窓口業務
ソファーの背に、スーツの上着を引っかけた。そのまま、深く座り込む。
らしくないと、自分でも思う。その日着たスーツはすぐにハンガーに掛けて湿気を取り、場合によってはクリーニングに出すためにポケットの中に何も無いことを確認して、ラックに掛ける。それすらする気力が湧かない。
「電話して良い時間帯を教えてくれ。これから買い物やクリーニングに出しに行くので、帰ってきて時間を見計らうから」
スマホからカイにメールを送った。パソコンを開くことすら億劫だ。カイに宛てたけれど、自分への暗示でもある。これで嫌でも動かなくてはならなくなった。
戻ってからメールを開いた。
「二十一時以降なら部屋に戻ってるよ。無理しないでね」
カイのこの一言に癒やされる。スマホを額に当て、ほーっと長い息を吐いた。時計は九時を回っている。立ち上がって夕食と風呂の支度だ。と言っても、着替えて、買ってきた弁当に(カイが聞けば絶対に笑うけれど)インスタントの味噌汁を用意し、風呂は湯を沸かすスイッチを入れただけだ。それでも、食べる気になれただけでありがたい。
電話はワンコール。
「ハルさん、お帰り」
ああ、癒やされる。カイがなんで女じゃないんだと思う瞬間。男だからこその関係だということも判ってるし、それに、カイも女だったらなどと言われれば怒るだろう。男とか女とか、そんなことは関係無く、人としての関係だ。
「ただいま」
平静を装って応えた。
「悪い。特に用事は無いんだが、少しだけ話に付き合ってくれ。世間話だ。お前と話をしてると、そのうちツーリングやキャンプの話になるだろう? それで気分が変わるから」
「俺は大丈夫だけど。途中で質問しても良い?」
「内容に寄る」
「大学の授業。判らないところがある」
「それなら問題無い。悪いな、仕事に絡む話をするとお前にまで迷惑を掛けるから」
「判ってる」
そうだ。カイならおかしな事は聞かないと判っている。それでも念押しだけはしなくてはならないのが、警察官の性だ。
カイの質問は、法律の部分だった。それなら専門だ。しっかり聞いて答える。それは仕事の応用。
「やっぱりハルさんは凄いね」
カイの賞賛には思わずニヤッと笑ってしまった。大学に四年、頑張って通った甲斐があったというもの。
「次の授業までは滅茶苦茶忙しい。メールを見落としたら済まん。何回か送ってくれれば気づくと思うが、急ぎの時は電話で頼む。その代わり、授業の時は確実に休みが取れるように調整してくれることになった」
「次の授業の時は晴れると良いなぁ。夕食場所の側、絶好の撮影スポット! と言っても、十月じゃあ着くまでに夕焼け終わってるけどね」
「その場合は、もう一回行けば良いってことだろう」
「そういうこと。楽しみが増えたね」
「ああ、そうだな。翌朝の飯はコンビニのむすびで良いか?」
「おっけー。両日とも俺が昼を奢る、で、良いんだよね?」
「その約束だ」
息とは、こんなに楽に吸えるものだったか。
交わしていたのは、取り留めのない話だけ。それなのに、帰ってきてものし掛かっていた肩の荷が、一気に軽くなってきた気がする。きっと明日また仕事に出れば再びのし掛かってくるのだろうから、今のうちにしっかり呼吸しておく。
「じゃあ、次に会うのは四週間後だね」
カイの言葉にハッとした。
「そうだな」相づちを打った。「また何か有ればメールを入れておく。お前も、勉強も良いが無理はするなよ。それから、法律のことなら多少は判るから、解らないところはメールを入れてくれれば、返信しておく」
「よろしくお願いします。じゃあね。ハルさん疲れているんだから、ゆっくりお風呂に入って寝なきゃだめだよ。お休み」
「あ、ああ。お休み」
話の流れで電話を切ってしまった。もう少しぐらいと思いながら時計を見て驚いた。日付が変わってる! いや、カイに電話をしたのは十時を過ぎていた。けれど、二十一時には部屋に戻っていると返事が来て、それはつまりそれから待っていてくれたと言うことで、つまり、カイもこれから風呂に入る。悪いことをした。
家を見に行っていた二人は、決めきれず、次の休みに奥さんたちと一緒に行くというので、翌日も丸一日かけて確認してこい、それ以上は待てない、というか、引っ越しに間に合わなくなると、伝えた。
