二人の班長
「野沢班長。コーヒー飲みに行きませんか?」
「いきなりですね」
「いきなりです。課長、外に出てきます。何かあれば携帯でと言いたいところですが、課長にお任せしますのでよろしくお願いします。岸本班長をサポートに置いて行きます」
そうやって断ると、春久は二人のところに「打ち合わせ外出:徒歩二十分」と記載した。まあ、春久の家ではあるけれど。
「入ってください」
「ははぁ。ここなら絶対に外に話は漏れないってことですか」
「そうです。コーヒーで宜しいですか? 豆から挽きますから少しお時間ください」
「インスタントで良いですよ」
「最近はそれを置いてないんです、うちは。アウトドア用のコーヒーミルを貰ったので、それを使いたくて、豆を買うようになりました。砂糖と牛乳はありますが、野沢班長、ブラックですよね、いつも」
「ですね」
「一人暮らしなんで、本当にコーヒーぐらいしか無いんですが」
「充分です」
元々一人用のコーヒーミルだから、ごりごりと二回に分けて豆を挽き、サイフォンで淹れる。コーヒーの香りが部屋いっぱいに広がる。
「最近は深煎りの豆が気に入ってるんですよ。コクがあるというか」
「いただきます」
瀬戸焼のカップ二つに分けたコーヒーを、ソファーの前とその正面に置いた。今日はキャンプ用の椅子を持ってきて、それに座る。そうすれば相手は、ソファーに座れる。さすがに春久が床に座ってしまうと、相手もそうせざるを得なくなるから。
「課長からの伝言なんですけどね。野沢さんが警部補になったら、希望するなら、警察学校の教官として推薦してくれるそうです」
「そんな器じゃ無いですよ」
即答されてしまった。
「そうですか? 似合っているとは思いますけどね。野沢さんに半年鍛えられた班員たち、きちんと動けるようになっているじゃないですか。たまに受付外のソファーから見てますけど、ハキハキと対応もしている。ああでも、警察学校を出て数年、鳴かず飛ばずで仕事への情熱を忘れかけている人たちにこそ、班長の一喝が必要なのかもしれませんね」
彼は何も答えない。黙ったままだ。
「幸い今年は居てもらえることになりましたが、来年度の異動では絶対にいらっしゃらなくなるんだなぁと思うと、お世話になっているのに何も返せていないことが、心苦しいです。なので今日は、その話を理由に、こちらにお呼びさせていただきました。本心としては、野沢さんが警部補になりたくないなら無理強いできることじゃないなと。でも、同役としてもっといろいろ話せると良いなと、思うことは多々あります。なにより俺より経験も人望も上の野沢さんを、呼び捨てにしなくちゃいけない時があるのが辛いですね。ああそうです。野沢さんが警部補になったら、管区で行われる最初の研修、俺も手伝いに行きますので、手加減お願いしますね」
「は?」
「俺が副課長なんてたいそうな肩書きを頂いた、きっかけの研修です。四月にもその手伝いで管区に呼ばれていました。内容は言えませんけど、野沢さんなら根性でトップに食い込みそうなんですよね。そうしてくれると、課長も俺も鼻が高い」
「また難しいことを」
「それだけ、野沢さんの手腕を買ってるって事ですよ。俺は本当に、あなたがいなければ潰れていたと思っています。どれほど助けられたか。だからこそ、巡査部長のままじゃ勿体ない。管区に行くと、育てられる人材がいるのに放置しているのは上司の怠慢だって、毎回言われてますよ。だからこそ管区に呼ぶんだと言われると、何も言えません。だったらそこに野沢さんがいてくだされば心強い。先に言っておきますが、俺の保身ですので、野沢さんが付き合う義理はありません」
「そこで手を離しますか」
「え?」
「係長は詰めが甘いと、言ってるんです。相手に判断を委ねることと、自分が引くこととは別です。だから若い連中に舐められる。確かに仕事も出来るし根性もある、物怖じもしない。だから、管区の連中にすら可愛がられていることは判ります。けど、相手に何かを押し付けるようなことをしませんよね? 強気に出るなら最後までやり遂げてください。さもないと下の連中はどこまであなたを信頼して良いのか判らなくなる。後は勝手にしろと、途中ではしごを外された気になるんです。あなたの悪い癖です」
