第04話 兆し
陵は玄関で靴を履き、軽く振り返った。
「じゃあ」
「うん。またね」
それだけ言って、扉が閉まる。鍵の音がして、外の気配が途切れた。
(……今日、楽しかったな)
やがて、美玲の時間はいつも通りに流れ出す。夕方を超えて、夜を超えて、明日が今日になる。
たった一人の朝を迎え、たった一人の朝食を口に運び、たった一人で玄関を出た。
その先には友人がいて、言葉を交わす。けれど、陵と話していたときとは、どこか感触が違っていた。
何を口にしても、喧嘩にならない。そういう感覚を、彼との会話では確かに感じていた。それに比べて、今の会話では、言わずにいることが多い気がした。
(なんか、変な感じ)
胸の奥に小さな引っかかりを残したまま、美玲は学校へ足を踏み入れる。
正門を抜け、昇降口で靴を脱ぎ、自分の教室に入ったとき、すでに陵が席に座っているのが見えた。
美玲はランドセルも置かず、そのまま彼の前に立つ。
「おはよう」
昨日よりも、声がしっかりと出た気がした。
「おはよう」
陵は窓から彼女へと視線を移し、極めて平坦な調子でそう返した。
「今日も一緒にゲームしない?」
美玲はさらに言葉を続ける。
「今日はごめん。稽古が入ってるんだよ」
陵はそう言って、軽く首を振った。
「稽古?」
聞き慣れない言葉に、美玲は首を傾げる。
「武術の練習、みたいな感じかな」
少し考えるような間を置いてから、陵は言葉を選ぶように答えた。
「そっか、そうだよね」
話しやすい、そう感じたとしても。
自分と同じように、放課後を一人で過ごすことが日常ではないのだと、美玲は思い知らされた。
「明日は?」
陵は彼女に問いかける。
「明日? えっと……たぶん大丈夫!」
美玲は「明日は何も無いよね?」と一瞬だけ逡巡してから頷いた。
「じゃあ、また行くよ」
陵はそれだけ言って、視線を外に流した。
「うん」
美玲も短く返した。胸にわずかな緩みを抱えて、自分の席へと戻った。
学校とは不思議なもので、授業に集中していたとしても、ぼーっとしていたとしても、変化を求めない限りあっさりと一日は終わる。
美玲の一日も同様に、あっさりと夕方を迎えた。
放課後を知らせるチャイムが鳴る。特に無感情のまま、美玲は席を立つ。
「美玲っ! 一緒に帰ろー?」
それを待っていたかのように、彼女の目の前に花蓮がひょっこりと現れた。
「いいよ」
花蓮と一緒に帰ることは、そんなに珍しいことではない。だから、一もニもなく美玲は頷いた。
昇降口でピンク色のスニーカーに履き替え、美玲は花蓮と並んで学校を出た。
「ねえねえ、美玲。相浦くんとはどうなの??」
通学路の途中、花蓮は少し茶化したような、そんな表情を向けながら、美玲に言葉を投げた。
「どうって……」
美玲には、彼女が何を聞きたいのかわからなかった。何を答えるべきか悩み、少しだけ間が空いてしまう。
「……一緒に、ゲームしたよ?」
やがて、事実だけを口にした。それ以外に何を言えばいいのかわからなかった。
「え、あいつってゲームするの!?」
すると、花蓮は酷く驚いた表情を見せる。
「ううん、初めてって言ってたよ」
美玲は首を横に振った。
「初めて……? それはそれで、ちょっと珍しいね」
花蓮はそう言って、少し考えるように視線を泳がせた。
教室で聞こえてくる男子たちの話題を思い出したのか、どこか腑に落ちない顔をしている。
陵を誘ったときは、一緒に遊びたい、話してみたいという気持ちが先に立っていて、美玲もその事実を深く考えなかった。
けれど、改めて花蓮の言葉を聞いたとき、それは少し——いや、大きな違和感として胸に落ちた。
「そう、だね」
恐る恐る頷くと同時に、美玲はその違和感の正体を知りたいと思った。
「でもさあ、美玲も凄いよね」
それは唐突だった。今までとは打って変わって、花蓮は元々明るい声に、きりっとした調子を重ねた。
「えっと、何が?」
美玲は首を傾げる。何処に自分の「凄い」要素があったのだろうか?
