第06話 知る
「今日、家に来るんだろ?」
美玲が昨日の件もあって、話しかけようか、話しかけまいかを悩んでいると、陵が彼女の前に立って、ぶっきらぼうに告げた。
既に正午が欠ける時間であった。
「う、うんっ!」
美玲は、まさか彼から話しかけられるとは思わなかったから、少し焦ったように返事をした。
その声は、昼休みに入ったばかりの賑やかな学校では、呆気なく溶けて消えた。
「わかった。じゃあ、放課後、昇降口前で待ってる」
陵は一瞬だけ表情を動かしたように見えたが、すぐにいつもの、感情の読み取れない顔に戻り、単調にそう告げた。
それでも美玲には、その一瞬が、心なしか驚きのように思えた。
ひとつ、ふたつと授業が終わる。放課後を知らせるチャイムが鳴る。美玲が昇降口から外に出ると、そこには陵が立っていた。
「待たせた?」
「ううん、待ってない」
美玲の心配に、陵は小さく首を横に振った。
「桐崎も変なやつだよな」
ふたりが校外に向かって足を向けたとき、陵はそんなことを言った。
「そう……かな」
美玲に自覚はない。
「俺に話しかけるのも変だし、俺の家に来たいって言うのも変だ」
陵は言い淀むことなく、言葉を彼女にぶつけた。
「そうかも」
美玲は素直に頷いた。自分でも強引に彼と距離を詰めている自覚があったから。
「なんで?」
「……えっ?」
自分が「変」であることに、「なんで」と問いかけられるとは思っていなかったのか、美玲は思わず、隣を歩く彼を振り返った。
「なんでだろ」
でも、理由はなくて、出てきたのは自分への疑問だった。それから少し思考する。思考してから、再び口を開いた。
「話せるときに、話さないと、話せなくなる。……から、かな」
その言葉に自信はなかった。けれど、多分そうだと思った。
「そんなこと、考えてるんだ」
陵は興味深そうに、けれども平坦に言った。
「考えてないけど、いつもそうだから」
美玲は首を横に振った。
彼女の家には、基本的に両親の姿はない。忙しいからだ。けれど、母の研究も、父の仕事も、どちらも誇らしいと思っている。
だからこそ、出会ったときに言葉を交わさなければ、伝えたいことや知りたいことは、そのまま距離になってしまう。
母にも父にも、「聞きたいことや知りたいことは、電話をしてでも聞きなさい」と、そう言われてきた。
もっとも、実際に電話をしてまで聞きたいことは、今の美玲にはまだなかったのだが。
「ふぅん」
陵はそれ以上、踏み込んで聞いてこなかった。
会話はそこで途切れ、そのまま通学路を抜けていく。やがて、大きな道場の前にたどり着いた。
美玲には縁のない場所であり、彼と出会うまで知りもしなかったが、クラスメイトに聞く限りでは、それなりに有名らしい。同級生も何人か通っているとかいないとか。
その隣に、こぢんまりとした陵の家が建っていた。
美玲の家のような、近年の造りではなく、長き時代を感じさせる、足を踏み入れるのを躊躇うような外観。
陵はあっさりと、その敷地内に足を踏み出して、引き扉に備え付けられた鍵穴に金属のギザギザを差し込む。
「いいよ。入って」
玄関の前どころか、敷地の外で行儀良く待っていた美玲に、陵は手招きした。
「うん、お邪魔します」
美玲は玄関に敷かれた、古風な石畳の上に足を踏み入れた。
それを待ってから引き戸の鍵を閉め、陵は石畳の上で雑に靴を脱ぐと、暗くなった木目の床へ足を伸ばす。
彼女もそれに倣い、靴を丁寧に並べてから、同じ木目の上に立った。自宅の薄茶色の床と比べると、心なしか足裏がひんやりとした気がした。
玄関の先には細い廊下が伸び、右手前には二階へ続く階段がある。その奥に一つの扉が見えた。構造自体は、美玲が知っている家と、あまり変わらない。
陵は黙ったまま、細い廊下を進み、その扉に手を掛けて開けた。美玲は一拍置いてから、彼の後に続く。
