第02話 知りたい
教室の扉を開けると、朝の空気がそのまま流れ込んできた。
机を引く音や、誰かの笑い声が重なり、いつもの朝と変わらない賑わいが広がっている。
「おはよう、美玲」
「桐崎、おはよ」
いくつかの声が自然に向けられた。
美玲は軽く頷きながら、ひとつひとつに応える。
「おはよう」
花蓮だけでなく、近くの席の子や、通りがかりのクラスメイトも声をかけてきた。
「今日さ、算数のテストあるんだっけ」
「給食、カレーだって」
「体育、外かな?」
どれも取り留めのない話題ばかりで、会話は途切れることなく続く。
美玲は相槌を打ち、短く返事を返して、程よい頃合いで自分の席へ向かった。
ランドセルを机の横に掛け、椅子を引く。その動作の途中で、ふと視線を上げた。
教室の奥、窓際の席。朝の光を受けながら、相浦陵が座っていた。机に向かうでもなく、誰かと話すでもなく、ただ窓の外に視線を向けている。
周囲の賑やかさから、少しだけ離れた場所。そこだけが、静かに切り取られているように見えた。
(……いた)
美玲は小さく息を吐き、椅子に腰を下ろす。もう一度だけ、そっと窓際を見たが、陵は変わらず外を見ていた。
なかなか落ち着かない。ただ窓際まで歩いて、彼に話しかけるだけなのに、それを思い浮かべると、途方もなく緊張した。
(……話しかけるって、こんなに難しかったっけ)
そんな実感とともに、視線を机に落とした。
今すぐ立ち上がらなくてもいい。声をかけるなら、一言だけでいい。そう頭ではわかっているのに、身体は言うことを聞いてくれない。椅子に座ったまま、指先だけが落ち着きなく動いた。
ふと、周囲の会話に耳を澄ます。花蓮やクラスメイトたちは、変わらず楽しそうに話していた。誰かが物を落とし、机か椅子が軽く鳴る。そんな音に紛れてしまえば、声を出すこと自体は難しくないように思えた。
美玲は、ゆっくりと顔を上げた。視線の先、彼の姿を捉える。変わらず窓の外を見ていた。
一拍置いて、美玲は席を立つ。数歩進み、彼の机の前で足を止めた。
「……おはよう」
声は思ったよりも小さかった。振り向いた陵は、ほんの一瞬だけ目を見開く。
「お、おはよう」
少し間を置いて、戸惑いが滲ませたような挨拶が返ってきた。
それ以上、言葉は続かなかった。陵が視線を窓の外へ戻した、そのとき、朝のチャイムが鳴った。
美玲は何かを言い足そうとして、それでも言葉にならなくて、喉奥で短く息を呑み込み、その場を離れた。
やがて、担任の先生が教室を見渡し、朝のホームルームが始まった。
連絡事項が告げられ、手紙が配られる。今日の授業の変更や、提出物についての話が続く。説明の途中で声を上げる子もいて、すべてが滞りなく進むわけではなかったが、それでも時間は前へ進んでいった。
こっそりと彼の方に視線を向けてみたが、先生が話をしているときも、つまらなさそうに外を眺めていた。
朝のホームルームが終わると、教室の空気はふたたび賑やかになった。
椅子を引く音、机の中を探る音、誰かが立ち上がる気配が重なっていく。まだ授業は始まっていないのに、完全に自由というわけでもない、そんな時間だった。
美玲も教科書、ノート、筆箱を机の上に揃えて、次の授業への準備を終える。授業が始まるまでの空白はまだ残っていた。
ふと、彼に話しかけたいと思った。さっきの続きをしたかった。何を話せばいいのかわからないけれど、それでも、彼のことをもっと知りたいと思った。話せるときに話さなければ、次に言葉を交わせるのはいつになるのだろうか。
そんなことを考えているうちに、担任の先生が教室に戻ってきた。一時間目が始まった。
一時間目が終わると、教室は一気に緩んだ。
