は水曜日に遊ぶことが多かった。今日はそれが日常になる境目で、だからこそ日常にしたくて、美玲は乱雑に陵に問を投げる。
「ん、わかった。水曜日は空けておく」
陵はその想いを知ってか知らずか、あっさりと頷いた。
「ありがとう」
美玲はなぜだか、お礼を口にしていた。自分と一緒に居てくれることが、自分が思っている以上に嬉しいのかもしれないと、なんとなく漠然とそう思った。
「こちらこそ、ありがとう」
すると、陵は少しだけ顔を顰めてから、けれども、戸惑いの無い声で感謝を述べた。
それから、玄関扉の取っ手に手を掛ける。
「じゃあ」
「またね」
扉が閉まる。鍵が回る音はしなかった。
美玲はその場に少しだけ立ち尽くしてから、玄関扉の鍵を閉め、リビングへ戻った。
さっきまで点いていた画面は暗いままで、ソファの上には、二人分の時間の名残だけが残っている。
コントローラーは、置いたときと同じ向きで転がっていた。
外では、蝉が一匹だけ、遅れて鳴いていた。
それからも、一週間に一度、陵はこの家にやって来た。
曜日はだいたい水曜日で、時間も大きく変わらない。
雨の日も、晴れの日も、特別な理由はなかった。
ゲームをして、少し話して、セーブをして、帰る。
それだけのことが、繰り返されていった。
美玲にとって、それはいつの間にか「続いているもの」になっていた。
続けようと決めたわけでも、やめようと思ったわけでもない。ただ、次の水曜日が来れば、また一緒に遊ぶ。それだけだった。
そんな不思議な日常は、冬に入っても特に形を変えることはなかった。街に灯りが増え、人の足取りが少し浮き立つ頃になっても、それは同じだった。
「来週、クリスマスだね」
美玲は彼の隣で、ゆっくりとはっきりと口にした。片手には、いつもどおりゲームのコントローラーが握られている。窓の外では、雪になり切らない水玉が、ぽつりぽつりと流れていた。
「クリスマス? ……ああ、クリスマスね」
陵は一瞬だけ首をかしげ、それからようやく思い当たったような顔をした。
「クリスマスは、何か用事とかあるの?」
「何か用事があるものなのか?」
「え……?」
「え……?」
二人は、同時に相手の顔を見た。
「七面鳥とか焼いて食べたりしないの?」
「七面鳥って、なにそれ?」
美玲は、そのやり取りだけで理解してしまった。
彼の中には「クリスマス」という言葉はあっても、それが指し示す暮らしや習慣は、ほとんど存在していないのだと。
「……そっか。そうなんだ」
美玲は短くそう言ってから、画面に視線を戻した。そして、胸の奥でひとつだけ、小さな決めごとをした。
「来週の火曜日。十二月二十四日、空いてたりする?」
それから一呼吸置いて、彼女はそう口にした。




