第09話 クリスマス
翌朝、目を覚ましたとき、美玲はしばらく天井を見つめていた。
いつもより、部屋の空気が少しだけ明るい気がした。カーテンの隙間から差し込む冬の光が、白く、静かに床を照らしている。
今日は、十二月二十五日。
ゆっくりと身体を起こし、部屋を出る。廊下を歩く足音が、まだ眠っている静かな家に小さく響いた。
リビングの扉を開けると、テーブルの上に、赤い包装紙がひとつ置かれていた。
包装紙の形から、大きくも小さくもない箱が入っていることがわかる。金色の細いリボンが、きちんと結ばれていた。
美玲は足を止める。それが自分に向けられたものだとわかったのは、毎年恒例のことだからだろう。
包装紙の上には、一枚の便箋が置かれていた。封を切ると、そこには小さなカードが入っていた。
――メリークリスマス。朝は早いけれど、夜にまたね。
綺麗な母の字が書かれていた。そこで美玲は気がつく。父と母は、もう家を出たのだろう。
彼女にとって、両親が家にいないことは当たり前で、だからこそ、その実感に少しだけ胸がきゅっとしたが、それは寂しさとは違った。
椅子を引き、箱の前に座る。リボンをほどく指先が、少しだけ慎重になる。丁寧に外したいと思ったからだ。
包装紙を開くと、中から現れたのは、小さな木箱だった。
蓋を開ける。中には、細い銀色のペンと、革張りの手帳。手帳の最初のページには、父の筆跡で一行だけ書かれていた。
――思ったことは、言葉にしなさい。
美玲は、その文字を何度もなぞった。はっきりとは書かれていないが、何を示しているのかは理解できた。
言葉にしなければ、伝わらない。話せるときに話さなければ、距離になる。昨日、自分が陵に言ったことを思い出す。
静かな部屋で、ペンを手に取る。インクの滑りは軽く、真っ直ぐだった。
手帳の二ページ目に、小さく書いてみる。
――楽しかった。
それだけ。それだけなのにも関わらず、書いた瞬間、胸の奥にあった何かが、少しだけ確かな形を持った気がした。
クリスマス。
一緒にいたい人と、一緒にいる日。
昨日は、確かにそうだった。
窓の外では、冬の空が高く澄んでいる。静かな朝の中で、美玲はそっと手帳を閉じた。
今日は彼と一緒にゲームをする日。彼と一緒に、日常を過ごす日。美玲は、彼の来訪を静かに待つことにした。
やがて昼を過ぎ、陽がほんの少し傾いた頃、家のインターホンが鳴った。
レンズ越しに映る彼の姿を確かめると、美玲は胸の奥がわずかに弾むのを感じながら、玄関へ向かい、扉を開けた。
「昨日ぶり」
美玲は小さく言った。
「うん」
陵は短く頷く。
「入って」
扉を開けると、外の光が細く玄関へ差し込んだ。陵が一歩、敷居を越える。その背中を見届けてから、美玲は静かに扉を閉める。
「こっち」
靴を揃え終えたのを確かめて、美玲は廊下を歩き出した。短く告げると、陵も何も言わずに後ろをついてくる。足音が二つ分、静かな家の中に重なった。
リビングの扉を開ける。窓から差し込む光が、室内をやわらかく照らしていた。
「そこ、座ってて」
ソファを指すと、陵は素直に腰を下ろす。背筋は自然に伸びていて、どこか落ち着かないようにも見えた。
美玲はキッチンへ向かう。冷蔵庫を開ける音が、小さく部屋に届く。
「いつもと同じで、麦茶でいい?」
「うん、ありがとう」
短い返事。
今日は十二月下旬。グラスに冷えた麦茶だけを注ぐ。その音がやけに澄んで聞こえた。
戻ってきて、ローテーブルに二つ並べる。
陵は「ありがとう」と小さく言い、両手でグラスを包むように持った。
テレビはまだ黒いままで、その黒をかき消すように電源を入れる。だがしかし、画面の右上端には「HDMI2」だけが表示され、他は真っ暗なままだった。
「ゲームのスイッチ、入れられる?」
「うん、覚えた」
美玲の立ち位置とは、陵を挟んで反対側にあったゲーム機本体。彼女の指示に従って、陵はゲーム機の電源ボタンを押す。
真っ暗な世界が、まるで雲が晴れるように、明るい色を映し出す。近場にあったコントローラーを手に取って、美玲はささっと今日やるゲームを選択した。
「先週の続きだな」
「うん、続き。あれから進めてないよ」
先週の水曜日にやったゲーム、帰り際にセーブしたゲームの世界。それはあのときから何一つ変わっていなかった。
「俺に、気を遣わなくてもいいのに」
陵が突然、そんなことを言い出した。
普段の彼ならばあまり言わないような言葉に、美玲は少しだけ戸惑った。それでも、小さく一息だけ吸って。
「私が一緒にやりたいって、そう思ったから」
気持ちは伝えるべきだ。感情は隠すものではない。言葉にして伝えるものだ。
「……そっか」
陵は小さく呟いた。普段使っているコントローラーに手を伸ばす。
「……そうだよ」
美玲は言い残すように、本当に小さな声で同意した。
やがて、軽快なコントローラーの音が、部屋中にカチカチと響き渡るようになった。
画面の中のふたりが扱うキャラクターたちは、とても滑らかに動いていて、ゲームに慣れていることが傍目からでもわかるほどだった。
「よし、ボス撃破っ!」
夕方、午後四時に差し掛かる前に遭遇したボスモンスター。およそ三十分ほどかけて、ふたりはようやくクリアした。
「難しかったな」
陵は言った。
「ね、本当に強かった」