ノートを閉じる音、伸びをする声、席を離れる足音が重なっていく。身体を動かしたことで、少しだけこもっていた熱が逃げていく。
美玲は鉛筆をしまいながら、ふと顔を上げる。窓際の席では、陵が静かに次の教科書を出していた。
話しかけるなら、今かもしれない。そう思ったのに、声は出なかった。
彼は忙しそうでも、困っているようでもない。そのことが、かえって声をかける理由を曖昧にしてしまう。チャイムが鳴り、二時間目が始まった。
二時間目が終わるころには、少しだけ身体が重く感じられた。
教室の中では、次の準備をしながら、別の話題で笑う声が聞こえてくる。陽射しは少しずつ高くなり、机に触れた腕に、かすかな温もりが残った。
美玲は席を立ち、机の横でランドセルの中を整えた。教科書を入れ直すふりをしながら、視線だけが窓際へ向かう。
声をかけてみようかな。そんなふうに気持ちが凪いでいると、先生が教室に入ってきた。三時間目が始まった。
三時間目が終わると、教室の空気はどこか落ち着いていた。
昼が近いせいか、さっきまでよりも動きがゆっくりになる。窓から入る風も、少しだけ暖かさを帯びている。
美玲は机に手を置いたまま、しばらく動かなかった。窓際を見ると、陵は椅子に座ったまま、ぼんやりと前を向いている。
話しかけられなかった理由は、もう自分でもはっきりしなかった。怖いわけでも、迷っているわけでもない。ただ、今はまだ、この距離のままでいい気がした。そう思ったことに、美玲は少しだけ戸惑う。四時間目のチャイムが鳴り、教室は再び、授業の形を象った。
「さっきから、何か用?」
四時間目が終わった、そのときだった。
その声に美玲は思わず肩をはねさせ、振り返る。そこに立っていたのは陵だった。
思ったよりも近い距離に彼がいて、美玲は一瞬だけ言葉を失う。長袖のシャツの下、腕や肩のあたりが、他の児童よりもしっかりして見える。それだけで、少しだけ威圧感を覚えた。
「ば、ばれてたの?」
胸の奥がきゅっと縮む。穴があったら入りたいとはこのことだろうか。美玲は視線を落とした。
「あんなに見られてれば、俺じゃなくても気が付くと思うけど」
陵は呆れたように言った。それから、座っている美玲に視線を合わせるように、ほんの少しだけ屈む。
「……で、何か用?」
同じ問いが、もう一度だけ投げられる。
「相浦くんのこと、もっと知りたくて」
目線が同じだったからか、その言葉は思ったよりもすんなりと出た。
「なにそれ、変なやつ」
陵はそう言って、ちょっとだけ笑う。
美玲は、ほんの一瞬だけ、その表情から視線を外すのが遅れた。
「何か顔についてる?」
「え、ううん。そんなことないよ。えっと……もう給食の時間だから」
美玲は言い終えるより早く視線を外した。
何を話せばいいのかわからなくなって、何を聞きたかったのかも曖昧になって、そのまま、給食の準備を始めているクラスメイトたちの方へと気持ちを向ける。配膳の声や椅子を引く音が、さっきまでの沈黙をあっさりと押し流していった。
(はあ……)
給食の班を作りながら、美玲は内心で小さく息を吐いた。
せっかく話せるチャンスだったのに、と思う。けれど、その続きをどう繋げればよかったのか、全くわからなかった。
「桐崎さん、行かないの?」
同じ班のクラスメイトに声をかけられて、美玲は顔を上げる。
配膳係の前には、すでに長い列ができていた。食缶を運ぶ音や、当番の呼びかけが教室のあちこちから聞こえてくる。
「今行く」
そう答えて、列のいちばん後ろに並んだ。
前に並ぶ子たちの背中をぼんやり眺めながら、トレーを持つ手に力が入る。味噌汁の湯気と、どこか甘い匂いが混ざって、空腹を意識させた。
配膳が進み、器がトレーに置かれる。決まった量、決まった動作。いつもと変わらないはずなのに、今日は少しだけ時間が長く感じられた。
