背中を押す声
早めに目覚ましを掛けておいた。起きてリビングに行くと、カイはまだ眠っている。真夜中に帰ることは無いと思っていたけれど、実際そこに居ることに安心した。
冷蔵庫を開け、朝食用に買っておいたむすびを取り出した。
「カイ、起きろよ。飯を食って荷物を片付けたら、出かけるぞ」
もぞっと動いた。寝ぼけていた夜と違って、不用意に触れられない。車に隣り合って座り、話の途中で頭を突くぐらいならともかく。カイのパーソナルスペースは広い。慣れた春久だから、そしてその春久が同席しているから、この狭い部屋で垣内たちと同席できるぐらいに。だからひたすら声で起こす。
「カイ。お前の家じゃ無いんだ。大学まで距離があるんだ。早めに出ないと遅刻するぞ。単位諦めて、家に戻るのか?」
「起きた!」
本当に飛び起きた。それからキョロキョロと自分の居場所を確認している。
「あ……ハルさんちだ。おはよーございます」
「おはよう。顔を洗ってきて、荷物を片付けたらむすび食べろよ。どんなに遅くても三十分後には家を出るからな」
「判った」
自分の荷物からタオルと洗面道具を出して、代わりに教科書をしまい込む。タブレットやパソコンの電源も忘れずに切って、それから洗面所に。出しておいたむすびとお茶を口にしているうちに家を出る時間になり、二人ともバイクに跨がった。
時折バックミラーを見て、斜め後ろに付いてきているのを確認する。日曜だった上に二人ともバイクで渋滞とは無縁だった。なのに到着が結構ぎりぎりになったのは、高速道路から下りた後、下道で信号に引っかかりまわった所為だ。決してカイが寝ぼけていたからでは無い。
講義は自由席だが、大抵前日座った場所に着く。二人の席も昨日と同じ場所が空いていたのを幸いに、前後の席に座った。
「あ……」
筆記用具を用意していたカイが、思わずといった風に声を上げた。振り返り
「ハルさんちに消しゴム転がしてたっぽい。ごめん。拾っておいて」と申し訳なさそうな声を上げた。
「判った。次のツーかキャンプの時に渡すよ」
「うん。ありがとう」
授業が始まり、話が途切れた。けれど、何となくではあるが、カイの口調が重い。
昼休みには二人で食べに出たが、春久の来月以降の仕事の予定が決まれば連絡をする、という話だけで終わった。
「判った」
カイの視線は斜め下にある。いつもなら春久の顔を見てにこりと笑うのに。
消しゴムはソファーの足下に転がっていた。夜、カイを揺り動かしたときに落ちたのだろう。悪いことをした。連絡をしようと思ったが、その手が止まった。カイからの返事が無いかも知れない。そう思うだけで、メールを書く指が動かなくなったのだ。
結局その日は連絡をしなかった。見つけたら次に会ったときに渡すと言っただけだ。だから連絡は気にしていないだろう。
消しゴムをビニール袋に入れて丸めて、バッグに詰めた。それで忘れないはずだ。次に会うときに……その次は何時になるか。今学期の面接授業、この後二人が重なる予定は無い。今回の一回だけだ。今期は異動したばかりで無理が利かないことも判っていて、面接授業を厳選した。後は春久の休みが土日祝日に重なるか。それも、カイの面接授業が無いとき限定で。連休明けは連絡するところが多くて、ローテーションの確認まで手が回っていなかった。どうせ、予定が合うとしても一月以上先の話。
風呂から上がって、洗いざらしの髪を掻き上げた。
そう言えば、カイの前では仕事姿を見せたことが無かったっけか? と思う。髪を持ち上げただけで、威圧感は三割増しだと言われたことも有る。戸野原も現職警官の時はもっと怖い存在だったけれど、今は民間の会社員、むしろ好々爺? いや、まだ子供が中学生なのに爺さん呼びは例えだけれど。となると、垣内の軽口とパーソナルスペースの狭さが警戒させた原因? 四月後半の四人で行ったキャンプツーリング、あのときから既に? それは無いと信じたい。
「もしもし。どうした?」
電話の向こうから聞こえてきた戸野原の声に、ホッとする。
「カイに預かっていた土産を渡したら、代わりに戸野原さんと垣内への土産を預かって。これから三日ほど夜勤続きなので、その後になりますけど、大丈夫ですか?」
礼の伝言も預かっていると付け加えた。
「秋津君のことだ、腐る物じゃ無いんだろう?」
それぐらいの気遣いはする奴だと、戸野原は信じ切った声で。
「俺が貰ったのは和菓子系でしたけど、密封されている奴なので賞味期限は長かったです」
多分、同じ物だろう。個別の袋に入っていたから包装紙も見ていない。
「夜勤明けたら連絡くれ。取りに行くよ」
「じゃあ、そうします」