なので今日は面倒を見なくてはならない二人が居ない。春久は課長に断ってから一階窓口に降りた。そこにある生活安全課の席。つい三日前までは二人が座っていた席も、今日は別の職員が座っている。
「丹波係長?」
「申し訳無い。机の隅だけ貸して欲しいんだけど」
「あ、どうぞ」
空けてくれた隅に水筒を置いた。
「何が入っているんですか?」
「コーヒーだよ。アイスコーヒー。濃いめに出して氷を詰め込んだ水筒に入れれば良いと教わったので、家で豆を挽いてサイフォンで時間を掛けて点てた奴。香りが良いんで持ち歩いて、たまに口にしている」
「へぇ。良いですねそれ。まあ、冬場は暖かい方が良いですけど」
「確かにね」
「あ、どうぞ、椅子」
話をしていると、もう一人が椅子を借りてきてくれたので、それに座る。
「ところで」
春久は部屋の中を見回した。生活安全課の窓口は大抵、一人か二人座っている。何か有れば内線ですぐに上から降りてこられるからだ。他の課も大抵そんなもので、たまに上から人が降りてきて自分の担当職員と話をしていたりする。
「窓口業務について詳しく知らなかったので、日誌を見せて貰える? どんな相談内容が来るのかを確認したいんだけど」
「こちらですね」
一人が机の上に置いていた少し厚めのファイルを渡してくれた。
「今年の四月からの分です。半年に一冊、年二冊作られます。ここには大抵二冊置かれています。一冊は参考資料としてですが。半期毎に一冊、新しいのを作成して古い方を資料室に送ります。本来なら刑事事件と未解決事件以外は五年で処分されるんですが、窓口相談分は十年間保存されます。特に住民関係のものは、その前に一軒一軒訪ねて行くので、情報は常に最新化されるようになっていますから」
「引き続き案件は、無い?」
引き続き案件とは、何年にもわたっての相談案件。一番多いのが隣人に対する苦情だ。次がストーカー相談。
「それは、情報が新しくなるたびに新規案件として最新の冊子に綴り直されます」
ばらりと開いてくれたそこには、新しい用紙に傷みが出ていた古い物を貼り付けたり、フィルムポケットに入れて挟み込んでいるものがある。春久たちが足で稼いだ資料を、丁寧に扱ってくれていることが判る。そしてきちんと地元の一人一人に対して目を向けていることも。
「これは、生活安全課の宝だね」
春久が日誌の表紙を撫でると、二人は何とも言えない顔をして見合わせていた。
「ああ、邪魔してごめん。こっちは新しい奴だよね。今日も使うだろうから、そちらの昨年度後半の分を貸して貰っても構わないかな」
「どうぞ」
新しい日誌を返して古い物を借りる。ぱらぱらと捲れば、窓口と訪問では相談内容がかなり違っていることに気づいた。当然ながら窓口では切羽詰まった、急を要する案件が多い。
窓口に人が訪れれば、まずは受付が話を聞く。最初から課や人を指名してくることも有るが、大抵は問題を言われ、該当する部署に連絡が入る。当然部署を跨いで一緒に話を聞くこともあるし、案件によりどちらが指揮権限を持つかも変わってくる。
日誌には対応者の名前も書かれているが、対応者に当時のことを聞き返しても多分覚えていないだろう、よほど大きな事件や事故でも無い限り、日常生活に紛れて記憶は薄れていく。
「丹波長、読むのなら外のソファーに座っていればいかがです? 他部署の役付きなんか、よくやってますよ。外からしか見えない対応なんかもありますし、住民の警察に対する愚痴とか文句も聞けるそうです。ただし、それが記録と判らないようにしてください」
そう言って、大きめの雑誌を渡された。それに挟んで見ろと言うことらしい。礼を言って日誌と雑誌を持ち、椅子を返して水筒も持って、受付から少しだけ陰になっているソファーに座った。外とは室外ではなく、ロビー内受付より外のことだ。
確かに受付や中の様子がよく見える。
時々受付に動きが出る。その対応を見つつ、手元の日誌にも目を通す。口を潤すために水筒のコーヒーを飲んでいると、隣にどさっとスーツ姿の人が座った。
「どうだ? たまには見る場所を変えてみるのも有りだろう」
「そうですね。結局、こちらに来て、何も見えていなかったんだなぁと思いました。窓口業務も判っているようで判ってなかった。前の所轄では班員に目を配るのに必死でしたし、その前は、班長に叱られながら走り回っていましたから」
