第11話 事件
ふと気づくと、美玲の手は自然と陵の腕を引いていた。
陵は何も言わず、ただ彼女の歩幅に合わせて歩いている。
中学校の入学式を終えたばかりの、春の昼下がり。
二人は真新しい制服に身を包み、通い慣れた通学路を歩いていた。
少し大きめのブレザーの袖が陵の手の甲に掛かる。美玲もまた、着慣れないプリーツスカートの裾が足に触れる感覚に、まだどこか落ち着かなさを覚えていた。
「今日、うち来るよね?」
美玲は腕を引いたまま振り返る。
「うん。ゲームの続き、あるだろ」
陵はいつも通り、淡々と答えた。
「よかった。クラス離れちゃったから、ちょっと寂しかったんだよね」
「隣の教室だろ。壁一枚しか違わない」
あまりにも合理的な返事に、美玲は小さく唇を尖らせる。
そういう問題じゃないのに。
心の中で呟く。それでも、彼がいつも通り自分の家に来てくれることが、やっぱり嬉しかった。
通学路を外れ、美玲の家がある住宅街へ入る。
美玲の両親は有名な実業家と最先端技術の研究者だ。
その家がある区画には、立派な一軒家が整然と並んでいる。昼間はほとんどの住人が仕事や学校に出ており、通りには人の気配すらほとんどない。
いつもと変わらない帰り道のはずだった。
しかし。
美玲の家まであと少しという曲がり角に差しかかったとき、前方に一台の黒いワゴン車が停まっているのが見えた。
エンジンはかかったまま。
低い駆動音だけが、静かな住宅街に微かに響いている。
美玲は特に気にすることもなく、その横を通り過ぎようとした。
だが。
彼女が引いていた陵の腕が、ぴたりと止まった。
「……陵?」
振り返る。
陵は立ち止まり、ワゴン車を見ていた。
ほんのわずかだが、彼の空気が変わっている。
その違和感に、美玲の背筋に冷たいものが走った。
その直後だった。
ワゴン車のスライドドアが勢いよく開く。
帽子とマスクで顔を隠した男たちが数人、次々と飛び出してきた。
「桐崎美玲、だな」
低い声で、男が言う。
「え……?」
理解が追いつかないまま、美玲は立ち尽くした。
男の一人が手を伸ばし、美玲の腕を掴もうとする。
「きゃっ……!」
だが、その手が彼女に触れることはなかった。
横から滑り込むように動いた陵が、男の腕を捉えたのだ。
次の瞬間、腕がねじ上がる。
「ぐっ……!」
男の身体が横へ弾かれ、体勢を崩した。
陵はそのまま美玲の前へ出る。
男たちとの間に、静かに立った。
「……何するんだ、お前ら」
声は平坦だった。
怒りも恐怖も感じさせない。
「ガキが、邪魔すんじゃねえ!」
別の男が舌打ちし、一気に踏み込む。
「陵っ!」
美玲の叫びと同時に、男の身体が突っ込んできた。
距離は一瞬で詰まる。
だが、その瞬間。
陵の足が、わずかに横へ滑った。
男の手が空を切る。
陵の身体は、もうそこにはいない。
半歩。
それだけだった。
男の勢いが前へ流れる。
陵の手が肘に触れた。
その瞬間、男の身体が前へ折れる。
「なっ……!」
陵は一歩踏み込み、肩を押した。
鈍い音。
男の身体がアスファルトに叩きつけられる。
すべてが一瞬だった。
その間にも、残りの男たちが動く。
「チッ、まとめてやれ!」
二人が左右から踏み込んだ。
陵は振り向かない。
ただ、美玲の前に半歩立つ。
「下がって」
短く言う。
美玲は無意識に一歩下がった。
その瞬間、右から拳が振り下ろされる。
陵は身体をわずかに傾けただけだった。
拳が空を切る。
同時に、陵が踏み込んだ。
一瞬で懐に入る。
手刀が胸に触れた。
ただ触れただけだった。
だが次の瞬間、男の身体が後ろへ吹き飛ぶ。
「がっ……!」
男がよろめく。
その隙に、もう一人が腕を振り下ろした。
陵がその手首を掴む。
ひねる。
骨が軋む音。
「いっ……!」
男の膝が崩れる。
陵は腕を離し、背中を押した。
男は前へ転がり、アスファルトに肩を打った。
住宅街が静まり返る。
わずか数秒。
三人の大人が地面に倒れていた。
美玲は言葉を失ったまま、陵の背中を見ていた。
彼は息ひとつ乱していない。
まるで、何でもない動作を終えたかのようだった。
残っていた男が一人、立ち尽くしている。
その男の目が変わる。
「……このガキ」
男の手が懐に入った。
金属が光る。
ナイフだった。
美玲の呼吸が止まる。
陵はその刃を静かに見ていた。
足の位置がわずかに変わる。
男が踏み込む。
ナイフが振り下ろされた。
しかし。
刃は何も刺さなかった。
陵は半歩、横へ動いていた。
それだけで、ナイフは空を切る。
男の身体が前へ流れる。
陵の手がその腕に触れた。
軽く触れただけだった。
だが次の瞬間、男の手首が外側へ回る。
「……っ!」
男の身体が前へ折れる。
ナイフがアスファルトに落ちた。
乾いた音が響く。
