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係長の一日

 そのまた翌日は朝から出勤だ。

 「おはようございます!」

 「おはよう」

 挨拶を返して、ホワイトボードに目をやる。今日の予定はパソコンのスケジュールを開けば判るのだが、そんなもどかしいことをしていられないことも多々ある。課長は昼から出勤。班長たちは?

 全員の予定を脳裏に焼き付けてから、自分の席に着いた。

 相変わらず机の上には裁決の必要な書類が溜まっている。唯一の救いは、春久でなければならない書類以外は、他の係長や課長が代わりに目を通してくれているということぐらいだ。

 

 まずはチェックの入っている書類。春久も確認して差し戻す。他の係長と課長の印が入っている書類に目を通した後は、代わりに押してくれている印鑑に重ならないよう、係長枠に丹波の印を押して課長に渡せるよう、机の隅に纏めておく。

 「丹波さん、昼、弁当取りません? 予約有ります?」

 「いえ。ありませんが」

 隣の係長から声が掛かった。

 「ようやく話せますよね。研修の事。どんな状況だったか教えてくださいよ。まあ、下に聞かせられないので、会議室借り切って」

 数年前に同じ研修を受けた立場からか、研修の状況に興味津々らしい。

 「申し訳ありません。課長からしばらくは係長や他部署の警部補以上にも口外するなと言われているんです。所感が届くそうなので、それを確認してから、課長と全係長が居るときにと仰ってましたから」

 下に対して口外してならないことは当然として、だ。なので誰にも話せない。

 カイにだけは、「毎日マラソン大会で、最終日前日には山の頂上まで駆け足で往復させられた」と教えたが。

 九月初旬の気候と相まって洗濯する暇が無い汚れ物は汗の臭いに顔を背けたくなるほどで、コーヒーの出がらし消臭剤がどれほど役に立ったかを伝えたのだ。確かに着替えは七日分とは聞いていたけれど、まさか洗濯機を回す暇すら貰えないとは誰も思っていなかった。

 

 「マジですか。伸びた原因を知りたかったんですけどね。その時に話してくれます?」

 「課長次第で」

 聞かれてはならない相手がぞろぞろ居る事務所内ではそれ以上は言えない。にこりと笑って自分のパソコンに向かった。

 

 課長が昼からやってきた。

 「丹波」

 「はい」

 春久の顔を見た途端呼ばれたので、条件反射で返事をしてしまった。

 「制服全部クリーニングに出したのか?」

 「ええ。はい。今日の帰りに受け取ります」

 研修のために持って行っていた制服全部と活動服、スーツも含め、下着以外全て出してきた。活動服に関してはまだ初秋だったので、薄手のシャツとズボンだったことが幸いした。防弾チョッキなどは不要だとのことで、嵩張るそれらを持ち運ばずに済んだ。これが寒い時期なら、荷物は倍、クリーニングの時間も費用も倍になっていただろう。

 「だったら、良い。明日の朝から制服制帽な。今回研修に出た連中とその上全員本庁呼び出しだ」

 「了解しました」

 「今日は午後からだと思って朝ごろごろしていたら、女房に蹴り起こされたぞ。電話が鳴ってるって。酷い目に遭った」

 「それは、奥さんの台詞ですね」

 互いに軽口を含ませた笑顔だ。


 「頭を下げて飯を食わせて貰ってから出てきた。で、全員分纏めて本庁の人事部長宛に届いたらしいんで受け取りだ」

 最後の部分は春久にだけ聞こえるように。昨日話をしていた管区からの評価が、早くもそちらに届いたので、赴かなければならないらしい。

 「了解しました。それじゃあ、朝こちらに来てから、本庁へは覆面で宜しいでしょうか?」

 「公用車の方だ。空いてる車が有るか確認して、手配を頼む」

 「了解です」

 もちろん覆面も公用車だが、課長が言うのはサイレン設備も付いていない、普通車。配車手配をして、鍵を取り上げる。

 「車庫に有るようなので点検してきます。一時間ほどで戻ります」

 ホワイトボードには車庫と記載して、階段を駆け下りた。

 

 「戻りました」

 「丹波長、丁度良かった。一階の受付から呼び出しです。車庫に居るって伝えたばかりで」

 「あ、判ったありがとう。直接行ってくる」

 ちらっとホワイトボードに目をやると「書き直しておきます」と声が聞こえてきたので、後を頼んでまた一階に。

 一階に配置した二人から、他部署の巡回に付いていきたいので許可が欲しい旨を伝えられる。一人は熊野係長担当のはずなのだが。それを口にすれば、この際二人一緒に春久に許可を貰えと言われたと。

 確かに春久が最終的には二人の異動に伴う処理を行うことにはなっている。というか、させられた。手を放すの、早すぎないか?