美玲は、やっとのことで倒せた達成感を声色に滲ませていた。
「この後はどうする?」
陵は美玲の顔を覗き込み、次を待っていた。ボスを倒したということは、ゲームの終わりか、もしくは、節目ということである。
「一旦、休憩にしない?」
「ん、わかった」
美玲の提案に、陵はあっさりと頷いた。ふたりして持っていたコントローラーをローテーブルに置いた。
「……昨日、迷惑じゃなかった?」
美玲はぽつりと言葉をこぼした。昨日のクリスマスパーティーに彼を誘ったこと。それが本当に正しかったのか、全く自信が持てなかった。
「楽しかった」
陵は戸惑うことなく答えた。悩む様子も無ければ、美玲の顔色を伺う様子も見られなかった。
「そ、そっか。それなら……本当に良かった」
美玲はわかりやすく胸を撫で下ろした。
「クリスマスって、あんなに美味しいものを食べる日なんだな」
陵は続けて言った。少しだけ遠いものを見ているようで。
そんな彼の様子を見て、美玲はまた、彼の生活や常識が世間と少し外れていることを思い知らされた。
そこに芽生えた感情が、衝動のように、彼女の行動を突き動かす。
「相浦くんっ」
ぐいっ、と美玲は彼に対して身を乗り出した。
「な、なんだよ……」
いつも以上の至近距離で、いつも以上に真面目な様子の彼女だったからか、陵はほんの少しだけ後ろにたじろいだ。
「他の行事とか、誘ってもいい?」
「ほ、他の行事……?」
美玲の誘いは、ただそれだけでは、正しく彼には伝わらない。
「初詣とか、節分とか、お祭りとか、そういう楽しいやつのこと!」
だから、彼女なりに噛み砕いて、彼に伝えるために言葉にする。
「えっと……いいのか?」
陵は彼女の提案に目を丸くしていた。だからこそ、その確認の言葉は本音なのだと彼女には理解できた。
「うん」
だからこそ、彼女は目を逸らさずに強く頷いた。
「楽しかったから、誘ってくれたら、嬉しい」
たどたどしく、けれども迷うことはなく、彼は言葉を紡いだ。
「やった。私も、そうしたら楽しいって思ってたんだ」
その約束を交わしたクリスマスの日から、二人の関係は少しずつ、けれど確実に形を変えていった。
年が明け、小学四年生の冬休み。美玲は宣言通り、陵を初詣に連れ出した。
マフラーに顔を埋める美玲の隣で、冬の寒空の下でも相変わらず薄手の上着しか着ていない陵は、神社の境内に並ぶ屋台の数々や参拝客の波を、不思議そうに見つめていた。
おみくじを引いて一喜一憂する美玲の横で、陵は「吉だった」と淡々と紙切れを見つめていたけれど、その横顔にはクリスマスの夜に見せたような、年相応の素直な色が浮かんでいた。
二月になれば、節分が来た。
美玲は道場の隣にある陵の古風な家へ豆を持っていき、縁側で一緒に豆を撒いた。
「鬼は外、福は内」という言葉の意味を教えながら、二人で恵方巻を無言でかじった。陵はここでも「美味しい」と素直な感想をこぼし、美玲は胸の奥が温かくなるのを感じた。
春が来て、五年生に進級した。
クラスが変わったとしても、二人の時間が途切れることはなかった。
水曜日の放課後に美玲の家でゲームをする習慣は相変わらず続いていて、それに加えて、週末に行き先を決めずに近所を歩くようなことも増えた。
夏には、近所の神社で開かれたお祭りに二人で出かけた。
浴衣を着た美玲を見て、陵は「いつもと違う」とだけ言った。素直すぎる感想に美玲は少しだけむっとしたが、りんご飴やたこ焼きを珍しそうに頬張る彼の姿を見て、すぐにどうでもよくなった。
夜空に咲いた打ち上げ花火を並んで見上げたとき、陵がぽつりと「綺麗だな」とこぼしたことを、美玲は今でもよく覚えている。
秋の運動会、冬の二度目のクリスマス。そして、また初詣。
両親が不在がちな広い家での生活は、美玲にとって当たり前のものだったが、彼と過ごす行事を重ねるごとに、その日常は色鮮やかなものになっていった。
陵の無表情の奥にあるわずかな感情の揺れを、美玲は誰よりも正確に読み取れるようになっていったし、陵もまた、美玲の誘いに対して戸惑うことはなくなり、「次はどうする?」と自ら尋ねてくることさえあった。
お互いの日常の中に、お互いがいることが、まるで息をするように当たり前になっていた。
そして季節は巡り、また巡り、二度目の三月を迎えた。
彼らは六年間背負い続けたランドセルを下ろし、通い慣れた小学校を卒業した。
四月。春の匂いが風に混じる、ある晴れた日の朝。
美玲は自室の鏡の前で、真新しい制服の襟元を少しだけ整えた。
これから始まる新しい日々を象徴しているようで、胸の奥がわずかに弾むのを感じる。
今日は、中学校の入学式。
リビングに降りると、テーブルの上に置かれた革張りの手帳が目に入った。五年生のクリスマスに両親からもらったあの手帳は、今では彼との思い出や日々の出来事でかなりのページが埋まっている。
通学カバンを手に取り、玄関の扉を開ける。
外の光が差し込むと同時に、いつもと変わらない、けれど真新しい制服に身を包んだ陵の姿がそこにあった。
「おはよう」
「おはよう、陵」
待ち合わせをするまでもなく、彼がそこにいる日常。
苗字で呼び合っていた頃から少しだけ近付いて、下の名前で呼び合うようになった関係。
二人は自然と歩幅を合わせ、新しい校舎へと続く道を並んで歩き出した。




