第03話 気付き
昇降口を出て、やがて学校を後にした。そこには、放課後らしい緩やかな空気が流れていた。
「で、何が聞きたいの?」
陵は前を向いたまま、ぶっきらぼうに言った。
「えっと……」
美玲は言葉に詰まる。
「い、いつも一人で帰ってるの?」
なんとか声を絞り出す。少し噛んでしまったことが恥ずかしかった。
「うん」
陵は迷う様子もなく、あっさりと頷く。それきり、会話が途切れた。
「……えっと」
美玲はもう一度、言葉を探す。どう続ければいいのか、わからなかった。
「友達は……いないの?」
焦って口にしたその言葉に、しまったと思う。
「いない」
陵の返事は、驚くほど淡々としていた。友達がいないことを、特別なことだとは思っていないようだった。
「……そっか」
その反応に、美玲は少しだけ肩の力を抜いた。何を聞いたとしても、必要以上に構えなくていい気がした。
「友達は作らないの?」
少し踏み込んだ質問だった。こんなことを同性の友達に聞いたら、間違いなく嫌われるだろうし、距離を置かれるだろう。
けれども、なんとなく、たぶん、恐らく、今はそうやって聞いても良い気がした。
「作り方、わからないから」
陵がぼそりと言う。その言葉に、美玲は一瞬だけ息を呑んだ。
「……話しかければ、いいんじゃない?」
慎重に言葉を選びながら、美玲はそう返す。陵は小さく首を横に振った。
「何を話せばいいのかわからないから」
その言葉を聞いて、美玲は「自分は何を話しているだろう?」と考える。
「私はいつも、うんって言ってる」
本当に最初の最初は、自分から話しかけることもあるかもしれないが、既に学校が始まってそれなりに日数が経っているから、美玲が他人に自分から話しかける機会は少なくなっていた。
「それ、喋ってないだろ」
陵は即座に突っ込んだ。
その一言に、美玲は一瞬きょとんとした。それから、堪えきれなかったように、小さく息が漏れる。
「……そうかも」
自分でも可笑しくなって、思わず笑ってしまう。
そのとき、美玲は気づいた。彼の前では、学校で感じるような息苦しさが、どこにもない。
「友達になろうよ」
だから、美玲は、さらに踏み込んだ。
彼女は頭がいいことで校内でも知られている。
自分では気にしていないつもりでも、それを快く思わない人がいることも、知っていた。
昨日の出来事も、きっと似たようなものだ。
だからこそ、何も気にせずに話せる相手に、惹かれていたのかもしれない。
「いいけど、俺なんかと関わっても、面白くないよ」
陵は、不思議なものを見るような視線を、美玲に向けた。
「私が一緒に遊びたいから!
……ダメかな?」
美玲はそう言って、ずいっと彼との距離を詰めた。
「ダメ……じゃないけど」
陵には、断る理由が見当たらなかった。
「じゃあ、決まりね! 今日って忙しい日?」
「ううん、暇な日」
「じゃあさ、私の家でゲームしない?」
「い、いいけど……ゲーム、やったことない……」
「そうなの!? じゃあ、教えるから一緒にやろうよ!」
とんとん拍子に話を進めていく美玲に、陵はただ頷くしかなかった。
言葉を挟む間もなく、気づけば話はもう決まっている。
「……桐崎って、こういう感じなんだな」
陵が小さくこぼした言葉は、美玲の耳には届かなかった。
けれど、その声色に含まれたわずかな間に、美玲はなぜか胸の奥が引っかかるのを感じた。
――あれ。
そこでようやく、自分が彼の返事を待たずに話を進めていたことに気づく。美玲は一歩分だけ距離を戻し、恐る恐る彼の顔を見上げた。
「いい……よね?」
さっきまでの勢いが嘘のように、声は少しだけ控えめになっていた。
「いいよ」
陵は短く、けれどもはっきりと答えた。その瞬間、美玲の表情がぱっと明るくなる。
「やった!」
思わず声が弾み、慌てて口元を押さえる。胸の奥で、小さく何かが跳ねた気がした。
やがて、二人は通学路を外れ、美玲の家へ向かった。
