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消しゴム一つ分の距離

 その日、返事は無かった。翌朝出勤前にも確認したけれど、DMをも含めても一通も入っていない。折角戸野原がアドバイスをくれたけれどすれ違いを解消出来なかったのかと、意気消沈しつつも仕事だ。

 家に戻ること無く、垣内に教えられた道場行きのバスに乗り込んだ。

 垣内と会って、カイからの土産を渡した。垣内には子供を紹介された。戸野原の予想した通りまだ幼稚園児だ。今度はみんなで遊びに行こうと頭を撫でてやると、大喜びしていた。垣内には「職場でさんざん扱かれたんだ」と言い訳して、道場見学だけに留めた。嘘ではない。実際に今日は昼から三時間ほど、柔道に時間を費やした。体を動かして頭を空っぽにしたかったのもある。

 

 部屋に戻ってスーツの上をソファーの背に掛けた。

 ネクタイを緩、冷凍室を開けて中の物をレンジに入れる。

 インスタントコーヒーを入れ、ソファーに腰掛け溜息を吐いた。

 カイの為に買ったマグカップも、結局一度しか使われずに終わるのか。

 スマホの着信ランプに気づいたのは、レンジの音に、ああ充電をしなければと思い至った時だった。

 

 カイからのメールは二通入っていた。一通は昼、もう一通は先ほど届いたばかり。

 昼に届いていた物を開けば「夜に連絡する」と一言のみ。結局、今日の昼休みまでメールに気づかなかったようだ。発信時間は一時数分前。

 カイは驚くほど体力が無い。一日中バイクを乗り回しても平気な癖にと思うのだが、メールのチェックもせずに寝落ちしてしまうこともざらだ。一日返事が無いこともよく有ることだと知っているのに、なんでこんなに余裕を無くしていたのか。切羽詰まっていた自分がバカみたいだ。

 それで、レンジが何度目かの、調理終了扉を開けろと催促の音が鳴っていることに気づいた。立ち上がり、食事の支度をしてテーブルに置いた。メールの存在を見ただけで空腹を感じるほどに安堵したのだ。自分で思っていた以上に、カイの存在は大きいらしい。戸野原が、カイの機嫌を取っておけと、仲直りしておけと言ったのはそれを見抜いていたからか。

 

 妻との離婚はアッサリ成立した。大学時代に二年付き合って、卒業してすぐに結婚、一年ほどで離婚。それなりに交友関係は広かったが本当に親しい友人は垣内を含めても数えるほどで、結婚式に呼ぶ相手も居ないからと、親のすねかじりだったこともあり式をせず入籍だけで済ませた。離婚したときには「式をしなくて良かったわ。派手なことをしていたら、今頃友達に何を言われたか」などと、元妻は胸をなで下ろした。専業主婦だったこともあり彼女の名前が変わったことすら知らない知人も多いようで、すんなり旧姓に戻り、今では新しい姓を名乗っているだろう。

 

 そんな出来事も有り、自分では人にもイベント事にも執着しないと思っていた。もちろん何事にも真摯に取り組む。けれど、それと執着することとは別で。戸野原にも人付き合いには淡泊だと指摘される。

 

 考え込んで箸が止まっていた。急いで食事を済ませ、食器を水に浸けた。風呂の支度をして、風呂から出たら少し涼むついでに洗い物を済ませる。

 一通目のメールはスマホで確認した。二通目のメールを見るために全てを片付け、部屋に戻ってパソコンを開いた。

 

 「消しゴム有った?」

 そんな言葉で始まったメールに、思わず力が抜けた。そうだ。消しゴムの件には触れていなかった。次に会ったときに渡せば良いかとずるずると先延ばしにしていた。昨日のメール、三回どころか送る前にともう一回読み返したのに、一言付け加えることも出来なかったのか。

