第10話 入学式
中学校の入学式当日。
いつもと同じ時間に、いつもとは違う格好をして、美玲と陵は通学路を歩いていた。
中学校は、通い慣れた小学校の隣にある。だから、通学路もこれまでとほとんど変わらない。
「ちょっと大きいから、少し動きづらい」
美玲は、あまり着慣れないプリーツスカートを揺らしながら、膝下までかかるそれを、少しだけ煩わしそうにしていた。
「三年も着るんだから、大きくないとすぐ着られなくなるよな」
手の甲にまでかかるブレザーの袖に視線を落としながら、陵は「そういうものだ」と言外に含ませるように言った。
「三年……私たち、どれくらい大きくなってるんだろ?」
漠然とした将来に、美玲は疑問を投げかけた。
「さあ。……想像もできないよな」
父も母も、話した記憶すらない彼からすれば、大きくなった後の自分、将来の自分を思い描くことはできない。
それは疑問というよりも、どこか断絶に近い感情だった。
「一緒に楽しも!」
美玲は彼の手を引いた。それはただの友愛よりも、明らかに距離の近い行為だった。
「……うん、ありがと」
陵は彼女に手を引かれながら歩き出す。それはただの友達同士というより、まるで主人公と、それに連れられる仲間のような関係だった。
中学校の正門に近づくと、見知った顔もあれば、まったく知らない大人や子供の姿もある。けれども、やはり多くの生徒が、美玲や陵のように一人ではなく、保護者と一緒だった。
「美玲ちゃん」
彼女の名を呼ぶ声があった。
振り返ると、そこには花蓮と、その母親の姿があった。
「いつも仲良くしてくれてありがとう」
花蓮の母はそう言った。
「こちらこそ、ありがとうございます」
美玲は丁寧にお辞儀をした。彼の手を離さないまま。
「本当に所作が綺麗よね。今日は保護者様は?」
「今日も仕事みたいで」
「あらそうなの。いつもお忙しそうだものね」
「そうなんですよね」
少し言葉を交わしたあと、花蓮の母はふと思い出したような顔をした。
「うちの旦那も仕事が忙しくて、入学式には顔を出せないの。だから、気にすることはないわよ」
「そう……なんですね」
「そうよ。私は仕事が大嫌いだから辞めただけだけど、好きな仕事があって、それを続けているお母様もお父様も素晴らしいと思うわ。うちの旦那なんて、毎日仕事辞めたいって言ってるし」
「は……はあ」
続いていく言葉に、少し気圧される。
「ちょっと、お母さん。美玲が困ってるでしょ」
様子を見かねて、花蓮が二人の間に割って入った。
「あらやだ」
「それに、相浦くんと美玲の邪魔もしてる」
「相浦……ああ、あの道場のお子さんね。あらそう……あらあら……」
どこか羨ましそうな、昔を思い出すような視線を、花蓮の母は繋がれた手へ向けた。
「ね?
わかった?」
「わかったわ。美玲ちゃん、邪魔したわね」
「あ、いえ」
花蓮と花蓮の母は、そのまま校舎の方へ歩いていった。
「はあ……うちの子には、いつ春が来るのかしら……」
「ちょっ、急に何言ってんの!?」
そんな母子のやり取りを見ながら、美玲は少しだけ羨ましいと感じた。
けれど同時に、花蓮の母に「私たちが普通ではない」と言われた気がした。だからこそ、まあいいかとも思えた。
父も母も、仕事を楽しんでいる。
それは、美玲にとっても嬉しいことだったから。
人だかりができている校舎に、ふたりは手を繋いだまま足を踏み入れた。正確には、美玲が彼の腕を引いている。
校舎に入ると、今日だけは特別にと、外履きのまま上がれるようビニールシートが敷かれていた。
そして、そのシートの先には、今まで以上の人だかりができている掲示板があった。
「クラス分けかな?」
「かもな」
美玲は彼の手を引き、さらにぐいぐいと前へ進もうとした。
けれど、陵はそれを嫌がった。びくとも動かなかった。
「……どうしたの?」
美玲は不思議に思い、恐る恐る彼の顔を見る。
「人が多いから、少し待ちたい」
陵はそう言った。
「ん、わかった」
美玲は素直に頷いた。
「入学式って、何時から?」
「九時半から」
「今は……八時二十分だから、まだ少し時間あるな」
「八時半から新入生の受付が始まるらしいよ」
「その前にクラス見ておきたいよね。一緒だといいね」