 

 「判った。それぞれの部署の課長に頭を下げておく。日にち指定は無いな?」

 二人が顔を見合わせた。

 「そこまで無理を言うと、丹波長倒れますよね? 許可だけいただければ、日程は自分で調整します」

 「来週末に異動が発表になったら連れて行けないから、行くのなら今週か遅くても来週の頭までだとは言われていますので、その間でというところまでは話が出来ています。ただ、所属の係長の許可が必要だったのですが、係長、長期出張中でご連絡出来ないとのことでしたので」

 「判った。今から一人ずつ、担当部署に顔を出してこよう」

 「お願いします!」

 

 他の階を回って、既に決定していることに対しても、形だけでも頭を下げたという行動が、お互いに必要だ。もちろん誠心誠意頼むのだが。

 「熊野係長。まだ俺に仕事振るの早すぎませんか?」

 他部署手伝いの話をすれば

 「丹波長の方がフットワーク軽いからなぁ。ま、どのみちすぐにそっちで見ることになるんだ。よろしく頼む」

 と、手を振って笑う。勘弁してくれ……。

 

 「丹波係長」

 呼ばれて顔を上げた。ああまだ、こいつが居た。異動先がどうなったのか、課長に確認するのを忘れていた。

 「どうした?」

 「あ、あのっ! 六時が来るので、着替えて帰っても宜しいでしょうか!」

 言葉遣いが丁寧になった。春久が留守の間に班長にしぼられたのだろう。

 「野沢班長は?」

 聞いて、ホワイトボードに目をやる。帰着が六時。時計を見れば十分前。

 「着替えるのは許可する。ただし、さっさと着替えて、六時までは席に着いていること。班長が六時帰着予定だから、班長と会えれば、彼に許可をもらう事。それまでに戻ってこないときはもう一度俺に言ってきて」

 「はいっ!」

 

 バタバタと走っていく後ろ姿を見ていると、課長が

 「お前は優しいな。野沢班長なら六時まで座っていろ、着替えは業務が終わってからだと、叱るんだが」

 などと。それに関しては曖昧に笑い

 「課長、ちょっと宜しいですか? 一応六時までには終わる話です」と、誘った。

 「そうだな。そっちの話もあったか」

 課長は頭を掻きながら、春久と一緒に自動販売機の奥の休憩スペースへと移動してくれた。


 「済みません、出張の後始末でばたついていて、異動についての話、確認できていませんでした。後は留守の間の様子も、帰ってすぐに確認しておくべきでした」

 誰の異動か、先ほどのやり取りから課長にも伝わっている。あえて名前を出さない。

 「そっちの優先順位は低くて良いぞ。班長への課題ともしているんだから。班長が帰ってきてから話を……と言っても、お前も今日は定時上がりか。明日、車の中で話そう。運転手も捕まえておいた」

 「了解しました」

 「本庁に行くついでに刑事部にも寄ってくれと、お前が走り回っている間に連絡があった。ということで、明日も一日外だ。昼には戻ってこられると思っていたんだが、仕事を班長に割り振っておけよ。今からすぐに」

 「了解しました」

 「お前のスケジュールも、明日一日本庁出向に変更済みで、他の係長連中にはお前の留守のフォローまで言いつけるんで、そっちは気にするな」

 「ありがとうございます」

 

 二人並んで執務室に戻る。泣きそうな顔で、机の前に人が立っている。春久は時計を見た。

 「班長はまだ?」

 「は、はい!」

 「悪かったね。帰って良いよ」

 六時を三分過ぎただけで、そんなに泣きそうになるのか。班長が一体どういった叱責をしたのか、そちらの方が気になる。ぺこりと頭を下げ、自分の席にすら戻らずホワイトボードを消してそのまま出て行った。