 一応職場では切れ者の係長として評価を受けている。出世も早かった。なのに、どうしてカイ相手だとこんなにポンコツになるのか。戸野原が心配するわけだ。

 二行目。

 「来週末の予定を教えてください」

 それで終わり? 夏のキャンプのことも、良いとも悪いとも書いていない。意気込んでしまっただけに拍子抜けする。連絡しなかった消しゴムの祟りか? いや、来週末に会って話をしたいということでは? 会えなければ電話になるかも知れないが。

 「はぁ」

 溜息を吐いた。

 「連絡漏れで悪い。消しゴムは見つけたんで次会うときに渡す。来週は土日仕事だ。朝から夕方までの。その翌日の月曜待機で、火曜日休みだ。あいにくの雨予報だけどな」

 書くことが見つけられず、カイへの返事のみの短い文章だ。これでまた、明日か明後日返事が戻ってくるだろう。

 

 力が抜けて、立ち上がり冷蔵庫からビールを取ってきた。昼間のメールを見て、夜の分は長いと思い込んでいたのだ。もちろん春久の勝手な憶測だったから、カイを咎めるようなことはしない。

 ビールを開けようとして、タスクバーのメーラーアイコンに数字が赤く点ったことに気づいた。新着メール一通。よもや?との思いで確認した。差出人は秋津海。

 ポチッと開いた。

 「判る範囲で、休みは無い?」

 やはり短い。それもそうか。この短い時間の返信では。けれど、もしかして今もパソコンの前で返事を待ってくれている? そう思うと少しばかり頬が緩む。

 「五月六月は無理だ。お前もまだ面接授業持っているんだろう?」

 ビールを飲みながら、しばらく待ってみる。

 「休みは来週の火曜日だけ?」

 そんなことはない。不規則な勤務が続くが、その分しっかり休みは取れる。ああ、カイの言う休みとは、平日を含めての休みの事だったらしい。

 「当面、判る範囲での休みだ」

 いくつか連ねて書いた。先ほどは平日休みという意味で省略して火曜休みと書いたけれど、正確には火曜水曜連休だ。月曜の仕事終わりから火曜の昼頃までは待機も兼ねる。また仕事で、翌週は水曜のみ休み、その又翌週は水木連休。けれどこれでパターン化しているのかと問われれば、違う。次の週は金土連休になり、日曜に仕事が入って月火連休でと、本当にきっちりした予定を組むのが難しい。

 班長以下のローテーションに組み込まれる訳では無いけれど、抜けられない会議やら相手の都合が入るとそれで一気にずれが生じる。

 「仕事の段取り確認して、明日連絡する」

 そうか。明日も連絡が来るのか。連絡を取れる関係のままでいられたことに、少し、ホッとした。

 

 打ち合わせに折衝に面会。仕事が時間内に終わらないこともざらだ。夕食は同僚と一緒に済ませ、その後も一仕事済ませてから部屋に戻って一番にシャワーを浴びた。

 冷蔵庫を開け、ビール……に手を伸ばそうとして、今日はまだ待機時間が続いていることを思い出した。緊急時に飛び出せるように、アルコールはお預けだ。仕方が無い。その側に有った麦茶を取り上げ、備前焼のカップに入れた。

 客が来るようになったのだから、せめてコップをと探しているときに、この備前焼の飾り気の無さがカイに合っていると感じ、思わずカートに入れていた。その後瀬戸焼も見つけて結局決めきれず二種類四個のカップを購入するに至ったのだが。

 土色で、コーヒーの黒なら判るけれどお茶の緑も麦茶の茶色もあまり映えない。それでもなんとなく、このカップだと飲みやすくなっている気がする。お茶の味に敏感な訳でもないから気がするだけ。

 

 ぼーっとしていた。気づいたときには、コップの周りに結露が発生し、水が一滴、手を伝って落ちた。先日戸野原が

 「この年になると仕事以外での友人を作るのも難しい。親戚関係も仕事はどうだと聞いてくる。仕事の話を一切しなくても良い友人は気が楽で、ありがたい存在だ」

 と、体験を踏まえて教えてくれた。落ちた水滴がカイの姿と重なる。改めて、落としてはならない友人なのだと大きく息を吸い、麦茶を飲み干して、寝室に戻った。そこに有るパソコン。カイからのメールが入っているのはスマホで確認している。なんと書いてきているのか。パソコンを開けるまで持ち越していたもの。

