第05話 迷い
午前の授業が終わり、給食の時間が過ぎていく。昼休みも終わりに近づいた頃だった。
「今日、どうする?」
美玲は、陵に声をかけられた。
「私の家でいい?」
「ゲームは、桐崎の家にしかないから」
「じゃあ、帰りに昇降口で待ち合わせ」
「うん、わかった」
用件だけを済ませると、陵はすぐに踵を返した。迷いのない足取りで、自分の席へと戻っていく。
その背中は、他の男子生徒と比べて特別大きいわけでも、目立つわけでもない。
美玲は、その背中をしばらく目で追った。
今朝、花蓮が口にしていた言葉が、ふと脳裏をよぎる。けれども、彼を「かっこいい」とは思わなかった。
予鈴が鳴る。美玲は視線を黒板へ戻した。五時間目は国語で、六時間目は社会だった。
先生の声が教室に響き、黒板に文字が並んでいく。美玲はノートを取り、教科書を目で追う。いつも通りの作業で、退屈ですらある、簡単な時間だった。
少し手が空くと、教科書のコラムに目を通す。気がつけば五時間目が終わり、続いて六時間目も終わった。
日直の児童が「起立」「気をつけ」「礼」と声を出す。放課後の始まりを告げるチャイムが、教室に鳴り響いた。
美玲は彼の席へ視線を向けた。そのときにはもう、陵はランドセルを背負い、教室の外へ向かって歩き出していた。
(は、はやい)
帰り支度が早いことは知っていたが、それでも改めて早すぎると思う。チャイムが鳴ってから、まだ二十秒も経っていなかった。
美玲も、普段は丁寧に揃えて入れるプリント類を、今日は少しだけ雑にランドセルへ押し込み、立ち上がる。彼の背中を追うようにして、教室を後にした。
階段を駆け下り、踊り場を曲がる。上履きが床を叩く音が、普段よりも大きく響いた。
一階の昇降口にたどり着くと、そこには陵の姿があった。ちょうど、自分の上履きを下駄箱へ放り込んだところだった。
「……はやいな」
美玲が走ってきたことなのか、もう昇降口にいることなのか。何について驚いているのかは分からないが、陵が少し意外そうな顔をしているのは確かだった。
「待たせたら、悪いから」
肩で息をしながら、美玲は言葉を並べた。
「そんなに急がなくてもいいのに」
すると、陵は笑った。確かに笑った気がした。とても柔らかい表情だったと思う。
「……そういうわけにはいかないでしょ」
「そっか」
美玲の言葉に、陵は否定することなく、ただ頷いた。
(……ああ、こういうことかも)
特に気兼ねなく会話できる相手、それは確かに、ただの友人ではなかった。
(相浦くんは、どう思ってるんだろ)
相手にとっての自分が、そうであればいい。そんなことをぼんやりと考えた。
通学路を歩き、少しだけ道を逸れて住宅街に入る。その先に、美玲の家があった。
玄関扉の鍵穴に鍵を差し込み、回す。一昨日とまったく同じ手順で、陵を室内へ招いた。
リビングに入ると、美玲は慣れた手つきで照明のスイッチを入れた。
「ソファに座ってて」
「うん」
美玲はキッチンへ飲み物を取りに向かう。陵は言われた通り、ソファに腰を下ろした。
戻ってきた美玲は、二つのコップをローテーブルに並べる。それからテレビの電源を入れ、続けてゲーム機を起動させた。
低い駆動音が部屋に響き、画面が極彩色の光を放ち始める。美玲はコントローラーを彼に差し出した。
「ありがとう」
陵はそれを両手で受け取る。昨日と同じように、壊れ物を扱うかのような慎重な手つきだった。
「はじめから?」
「ううん、つづきから。はじめからを選ぶと、また最初からになっちゃうから」
美玲は陵の手元にあるコントローラーへ、彼の腕の外側からそっと手を伸ばす。
メニュー画面から「つづきから」を選ぶと、画面が暗転し、壮大な音楽とともに物語の世界が再び動き出した。
「ほんとだ。一昨日の続きだ」
「うん。さすがに最初からはね」
一昨日、時間をかけて進めたストーリーゲーム。最初からやり直すには、美玲にとっても惜しい進行具合だった。
二人でコントローラーを持ち、協力しながら物語を進めていく。一人で遊ぶよりも二人のほうが攻略しやすいゲームで、ストーリーはぐんぐんと先へ進んでいった。
「……右、来るよ」
画面の端に敵の影が映った瞬間、陵が短く呟いた。美玲が反応するよりも早く、陵のキャラクターが剣を振り抜いていた。
「反応早いね……」
「動き、単調だから」
陵は淡々と答えるが、その瞳は画面の中の動きを逃さずに送っていた。その様子を見て、美玲もゲーム画面に集中し直した。
