二つの選択肢
課長の姿が見えなくなり、春久はソファーの背にもたれ、息を吐いた。
仕事が増えた……ではなく、係長としての責任。着任して今まで、いろいろ甘やかせて貰っていたのだと、改めて感じる。そして今も社会人学生を続けたいと無理を言っている。だったらその分少しでも多く、返していけるようになりたい。
「丹波長。済みません!」
執務スペースから声を掛けられ、顔を上げた。受付の向こうから呼ばれている。日誌と雑誌、水筒を持ってその中に入った。
「上に今日の担当班長をと声を掛けたら、係長がいらっしゃるだろうと言われたので。一緒に話を聞いていただけますか?」
「もちろん」
日誌と雑誌は元の場所に返し、水筒は先ほど空けて貰った場所に置かせて貰う。班員と一緒に再びカウンターの外に出て、そこに居た女性を、先ほどまで自分が座っていたソファーへと誘った。
担当エリアの係長や班長に話をして、必要な部署には協力要請を行う。それらを済ませて部屋に戻れば、班長が一人、立ち上がった。
「部屋を押さえています」
押さえられているらしい。ということは、春久のスケジュールも押さえられているのだろう。
「丹波」
「はい?」
課長が放り投げてきたものを受け取った。パンだ。
「飯、まだだろう。話が終わったら食いに出て良いが、それまではそれでも囓っていろ」
「ありがとうございます」
立ち上がっていた班長には少しだけ断って、自分のスケジュールとメールを確認する。急ぎが無いことだけを見て取って、一緒に会議室に入っていった。
部屋から出てきて、パンと水筒を机の上に。
「どうした? 食べさせて貰えなかったか?」
「真面目な方です。食べながら聞ける話じゃ無かったですね」
課長の質問に苦笑しつつ答え、もう一人の班長のところに行く。
「飯、食ってきてからでも時間大丈夫ですか? 空腹だとそっちに気が取られるので。軽く腹に入れてきたいのですが」
「大丈夫ですよ。午後から外回りの仕事は入れていません」
「ありがとうございます。助かります」
「課長は、同じ物を買って返すので大丈夫ですか? それとも現金で」
「下で急ぎの相談が入ったと聞いたので、食う暇が無いだろうと買ってきた奴だ。それぐらい奢ってやる。仕事で返してくれ」
「了解しました。ちょっと食べてきます」
「食堂は閉まっているぞ。外で弁当を買ってきてそこで食うのは大丈夫だ。レンジなんかも有る」
「そうします。コンビニまで行ってきます」
走って、既に選択肢が無くなっていた弁当を買って、食堂に行って誰も居ない場所で食べる。ただ、課長が言うように、食堂には誰でも使えるレンジや調味料もあれば、給水器も有る。食べるだけなら十分だ。
食べながら考える。課長は二人の班長が正反対だと言う。一人目は真面目で自己アピールも上手い。熱量も高い。きっとすぐに上に上がるだろう。だったら二人目は? 仕事が出来ないことはないと思う。課長が係長たちと話をして良いと判断して勧めてくれた人なのだから。きっと、仕事の方向性が違うのだろう。
「こちら、ご一緒しても宜しいですか?」
顔を上げた。食事の後で話をしようとしていた班長だ。給湯器からお茶だけ持って、春久の正面に着座する許可を待っている。
「もちろん。どうぞ」
「ありがとうございます」
彼は座ってすぐにお茶を飲もうとも、話をしようともしない。まるで春久の声かけを待っているかのようだ。
先ほどの班長は、部屋に入るなり自分のこれからのやりたいことを語った。誰をどうしたいか、どのように動かし、今後どうしたいのか。明確なビジョンが有る。目の前に居る班長は、逆に指示待ち? いや、それでは他の係長たちからの信頼は得ていないだろう。
「アイスブレイクでもしますか?」
春久が言えば、相手は目を細めて笑った。
「そうですね。丹波長が忙しく動き回って、来てすぐに何日も席に居ない事などは見てきましたが、直接関わるようなことが無かったので。当初お聞きしていたよりはるかにやり手だと、課長が何かに付け絶賛していたのは知っていましたが」
「仕事が出来ないとは言いません。そんなことをすれば、呼んでくださった課長や、推薦してくださった前所属の方たちの見る目が無かったと言っているようなものですから。期待以上の働きが出来ているなら良かったと思っています」
にこりと笑った。ここで卑下すると、そんな奴を紹介したり登用したのかと、春久の上司が言われることになるのだ。
「ただ、自分一人じゃ到底無理で、こちらに来て皆さんに助けられての成果だとは思っています」
「係長は、独身だと伺いました。課長が、これで結婚さえしてくれればと、心配をされてはいましたが。俺としては、今の係長が不便なく仕事をこなせているのならそれ以上はと思っているんですが、一つだけ、課長が心配している理由を伝えても宜しいですか?」