扉を抜け、木枠をくぐった先に広がっていたのは、音の少ない、静かな空間だった。広く畳が敷かれ、奥の一角、台所へと続く部分だけが木目の床になっている。
その中でも、壁際の様子が、美玲の目を引いた。
木刀や竹刀が整然と並び、その脇には、刃を収めたままの刀が二振り、木目の上に置かれている。
その背後の壁には、簡素な掛け軸が一幅、静かに掛けられていた。文字だけが墨で記され、意味までは分からないが、不思議と視線を逸らしにくい。
一般家庭にはまず並ばないであろう、どこか普通ではない代物だった。飾られているというよりも、ただ、そこにある。そんな印象を受けた。
視線を落とすと、畳の上には丸机がひとつ置かれ、その周りに座布団が数枚、きちんと揃えられているのが見えた。使われているはずなのに、どこか静けさを保ったままの配置だった。
「そこ、座ってて」
陵は座布団を指さして告げると、さっさと台所に向かってしまう。
美玲は少し迷ってから、丸机のそばに置かれた座布団に、恐る恐る腰を下ろした。
自分の家にあるのは、木製の椅子かソファしかない。フローリング以外の床もない。畳に座るという行為そのものが、どこか落ち着かず、背筋を正させる。
「はい」
陵はプラスチック製の、けれど使い捨てではない、色の入ったコップを美玲に差し出した。
「ありがとう」
受け取ったそれは、自分の家で使っているコップよりも柔らかく、ひんやりせず、軽い。その感触ひとつさえ、美玲には少し不思議な体験だった。
陵は丸机を挟み、彼女に向き合うようにして、座布団に腰を下ろした。
しばらくの間、沈黙が続いた。その沈黙こそが、この空間の通りなのだと言わんばかりであった。
「いつも、家ではひとりなの?」
美玲が知っている「ひとり」よりも、陵の「ひとり」は、ずっと大きく見えた。
「そう」
陵は素っ気なく告げる。
「相浦くんのお父さんとお母さんは?」
「死んだらしいよ」
あまりにも興味無さげな、淡々とした声音だった。
「……」
その平坦さに、美玲は言葉を失った。薄々、そんな予感はしていた。だから、事実そのものに驚いたわけではない。ただ、その出来事が、今も彼の中で、何の重さも持っていないように語られたことが、うまく飲み込めなかった。
「俺が小さい頃に死んだらしいよ。ああ、いや、父方は俺が生まれる前に死んだんだっけ」
そんな彼女の反応を気にする様子もなく、陵はあくまで他人事のように続けた。
「……そっか」
美玲は、小さく頷くことしかできなかった。今の感覚を言葉にするのは、きっと違う。そう強く思った。
「じゃあ、いつもひとり?」
だから、少しだけ話を逸らした。
「そうでもないかな。暇だったら、道場に行くから」
陵は、壁の向こう、道場のある方角へと視線を投げた。
「そっか」
家では「ひとり」なのだろうと、美玲は思った。
「ご飯とかは?」
「そこで、適当に作って食べてる」
「なに作るの?」
「焼き魚が多いかな。グリルを洗うのが面倒だから、フライパン使う」
「わかる。洗うの、面倒だよね」
「桐崎も作るんだ。……家に親、いないって言ってたもんな」
「うん。たまにママもパパも会うけど、ほとんど家にいないから」
「へえ」
陵は、美玲の身辺事情に、あまり興味がなさそうだった。
「生きてるなら、会えばいいのにな。勿体ない」
興味がないはずなのに、その言葉には、どこか純粋な疑問だけが残っているように、美玲には感じられた。
「……そうだね」
美玲は、少しだけ間を置いてから答えた。すぐに否定するのも、肯定するのも、どちらもしっくりこなかったからだ。
陵はそれ以上、踏み込んでこなかった。机の上に置いたコップに手を伸ばし、一口飲んでから、何でもないことのように息をつく。
「俺も困ってないから、桐崎も困ってないよな」