画面の中で、二人の操作するキャラクターが並んで進む。敵の動きに合わせて距離を取り、タイミングを揃えて攻撃する。言葉にしなくても、自然と息が合っていた。
そのときだった。
遠くで、鐘を模した細い電子音が鳴った。一泊遅れて、住宅街全体に広がった。夜を知らせるチャイムだとわかる。
美玲はふと手を止めた。コントローラーから指が離れ、画面の中でキャラクターが動きを止める。陵の操作する方も、それにつられるように立ち止まる。
「……もう、こんな時間か」
陵がぼそりと呟く。
美玲が壁の時計に視線を向けると、針はいつの間にか夕方を指していた。
集中していると、時間が経つのは早い。そんなことを、美玲はぼんやりと思う。
まだ小学四年生だ。
夜遅くまで外を出歩くわけにもいかない。
遊び足りない気持ちは大きかったが、そのまま行動に移すことはしなかった。
「終わりだね」
美玲はそう言って区切りをつけ、ポーズボタンを押す。ここまで進めたストーリーデータを保存し、コントローラーを膝の上に置いた。
「……だな。時間、全然足りないな」
陵が、ほんの少しだけ名残惜しそうな顔をした気がした。
「また遊ぼ?」
美玲の言葉に、陵は頷いた。
「そういえば、いつも帰ったら、何してるの?」
今なら聞ける気がして、美玲は言葉を投げる。
「宿題して、ご飯食べて、寝る」
陵は淡々と答えた。
「それ以外は?」
「気分が乗れば、道場に行くかも」
「夜なのに?」
「隣だから」
言葉を交わすうちに、美玲はほんの少しだけ、彼の生活を知った気がした。
「……今度、相浦くんの家に行ってみたい」
もっと知りたい、と思ったからだ。
「いいけど、何もないよ」
「それでもいい」
「じゃあ、明日とか?」
「え、いいの?」
「うん。見られて困るものもないし」
「……そっか。じゃあ、行きたい」
そう言ってから、美玲は一瞬だけ、言いすぎたかもしれないと思った。
彼を困らせてしまうかもしれない、そんな考えがよぎる。
けれど、陵は特に気にした様子もなく、ソファの脇に置いていたランドセルを手に取った。
立ち上がり、玄関へ向かうその背中を、美玲は何も言わずに見送る。
靴を履く音が、二人しかいない空間に静かに響いた。
「じゃ、明日な」
「うん。気をつけて帰ってね」
玄関で短く言葉を交わし、扉が閉まる。
いつもの日常が顔を表した。リビングに戻ると、さっきまで賑やかだった画面は暗いままだった。美玲はソファに座り、しばらく動かなかった。
(……押しつけて、ないよね)
誰に言うでもなく、そんなことを考えてから、美玲はコントローラーをそっと元の場所に仕舞った。そのとき、ふいに腹の虫が鳴く。まだ十七時半。夕食には少し早い時間だったが、確かに空腹を感じていた。
美玲はキッチンへ向かい、冷蔵庫を開ける。食材は十分に揃っている。けれど、手の込んだものを作る気分でもなく、昨日の残りのシチューを温め直すことにした。
電子レンジの低い唸り声だけが、キッチンに響く。やがて「チン」という軽い音が鳴り、温め終わったことを告げた。
美玲は皿を取り出し、少し熱いのを我慢してキッチンテーブルへ置く。一度指を離し、熱が引くのを待ってから、改めて皿を掴み、ダイニングテーブルへ運んだ。
(熱い……)
指先に残る感覚を確かめてから、美玲はキッチンに戻り、スプーンなどの食器類を手に取った。
ふたたびダイニングテーブルに戻り、手を合わせて小さく呟く。
「いただきます」
返事はない。
スプーンでとろりとしたスープを掬い、口に運ぶ。昨日の残りだけあって、味はよく染みていた。野菜も柔らかく、素直に美味しいと思う。
先ほどまで、ひとりではなかった。
そのせいか、いつもの食卓が少しだけ広く、静まり返ったように感じられた。
彼を初めて招いた一昨日も、そうだったことを思い出す。楽しかった時間の余韻が、一人の寂しさをより一層際立たせていた。
かちゃりとスプーンが皿に当たる音だけが、やけに耳に残る。
(迷惑……だったりしないよね)
朝の花蓮とのやり取りを思い出しながら、シチューを飲み込む。
美玲は、明日のことを考えてしまった。そのとき、ふと思い出してしまった。彼は帰り際、「いい」とも「悪い」とも言っていなかったことを。
(ど、どうしよう)
やがて食事を終え、皿を洗い、風呂に入り、洗濯機を回す。宿題を済ませ、洗濯物を干してから、ベッドに潜り込む。美玲はずっと、自分の選択が正しかったのかどうかを、頭の中で何度もなぞり続けていた。
けれど、それも次第に、眠気とともに遠くなっていった。