垣内には道場に行くと約束もしている。その時で良いかと、切れた電話を見て思う。
土曜日の夕方、家に戻っている途中で着信音に気づいた。人通りの邪魔にならないよう隅に避けて立ち止まり、電話を受けた。相手は戸野原だ。
「はい」
「ちょうど良いからそこで待っててくれ。精算して出るよ」
タイミングの良さと精算の言葉に、辺りを見回した。しばらくして近くの店のドアが開き、出てきた戸野原が手を挙げた。
「悪いな。ちょうどお前の姿が見えたんで」
「いえいえ。俺も少し遅くなったので、時間つぶしをさせて申し訳なかったです」
「相変わらず忙しそうだな。そっちの仕事は暇な方が良いと思うんだが」
戸野原の軽口に笑いながら並んで家に戻る。
家に戻ってドアの鍵を掛けると、戸野原が「貫禄出たな。お前のその髪型は初めてだよ」と、笑う。前髪を掻き上げるようになったのは、戸野原が辞めた後、春久が巡査部長になって自分の班を持った時からだったか。私的な時間に整髪料は使わない。だったら、見たことが無いのは当然だろう。春久は前髪をクシャリと崩した。
「舐められるわけにはいかないので。俺にとっては戦闘服ですよ」
「まあ、その気持ちは判る」
「コーヒーで良いですか?」
「いや。さっきまで飲んでた」
「じゃあ、うちにあるのは麦茶ですね」
「それにしてくれ」
瀬戸焼のコップに氷と麦茶を入れ、備前焼には熱いインスタントコーヒーを入れる。それをテーブルに置いてから、キャンプ道具用の棚を開いた。そこに二人分の土産が入っている。
「あいつ、喜んでましたよ」
「その秋津君は?」
「先週に引き続き、今週も授業が入っています」
戸野原はカイの勉強に対する熱意に感心し、いろいろな方面で話が合う友人は得がたいとも口にした。けれど、春久は小さく溜息を吐いて
「あいつとはツーリングと勉強の方面は似ていますけど、それ以外はそうでも無いですよ。気遣いもするし大人しい奴だとは思いますけど」
「は? なんだ? 喧嘩でもしたのか?」
戸野原が持っていたコップを置いて、春久の顔を正面から見ながら聞いてくる。相変わらず鋭い。春久の動揺など簡単に見抜かれる。
「そんな事を言っていたら、俺は元同僚で、垣内君も元同級生だが、頻繁に会うわけじゃ無い。気遣いも出来るし、お前が一緒に遊びたいと思える、得がたい友人だろう」
確かに得がたい友人だ。それは判っている。
「キャンプも、秋津君の影響で始めたんだろう。同僚だった頃のお前は走りに行くだけで、キャンプまではしなかったからな」
春久は、キャンプ道具が詰まってる棚――先ほど土産を出してきた棚へと視線を向けた。確かにキャンプはカイの影響だ。カイが居なければ手を出さなかった。
「些細な行き違いや妙な誤解で失うには勿体ない友人だ」
なぜ戸野原がそこまでカイを気に入っているのか。けれど戸野原は続ける。
「俺は秋津君がどういう人間かは知らない。実質引っ越しの時とツーリングで会っただけだ。でも、彼と居ればお前の肩の力が抜けるってことは判った。だったらお前にとって心を許せる友人だろう?」
戸野原の声は穏やかだ。まるで子どもを諭すようにも聞こえる。
「お前は仕事は出来るし意欲もあるが、力の抜きどころがヘタだ。俺は子供の寝顔で救われた口だが……俺の下に来たときには既に独り者に戻っていたお前に、無責任に結婚しろとは言えなかった」
戸野原はそこで言葉を句切って、麦茶に手を付けた。垣内だけでなく、職場でもたまに結婚したらどうだと言われることは有るけれど、そう言えば戸野原からは一度も結婚をプッシュされたことは無かった。いろいろ気遣いをしてくれている様が、言葉の端々に溢れている。
「だからこそ秋津君が居てくれてありがたい。お前に潰れて欲しくないんだ。結婚する気があるならそれで良いし、無いなら無いでいい。一緒に遊べる相手が側にいて、仕事のストレスを解消出来る手段を持たせておきたい」
項垂れてしまう。戸野原には彼の部下だったときからいろいろと面倒やら手数を掛けている。今も本気で心配してくれている。
「カイが……秋津が、垣内を苦手にしているようで、あいつは俺にとっても高校の時から仲の良い友人で、面倒見も良いし周りとの付き合いも上手い。だから意外で……それで、なんとなくカイと気まずい雰囲気になって」
つい、先週末にカイが泊まった時の話まで口にしてしまった。
「そりゃそうだろう。あの二人は合わないぞ」
「え?」
戸野原の言葉に、春久は驚きの声を上げて、その顔を見てしまった。戸野原も視線を返してくる。
「二人とも気遣い出来るから、普通の会話ぐらいするけどな。秋津君は擦れてないと言うか、年の割に幼い」
以前もそう言っていた。小学生を相手にしているぐらいに思ってちょうど良いと。