それは……。
「今まで俺を見てきたんですよね? 下っ端に舐められないように、どこまでも強く言わなきゃならないときだってあるんだって事、判りませんでした? 確かに班員に関しては班長の仕事ですけど、その上に居るあなたの仕事でもあるんですよ。先ほど仰ったように、俺は来年度には確実に居ません。誰が班長になるにしても、あなたが下を纏められないなら、また同じ事の繰り返しになりますよ。来年度、まともな奴だけが来るとは限らないんです。押さえられますか?」
春久には即答できない。今まで目の前の男に任せきりになっていたことも判っている。
「今年俺が居るのは、課長が嘆願して、本庁も人事部もあなたが管区に呼ばれることが判っていて、どうしても手が回りかねるからこその、今年限りの例外なんです。来年度はあなたの肩に全部のし掛かるんです。そのことを理解してます?」
「あなたに甘えきっていたことは、理解しました」
「後、課長を言葉通りに捕らえない方が良いですよ。あの方ははるかに百戦錬磨ですから。利用できる者は何でも利用するし、同じ事を、相手によって言い方を変えます」
百戦錬磨。班長は誰に比してとは言わなかったが。当然そこに春久は含まれる。もしかして、こうやって忠告してくれている班長すらと言うこと?
「言うことに矛盾は無い。けれど、相手によって言い方を変えて、ちゃんと自分の望み通りに動かす。あの人は将の器ですよ。こんな県境の所轄で収まるような人じゃないんですけど、あなたの前任者の不始末があったでしょう。アレをネタに、中央への返り咲きを遅らされたんです。ただ、あの人のことを慕っている人は大勢いて、だからあなたをこっちに送り込んだ。あなたが活躍すれば課長は中央へ返り咲ける。俺のことより、それを手ぐすね引いて待ってる人たちに踊らされないよう、気をつけてくださいよ」
「そうですね。課長がやり手だって言うのは判ります。何度も鼓舞されて叱られて、うちの課の成績上がっているんですから。あ、これは係長以上の共有なので、班員には内密に」
「うちの課の成績が上がったのは、あなたが来たからですよ。そこは自覚して誇ってください。なので課長はあなたに目を掛けているし、駒ではなく将に育てようとしている。他の係長たちもそれを判ってる。係長たちも、課長の中央返り咲きを願ってるんですよ。誰も直接口には出さないですけど、班長たちの雑談レベル、ですね」
目の前の男は、はぁと溜息を吐いた。
「課長は、俺にはあなたの後押しをと言ってきました。あなたには俺の引き上げをと言っている。あなたを後押しするには俺が上がらないと、来年度にはこっちに居なくなる。唯一残る方法があるとすれば、警部補になって係長になってとすることでしょうね。あなたが俺を引き上げれば、結局は同じ事になるんですよ」
「ああ、なるほどです」
「あなたは、上がって欲しいと言ってくれますけど、最後の最後で、俺の自主性に任せると言う。結局それはあなたが責任を持たないと言ってるのと同じだってことです」
「あ……」
そこまで説明されて漸く、判った。それじゃあ確かに、何もかも信頼してとは思えない。両手で顔を覆った。
「俺の考えが浅いです。はしご外しについて、ようやく理解出来ました」
「もちろん自主性に任せることも大事だとは思いますよ。特に一般社会ではね。けど、警察社会でそれは、タブーに近い。なぜなら、下にとって上の命令は絶対としか学んでないんですから。同じように、はしごを外されたと思う奴も多いんです。面倒ですけどね。そんな中で卒を抜け出そうとしようとしている奴は、自分で考えさせてもっと動ける駒に育てる。駒の中で見込みのある奴は将に引き立てる。その繰り返しで出来た組織です」
「あなたも駒、ですか」
