ひと息ついて
キャンプ用の椅子と缶ビールを二本、持ってベランダに出た。緊急時の避難路になる場所だから占有は出来ないが、たまには。窓のそば、通行に支障の無い場所には引っ越ししてきたときに垣内が持ってきてくれた小さなプランター。今はプチトマトを植えているが、忙しさに水やりを忘れることも多々あり、成長が遅い。
「警察人事の話は、秋津君の側ではし辛いよな」
戸野原は理解を示してくれ、椅子に座ってビールを開けた。
「あ、車じゃないですよね?」
「女房に買い物ついでに送って貰ったよ。帰りはバスの予定だ」
「送りますよ。運転手はカイですけど」
「良いのか?そんなことを言ってて。せめて本人に確認しろよ」
「あいつは運転させておけば文句は言いません。その点は大丈夫です」
「はは。お前たちの付き合いだな、それが。まあ、タクシーで帰っても知れてる」
カイに運転させるにしても、本来は春久は飲むべきでは無いと判っている。けれど今は戸野原と飲みたい気分だ。カイには後で謝る。
「で、秋津君には格好悪くて話せないような事も有るんだろう。お前、彼には格好付けたい方だろう」
「まあ……。年上としての意地というか。見せたくない弱みは有ります。見せても良い弱みも有るんですけど、仕事関係だけは」
生活の基盤になる「仕事」が出来ないと思われたら、大きな顔で奢ってやるなんて、絶対に言えなくなる。
「そうだなぁ」
戸野原もビールを一口飲んで、息を吐き出した。
「トノ、で警察関係の顔ぶれを考えていたんだが。どうにも。お前を後輩だと言ってたのなら、少なくとも俺も知ってる世代のはずなんだが」
「俺が異動してきてから、いろいろ均衡が崩れたことで一気に膿も出ているらしいです。当然俺のことが面白くない奴も居て。公安まで動かすことになりました。その関連の尻ぬぐいで鬱憤も溜まってて、遅くに帰ってそれから走ってました。高速を。大抵一つ二つ先のインターで折り返すんですが、この間、気づいたら古巣のインターまで行ってましたよ。それで、ああ、今はダメだなと。それに輪を掛けたのが、俺の知らない相手に俺のプライベートを戸野原さんが話すはずが無いと、頭では判っていたのに、トノと言う人に他にアテが無くてぐるぐるしてました」
最後少し溜息交じりになってしまった。
「それはまあ、言ってくれて良かったよ。俺も、相談も無し理由も判らずにお前にそっぽを向かれると辛いからな」
「誰なんでしょうね」
一応、経歴を知られていたからこそ助けられたことも判っているのだがと、話す。それでも、誰にでも知られているとなると、気持ちの良い物では無い。
「お前の入庁の成績まで知っているのなら人事の線が一番濃厚なんだが。奨学金だなんだって細かな話をするのも、採用時の面接なら有ると思うんだが」
「人事……」
「人事から異動してきた上司とか居ないのか? お前と今も付き合いが有るなら、身近に居るはずだぞ?」
「でも、俺が社会人学生だってことも知ってましたよ」
「そりゃ、人事なら知ってるだろう。俺も報告してるぞ。お前の昇進昇給に関わってくるからな。頑張る奴は応援したい。お前がさくっと巡査部長、ひいては警部補になったのも、そのあたりの努力というか、学ぶ姿勢も考慮されてだろう?」
それは……慮外だった。人事……。
「人事から異動してきたというのなら、前の所属の奥園さん……奥園係長?」
その人なら、戸野原も知っている。
「奥園さんかぁ。ああ、あの人、オクさんって呼ばれるの嫌がってたな。トノさんじゃなくて、ゾノさんか?」
ゾノ……。そんな呼び方をしたことが無かった。
「あの人はきっちりした奴を好むから、若手もあの人のことをゾノさんなんて呼ぶのを聞いたことは無いが。陰では呼んでいたのかもな。悪気無く、親しみを込めて」
「それは有るかも知れませんが。俺は奥園さんは奥園長までですね。でも、あの人ならいつでも連絡を取れるので少し聞いてみます。戸野原さんのお陰ですっきりしました」
確かに付き合いも有るし、可愛がっても貰っていた。今のところに係長として異動するのに、彼の後押しがあったことも判っているのだが。ひとまず相手が判っただけでも、良しとしておく。これ以上考えても無駄だ。聞いてから判断する。
「丹波、秋津君が待っている」
「え?」
戸野原に肩を叩かれて振り返ると、カイがソファーに座ってじっと二人を見ている。急いで窓を開けた。
「声を掛ければ良いのに」
「良いよ。冷めても大丈夫なものしか作ってないし。後のは、冷めるのを待って冷凍室に放り込む分ばっかりだから」
戸野原とそれぞれ、使った椅子とビールの空き缶を持って部屋に戻る。雑多な匂いがしているが、どれも料理の匂いだ。
「何を作ったって?」
「今晩のは、オムライスとコンソメスープ。残りはむすびにした。二回目に炊いたのは、牛肉のピラフと、そばめしにして皿に盛ってる。冷凍する奴ね。今炊いてるのは炊き込みご飯だから、できあがったらむすびにして冷凍だよ」
「おお、秋津君凄いな。丹波もまっすぐ戻って飯を食う気になるだろう」
戸野原の言う通りだ。凄すぎる。
「こっちはハルさんリクエストのアジの南蛮漬け。余った奴は冷蔵庫に入れておいて良いけど、夏なんだから早めに食べてね」
「もちろんそうする」
「オムライスかぁ。童心に戻るな」
「キャンプの時にチキンライス食べられなかったからね」