住宅街に入ると、道の雰囲気が少しだけ変わる。自転車で走り抜ける子どもや、どこかで遊ぶ声が遠くに混じっていた。
陵は歩きながら、無意識に周囲を見ていた。
自分の家とは、ずいぶん違う。古くて歪んだ造りが当たり前だった暮らしに比べると、ここに並ぶ家は、どれもきちんと形を保っているように見えた。
住宅街の奥で、美玲が足を止めた。
「ここ」
短くそう言って、玄関の前に立つ。その一言で、陵はようやく理解する。
――ここが、桐崎の家なのか。
特別な家というわけではない。手入れの行き届いた表札と、閉じられた扉があるだけの、ごく普通の一軒家だった。
美玲はランドセルから鍵を取り出し、慣れた手つきで差し込む。小さな金属音がして、錠が外れた。
扉を開けると、外の音が一段落ちる。通学路のざわめきや、遠くの遊び声が、玄関の向こうに置き去りにされた。
「いいよ、入って」
外で棒立ちのままになっていた陵に、靴を揃えながら美玲は言った。言い方は淡々としていて、いつも通りだった。中から、ひんやりとした空気が流れてくる。まだ誰も帰っていない家特有の、静かな気配。
陵は一瞬だけ足を止め、それから言われた通りに靴を脱いだ。揃えて上がると、美玲はすでに数歩先を歩いている。
振り返ることもなく、そのまま家の奥へ進んでいく。陵は少し遅れて、その後を追った。足音が、静かな家の中に控えめに響く。
突き当たりで、美玲が立ち止まった。ドアノブに手をかけ、軽い音を立てて扉を開く。
「ここ、リビング」
一歩中に入ってから、美玲は壁際に手を伸ばした。ぱちりと音がして、照明が灯る。
部屋の輪郭がはっきりと浮かび上がった。テーブルとソファ、それから電源の落ちたテレビが、整った配置で置かれている。生活感はあるのに、散らかった印象はなかった。
陵は、無意識のうちに室内へ視線を巡らせていた。
「そこ、座ってて」
美玲はそう言って、リビングの中央に置かれたソファを指す。命令口調というほど強くはないが、迷いのない言い方だった。
陵は一瞬だけためらうような間を置いてから、言われた通りにソファへ腰を下ろす。沈み込みは浅く、座面はまだひんやりとしていた。
「すぐ戻るから」
それだけ言い残し、美玲はランドセルを肩から下ろして壁際に置く。陵もそれにならい、自分のランドセルをソファの脇に寄せた。
美玲はそのまま、リビングと続きになったキッチンへ向かう。冷蔵庫を開ける音がして、続いて柔らかな水音が彼の耳にも届いた。
しばらくして、ふたつのガラスコップを手に戻ってくる。
「……あ、麦茶とか、嫌い?」
先に聞くべきだったと思いながら、美玲はそう尋ねた。陵は小さく首を横に振る。
陵は差し出されたコップを受け取り、両手で包むように持った。ガラス越しに伝わる冷たさに、指先がわずかに反応する。
「ありがとう」
短くそう言って、一口だけ口をつけた。
美玲は自分の分のコップをテーブルに置くと、ソファの前を横切ってテレビの前に立った。リモコンを手に取り、迷いのない動作で電源を入れる。
ぱちり、と小さな音。画面が暗闇から切り替わり、部屋に淡い光が広がった。
「あ、ちょっと待ってね」
言いながら、美玲はテレビ台の下にしゃがみ込む。引き出しを開ける音、ケースが触れ合う軽い音が続く。陵はソファに座ったまま、その様子を眺めていた。
「はい」
美玲が顔を上げ、ゲーム機のコントローラーを差し出した。
「これ持って。最初は簡単なのにするから」
美玲にとって「一緒に遊ぶ」ことが当然だった。陵は一瞬だけそのコントローラーを見てから、受け取った。
「……これ、どこ持つの?」
「そこはね――」
美玲は少しだけ身を乗り出し、彼の手元を覗き込む。その距離に、陵はわずかに肩を強張らせたが、美玲は気づかない。
「ここが動くやつで、こっちが決定」
指で示しながら、美玲は楽しそうに説明する。ゲーム機から起動音が鳴り、テレビの画面にはタイトル画面が表示されていた。
「これを、こう?」
