第01話 日常
「ただいま」
美玲は玄関の鍵を回し、扉を開けた。
家の中は静かだった。外の空気よりも少しだけ冷えた空気が、玄関に溜まっている。
靴を脱ぎ、揃えて置く。特別に意識することもなく、身体が先に動く。いつも通りの所作であった。
扉を閉めると、廊下の照明が自動で点いた。白い光が足元から順に広がり、奥へと続く廊下を照らす。天井は高く、音が吸われるように静かだった。
ランドセルを肩から下ろし、壁際のフックに掛ける。金具が触れ合う小さな音だけが響いた。
そのまま廊下を進み、リビングへ入る。照明は落とされたままで、大きな液晶テレビが、真っ暗な画面を映している。
リビングに繋がる扉のすぐ隣の壁に、手を伸ばせば届く照明のスイッチがある。人差し指でぱちっと押した。部屋は一気に明るくなり、まるで時間が止まったようだった。
ソファの前に置かれたテーブルの上には、朝にそのままにしていった教材と筆記具が残っている。ノートは閉じられ、鉛筆は転がったままだった。
美玲はソファの前で立ち止まり、リモコンを手に取る。一度だけ画面を見てから、電源を押した。
低い起動音とともに、画面が白く瞬き、次の瞬間には色と光が部屋に広がった。映像が映り、音が流れ出す。ささやかな音量だったが、先ほどまでの静けさは確かに切り替わった。
美玲はリモコンをテーブルに戻し、そのままソファに腰を下ろす。クッションが柔らかく沈み、背中を支えた。
視界の端に、ソファの脇に置かれた小さなゲーム機が入る。美玲はそれを手に取り、電源を入れた。短い起動音とともに、画面が静かに灯る。
指先を動かし、画面を確かめる。操作に迷いはなかった。区切りのいいところまで進めてから、電源を落とす。ゲーム機を元の位置に戻すと、再びソファに身体を預けた。
リモコンのボタンを押し、番組が流れるチャンネルに切り替える。テレビの音量は低い。聞こうとしなければ聞こえない程度の音が、部屋の静けさを完全には途切れさせないまま流れている。
少しだけ視線を動かし、キッチンの方を見る。調理台の上は片付いているが、踏み台が流しの横に置かれたままだった。昨日使ったものだ。
美玲は立ち上がり、電気が勿体無いからと、リビングの照明を落としてから、色を映すテレビの前を横切って、キッチンへ向かう。ダイニングとキッチンの照明を付けて、冷蔵庫を開け、中を確認する。買い置きの食材は揃っていた。
踏み台を動かし、棚から鍋を下ろす。金属が触れ合う音が、広い室内に小さく響いた。美玲は手を洗い、エプロンを身につけた。その動作にも、迷いはなかった。
火を使い、刃物を使い、鍋を使い、キッチンで手早く食事を整える。一つひとつの動作に迷いはない。慣れた手順をなぞるように身体は動いていた。
やがて、それぞれの皿に盛る。たった一人分の食事を、ダイニングテーブルに運ぶ。広いテーブルの中央に置くと、皿の上から、細い湯気が立ち上っていた。その周囲だけが切り取られたように静かだった。
椅子を引き、腰を下ろす。向かい側の席には、何も置かれていない。視線を向ける必要もなく、美玲は手を揃えた。
「いただきます」
返事はない。
おもむろに箸に手を伸ばす。食器が触れ合う微細な音が、低く流れるテレビの音に紛れる。
「ごちそうさまでした」
やはり、返事はない。
持っていた箸を食器の上に転がして、皿を持ち上げ、静かにキッチンへと戻った。
シンクに皿を置く。蛇口をひねる。水の音が立ち上がり、シンクを細かく揺らした。
洗剤を手に取って、スポンジも手に取る。指先の感触を確かめながら、食器を水にかざすと、それに残った温度と共に、指先の体温もゆっくりと失われていく感覚があった。
泡が立ち、皿の表面を覆う。頑固な汚れはなく、すぐに綺麗になった。箸、皿、コップ。使った分だけを順に洗い、すすぎ、水を切る。洗い終えた食器を水切りかごに並べる。音を立てないよう、置く位置を確かめてから手を離した。
蛇口をしめると、キッチンには静かさが戻った。遠くから流れる小さなテレビの音が、より鮮明に聞こえた。色鮮やかに光る液晶が置かれたリビングに戻ることはなく、そのまま廊下に繋がる扉に手をかける。廊下に出ると、白い光が足元から順に広がった。