 

 「来週再来週なら仕事の段取り出来そうなので、消しゴム取りに行くから邪魔しに行ってもハルさんの仕事に差し障りないお休みを教えて。有給取る。前泊出来そうなら仕事が終わった後でこっちを出るので、移動日はリモートワークにしておく」

 消しゴムと来た。消しゴムぐらい郵送しても構わないんだが。ただ、その手間と郵送料を考えれば、購入する方が早い。というか、多分買っているだろう。

 大体消しゴムぐらいで前泊の意味が分からない。素直じゃ無い? 意地っ張り? どちらにしろ、来るつもりになっているようだ。

 カイの予定を優先しろ、と言いたいところだけれど、休日と待機が重なるときも有る。それを考えてくれて「差し障りの無い」日を聞いているのだろうから。

 春久の休みについては……本当にきっちりした予定を組むのが難しい。

 待機が入れば休みはずれ、他の係長の動き次第で予定は簡単に崩れる。

 

 前泊または、春久が仕事に行くときに一緒に出られるように後泊。明日の朝は早いとバタバタさせるよりは前泊でゆっくり帰れる方が良いだろう。これから二週間のうちで、待機が無い連休? 最悪連休で無くても構わないか。どのみちカイは夕方前に帰さなくては、彼も翌日の仕事がある。

 交友関係を維持するのはこんなに大変なのか? それは対等な友人と言えるのだろうか。

 「待機を再確認するから、もう少し待ってくれ」

 気持ちを整理するために、ひとまずそれで返事をしておいた。

 「無理しなくても大丈夫だよ。また今度授業が重なるときか、ツーリングの予定が合えば、その時で良いからね」

 そこまで固執するような消しゴムなのか? 誰かからの貰い物?

 心理学に消しゴムに固執するって項目有ったか? 関係を消し去りたいとか?

 「会って話がしたいんだろう?」

 自意識過剰と言われるかも知れない。春久の願望ではある。顔を見れば、少しは気持ちが分かるかも知れない。ただ、前回はそれで失敗したことも重々判っているのだけれど。

 「ハルさんが嫌じゃ無ければ」

 待機だの、休みが不規則だのといろいろ考えていたけれど、カイにとっては断り文句を考えているんだろうと邪推されるような事だったらしい。

 

 返事がぽんぽん返って来るのだ。起きている。だから、電話を掛けた。

 「あのな。俺はお前とゆっくり話がしたい。けど、遠路はるばる来てくれるお前に、待機で休み取り消し出勤になったからすぐ帰れなんてことになったら申し訳が立たないだろう。だからカレンダーとにらめっこしているんだよ」

 少しの沈黙の後

 「ハルさんは優しいね。だから、良い友人に囲まれている。俺が知っているのは戸野原さんと垣内さんぐらいだけど、二人ともハルさんのこと心配してる。引っ越しの時に寮で会った同僚の人たちも」

 「お前はどうなんだ?」

 カイの言葉が消えた。ああいや、戸野原が言っていた。カイは自信が無いんだと。だから自分の希望はきちんと口にしないと、カイからは出てこない。

 「俺はお前が心配してくれると嬉しいんだが」

 「ほんと?」

 「当たり前だろう。ツーリングに行くんだろう? というか、次はツーリングで会おう。うちとお前のところの中間どころで、あ~。高速だと上りと下りでインターが別れるか」

 一度高速を下りて再度登り直し。それでも良いか。カイが動きやすいなら。

 「下道走っても良い?」

 「良いぞ」

 「ハルさんちに向かって行くと、途中に大きなショッピングモールがあるからキャンプ用品見たい。キャンプ関連の店も入っているから一度行ってみたいと思っていたんだ。ショッピングモールで食事も出来るからね。欲しいもの有るかもだから車で行く」

 「ああ、それは良いな。ついでに靴も見立ててくれ」

 「え?」

 「登山靴。お前が履いているのを見て、スーツでも違和感の無さそうな奴なら動きやすそうだと思ったんだよ。ジョギングシューズでも良い。知っての通り長時間立ちっぱなしだったり走ったりだから、革だと傷むのが早いんだ。俺はこの仕事について、五足はダメにしている。それぐらい足回りには金を掛けてるんだ」

 「判った」

 即答だ。頼りにされて声が弾んだ?