陵は手探りでボタンを押す。すると、画面が一瞬で真っ暗になった。
「……壊してないよな?」
不安そうに、美玲の顔を見る。
「あはは、大丈夫。壊れてないよ」
そう言ってから、美玲は画面に視線を戻す。
「えっと……演出ってやつだから、ちょっと待てば……ほら」
暗転した画面が、次の瞬間、緑や青、茶色と色を変えながら切り替わっていく。やがて色の流れが収まり、一枚の絵に落ち着いた。
濃い青を基調にした背景の中央に、装飾の多い文字でゲームのタイトルが浮かび上がる。剣や紋章を思わせる意匠が添えられていて、どこか物語の入口のようだった。
画面の下には、白い文字が縦に並んでいる。
『はじめから』
『つづきから』
『せってい』
一番上の文字の横で、小さな光の印が静かに点滅していた。
「そのまま、ボタンを押せば大丈夫」
美玲は画面を見たまま言い、次に、リモコンを持つ陵の手元へとちらりと視線を落とす。陵は画面とコントローラーを交互に見比べていて、まだ状況を測りかねている様子だった。
「はじめからってこと?」
「そう。物語の最初からやるの。その方が楽しいし」
陵は言われた通りにボタンを押した。
画面がすっと切り替わる。先ほどまであったタイトル画面の光が消え、テレビの中が一瞬、静止したように見えた。
その沈黙を破るように、微かな音が立ち上がる。
風が吹き抜けるような、低く穏やかな環境音。はっきりとした旋律ではない。ただ、どこか遠くの場所を思わせる、広がりのある音が、リビングに静かに満ちていく。
画面の中央に、白い文字がひとつ、浮かび上がった。
『——世界は、まだ名を持たなかった』
文字はゆっくりと消え、続けて新たな一文が表示される。画面の向こうには、現実とは違う世界が、少しずつ形を帯び始めていた。
ゲームのプロローグが始まり、画面の下部に文章が次々と現れる。
陵は一文ずつ視線を追い、読み終えるたびに、確かめるようにボタンを押して先へ進んでいく。その様子を、美玲は隣で黙って見ていた。
「……面白い」
まだ物語は始まったばかりだった。陵が突然そんなことを呟いた。
「でしょ!?」
美玲は身を乗り出し、嬉しそうに頷く。
「う、うん」
その勢いに少しだけ気圧されながらも、陵は小さく頷いた。
それから、しばらくのあいだ、二人はゲームを続けた。
物語が進むたびに画面の色が変わり、新しい場所や人物が現れる。美玲は要所で説明を挟み、陵はそのたびに頷いて、言われた通りにボタンを押す。
「そこ、今は調べられないよ」
「……あ、ほんとだ」
失敗しても、陵は特に慌てなかった。一度だけ画面を見つめ直し、同じ操作を繰り返す。その姿から、彼がどれほど集中しているかは、美玲の目にも明らかだった。
段々と小窓の外が暗くなる。大きな窓はシャッターに締め切られたまま。
その時だった。
――カーン、コーン。
遠くから、低く澄んだ音が届く。町に決まって流れる、遊びの終わりを告げ、夜を誘う鐘の音であった。
美玲は、はっとして窓の外を見る。
隣で、陵がぽつりと呟く。
「集中し過ぎた……」
それは独り言のような声だった。なんとも言えないような、そんな表情を作っていた。
「今日、楽しかった」
それから、陵は彼女の方を見て、さらに言葉を続けた。
その顔を見たとき、美玲の中で、今日一日の出来事が静かに繋がる。彼が特殊な人間ではなく、ただの子供であり、ただの人であることを悟った。
「本当にありがとう!」
陵はそう言って、時間だからと席を立つ。
「相浦、くん」
「ん?」
「まだ、終わってないから。今度、続きやらない?」
また誘うのは、もしかしたら邪魔かもしれない。しつこいかもしれない。そう思いながらも、美玲は言葉にした。
「いいの?」
陵は、信じられないものを見るような目で、彼女を見つめる。
「いいよ!」
だから、美玲は、強く頷いた。
「じゃあ、また来る」
陵はランドセルを背負う。美玲も彼を見送るために、玄関へと向かった。