「まあ……そうだな」
美玲があまりにも自然にそう言うものだから、陵は少しだけ言葉に迷ったように見えた。
それでも、彼女の言葉を否定することはしなかった。
八時二十五分、ようやく掲示板から人だかりがはけ始めた。
「行こう」
「ん」
美玲が先に歩き出し、陵もその後ろに続く。二人は並んで掲示板の前に立った。
貼り出された紙には、ずらりと名前が並んでいる。美玲は自分の名前をすぐに見つけた。
「……一組だ」
それから、隣に立つ陵の名前を探す。
「……二組」
ほんの少しだけ間が空いた。
「クラス、別だね」
「……だな」
美玲は一組、陵は二組だった。今まで同じクラスだったから、とても不思議な違和感が彼女の中にあった。
掲示板の前にはまだ何人かの新入生が残っていて、それぞれが自分の名前を確かめたり、友達と話したりしている。二人も少しだけその場に立ったまま、貼り出された紙を見上げていた。
「受付って、どこでやるんだろ」
美玲がそう言って掲示板の横を見ると、そこには案内の紙が貼られていた。新入生受付はクラスごとに分かれており、一組は右側、二組は左側の列になっている。
「じゃあ……ここで別だね」
美玲が少しだけ残念そうに言う。
「だな」
陵は短く頷いた。ほんの少しだけ沈黙があった。
「入学式終わったら会える?」
「昇降口にいる」
「うん」
美玲は頷くと、一組の列へと歩いていった。後ろから陵も二組の列に並ぶ。
列の前では教師と上級生が受付をしていた。名前を確認し、封筒を渡している。美玲の番が来る。
「桐崎美玲さん。一組、出席番号十二番ですね」
教師は名簿を確認しながらそう言い、茶色い封筒を手渡した。
「はい」
美玲はそれを受け取り、列から外れる。封筒の中には、学校案内やクラス表、校歌の紙などが入っていた。
ふと周囲を見回すと、同じように封筒を開いている新入生の姿がある。小学校の知っている顔もいれば、全く知らない子もいる。陵の姿は見えなかった。
受付が終わると、体育館へ向かうよう案内される。廊下を進むと、上級生が「こちらです」と声をかけながら列を作っていた。
体育館の入口の前で、クラスごとに整列するよう指示される。一組の列に並んだところで、後ろから声がした。
「美玲!」
振り返ると、花蓮が手を振っていた。
「花蓮」
「同じクラスだよ、私も一組!」
花蓮は嬉しそうに言った。
「ほんと?」
美玲も少しだけ表情を明るくする。
「さっき見てきた」
「よかった」
知らない顔ばかりの中で、知っている友達がいるだけで少し安心する。やがて列が動き始め、体育館の中へ案内された。
体育館にはすでに椅子が整然と並べられていた。前の方に新入生の席、その後ろに保護者席がある。高い天井の下に、人の声が反響していた。
美玲は自分の出席番号の椅子を見つけて座る。周囲では椅子を引く音や、小さな話し声が続いている。ふと横を見ると、体育館の反対側に二組の列が並んでいるのが見えた。
その中に、陵の姿があった。
ちょうどこちらを見たところだったのか、一瞬だけ目が合う。陵は小さく頷き、すぐに前を向いた。
やがて、体育館の前方に教師たちが並ぶ。
「これより、令和○年度入学式を始めます」
体育館が静まり返る。
起立、礼。椅子が一斉に音を立てる。
校歌、校長の挨拶、来賓の言葉、新入生代表の宣誓。式は順番に進んでいく。けれど、美玲はあまり話の内容を覚えていなかった。
体育館の空気は静かで、どこか少しだけ緊張している。新しい制服、新しい学校、新しい人たち。
時々、視線が横へ流れる。
二組の列の方を見ると、陵は真っ直ぐ前を向いて座っていた。姿勢は変わらず、ほとんど動かない。
やがて式は終わりに近づいた。
「起立」
全員が立ち上がる。
「礼」
拍手が起こり、入学式は終わった。
「新入生は、クラスごとに移動してください」
教師の声が体育館に響く。一組の列が動き始める。美玲も花蓮と一緒に体育館の出口へ向かった。
廊下に出ると、二組の列が横から合流してくる。陵の姿が見えた。
「あとでね」
美玲が言う。
「うん」
陵は短く頷いた。
そのまま列は分かれ、一組は一組の教室へ、二組は二組の教室へと向かっていった。