美玲はそのまま洗面所へ向かい、扉を開ける。真っ暗な空間が、ひやりと背を撫でる。一瞬だけ立ち止まり、内側の壁に手を伸ばしてスイッチを押した。
洗面所は白く照らされた。
壁際に設えられた洗面台と、その周囲に置かれたコップ、歯ブラシや歯磨き粉のチューブ、その上に掛けられた大きな鏡が、均一な光を受けて浮かび上がる。鏡の中には、肩までの髪が少しだけ乱れた美玲の姿が映っていた。
その横には洗濯機が置かれている。白い筐体は壁に沿って収まり、操作パネルの表示は消えたままだった。動いていない機械は、音もなくそこにある。
父と母が置いていった洗濯物と、自分の脱いだ衣類が入った洗濯カゴに手を伸ばし、中身を洗濯機に入れて、今着ている服も脱いで加える。洗濯機の蓋は閉めず、そのまま開けた状態で手を離した。
一度だけ洗面所を見回し、奥の壁へ手を伸ばして浴室の照明を点ける。
扉の向こう側に、ぼんやりとした光が灯る。そのまま浴室の扉に手をかける。引くと、わずかな抵抗のあとに扉が開き、湿った空気が静かに流れ出した。
足を踏み入れると、床の冷たさが、素足にそのまま伝わってきた。
身体を洗い、湯を落とす。浴室の中は、すぐに静かになった。
再び扉を開けると、洗面所の白い光が差し込む。湿った空気が外へ逃げ、冷えた床の感触が戻ってくる。
美玲は洗面所の壁際に視線を向ける。掛けられていたタオルに手を伸ばし、それを取った。
身体の水気を拭い、タオルを洗濯機の中に入れる。
洗面台の前に立ち、ドライヤーを手に取る。電源を入れると、低い音が立ち上がり、湿った空気を押しのけるように風が流れた。濡れていた髪から、少しずつ水気が失われていく。音を止め、コードを元の位置に戻す。棚から衣服を取り出し、順に身につけた。
整え終えると、洗濯機の前に立つ。洗剤と柔軟剤を入れ、蓋を閉める。操作パネルに触れ、起動させた。
照明を落とす。白かった空間はすぐに影に沈み、廊下の光だけが境界を形作った。
洗濯機の低く鈍い回転音を背に、学校の宿題に手をつけることにした。リビングに転がされていた家用の文房具やノートを集め、それらを抱えて自室へ移動する。
部屋の勉強机に向かうと、鉛筆の先が紙の上をなぞり、同じ作業が淡々と繰り返されていった。
いつの間にか、あの音が聞こえなくなっている。ページをめくる手を止めた、そのときだった。玄関の方から、鍵が回る音がした。
(誰か、帰ってきたのかな?)
父か母か、それは見てみなければわからない。そのまま廊下に出ると、玄関が視界の先に収まる。
「ママ、おかえり」
「あら、美玲。ただいま」
綺麗なパンプスを脱ぎ、彼女の母は玄関に足掛ける。
「ママ、洗濯物は終わってるから」
「あらそう。じゃあ、後はやるから、美玲はもう寝なさい」
「うん、わかった」
「おやすみ、美玲」
「うん、おやすみ」
母は一歩、廊下を進みかけてから、ふと足を止めた。
「……何か、いいことでもあった?」
「うん、そうかも」
背中越しの声に、美玲は、今日の出来事を思い返しながら答えた。
「そう。楽しそうでよかったわ」
美玲は母の背中が廊下の奥に消えるのを見届けてから、ゆっくりと向きを変えた。
自分の部屋に戻る。机の上には、開いたままのノートと、転がしたままの鉛筆がある。ノートを閉じ、鉛筆を揃える。引き出しにしまうと、机の上は何も残らなかった。
カーテンを引く。外の光が遮られ、部屋の輪郭がさらに曖昧になる。照明を落とすと、闇がすぐに満ちた。ベッドに腰を下ろし、身体を横たえる。シーツがわずかに沈み、背中を受け止めた。
天井を見上げる。目を閉じる。遠くで、家のどこかがきしむ音がしたが、すぐに静かになった。
枕元で電子音が鳴った。短く、規則正しい音だった。
何度か繰り返されたあと、美玲は眉を寄せ、寝返りをうって、その音を遮るように手を伸ばす。音が止まると、部屋には朝の静けさが戻った。
ゆっくりと瞼を上げる。
薄く明るい部屋に、カーテン越しの光が滲んでいる。寝ぼけ眼に映る景色は少しぼやけていて、その歪んだ視界から逃げるように、天井を見上げた。
昨夜と変わらないはずの白い面が、少しだけ遠く感じられた。