理由? 特別な理由が有るというのか? 内容に見当が付かなくて、「お願いします」と頷いた。
「ストーカーですよ。警察官、出世頭、独身、高身長、鍛えられて整った容姿」拳を握ったまま、親指、人差し指、中指と順に立てて数えていく。前半は理解出来る。後半は主観が入る。ただまあ、百八十を越えているので高身長の部類には入るか。
「それが揃っていると判れば、ストーカーになるのが居ます。相手は仕事関係者、受付などで見かけただけ、時には同僚だったりと、様々なんですが。課長も、警部補成り立て即係長なんて部下を持ったことが無いから、自分が育てなければと力も入っているようです。なので、そんな被害に遭わない為にも、身元のしっかりした相手を紹介してさっさと結婚してくれればと思っているんです」
春久は目を瞬かせるしか無い。そんなことまで心配してくれていたとは気づかなかった。ストーカー被害。まさしく生活安全課案件だ。それが自分に降りかかるようなことだとも。
「教えてくださってありがとうございます。課長にも改めてお礼を伝えておきます」
「改めない方が良いと思いますよ。ここで話したことは聞かなかったことに。会議室じゃなくて、食堂での四方山話ですから」
「了解しました。ですが、経験の少ない自分には、その四方山話が助かります」
にこりと笑った。そのまま弁当の蓋を閉め、お茶を飲んで手を合わせる。
「ごちそう様でした」
そう言ってから弁当のゴミを纏めて、ゴミ箱に捨てた。
「部屋に戻りますか? 会議室を押さえますよ」
「了解しました」
部屋に戻り、会議室の空きと自分のスケジュールとメールを確認する。どれも問題が無いのを確認出来れば、少し長めに会議室を押さえた。
自分の作業をしながら、ちらりと視線を向ける。班長も、居なかった間の仕事の確認をしているようだ。彼が席を空けたのは十五分ほどだろうか。その間に状況が変わっていないか自分の席の書類に目を通し、急ぎの物を見つけたのだろう、一枚だけ抜き出してチェックをして印鑑、そのまま係長のところに差し出した。他の書類は全て机の引き出しに入れ、鍵を掛けている。
春久は一人立ち上がり、会議室に続く廊下に出て、自動販売機に向かう。春久の食後はコーヒーだが、今日は水筒に入れたコーヒーを飲み干している。お茶にすべきか。そして彼は何が良いのだろう。
自動販売機の前で悩んでいると、隣に人が来た。
「もう行かれたかと思いました」
「いえ。飲み物、何が良いですか? 好きな物を選んでください」
「自分で出しますよ」
「先ほどのアドバイスのお礼と、じっくり話をさせていただくので、その心構えをしていただく為ですよ」
にこりと笑うと、相手は礼を言ってお茶を。なので春久も同じ物を選んだ。
会議室に入ると、相手は少し斜め向こうに座る。先ほどの班長は真正面に座った。なるほど、こんなところも違うのだなと、思わず相手を観察していた。四十代前半。日焼けは彼が現場を走り回っていた証。一緒に歩いているときに太ももの太さも見た。走って走って現場を回っている。
「アイスブレイクの続きから入っても宜しいでしょうか?」
春久が問えば、相手は「もちろんです」と、頷いてくれた。
「堅苦しい話し方も、今は止めさせていただきますね」頷いてくれるのを待って「俺は……」と、口を開いた。
「俺は、二年も付き合った相手と、たった一年の結婚生活さえ続けられなかったんです。なので結婚には尻込みしている。その代わり友人には恵まれて、友人と遊ぶことでストレス解消になっている。きっと毎日顔を合わせるわけじゃないから、妥協も自分が折れることもできる。仕事は、有る意味仕事と割り切れる。でも家庭はそうはいかないじゃないですか。まだしばらくは結婚しないと思いますので、誤解を招くような振る舞いはしないよう、気をつけます」
「では、俺も砕けた物言いにさせていただきます。うちはかみさんと子どもが二人、どちらも高校生です」
「え? 大きいですね!」
「公務員の結婚は基本早いですからね。順調に生まれればそんなものじゃないですかね。兄ちゃんは大学希望で、妹は高卒で警察官になりたいと言うので、せめて大学に行ってからにしろと、話してるところです」
「そうですね。高卒は現場に出るのは早いですが、後々仕事をしながら勉強をすることは大変ですしね」
「社会人学生を続けたいとおっしゃる係長の台詞じゃ無いと思いますが、その通りです」
「法律を学んでおくと、人の善悪と法の善悪の違いが分かるので、仕事に生かせられますよ」
「娘にアドバイスしておきます」
「是非とも」