同じ校舎の中なのに、行き先は違う。美玲は列の流れに沿って歩きながら、ふと後ろを振り返った。けれど、そこにはもう二組の姿は見えなかった。
一組の列は、教師の案内に従って校舎の廊下を進んでいった。
体育館の喧騒が背後に遠ざかり、廊下には靴音と小さな話し声だけが残る。
教室の前にたどり着くと、黒板には大きな文字で「入学おめでとう」と書かれていた。色とりどりのチョークで飾り付けられている。窓から差し込む春の光が、まだ誰も座っていない机を照らしていた。
「ここだね」
花蓮が言う。美玲は頷きながら教室の中に足を踏み入れた。机には出席番号が書かれた紙が右上の角に貼られている。美玲は自分の番号を探し、椅子を引いた。
席に座ると、教室の中の様子が少し落ち着いて見えてくる。知らない顔がほとんどだった。けれど、小学校で見覚えのある子も何人かいる。
やがて、教室の扉が開いた。
「はい、静かにしてください」
担任の教師が入ってくる。まだ若い男性だった。教卓の前に立つと、軽く咳払いをする。
「一組の担任になりました、佐々木です。これから一年間、よろしくお願いします」
教室のあちこちで椅子が鳴り、生徒たちが小さく頭を下げる。
担任は配布物の説明を始めた。時間割、学校案内、連絡事項。新しい学校生活の話が次々と続く。教室の空気はまだ少し緊張していて、誰も大きな声を出さない。
一通りの説明が終わると、担任は教室を見回した。
「じゃあ、隣の人と簡単に自己紹介してみましょう。名前と、出身の小学校くらいでいいです」
その言葉に、教室の空気が少しだけ緩む。
「じゃあ、よろしく」
隣の席の女子が声をかけてきた。
「桐崎美玲です」
美玲は軽く頭を下げる。
「桐崎さんって、所作きれいだね」
その女子はそう言って笑った。美玲は少しだけ困ったように笑い返す。
教室のあちこちで同じような会話が始まっていた。名前を言い合ったり、小学校の話をしたり。まだぎこちないが、少しずつ声が増えていく。
しばらくすると、担任がもう一度手を叩いた。
「はい、そこまで。次は学校生活について少し説明します」
再び教室は静かになる。
学校の校則、生活のルール、授業の流れ。担任の話は淡々と続いた。途中で部活動の話が出る。
「部活見学は来週から始まります。興味がある人は、ぜひ見に行ってください」
その言葉に、教室の中で小さなざわめきが起こる。サッカー、バスケ、吹奏楽。隣の席の女子も、どの部活に入るかを小声で話していた。
美玲はその会話を聞きながら、ふと別のことを思い出す。
陵は、部活に入るのだろうか。
道場があると言っていたから、たぶん学校の部活には入らないのかもしれない。説明が終わる頃には、午前の時間もほとんど過ぎていた。
「今日は入学式だけなので、このあと解散です。気をつけて帰ってください」
担任がそう言うと、教室の空気が一気にほどける。椅子の音が重なり、生徒たちが立ち上がる。花蓮も美玲の席までやってきた。
「初日終わったね」
「うん」
二人は一緒に教室を出た。廊下には、同じように帰ろうとしている新入生の姿がある。
昇降口に着くと、人の流れが少し混雑していた。靴を履き替える音があちこちから聞こえる。
美玲は靴を履きながら、ふと顔を上げた。
昇降口の柱の近くに、陵が立っていた。
「待った?」
美玲が言う。
「いや」
陵は短く答えた。
二人は並んで校舎を出る。
外の空気は、体育館の中よりもずっと軽かった。春の風が制服の袖を揺らす。
「クラスどうだった?」
美玲が聞く。
「普通」
陵はいつもの調子で言う。
「そっか」
二人は通学路に足を向けた。
少し歩いてから、美玲が言う。
「部活どうするの?」
「入らない」
陵は迷いなく答えた。
「道場あるから」
「そっか」
美玲は小さく頷く。
しばらく歩いていると、ふとスカートの裾が気になった。まだ制服に慣れていない。
「やっぱりこれ、ちょっと動きにくい」
美玲はスカートを軽くつまむ。
陵は自分の袖を見た。
「俺も、袖長い」
その言葉に、美玲は少し笑う。
通学路は小学校の頃と変わらない。見慣れた道が続いている。
ふと気づくと、美玲の手は自然と陵の腕を引いている。陵は特に何も言わなかった。