「うちの息子たちが平らげたからなぁ。ああ、忘れるところだった」
戸野原は笑うと、自分の持ってきたカバンを引き寄せ、中から箱を出してきた。
「嫁さんからだ。キャンプで教えてくれた袋で作るパンか? ケーキだかが、職場で好評だったからっていうんで、礼に。丹波に渡しておこうと思ったんだが、次に会うのが十月以降だってことなんで、今日邪魔をさせてもらったんだ」
「ありがとうございます」
「クッキーだかビスケットだか、俺はよく知らないんだが。秋津君は甘い物が良いだろうってことで、選んだらしい。チョコ系は寒くなったらと言っていたんで、また付き合ってやってくれ」
「こちらこそ、お世話になったのに。また是非ご一緒してくださいって伝えてください」
今日のカイはおびえることも無く、戸野原と話をしている。彼に対しては、ガードも取れたようだ。
二人のやり取りを見ながら思い出した。
「戸野原さん、俺も渡す物が有るんです。奥さんと戸野原さんに。また一緒にキャンプに行きましょうって、お誘いです。見立てはカイですよ」
戸野原は渡された紙袋を開け、中からマグカップ二つを出してきた。箱には色シールが貼られている。
「キャンプの時でも普段使いにでもしてください。真空構造なので温度の変化が少ないです。特に寒い時の外だとよく判ります。暖かいコーヒーが長持ちしてありがたいです」
「遠慮無く頂くよ。奮発してくれたな。ありがとう」
「いつもいろいろアドバイスも貰って助けていただいてます。キャンプ場でもそれとなく犯人確保してくれましたし。お陰でけが人も出なかった。何よりも、またよろしくお付き合いくださいって意味です。奥さんにも」
「はは。そうだな。だったらうちのもキャンプ仲間認定してやってくれ。喜ぶよ」
「是非とも」
オムライスはケチャップ味のチキンライスなのに、タマゴの上からもケチャップだ。カイはケチャップを細かく動かし、自分のオムライスに何かを書いている。横から覗き込んでつい、笑った。
「ハルさん! 覗き見厳禁!」
「何を書いたって?」
「オムライス、です」
「は?」
「ハルさん!」
「オムライスにオムライスって」
「バラすなっ!」
「ははは。それは良いな。だったら俺は、ケチャップとでも書くか」
ケチャップを渡された戸野原が書いた物をカイが見て、笑いながら頷いている。そのケチャップが春久に回されてきた。カイの期待に満ちた目。仕方が無い。大きく輪を描いてその中に小さな輪。小さな輪の中を、ケチャップで埋めた。
「何それ」
「目玉焼きだ」
「ぷっ」
こんな風に笑いながらの食事。久しぶりな気がする。キャンプでは確かに気心の知れた仲間との食事で、ゆったりできた。けれどその後のゴタゴタで、こうやって笑うのが、何時ぶりなのかと考えてしまうほどダメージを食らっていた。
ああそうか。笑っているのはカイだ。戸野原や垣内と初めて会って九ヶ月が来ようとしている。垣内とはまだ壁もあるだろうが、戸野原となら力も抜けている。
「コンソメスープ、まだ有るのか?」
「有るよ。チキンライスだけならフライパンに残ってるから、そっちも食べて。炊き込みご飯を明日の朝食にすれば良いんだし」
「俺はこのアジの南蛮漬けが気に入った。ピリ辛で、酒の肴に丁度良い」
春久はチキンライスとコンソメスープをおかわりし、戸野原がアジを突いているからその前にビールをもう一缶置いた。これ以上は無理だがここまでは戸野原にとって許容範囲だ。戸野原は少しの間ビールを見ていたが
「丹波、半分飲んでくれ。秋津君はどうする?」
と確認をした。カイが飲むと言えば、タクシーで帰るつもりなのだろう。けれどカイは
「俺はデザートが待ってます」
そう言って、冷蔵庫から二切れ入りのケーキ。今日のはミルフィールと抹茶の二種類。ショートケーキとチョコケーキセットも有って、悩みに悩んでそちらにしていた。
「ケーキが終わったら戸野原さんを送りに行くからな。お前の運転で。俺もビールを空けた」
「判った」
ほら、カイなら嫌とは言わないでしょうと口にはしないが、戸野原を見れば、戸野原も笑っている。
戸野原を送って、二人で家に戻る。カイが風呂に入っている間にソファーベッドを作ってやれば、春久が風呂に入っている間に、カイは料理を冷蔵庫や冷凍室に片付けてくれていた。
「洗い物はするぞ」
「うん」
三人分の食器、米を仕掛けるために出していたたくさんの鍋。フライパンには油が残っているから蓋がされている。少しずつ使っていこう。そのためにも、家で食事を食べる習慣を付けなくてはならない。
「そうだ。悪かったな。戸野原さんを送っていくと判っていたのに、俺も酒を飲んだ」
「いいよ。だってハルさん、戸野原さんと話をするの好きだよね。俺はハルさんの仕事の部分については理解出来ないけど、戸野原さんなら解り合えるところ有るんでしょ? 酒は飲めないけど、飲みながら二人同じようにアジを突いているの見てて楽しかったよ。ハルさんの顔つき変わったから、力抜けたんだって思ったし。俺も、明日はドライブで、明後日は日帰りツーリングしてくる」
春久が洗い終わった物を水切りに並べている間に、カイはクッションを抱えて、こてんとソファーベッドに横たわった。
「俺もストレス解消になった。ハルさん、ありがとうね」
そのまま、カイの声は聞こえなくなっていた。