「駒ですよ。巡査部長という。その駒を動かして、あなたを将に育てようとしているんです、課長は。あなたも駒ですけどね。その駒を動かして、俺の駒としての役目を一つ上げようとしている。自分の手持ちの駒のレベルが上がれば、戦いが有利になるのは当然ですからね。この場合は所轄間の成績ですけど」
「そうですね。うん。そうだ。課長を押し上げるのは我々に共通した目的ですね」
「何か考えつきました?」
「次の課長になるのにふさわしい係長はどなただと思います?」
途端に目の前の男は首を竦めた。
「あなたでしょう? なので副課長なんて、管区を理由に肩書き上げたんですから」
「俺は十年は課長になれないという釘刺しです。それまでにと。なので除外してください」
「俺も皆さんの経歴を知っているわけじゃ無いので。まあ、順当にいけば中央を任されていた、今は南の……もしくは、県境の西を押さえている……あるいは熊野さんが戻ってきたときに一気にと言うことも……」
そうか、既に異動した人も候補に入るか。
「後は、来年度、今居る班長たちの中から誰を貰うかも、考えておいた方が良いですよ。中央に新しい奴は無謀なので、今から数人目星を付けておいて、俺が異動したときに貰えるよう、他の係長たちと要相談です。課長は将来的には四エリア体制で行きたいと言ってますが、そうなっても丹波長の下には最低でも二班は必要です。中央の主要組織との折衝は残るんですから。岸本さんは絶対に手放さないように。あの人にスケジュール管理なんかのサポートを任せて、あなたは課長のやることなすこと全部吸収してください。十年なんてあっという間ですよ。事実、あなたがうちに来てもう、一年半経ちました。
「確かにそうですね。あっという間でした」
「先日、あなたが南まで出張って、フォローをしてたことだって、評価になってる。そうやってあなたの評価が上がれば課長も、それから下に付く俺たちの評価も上がる」
「ああ、そうですね。でしたら、尚更言うべき事は一つでしたね。警部補になってください」
春久はテーブルに両手を付けて頭を下げた。
「サポートもフォローもします。あなたの選択肢を無くします。警部補になる、その一択です」
「判りました。その言葉に、責任を持ってくださいね。サポートとフォロー。うちの連中を見ることもです」
「きっちり、見させていただきます」
ようやく、許可をもぎ取った。
「安心したら腹が減りました。カレー行けますか? 野菜ごろごろの奴なんですけど。今夜食おうと思って解凍しているので、温めればすぐに食えます」
「係長が料理したんですか?」
「友人が、です。たまに差し入れるクッキーを作る奴。ストレス解消に料理をするというので、好きに作らせています。そうしたらいつも冷蔵庫を満タンにしてくれるので、ありがたく食ってますよ」
夜にと思ったので朝、冷凍室から冷蔵室へと移しておいた。半解凍になっている。それを断熱ボウルに入れて、足りないかと、もう一つ冷凍室から取り出して加えた。軽くラップして電子レンジで解凍する。米も、むすびを四つほど引っ張り出して二つ分ずつ、皿に載せた。
「ちなみに、味噌汁はインスタントです」
戸野原から食器類を譲って貰ったので、二人や三人ならバラバラの食器にならなくて済む。
「スプーンはキャンプ用のカトラリーです。チタンなので、ステンレスに比べて軽すぎるかもしれませんけどね」
カイに箸休めにと置かれていた福神漬けや紅ショウガなども出し、水の入ったコップを出せば、それで支度は終わりだ。
「いただきます」
春久が手を揃えてそう言うと、班長は驚いたように食べようとした手を止めた。
「料理を作ってくれた奴がいつも、食前食後の挨拶をする奴なので。俺のはそいつに対する礼なので、班長は気にしなくて良いですよ」
「いや、気にするでしょう?」
そう言うと班長も手を合わせて「いただきます」と口にして、改めてカレーを口に運んだ。
警部補の試験を受けることになると、家でも勉強が続く。一応家族にも一言伝えてから正式な返答にして欲しいと、いったん保留にして、二人で職場に戻った。
