クッキー大量生産
「戸野原さん、すみません。丹波です。夕方、四時までにうちに寄れませんか? それ以降は俺が仕事に出るので」
「急だな」
「急です」
「ちょっと待ってくれ」
戸野原はしばらく電話を口から離していたが
「今からなら一時間ぐらい時間が取れるんで、支度時間も入れると行って帰るだけになるが」
「それでも大丈夫です」
電話を切って、春久はキッチンを見た。甘い匂いがしているのは、換気扇でごまかし中だ。
「これで最後」
盲点だったのは、とんかつに小麦粉とタマゴを使うこと。そう、カイは前日のとんかつを作るために小麦粉とタマゴ一パックを買ってきていた。その始末で、再びクッキーを大量生産している。タマゴにしても、出張も控えている春久一人では到底使い切れない。それを消費してくれているのはありがたい。けれど、だ。菓子の匂いが部屋に充満するのだけは勘弁してほしかった。
チャイムが鳴ったので、春久が急いで出て行った。戸野原を連れて部屋に戻る。
「良い匂いがしてるな」
「甘くないですか?」
「こんなものだろう。おかずの匂いじゃないな。秋津君、こんにちは」
カイは声を掛けられて急いで振り返り
「こんにちは!」と、元気に返事をしている。
「このあたり、持ち帰ってもらって良いんだな?」
「うん。当然」
「ということで、戸野原さん、奥さんからの頂き物のお返しです。ジンジャークッキーだそうです。まだ寒い時もあるので、体が温まるそうですよ」
「お、ありがとうな」
「こちらこそ、ありがとうございます。美味しそうな洋菓子詰め合わせでした。ハルさん食ってくれないっていうから、全部貰って行きます」
「ははは。そうだろうな。さもなければ丹波に食えと言ったんだが。秋津君行きになったんだよ」
「ちょっと仕事で、上司の八つ当たりでストレス溜まったんで、ハルさんち借りて、クッキー焼かせて貰ったんです」
「昨晩はとんかつを作ってくれたんで、それは食いましたが、こっちは……。少しだけ残して、あと全部、持って帰って貰っても」
「ハルさん」
「判った。なので、適当に持ち帰ってください。俺も数枚だけ残して、後は職場に持って行きます」
名前を呼ばれて、無言の圧が飛んできたから、急いで「適当に」と言い直した。
鉄板三枚分ぐらいだろうか。袋に詰めた。戸野原はそれを持って
「じゃあ、バタバタで悪いが、下で人を待たせているんで、また今度、ゆっくりさせてもらうよ。秋津君も、丹波の次年度予定が決まったらまた、キャンプやツーリングの計画頼む」
「判りました。俺も楽しみにしてます」
戸野原が帰って行き、カイも最後の鉄板を出してきて、焼けたクッキーを、洋菓子の包み紙を広げた上に、どさどさと載せた。本当に、小麦粉一袋分、タマゴを八個ほど使って作ったクッキーの山だ。とんかつよりこっちがメインだったんじゃないかと思う。それが証拠に、ショウガもシナモンもクッキングペーパーまでちゃっかり買ってきていたのだから。
「カイは持ち帰らなくていいのか?」
「うん。またストレス溜まったら自分で作るからね。ハルさんも一枚ぐらいは食べてよ。一応、ホワイトデーのお返しも兼ねているんだから」
「は?」
思いっきり意外なことを聞いた。そうだったのか。
「調べたら、お返しって、キャンディとかマシュマロとかあったけど、ハルさん苦手だよね。クッキーも売ってるのは甘いからね。これも砂糖全然入れないって事は出来ないし、ハルさんが食べられなかったときに他の人が食べられないのも困るでしょ。なので分量より少し少なめにしたから」
言われて、冷めたクッキーを一枚、齧ってみた。たしかに、そんなに甘くない。全くとは言わないけれど。そして、さくっと噛み切った後に口の中に広がるショウガの味。鼻に抜けるのはシナモンが少し。
「悪かった。そこまで考えてくれていたのに、食わず嫌いだったようだ。これなら食えるよ。大量には無理だが」
「良かった」
「残りは今日の夕方職場に行く時に持っていかせて貰う。ああ、そこから深皿取ってくれ」
「これ?」
カイが棚から取りだしてくれたのは掌ほどの大きさのある深皿で、折角なのでクッキーをそこに盛り上げてみた。
「こんなには食えないな。出張も有るし。湿気るのも困る。ああ、出張先に持って行くのもありか」
独り言のように呟いて、それは自分で食べる意思があるのだと示した。後は包装紙の四隅を引っ張り頂点で捻る。簡易紙袋の出来上がりで、それは職場に持って行き、夜勤の連中に配る分。
それを見ていたカイは、目を細めて笑ってくれる。カイの気持ちをきちんと受け止めたことが、好印象を残したようだ。
深皿をテーブルの上、職場に持っていく物は隅に置き、春久はコーヒーを入れた。カイは自分でお茶を入れる。二人でテーブルの前に向かい合わせて座る。
「うちの父親、昔気質の人で、男が台所に入るなって。今頃そんなことを言うような人いないって言っても、聞く耳持ってくれない。居ないときに簡単な料理してたりはしたけど。なので、ハルさんちで料理させてもらって、助かってます。ありがとうございます」
「俺はお前が料理してくれてありがたいけどな」
「あと、お前は跡継ぎなんだから、仕事も家から通えるんだから家を出るようなことはするな! って。だから、ハルさんちに泊まらせてもらったこともありがたいです。ものすごく楽になれる。職場のストレスを家に持ち帰るわけにもいかないけど、家に居ると解消出来なくて。俺の中では、ハルさんと知り合えたことが宝だって思ってる。なので、これからも時々料理したり、クッキー焼かせてください」
「それぐらいは、好きに使え。俺も助かってると言っただろう。甘い匂いがするときは換気扇を回させて貰うけど、それは勘弁な」
「そのうちハルさんにも甘い匂いに慣れてもらう」
「勘弁しろ」
「バニラエッセンスとか使ってないんだから。今度ナッツ系のクッキーにチャレンジしてみる」
にひっと笑うから、釣られて春久も笑みになる。
カイの家の事情は、初めて聞いた。そんなことも話してくれるような間柄になれたのだ。これはもう、親友と言っても良いのではないか。
「来年度の予定が決まれば、一番にお前に連絡するよ」
「待ってる。四月の大学も、無事に受講できると良いね」
「それは願ってるよ」
カイはお茶を飲み干して、立ち上がった。
「コップは置いといて良いぞ。どうせ自分のコップと一緒に洗う」
「判った。任せる」
それでカイは、自分の荷物をまとめ始める。時計を見れば三時が過ぎた。春久も仕事に出る支度をしなくてはならない。
「送らなくて良いからね。また来る」
「判った。待ってるよ」
荷物を持って廊下に出て、上がり框に座って靴紐を締める。そこまでは見送る。玄関の隅には、カイに貰ったサンダルが置いてある。なんとなく、下駄箱に入れるのが惜しくてそこに出したままだ。ちょっとゴミを出したり、ちょっと何かをというときに、便利に使わせて貰っている。
カイの目にもとまったようで、春久の顔を見てにこっと笑う。立ち上がって振り返り、廊下に置いていた荷物を持つ。
「じゃ、お仕事頑張ってね。またね」
「お疲れ。気をつけて帰れよ」
「判った。じゃあね」
カイが出て行く。途端に息を吐いた。気持ちを切り替えるためにも、仕事の支度をして、早めに出よう。
区切りの関係で、今回少し短めです