 「着替えから帰ってきたら係長がいらっしゃらなくて、班長も戻ってきてない、で、泣きそうでしたよ」

 別の班長が春久の机に書類を置きながら。担当でなくても問題は共有されているから、皆、注目している。

 「俺が居ない間は?」

 「その間は課長に許可を貰うってことだったので。朝は班長がわざと、時間より早く席に着いていて時計とにらめっこしていて、五分前に来て着替える時間があるのか!って怒鳴っていたのでかなり萎縮してましたね。帰りも、残業など命じてないからさっさと片付けろと、時間ぴったりに机の上を片付けさせていましたし」

 「そうなのですね。次のところできちんとした行動が出来て可愛がって貰えれば良いんですが」

 

 受け取ったのは班員の勤怠届けだった。スケジュールに関しては班長が管理して、その印鑑が押されているのだから問題無い。記載漏れが無いことだけを確認して印鑑を押し、班長に返した。一週間後の休みの分で、早めに出してくれると皆のスケジュール調整がしやすいのでありがたい。

 「そちらの班、明日明後日、全員休みですよね?」

 「そうです。二日間、フォローをお願いします」

 春久は頷いた上で「いきなりで申し訳無いんですが、明日は課長と一緒に本庁に出ます。なので、急用の時は業務用電話で連絡をお願いします」と、命令系統の上が二人とも席に居ない旨を伝えた。班員からは班長に上がる。班長から上がる係長と課長が自席に居なければ、緊急時の伝達が滞ってしまう。春久は課長が休みや時間がずれている間は席に居て、それ以外の時には外回りメインに動いているのだが、二人とも居ないのならきちんと伝達方法を伝えておかなければならない。連絡の必要が無いのが一番だけれど、呼び出しも多々有る仕事だ。そうも言っていられない。

 「了解しました。では、失礼します」

 班長が自席に戻り班員に帰宅を促した。今日が休みの班には班長宛にメールを入れてメモを残し、居る班長には明日は課長と二人居ない事を伝え、明日の支度をしながら出ている班長が帰ってくるのを待つ。

 「丹波、帰って良いぞ。帰着を待ってるんだろう? お前の明日の予定は伝えておくぞ?」

 「課長も明日早いですよね? 大丈夫ですか?」

 「俺も二十一時までには帰るよ。一応(班長に)メモだけは残しておいてくれ」

 「六時帰着予定なので、少し遅れているだけだろうと思いますし、もう少しだけやっていきます。一週間留守にしたツケが残っていますので。課長がいらっしゃるのなら、決済関係も見ていただきたいですし」

 「判った判った」

 

 ようやく顔を合わせられた班長は、帰ってきて、春久が居ない間のことを話してくれた。

 「警察学校に戻って新人と一緒に一から勉強してくるか、と、叱りました。さすがにアレはもう一回やれと言われると辛いんでしょうね。一応、言うことは聞くようになりましたが。後は、係長が一週間も留守にされたことも大きいですね」

 「そうなんですか?」

 「班長を飛び越えたくても相手が居ない。俺に許可を貰えないとトイレにも行けないんです。課長が仰ったでしょう。机から離れるときは班長か係長に一々許可を取れと。係長が居ない間は課長が代理だと仰ってましたが、さすがにそこまで許可を貰いに行く度胸は無かったんでしょうね。お陰で他の連中もそれを見て大人しくなりました。もっと早くからそうやっていれば良かったかと思った程です。ただまあ、あなたが係長で、見た目で侮ると痛い目に遭うと知らしめさせたからこそ、その後がやりやすかったんだとは思いますけどね」


 「やっぱり経験不足が顔に出てますかね」

 「いやあ。キャリアたちは大卒で即警部補ですから、それについては。というよりも、丹波長は穏やかそうに見えるんですよ。実際多少の事では声を荒げませんし。キャリア連中はね、怒鳴るのが多いですから。もちろん穏やかなのも居ますけど、威圧を怒鳴り散らかすことだと勘違いしているというか。

 なので怒鳴らない丹波長は御しやすいと、勘違いする奴が居る。特に下っ端ほど。俺たちのような長い間警察の飯を食ってきた人間は、そっちの方が怖いと身を以て知っているんですがね」

 「俺怖いですか? 怖くないですよね?」

 「話せば腹の底を見せてくれますから。むしろ係長にとって警察は大変だろうなとも思います。怒鳴って鼓舞しなくちゃいけないことも多いでしょうし」

 「そうですねぇ。俺が怒鳴らずに済んでいるのは、良き友人たちや先輩たちに恵まれたから、なんですよ。そして今は同僚たちにも助けられている」

 春久はにこりと笑った。


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