 

 制服なら職場支給の靴もあるのだが、フィット感が違うと、足を痛めるし革もあっという間に駄目になる。先ほどの五足は、私物のビジネスシューズだ。ライダーブーツのような合皮なら多少扱いが雑でも大丈夫なのだが、あれはあくまでもバイクに乗るのが前提の形状で、立ちっぱなしはまだしも緊急時に走るのには向いていない。正式な会合の為に革靴も無い訳にはいかないだろうから、職場のロッカーに一足入れておいて履き替えれば済む。

 日常使いにしているのを職場に、新しく下ろそうと購入したばかりのを家に、これは履き慣らしの意味も有る、それで普段は登山靴のような楽なシューズなら、行動範囲も広がるだろう。くるぶしまでヒモで調整出来るブーツは締め方一つでフィット感を向上させることが出来るため、靴も少しは長持ちしてくれると思う。つまり懐に優しい。

 

 「だったら俺も車で行くか。隅の方に停めておけば、買い物の後で一台を置かせて貰って近くをドライブするぐらい出来るだろうし。まあ、あまり褒められたことじゃないから少しだけなら、だけどな」

 「ショッピングモールには映画館もあるよ?」

 時間つぶしの方法を提案されたが。

 「は? お前映画なんて見るのか?」

 「普段は見ないよ。大きな音とか苦手だから」

 そのはずだ。ゲームも音声を一切合切オフにしている。普通は音楽やサウンドエフェクトを聞きながら楽しむだろうに。一度、音がしないけれど大丈夫か? 周りに気兼ねしているのならと聞いたことがあるが、そもそもタブレットやPCのスピーカーをオフにしていると言っていた。だから、映画なども見ない。テレビすら見ない。カイが来たときに見たい番組があればとテレビのリモコンを渡したけれど、使われたことは一度も無かった。その時は、話し相手が居るからだろうとも思ったが、普段からテレビを見ていればBGM代わりにでも付けるだろう。わざわざ使って良いと出されたリモコンに触れることもないと言うことは、習慣が無いと言うことだ。

 「だけど、ハルさんは普通にテレビ見たりするよね? 見たい映画があるなら奢る」

 つい、吹き出し掛けて急いで口に手を当てた。可愛いことを言いすぎだ。自分が見ないくせに、春久に合わせて、なおかつ奢りまで言い出す。カイも気を遣ってくれているのだと気づいた。春久だけが気を遣っていると思っていたことが恥ずかしい。

 「まあ、映画はその時にやってる奴を見てから決める。その前の買い物や食事でどれぐらい時間が掛かるか、上映時間の都合も有るからな」

 

 待ち合わせ時間はショッピングモールのオープンに合わせ、到着したら連絡して駐車場の場所を合わせるところまで段取りしてから、電話を切った。

 

 時計を見た。そんなに時間は掛かっていないと思っていたけれど、カイの明るい声を聞いているとあっという間だったようだ。思いもかけないほど長電話になってしまった。カイは苦にしていないようだったけれど、翌日の仕事もあるだろうに。

 けれど、電話が出来て良かったと、それは心から思う。カイも遠慮していた。消しゴムを話題にしなければ春久と話すことも出来ないと思うほどに。このまま消しゴムは返さないことになるかも知れない。そうすれば、何かの時に話題に出せる。まさか、消しゴムが救世主だったとは気づかなかった。荷物に入れておいた消しゴムを取り出して、自分の筆箱に入れ直した。これで、次の授業で会うときまで忘れていても大丈夫だ。ペンを出そうとすれば絶対に目に付く。袋に入れていないけれど、カイはそんなことは気にしない。多分……。

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