身体を起こすと、シーツが擦れる小さな音がした。
足を床に下ろし、カーテンを少しだけ引く。足元を刺すひやりとした感触と、鋭く差し込んだ光に、眠気がゆっくりと引いていく。
(今日も、話しかけてみよ)
今日の美玲には、ひとつの目標があった。
昨日、初めて言葉を交わした少年に、今日も話しかけること。
登校に必要な教科書と筆記具をランドセルに詰め、朝食の準備をするためにリビングへ向かった。
リビングに入ると、すでに人の気配があった。
テーブルの向こうで、父が新聞を広げている。背中を丸め、コーヒーカップを片手に、静かに紙面へ視線を落としていた。
時計の針が進む音と、紙をめくるかすかな音だけが、部屋に満ちている。
「おはよう」
美玲が声をかけると、父は顔を上げた。
「おはよう。朝食は作ってあるから、今日はそれを食べてくれ」
冷蔵庫に視線を向けて、それだけを言うと、父はまた新聞に目を戻した。
美玲は小さく頷き、冷蔵庫の前に立つ。踏み台を持ってきてから扉を開けると、サランラップで軽く包まれた定食が、一人分だけ置かれていた。
食器をそれぞれ電子レンジで温め、父の向かいに腰を下ろす。
「昨日、ママも帰ってきてたよ。珍しいね」
美玲は、目の前の父に素直な感想を投げた。父も母も、普段はあまり家に帰ってこないからだ。
「そうか。さっき帰ってきたばかりだから、顔は合わせてない」
それきり、特に会話が続くことはなかった。やがて、父は席を立った。
「もう行くの?」
「ああ、次の商談が入っているからな」
美玲の問いに、父は一瞬だけ視線を逸らし、少し困ったような表情を浮かべた。
「いってらっしゃい」
「美玲も気をつけてな」
リビングに一人、美玲は取り残された。
朝食を食べ終えると、食器を洗い、学校に持っていく水筒を準備する。昼は給食だから弁当は必要ない。
ランドセルに必要な物をすべて詰めると、美玲は誰もいなくなった家を後にした。
玄関の扉を閉めると、朝の空気が頬に触れた。夜の冷えをわずかに残しながらも、その風はもう刺すようなものではない。
空はよく晴れていた。日が差し込んだ場所に足を踏み入れると、冷えていた身体の奥がゆっくりと緩む。
「美玲、おはよう」
不意に背後から声をかけられた。
振り返ると、藤原花蓮が、いつもの調子で立っている。
「おはよう、花蓮」
普段通りの挨拶を返すと、花蓮は一歩近づいてきた。
「ねえ美玲、聞いて聞いて!」
「……また好きな人の話?」
美玲は小さく息を吐きながらも、続きを促す。
「そう! 隣のクラスの内藤君、めちゃくちゃかっこよくない?」
「……誰それ?」
花蓮の言う「内藤君」の顔を、美玲は思い浮かべることができなかった。
「ええっ!? 運動がすごく得意な子だよ!」
「そ……そうなんだ」
花蓮の熱のこもった声に対して、美玲の返事は、どこか上滑りしていた。
「そういえばさ、美玲からそういう話、聞いたことないよね」
少し首を傾げながら、花蓮が言う。
「まだ小学生だよ」
「でも、もう付き合ってる子もいるよ?」
あっさりと言われて、美玲は一瞬、言葉に詰まった。
同じクラスの中にも、誰かと付き合っている子がいることは知っている。休み時間のひそひそ話や、噂話で耳に入ってくることもあった。
けれど、それが自分に重なることはなかった。誰かと手を繋ぐとか、放課後に待ち合わせるとか、そういう光景は少し遠い。
「……それでも、私にはよくわからないよ」
美玲は小さく首を横に振り、思ったままを口にした。
「美玲には、ちょっと早かったか」
花蓮は「あちゃー」というように、軽く顔に手をやる。
「その言い方、むかつく。花蓮が早すぎるだけでしょ」
美玲は少しだけむっとして、ほんの少し強めに言い返した。
「えー、そうかなあ」
花蓮は肩をすくめて笑い、特に気にした様子もない。
そのまま二人で歩いていると、視界の先に校舎が見えてきた。
昇降口へ向かう生徒たちの姿が増え、周囲が少しずつ賑やかになっていく。
チャイムが鳴る前の、まだ落ち着かない時間帯だった。美玲は校舎を見上げながら、さっきの会話をそれ以上続けることはなかった。