互いににこやかに笑った。
「ところで」
口火を切ったのは春久だ。
「先ほど、班員たちへの指示でお忙しそうでしたが、時間とって頂いて、大丈夫でしたか?」
「大丈夫です。うちの班は、明日半分、明後日全員、明明後日残りの半分が休みを頂くので、その段取りだけしておけば、係長との話が定時を過ぎても大丈夫なので」
「お気を遣わせてしまって済みません。でも、そんな休みの取り方をするのですね。それは班によって、ですか? それとも係長単位で?」
「係長単位ですね、休みの取り方は。係長の下に付いている班長や班員全員が、一気に休まないのが原則ですから。判る者が誰も居ない、班長や係長に連絡が取れる者が居ないのが一番困りますから」
「なるほどです。確かにそうですよね。俺は班長も班員も赴任してきたときそのままだったので、やり方も踏襲していましたから。班長が変わって、うちが二班だけになるってことは、そこも考えなくちゃいけなくなるってことなんですね」
春久はノートを取りながら、相手をじっと見る。相手も春久を見ている。
「済みません、質問したいことが有るのですが、少し頭の中で纏めさせていただいてもよろしいですか?」
「どうぞ」
春久は今更ながら気づいて、お茶を開けた。相手も同じようにペットボトルを取る。
「そう言えば」黙って向かい合っているのも気詰まりになりそうなので、考えている間に雑談をと、提案した。
「お酒は飲まれます?」
「飲みますよ。待機の無い時は、かみさんと晩酌します。といっても、大して飲めないんですけどね」
「え? 下戸なんですか?」
相手は顔の前で手を振る。
「待機が無くても呼び出されることは有ります。班長が少なくなると多分覿面に。他に処理出来る人が居ないんですから」
「それは盲点でした」
それで、腕を組んでノートを見つめる。
「そんなに難しい質問ですか?」
「え?」
「眉間に皺が寄ってますよ」
「あ、失礼を。友人にも時々問われます。疲れてるんじゃないかと、眉間の皺を見て。ダメですね。皆さんに心配をおかけする。そうじゃなくて、俺に資格があるかどうかを考えていたんです」
「何の資格です?」
「課長が今自分に何を求めているのか、それを考えると」
「かなり期待されてるじゃないですか? 理由は先ほどお聞きしたのであまり言いたくないのですが、結婚も含めて、仕事で成果を出すことも、課長を追い抜くぐらいの勢いで出世することも。そういった人を部下に持つと、同期会や同役たちの集まりでいい顔を出来るようですし。反対に不始末をしでかした下を持つと、小さくなるしかない。我々だってそうですよ。上が優秀なら鼻が高い、懲罰を受ければ顔色を無くす」
「そちらも有るんですが……。そうですねぇ。課長が出された課題、なんですよねこれが。腹をくくりました。俺の下で働いていただけますか?」
課長の課題じゃなくても、今の春久に必要な相手を見極め、口説き落とすことは、これからの業務に必須だ。
今度は相手が黙り込む番だった。
「俺じゃやはり頼りないですか」
「いえ、そうじゃなくて。どうして最終候補に残ったのか、自分でも不思議なんですよ。もう一人の班長の方がやり方もビジョンも明確でしょう」
「そうですね。売り込みされました。班をどのように運用していくか、将来的にどうなりたいか。勢いも有りました」
「だったら」
「ですが、今の俺にはあなたの方が必要なんです。上にも下にも目を配れる。普段からの心構えも出来ている。上司の方が若造で何も知らないと笑わず、少なくとも顔には出していませんでした。一々丁寧に教えてくださった」
春久がここに来て十ヶ月が来ようとしている。書類のこと、普段やるべき事は判る。けれど、ここのやり方については知らないままだ。特に課長にはこれから、所属、所轄、県すら跨いで折衝が有ると言われている。ならばどんな人材が必要なのか、判りきっている。
「来年以降の俺には、彼のような上を見る力も必要でしょう。でも今は、文字通りサポートをしていただける人を必要としています。特に俺が留守のとき、きちんと報連相の出来る方。さもないと俺は孤立します。下から報告も連絡も相談もされない奴だと見限られて。あなたと話をしていて判りました。あなたを選べるかどうかで、自分の力量を測れるかどうかの判断をされている気がします」
「買いかぶられたものだと思いますが、課長と係長、お二人がそれで宜しいので有れば、尽力させていただきます」
「ありがとうございます」
春久は立ち上がって頭を下げた。
「係長」
「力になっていただく方への礼儀です」
「ああ、さきほども、食事の後で感謝していましたね。礼儀を尽くされる方だから、課長も気に入っているのかも知れませんね」




