英気を養うジンジャークッキー
カイを見送った後、スーツに着替えた。土産を配る必要もあり、早めに職場に出た。出て正解だった。
「丹波長! 話がまとまり次第ご連絡差し上げようとしていたところです!」
「どうかしました?」
「ちょっと待ってください。うちの係長が説明に来ます。今呼びました。班長たちと打ち合わせをしてるところです!」
「そっちに行くのに」
春久の言葉より先に、係長が部屋に入ってきた。春久は手に持っていた紙包みを机に置き、スーツの合わせを引っ張って整えた。相手の話をきちんと聞くための礼儀のようなものだ。
「申し訳ない。課長が会議中で、丹波長に早めに出てもらえと言われて、その前に、状況を少しでもまとめておこうとしていたところです」
「で、何があったんですか?」
「交通課の案件ですが、フォローに、こちらから人を回して欲しいとのことです」
「交通課? 事件ですか、事故ですか?」
「事故です。パトカー対自転車」
それは、全員が青くなっても当然だ。これが民間人同士の事故なら、彼らもこんなに焦っていない。
「交通課から回ってきた詳細です。北エリアなので、担当の係長は残業、担当班長は待機からの呼び出しです。ただ、班員に関しては、これから夜勤に入るところから出します。いつもと班長と班員の組み合わせが変わるのでそちらの許可と、当然こちらの業務も進行することになるので、交通課に貸し出す人数分、出勤を早めたりのスケジュール調整が必要です。うちの班長と班員で残業出来る者のリストはこちらです」
さすがに手慣れている。春久は差し出された書類を受け取った。
「課長から、詳細を見ることが出来ない状況なので、副課長の丹波長に一任する、と」
「それは……」
「まあ、課長から責任は持つと言われているんで、きちんと目だけは通して印鑑をくれれば大丈夫。課長が一番、お前に潰れて欲しくないんだから。後でちゃんと課長印を押すってことだ。ご本人は会議が終わり次第飛んで帰るそうだ」
相手の口調が砕け、係長同士の会話になったかと思うと、すぐに改めて丁寧な口調で、
「書類の確認と、交通課に回す人数、三人で大丈夫かの確認をしていただいて、それで良ければ、書類三枚、残業と、貸し出しと、一時的な班組変更の書類に印鑑をお願いします。交通部にはすぐにでも出せますよ」
と、話しかけてきた。
「判りました。お預かりします」
書類をめくりながら交通課の担当者に電話を入れる。三人でも構わない、他の所属からも来て貰えることになっているとの返事をもらい、
「他からのヘルプもあるそうなので、うちからは三人で。北の班長は到着次第向かって貰いますので、先に二人、交通部の打ち合わせに参加してもらって大丈夫ですか?」
と、確認した。
「代わりに聞いておきます。来たら替わってもらってください。それで残業の許可をお願いします」
「実績で時間を出してください。許可しておきます。喧嘩はしないでくださいね。自分も後で交通課に顔を出します」
と、交通課に貸し出す班員二人と、代理で出てくれる班長に声を掛けた。
課長は深夜に戻ってきた。最終の列車に飛び乗り、駅からタクシーだ。少しばかりくたびれたようだが、それでも元気だ。まあ、警察官になると、こんな事は日常茶飯事で、猛者の中には宿直室が家だと言い出すような者まで。さすがにそれはまずいと、皆に止められていたが。春久が差し出した書類を課長は、一瞥しただけで印鑑を押した。あれほど、書類はきっちり確認しろと言っている課長の、普段とは違う行動に、春久の方が驚いた。
「お前が見てるんだろう。だったら良い。後で再確認するが、早めに役割交代しておかないとお前が動けないからな。権限は返却してもらった、現状報告をしてくれ」
「了解しました」
確かに課長が書類に印鑑を押し、この場での最高責任者になった。それによって春久の立場は、本来の当番係長、というわけだ。引き継いだ内容、交通課に顔を出したときの状況、それから通常の業務についても一通り説明し、課長からの質問に答えた。
「まあ、大体良いか。出来れば、俺が飛んで帰らなくてもお前が居るから大丈夫だと、言えるぐらいになってくれ。で、だ。その活動をそれとなく管区で話題にしろ。それで本庁の連中の耳にも届く。うちの株が上がれば、予算も上がるんだ。そのためなら係長たち全員、お前に協力してくれるぞ」
「え? それが目的ですか?」
「それだけじゃないが、それもありだ。係長たちには予算アップすれば備品も遠慮無く使えるぞと、それを餌にお前への全面協力を依頼している。誰もがお人好しに手助けしてくれるわけじゃない。それなりの見返りを求める。餌をちらつかせて協力を得るのもありということだ。本来ならそんなことは長い経験の中で知ることだが、お前はなぁ。純粋培養のなかで守られて、悪意を悪意とも思わないんだろうなあと、俺は思うよ。お前は知りたくないかも知れないが、裏の面も知ることも大事だ。だから、俺はこれからお前を矢面に立たせることもある。自分の成長の糧にしろ」
重くてキツい言葉だ。今の春久は甘っちょろくて今にも潰れると言われているのだから。
守られて……確かに守られてきた。
警察官になって最初は戸野原に。
そして今では、カイにも。
「それでは、課長にも餌を渡しておきましょうか」
「はあ?」
春久は、皆でつまめと真ん中のテーブルに置いていた、カイ手作りのクッキーを一掴み、裏が白い反古用紙に乗せて課長の席に置いた。