「だって、あの相浦くんと仲良くなってるんだよ!?」
「そ、そう?」
「そうだよ。だってあいつ、何を話しかけても基本的に真顔だし!」
その言葉に、一週間前の彼を思い出してみる。確かに。
「……案外、笑ったりするけどね」
美玲は昨日の彼を思い出しながら、くすりと笑みを浮かべる。
「あいつ、笑うの!?」
「花蓮、驚きすぎ。相浦くんだって人間なんだから」
「いやいや、他の子もロボットだと思ってるって! ロボットだったら、ゲームやったことないのも納得だし!!」
その言われようがおかしくて、美玲は思わず小さく吹き出した。
「ロボットじゃないよ。今度、話しかけてみたら?」
ふと、彼が「友達はいない」と言っていたことを思い出す。その言葉をそのまま伝えるのは少し違う気がして、美玲は胸の奥にしまったまま、そう口にした。
やがて、通学路を外れ、住宅街に足を踏み入れる。花蓮とも帰り道が別れた。
(……帰ったら、なにしようかな)
美玲は足を進めながら、そんなことを考えた。昨日のように、何かやるべき事が決まっているわけではない。
(宿題、やろう)
今日も算数の宿題が出された。それは終わらせて、明日提出しなければならない。
(めんどくさいな……)
勉強することは嫌いではないから、普段の美玲では絶対に思わないことだった。
美玲は家の前にたどり着く。考えるのをやめて、玄関扉に鍵を差し込んだ。
玄関を抜け、廊下を進み、リビングに向かう。ソファの側にランドセルを置くと、テレビの電源をつけた。
よく知らない、興味もない番組がやっているのを確認して、視線を外す。ランドセルに入っていた宿題と筆箱を、ローテーブルの上に並べた。
(飲み物……)
キッチンの冷蔵庫に手を伸ばし、食器棚からコップを取り出す。硝子の縁まで薄茶色の液体が揺れる。
少しだけ口をつけてから、美玲はローテーブルの前まで歩き、こんっと音を立てて置いた。
ソファに腰掛けて、筆箱に手を伸ばす。黙々と宿題をこなすと、日が暮れる前に終わった。簡単過ぎてつまらなかった。
(ごはん、つくろ)
立ち上がってキッチンへ向かう。自分以外の誰もいない空間で、調理器具の音だけが淡々と鳴った。
食事を作り、口に運び、風呂を沸かして身体を洗う。衣服を洗濯機に入れて回し、終わるのを待つ間にリビングへ戻った。
ゲーム機の電源を入れ、アクションゲームを始める。相手を場外へ吹き飛ばす、単純な内容のものだった。
(飽きた……)
少し遊んでから、コントローラーをソファの上に放る。視線を小窓へ向けると、外はすっかり暗くなっていた。
やがて、廊下の奥から洗濯機の止まる音が聞こえてくる。美玲は立ち上がり、洗濯機から衣類を取り出した。
そのままリビングに戻り、物干し場へ向かう。黙々と衣類を掛けてから壁に掛けられた時計を見上げた。
午後八時を回ろうとしていた。
昨日は洗濯機も回さないで、午後八時を過ぎていた。
リビングを出て、美玲は自分の部屋へ向かう。
部屋には漫画や小説、図鑑などが多く並び、置かれた勉強机の上には、中学一年生の数学の参考書があった。
小学四年生の彼女には早すぎる内容だが、偶然本屋で手に取ったとき、面白いと感じて買ってもらったものだ。正確には、親からお金をもらい、自分で買いに行ったのだが。
親の忙しさには慣れている。今さら気に留めることもないし、そもそも、これまで気に留めたこともなかった。今日だって、それは変わらない。美玲は黙々と参考書に向き合い、軽い調子でペンを走らせてみた。
「ふぁ……」
不意に欠伸がこぼれる。ペンを置き、顔を上げて時計を見ると、すでに十時を回っていた。
夜更かししすぎたと思い、美玲は椅子を押して立ち上がる。そのままベッドに身体を滑り込ませ、明かりを落とした。
翌朝、普段通りに家を出た。
その日の朝は、昨日よりも少しだけ陽気に感じられる。吐く息が白くなることもなく、日当たりの良い場所を抜けた風が頬に触れると、柔らかな暖かさが残った。
通学路の角に差し掛かったとき、その先で花蓮が手を振っているのが見えた。
「おはよー、美玲!」
「おはよう」
やがて、並んで歩き出すと、花蓮はいつもより少し早口だった。
「ねえ、聞いた?」
「なに?」
「隣のクラスのさ、あの子いるでしょ。委員会一緒の」
花蓮は名前を出さず、指だけで示す。美玲も朧げにその子の顔を思い浮かべた。
「あの子、昨日、同じクラスの男子に告白したんだって」
それは、美玲には馴染みのない行動だった。
どうして『告白』なんてするのか、その気持ちがそもそもわからない。
「……へえ」
だからこそ、その話題に乗ることに、気後れしてしまった。
「どうなったと思う?」
花蓮が、前を向いたまま問いかける。
「どうなったの?」
美玲は首を傾げる。彼女には想像が全く付かなかった。
「フラれたって」
花蓮は、特別な調子もつけずに言った。その事実だけ聞いて、美玲は相槌を打つ。
「なんか、『そういうの困る』って言われたって」
「……ふうん」
告白した人の気持ちも、その好意を受け取らなかった人の気持ちも、美玲にはうまく想像できなかった。
「なんで、その人は告白したの?」
美玲は、わからないままの疑問を口にする。
「足が速くてかっこいいって、前に言ってたよ」
「えっと……かっこいいから、告白したの?」
美玲にとって「足が速い」は、特別かっこいいことではないし、そもそも「かっこいい」だけで告白する気持ちも、全く理解ができなかった。
「そうなんじゃないかな」
花蓮は、あっけらかんと答える。その調子に、美玲も「そういうものか」と思った。
「やっぱり、よくわからないね」
そう呟いて、美玲は前を向いたまま歩き続ける。やはり理解はできなさそうだと諦めた。
「相浦くんには、告白しないの?」
花蓮は、思い出したように言った。
「なんで?」
美玲には、その問いの意味がわからない。
「好きなんじゃないの?」
「好きって何?」
美玲は、考えるより先に、正直な疑問を返した。
「……確かに、好きって何だろうね」
花蓮はそう言って、小さく首を傾げる。
(好き……って、なんだろう)
美玲は彼のことを思い浮かべた。
嫌いではないことは、すぐにわかる。けれど、それが「好き」なのかどうかまでは、はっきりしなかった。
通学路の先に、校舎の一部が見えてきた。朝の光を受けた白い壁が、ゆっくりと近づいてくる。
周囲には、同じように登校する子たちの姿が増えていた。笑い声や靴音が混じり合い、さっきまでの会話が少しずつ遠ざかっていく。
校舎の前では、すでに何人かが立ち止まり、昇降口へと流れ込んでいた。花蓮も、その流れに自然に混ざっていく。
美玲は、少しだけ歩幅を落として、その背中を見送る。それから、同じ方向へ足を向け、置いていかれないように歩調を早めた。