その言葉に、強がりのような響きはなかった。ただ、事実を並べただけの声音だった。
「……うん」
美玲は頷きながらも、彼の言葉が、物の見方が、大きくズレているような気がした。そのズレを言葉にすることはできなかった。
丸机の上で、二つのコップが並んでいる。どちらも同じもののはずなのに、置かれた位置が少しだけ違って見えた。
そこからふと視線を外し、美玲は改めて室内を見回す。さっきは気配に圧されていたせいか、細かいところまで目が向いていなかった。
「……あのさ」
美玲は少し間を置いてから、壁際の方を顎で示した。
「あそこにあるのって、全部、使ってるの?」
木刀や竹刀の並び。その横に置かれた刀。どれも、綺麗に整っているのに、新品という感じはしなかった。
「うん」
陵は短く答えた。
「木刀も?」
「使う」
「竹刀も?」
「使う」
迷いのない返事だった。誇るでもなく、隠すでもなく、ただ事実として。
「……刀も?」
一瞬だけ、言葉を選ぶような間があった。けれど、陵はすぐに頷いた。
「たまに」
その「たまに」が、どのくらいの頻度なのか、美玲には想像がつかない。ただ、冗談でも脅しでもないことだけは分かった。
「危なくないの?」
「扱い方、教わってるから」
「誰に?」
「じいちゃん」
陵はそれだけ言って、コップに口をつける。それ以上、説明を足す気はなさそうだった。
「……すごいね」
美玲がそう言うと、陵は少しだけ首を傾げた。
「普通だと思うけど」
その言葉が、彼の本音なのだと、美玲は感じた。この家、この道具、この暮らしが、彼にとっての基準なのだ。
視線を下ろすと、畳の縁に、擦れた跡が残っているのが見えた。同じ場所を、何度も踏んできたような痕。
「ここで、練習するの?」
「する。朝とか、暇なとき」
「学校行く前に?」
「うん」
何気ない調子で言われて、美玲は言葉に詰まった。自分は、朝はぎりぎりまで布団に潜っているというのに。
「……毎日?」
「だいたい」
その一言で、陵の生活が、少しだけ立体になる。強いとか、すごいとか、そういう言葉よりも先に、続けてきた時間が、そこにあるのだと思った。
「遊びに誘うの、邪魔じゃない?」
そんなにやることがあるなら、ゲームをしようと誘ったことは、彼の時間を削ってしまっているのではないか。ふと、そう思った。
「それはない。楽しいし」
陵は、いつもと変わらない調子で答えた。
「そっか。それなら、良かった」
胸の奥にあった引っかかりが、少しだけほどける。美玲は、ようやく息をついた。
陵はコップを机の端に置き、指先で縁を軽くなぞる。その仕草に、特別な意味はなさそうだったが、美玲はなぜか目を逸らせなかった。
「……桐崎は」
不意に、陵が口を開く。
「家にいるとき、何してるの?」
問いは、探るようでも、興味深そうでもなかった。ただ、思いついたことをそのまま投げたような調子だった。
「えっと……」
美玲は少し考える。
「ゲームしたり、本読んだり。あとは、だらだらしてるかな」
「ふうん」
「相浦くんみたいに、決まったことはしてないよ」
そう言うと、陵はほんの一瞬だけ視線を上げた。
「決まってるわけじゃない」
「でも、続いてる」
美玲がそう返すと、陵は少し考えるように黙り込んだ。
「……まあ、やめる理由もないし」
その言葉は、あまりにも自然で、だからこそ重かった。
続けることが特別なのではなく、やめないことが当たり前。その感覚の違いが、美玲にははっきりと伝わってくる。
「この家、何もないから、暇だろ?」
陵は肩を竦める。
「そんなことないよ。知らないことが知れて、楽しいし」
美玲は首を横に振った。
「そっか」
陵は立ち上がり、空になったコップを流しへ運んだ。
水の音が、短く響く。
それを合図にしたように、この空間は役目を終えた気がした。