「ジンジャークッキーです。俺でも食べられるので甘さは控えめですが、疲れは取れますよ」
「またお前の友人とやらの手作り、か?」
「そうです。うちでストレス解消だと言って、小麦粉一袋分丸々、クッキーにしていきました。材料費と手間はあっち持ちで、俺が持ったのはオーブンの電気代と、ここまで運んだ労力だけです」
「菓子作りがストレス解消か?」
「それだけではないんですが。昨日泊まるのに食材買い込んできてくれて、こちらに来る前に見たら、冷蔵庫の中にいろいろ詰め込んでくれていましたよ。冷凍室にまで」
あれは、以前作ってくれたのを後生大事に持っていたのも、見つかっているだろうなあと思う。四月までには消費しようと思っていたが、まだ出来ていなかった。けれど何言われなかった。だから今度は次に会うまでに全部食べ尽くす。
「お前もう、そいつ、この際男でも良いから嫁に貰えばどうだ? 少なくとも、一緒に居て苦にならない相手なんだろう」
「残念ながら」
「そっちは彼女持ちか?」
「極度の人見知りなので。三年の付き合いを経て、ようやく減らず口を利くようになりました。頭を撫でられるようになるには後二年は必要で、その頃には頭を撫でようとすると、そんな歳じゃ無い!と怒り出しそうですけどね」
平然と言い切った。ここは、言い切った者勝ちだ。
「はぁあ」
課長は顔を覆って、溜息を吐いた。
「お前の周りには、お前を初めとして、そんな奴らばかりか?」
「普通に結婚して既に子どもの大きい友人もいますよ。ただ俺は、女との縁が薄かっただけで。その分、友人との縁には恵まれました。お陰で俺はここでも過分な抜擢をしていただいている」
課長はそれには何も言わず、目の前に置かれたクッキーを口に入れた。
「本当にショウガの味がするな」
「それは思いました。なので、課長の疲れ直しに」
笑って、春久は自席に戻った。課長は、今度は先ほど印鑑を押した書類に目を通している。たまに、クッキーに手が伸びているが。彼も本庁での会議の後、夜行で帰ってきて、まっすぐ庁舎へと出てきたのだ。疲れもしているだろうし、甘い物に手も伸びるだろう。
「課長、仮眠されますか?」
「いや、こいつのチェックが終われば帰るよ。起きたら出てくるんで、後を任せる」
「判りました」
「それから、明日庶務が出てきたら、こっちの二枚は出しておいてくれ。俺の印鑑も入っているんだから直接渡せよ。
班長の残業許可の方は、返すのは直上長を経由してだ。間違えてもお前から直接は止めておけ。越権行為になる」
「受け取るのも拙いですか?」
今日はその係長から受け取ったが。
「代わりに誰かが受け取らなくちゃ、直上長が居ないと何も始められないことになるぞ。中身を確認してから受け取るのは構わない。けれど、必ず上長を通す。それを徹底させるために、せめて返却は直上長からさせるように」
言われてみれば確かにそうだ。
「判りました」
返事をして、三枚とも自分の机の引き出しに入れた。席を離れるときには必ず鍵を掛ける場所だ。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさい」
「お帰り」
交通課から帰ってきた三人が、春久の前に来た。
「交代で仮眠です。現場検証は終わったので、調書を作成しているところでした。我々は資料整理と、地理の確認がメインでしたけどね。ということで、仮眠してきます」
「しっかり休んで疲れを取ってください。何か有れば起こします」
報告を受け、頷きながらそう返した。
「何も無いことを願ってます」
「それは皆同じですよ」
三人が上階の道場へ。夜はそこが仮眠室になる。見送ると、執務室に居た顔ぶれは、先ほどまでの仕事の続きに戻る。
担当係長は朝から出てきた。なので春久は書類を渡し、庶務にも必要書類を手渡す。所属間のやり取りは、庶務が書類を運んで相手からの印鑑等を受け取ってくれる。
朝の朝礼は九時から始まる。八時出勤も九時出勤も勢揃いして、一番人が多い時間。司会は係長持ち回りで、係長や課長からの連絡事項が伝えられる。班長が他の班、係への連絡事項があればそれらもここで伝えられ、その後班単位での朝礼へと別れていく。
「丹波長、これで仕事は終わりですか?」
「まだです。課長が出てくるまでは居ろとのことなので」
「通常勤務時間帯になったので、交通課への貸し出しは終わりました。あとは向こうがなんとかするそうなので。ただ、生活安全課の担当エリア班長に、相手方への面会時に付き合って欲しいとの伝言です。時間は別途連絡が有るとのことです」
「はぁ。まあ、仕方が無いか。パトカーとやってるんじゃあ、交通課だけじゃあなぁ。時間があれば俺も行く」
北の係長まで声を上げた。皆面倒見が良い。
「ちなみに、そこの面会席に置かれているクッキーは丹波長が持ってきてくださったもので、夜勤組が頂いて殆ど残ってません。早い者勝ちです」
「お、そんなものが」
「かなり大量にあったんで、皆夜食を食べに行かずそればっかり食ってましたよ」
「癖になる味です」
「たまたま一昨日から来ていた奴が、大量に作っていったので。家にも多少残しているので、持ってきた奴は全部食ってください」
「ごちになります」
せっかくカイが作ってくれた物だ。皆が飛びつくようにして食べたと伝えれば、カイも喜ぶだろう。春久も帰ったらまた、一つから抓もう。もちろん、カイの作ってくれた食事を食べ尽くすことが一番だが。