席に戻り、手を合わせる。
「いただきます」
返事が重なり、班の中で箸が動き出す。
カレーの味は、いつも通りだった。特別に美味しいわけでも、不味いわけでもない。それでも、美玲の意識はときどき食器から離れて、教室の奥へと引き寄せられる。
窓際の席に視線を向けることはしなかった。向けなくても、そこに彼がいることはわかっていたからだ。
会話が弾む班もあれば、黙々と食べ進める班もある。美玲は相槌を打ち、必要な返事だけを返しながら、いつの間にか皿の中を空にしていた。
「ごちそうさまでした」
声が重なり、椅子を引く音が増えていく。トレーを持って立ち上がると、食器が触れ合う軽い音がした。
やがて、食器を片付ける音が教室に重なっていく。給食の時間が終わり、昼休みが始まった。
美玲はトレーを返し終えると、そのまま自分の席へ戻った。
椅子に腰を下ろし、ランドセルの中に手を伸ばす。昼休みに読もうと思っていた本を取り出し、机の上に置いた。
ページを開いたのも束の間、視線はすぐに文字から離れてしまう。同じ行をなぞっているだけで、内容は頭に入ってこなかった。
「なんか、今日の美玲、上の空だね?」
背後から声をかけられて、美玲は顔を上げる。振り向くと、花蓮が机の横に立っていた。
「え、そうかな?」
自分ではそんなつもりはなかった。授業で困ったこともなければ、先生に急に名前を呼ばれても、ちゃんと答えられていた。
それでも、そう言われてみると、心のどこかに引っかかるものが残った。
「そうだよ。……相浦くんのこと、気になってるの?」
花蓮はいたずらっぽく声を落とし、美玲の耳元に顔を寄せる。
「……どう、なんだろ。知りたいとは思うけど」
言葉にしてみても、しっくりこなかった。これが「気になる」ということなのだろうか。胸の奥に残るこの感じを、どう呼べばいいのか、美玲にはまだ判断がつかなかった。
「放課後、昨日みたいに一緒に帰ったら?」
花蓮が、何でもないことのように言った。
「……見てたの?」
「そりゃ、急いで帰ってるの見たらわかるって。昨日、あんなこともあったし」
昨日の出来事は、暴力事件と呼んでも差し支えないほどだった。長い付き合いの花蓮には、美玲が誰と帰ったのかくらい、自然と察しがついていた。
「そうする」
そう答えながら、美玲は小さく息を吐く。花蓮に言われて、ようやく自分のやりたいことに向き合う覚悟が整った。
放課後を知らせるチャイムが鳴ると、教室の中の空気が弛緩したのを感じた。
椅子を引く音や、帰り支度を始める気配が、あちこちで重なっていく。
美玲も連絡帳を閉じ、筆箱をしまった。
明日の宿題がランドセルに入っているか、最後に確認をしてから、ランドセルの金具を回した。
それから、窓際を見ると、もうそこに陵の姿はなかった。
(はやっ……)
昨日も思ったことだが、彼は帰り支度が早過ぎる。
雑多な教室の中で、出て行った気配すらないのに、気づけば誰よりも先に姿を消している。
(行かなきゃ)
美玲は彼を追いかけて、校舎一階の昇降口に向かって駆け出した。
「待って!」
陵の姿を見つけて、美玲は思わず声を上げた。
「……またかよ。今度は何?」
立ち止まった陵は振り返り、ほんの少しだけ煩わしそうな表情を浮かべる。
「ごめん、何度も。でも……もっと、知りたくて」
肩で息をしながら、美玲は言葉をつないだ。
「何を?」
「相浦くんのこと。私、全然知らないから」
冷静に言葉なんて紡げない。素直な感情をそのままに吐露する。
「……桐崎って、そんなに他の人に興味あったんだ」
陵はそう言いながら、美玲を値踏みするように見た。
「気になった、から」
一瞬だけ間が空く。
「……わかったよ」
短く、それだけ答えた。