「丹波長、課長から、机の上のメモ、全部終わるまで帰るなよってことです。残業申請書類も一緒に置いてます」
ホワイトボードの二人の欄を消しているときに、そうやって声が掛かった。マジかぁ。
机の上にはA4用紙いっぱいにメモが書かれていて、残業申請書類には既に課長印まで押されていた。顔を上げると、野沢班長も同じ残業申請書類を、ピラピラと振って見せた。
「申し訳ない。俺が連れ出したばかりに」
「班長の残業の有無は係長判断ですので。なるべくしなくて済むようにしておきますよ。今日は家族会議も待ってるので」
「判りました。キツいところは言ってください。俺は残業決定なので、こっちの仕事を少しぐらい後回しにするのは問題ないですから。急ぐ奴から済ませておきます」
「その時はお願いします」
書類、連絡、書類、確認、書類、申請。デスクワークだけでどれだけあるんだと思う。思っても、やらないことには帰れない。
「丹波係長。課長がいらっしゃらないので代理で確認お願いします」
他の係長からの書類も春久を通る。副課長なんて、管区向けの肩書きのはずだよな?と思っても、実際その肩書きを受けているのだからうまく利用されても何も言えない。
「残業お疲れさまです」
春久の手元にコーヒーが置かれた。顔を上げると、もう一人の班長。いつの間にか出勤していたようだ。
「岸本班長……お願いですから、十月の班編成でも、俺の下を離れないでくださいね。班長のサポートが無いと、マジにキツいです」
「ははは。丹波長も最近は泣き言を出せるようになりましたね。まあ、良いことです。一人で抱え込むと爆発するか潰れますから。課長から、野沢さんが来年度は必ずいないので、秋の班編成、中央はそのままにするとは、それとなく聞き出してます」
「さすが岸本班長のサポートは心強いです。コーヒーもありがとうございます」
「まだ仕事残ってますか? 振れる分は振っていただければやりますよ」
「振ると言うより、半年に一度のアレです。会議室に籠もられると困るんですが、当人たちに見られるのも困ります。時間あります? 締め切りは今週中で」
「ああ、ちゃっちゃとやってしまいますよ」
班員たちも居る執務室なので「アレ」と濁したが、部下の勤務成績評定。給料や昇給昇進に絡んでくる。特に巡査から巡査長への昇進。それ以外は基本的に昇任試験が中心だが、上司評価の比重も無視できない。ちなみに巡査、巡査長については半年に一度、巡査部長については一年に一度の評価だ。それ以上については、自分が評価される側なので詳細は知らない。
「係長、今日は夜勤当番じゃないでしょう? 終わったら早く帰ってくださいね。さもないと仕事が舞い込んできますよ」
「フラグが立ちそうなことを言わないでください」
「フラグ?」
「ゲーム好きの友人が、よく口にしているので。言葉にするとその通りのことが起きるそうです。でもそいつは、言霊って言葉の方が好きらしいですけどね」
「もしかして、係長のクッキー(作成者)ですか?」
「そうです。俺とは正反対の性格なんですけど、なぜか、勉強の趣向とツーリングを趣味とするところだけは似ているんですよね。そいつが、そうやってフラグが立つとかいうもので、起きてほしくないことを口にするのは止めるようになりました」
「なるほど。興味深いですね。自分も言わないようにするか、言い方を変えます」
「はは。岸本班長のお役に立てたなら良かったです」
話していると電話。すぐに
「夜勤組! 交通課からの手伝い要請!」
と、固定電話を取った相手が、受話器を掲げながら声を掛けた。
「行きます!」
「指揮権は交通課で良いのか? 班員だけで問題無いなら」
「巡査三人希望です」
「仕事が終わった面々はさっさと帰れって事らしいです」
「そのようですね。後をお願いします」
「了解しました」
夜勤組にも声を掛け、春久は建物を出た。昼にカレーを食べておいて良かった。あのカレーに力をもらって、今日も残業まで乗り切った。