陵は腕を離した。
男の身体がそのまま前へ倒れる。
動かない。
住宅街は再び静かになった。
ワゴン車のエンジン音だけが、低く響いている。
陵は倒れている男たちを一度見回した。
動かない。
だが、呼吸はある。
それを確認すると、ポケットからスマートフォンを取り出した。
「警察呼ぶ」
短く言う。
美玲はまだ状況を理解しきれていない様子で、ただ頷いた。
陵は通話ボタンを押す。
「すみません。誘拐未遂です」
陵は落ち着いた声でそう告げると、そのまま通話を続けた。
だが、美玲にはその内容がほとんど耳に入ってこなかった。
何かを説明している声は聞こえているのに、言葉が意味として頭に入ってこない。
それよりも、別のことが頭に浮かんでいた。
陵、スマートフォン持ってたんだ。
小学校の頃は持っていなかったのに。
中学生になったから、誰かに買ってもらったのかな。
通話を終えると、陵はしゃがみ込み、地面に落ちていたナイフを拾った。
刃を一度だけ確認する仕草をしてから、それを近くの植え込みの奥へ放る。カサ、と葉が揺れる音がした。
陵は立ち上がる。
「もう大丈夫」
振り返り、美玲を見る。
その声は、いつもと同じだった。その言葉は正しく聞き取ることができた。
美玲は、瞬きも忘れたように陵を見つめ返した。
今までずっと隣にいた幼なじみ。
少し変わっていて、少し不思議で。
それでも、ただの幼なじみだと思っていた。
けれど。もしかすると。自分が思っていたよりもずっと。
この人は特殊な存在で、それ以上に、普通ではないのかもしれない。
遠くから、かすかにサイレンの音が聞こえ始めていた。
静まり返った住宅街に、その音は少しずつ、けれど確実に近づいてくる。
「……怪我、してないか?」
陵の平坦な声が、サイレンの音を遮るように美玲の耳に届いた。
彼は地面に倒れ伏す男たちを一瞥することもせず、ただ真っ直ぐに美玲の顔を見つめていた。
「え……う、うん。大丈夫。私は、どこも触られてないから」
美玲は自分の腕をそっとさすりながら、どうにか声を出した。喉がひどく乾いていた。
「そっか。よかった」
陵は本当にただそれだけを言って、小さく息を吐いた。
大人数人を相手に、あれほど人間離れした動きを見せたというのに、彼の呼吸は全く乱れていない。制服にシワひとつ寄っていないその姿が、美玲にはひどく現実離れして見えた。
「あの……陵」
「ん?」
「その……スマホ、持ってたんだね」
こんな状況で聞くべきことではない。それは美玲自身が一番よくわかっていた。
けれど、目の前で起きたあまりにも非日常的な出来事を、彼女の頭はまだうまく処理しきれていなかった。だから、一番身近で、理解できそうな小さな疑問にすがりつくしかなかったのだ。
「ああ、これか」
陵はポケットに入れたスマートフォンを軽く叩いた。
「中学校に入る少し前に、じいちゃんに持たされたんだ。何かあったら連絡しろって」
「そう、なんだ……」
「俺は別にいらないって言ったんだけど」
相変わらずの、少しぶっきらぼうで淡々とした返事。
それは、小学校の四年生の頃からずっと変わらない、美玲が知っている「相浦陵」そのものだった。
「……怖かったか?」
不意に、陵が尋ねた。
「え?」
「さっきの奴ら。怖かっただろ」
「あ……うん。すごく、怖かった」
美玲は正直に頷いた。ワゴン車から飛び出してきた男たちの低い声。伸ばされた手。自分に向けられた明らかな悪意。思い出すだけで足がすくむ。
「……ごめん」
陵は、少しだけ視線を落として言った。
「もっと早く気づけば、美玲を怖い目に遭わせずに済んだのに」
その言葉に、美玲ははっとした。
彼は大人数人を瞬時に制圧した自分の異質さを誇るでもなく、ただ「美玲を怖がらせてしまったこと」に対して謝っているのだ。
出会ったとき、彼の存在を認識したとき、彼が教室で自分を助けてくれた時のことが頭をよぎる。あの時も彼は、「桐崎が困っていたから」とだけ言っていた。
彼は何も変わっていない。
特殊で、普通ではなくて、美玲の想像のずっと外側にいるけれど。それでも、彼は確かに美玲の知っている「陵」だった。
「謝らないでよ」
美玲は、まだ少しだけ震える声で、それでもはっきりと告げた。
「陵が助けてくれたから、私、無事だったんだよ。……ありがとう」
陵は少し驚いたように目を丸くして、それから、困ったように頭を掻いた。
「……どういたしまして」
サイレンの音が、すぐそこまで迫っていた。
赤色灯の光が、住宅街の壁をチカチカと照らし始める。ここから先は、きっと大人たちが介入してくる大騒ぎになるだろう。
「帰るの、遅くなりそうだな」
そうやって呟いた彼の顔は、少しだけ寂しそうな、残念そうな色をしていたことを、美玲は見逃さなかった。