課長に答えつつ、日誌を、挟んでいる雑誌ごと閉じた。
「班長の時は、係長や課長の命令に従って下を動かせば良いだけだったんだなぁと、つくづく思いました」
それから雑誌の間に挟んだ日誌を指し
「こういった別の部署との協力関係や折衝が、仕事として増えるって事なんですね」
「まだまだ甘いな」
「え?」
春久は課長の顔を見る。まだ甘い、その理由を教えて欲しい。
「別部署との連絡対応は係長以上の役割だ。前任の尻ぬぐいが急ぎだったのと、お前も係長になったばかりだったので、そっちの仕事を振っていなかった。管区の研修も終わったんだ、これからは当然振る。でもな、お前は副課長になるんだ。課長と付くなら、本庁や他所轄との折衝も出てくる。ああ、それ以上に管区に手伝いに行けば、県警単位での折衝にもなる場合がありそうだと思わないか? 俺は思うぞ」
マジかぁ……。同じ折衝でも、レベルが違う。相手に寄って自分の立ち位置も変えなくてはならない。例えるなら、係長なら活動服、課長ならスーツ、他県まで動かす場合は正装のようなもの。使い分けつつ、落としどころを見つけていかなくてはならないのだ。
「それから係長たちとの話の結果を伝えておく。若手が二人出て行って二人、海のものとも山のものともつかない連中が来るんで、それに乗じて班員を一部動かすことにした。今年は例外中の例外だ。お前自身が例外だからな。今、お前に付ける班長候補が二人居る。お前と息を合わせられる奴でないとな。なので、昼からは二人と個別にいろいろ話せ。格好付ける必要は無いからな。雑談でも何でも良い。どちらにするかは、来週までに決めろ。それでその班長の下を中心に班員の入れ替えだ。当然、来週を待たずに決めてくれても良い」
「判りました」
「誰もが平等だなんて言うのは、所詮現場を知らない奴の戯言だ。お前が育てていきたい奴を選べ。公平さは必要だぞ。でも平等で無くて良い」
公平と平等。その違い。
「そうですね。課長のおっしゃることは、実行するのは難しいですが、必要な事だと思います」
平等は何も考えなくても良い。ただ、手元に有る物を同じだけに分けて渡せば良いだけだから。百個有れば十人に十個ずつ。けれど公平にするには、きちんと目を配る必要がある。二十個必要な者も居れば一個も要らない者も居る。見極めて判断しなければならない。
「勉強も、付き合いも必要で。難しいですね、上になるほど。俺は課長を尊敬しますよ」
「なんだ、今までしていなかったのか?」
「はは。していましたよ。でも、今までの俺は、上からの命令にいかに効率よく正確に、言わば上の望む通りに動けるか、だったんだなぁと」
「同じだよ。俺たちだって上からの命令に従うだけだ。ただ、下っ端なら言われたことを自分だけでやれば良かった。上になればなるほど、大きな成果を上げなくちゃいけなくなる。そのために自分の下にいかに仕事を割り振るかを考えなくちゃいけないし、そのためなら周りとの協調体制を敷かなくちゃならないんだが、その相手が個人から組織に変わるんだ。言っただろう。お前が課長になるには十年は早いと。その十年の間に、覚えて指示が出来るようになれば良いってことだよ。誰もペーペーのお前に、完璧は求めないからな。今のうちだ」
「そうですね。ペーペーだから、今まで、他部署の折衝を待ってくださっていたんですよね」
「待ってる間にお前の立ち位置がどんどん変わるから、悠長な事を言ってられなくなったんだ。本当ならお前は秋からも南で、一部班長を入れ替えて、俺が落とす課題を班長を含めた全員でクリアさせようと目論んでいたんだがなぁ。なので自分で班長を選ぶのもお前の仕事だ。先輩係長たちの手で二択までには絞った。どっちを選んでも構わない。しばらく一緒に仕事をして失敗したと思うかも知れない。それでも良い。お前の係長としての体験になる。もちろん上手く歯車がかみ合うのが一番だがな」
課長は器を持っているかのように指を立て、手首を回す。
「性格的にはほぼほぼ逆だな。裏と表のような。それ以上の事はお前が話をして気づくべき事だ。それで良いな」
「判りました。自分の目で確かめます」
課長は立ち上がり、春久の肩を叩いて部屋へと戻っていった。