「垣内君は酒を飲んだら猥談もして、ラッキースケベがあるなら自分から寄っていくタイプだ。良くも悪くも年齢相応なんだよ。俺やお前からすれば気兼ねの要らない、自然体で付き合える相手だ」
戸野原はそこで少し肩をすくめた。
「ただ、彼もそこまで面倒見が良いわけじゃない。“食事に帰れ”コールが来るような子どもが居るんだ、幼稚園児ぐらいだろう。それが、小学生レベルの秋津君に合わせろっていうのは無理だ。それは秋津君にも言えることで、彼は曲がり角で間違えてFカップにぶつかったら、飛んで逃げるだろうなぁ」
Fカップ。それは羨ま……いや。
春久は急いで咳払い。
「酒も飲まないなら猥談からも逃げる。あの年にしては精神的に幼いというか、生存本能が弱いよなぁ。アグレッシブな垣内君とパッシブな秋津君じゃあ、そりゃ秋津君は苦手にするだろう」
「そこまで違っていました?」
そんなに差が有るとは考えたこともなかった。
「全然違う。最初は俺も、シャイかと思ってたんだが、パッシブな方だな」
恥ずかしがり屋ではなく受動的だと言う。
「以前、カイがいじめられっ子だったんじゃないかと言ってましたよね」
「俺も長い間少年課に居たから、ああいう子供はよく見てきた。同じ生活安全でも他の係に移ると、粋がるのは年のそんなに変わらない部下だからな。さすがに面倒見切れん」
「はは……」
乾いた笑いが出た。春久自身も、かつては戸野原に面倒を掛けた一人だ。粋がった覚えは無かったが。
ともかく――社会人になって数年の若手警察官というのは、警察学校でみっちり教え込まれたはずなのに、仕事に就くと徐々にそれを忘れ、肩書きを盾に粋がったり、平等と無礼を混同したりし始める。子供相手なら根気よく付き合えた戸野原でも、彼らまでは面倒を見切れなかった。そして辞めた。
その頃の戸野原の役職に追いつき追い抜いたことで、春久も今ではその心境がよく分かる。
「彼も恋でもすれば変わるのかも知れないが。内向的だから、きっかけ作ってやらないと自分からは行かないだろう。俺にしてみればピヨピヨ言ってる子供と同じだ。垣内君とのクッションにはなってやるから、四人で遊べる段取りでも付けてくれ。そのうち、秋津君も免疫ができるだろう。彼にとっても良い機会だ」
戸野原は立ち上がった。麦茶の入っていたカップを持ち上げて中身を飲み干し、再度コトリと置いた。
「ああそうだ」
カップの代わりに土産を持ち上げたから帰るのだろうと、春久もそこまで送ろうと腰を上げようとした。それを見ながら戸野原が忘れていたとばかりに
「俺が出来るのは緩衝材までだ。秋津君のことはお前が見るんだぞ。お前も人付き合いに淡泊なところもある。それが自分から声を掛けて二年以上もつかず離れずで付き合っているんだ。その関係をこれからも続けていきたいのなら、な」
春久の人付き合いについては、妻とアッサリと別れたことを言っているのだろう。カイのことも、彼がバイクに乗っていなければ話す事も無かった。けれどそれをきっかけに話をし、一緒にツーリングやドライブに行き、キャンプにまで手を染めた。
春久は一瞬視線を床に落とした。けれどすぐに顔を上げ、にこりと笑った。
「夏、山の上にキャンプに行きませんか? 星が綺麗だそうです。俺とカイはバイクで行くので、戸野原さんと垣内は家族で。この間ソロで行って楽しかったそうで、そこからの帰りにその土産を買って来ました」
戸野原は手の中の土産に目をやった。
「そうだな。お前も夜勤の時は空を見上げて息と一緒にストレス吐きだしていたものな。で、子供たちへの星空の解説は誰がしてくれる? 秋津君に任せて良いのか? そうすりゃあ、テントは家族毎でも、食事は一緒に出来るだろう」
春久やカイにとってはソログループキャンプ、戸野原や垣内にはファミリーグループキャンプになるのだ。
「そうですね。言っておきます」
「日程が決まったら教えてくれ。秋津君によろしくな」
戸野原が土産を持って帰っていく。春久は溜息を吐いた。カイに連絡を取って良いのだと背中を押されたが気がして、安堵した。
「今日、戸野原さんに土産を渡した。礼を伝えておく。垣内には明日、仕事終わりに道場に寄って渡す予定になっている。ついでに夏キャンプも話した。戸野原さんと垣内はファミリーキャンプで、俺たちはバイク。飯を一緒にするのと、子供たちへの星の解説はお前の役目だからな。それ以外は家族連れとは別行動だ。子連れのペースもあるだろうから」
三回読み返した。なんと返事が来るだろう。戸野原にはメールを書くきっかけまで作って貰って、感謝しきれない。
作品の紹介を変更しました。愛情、友愛はあるけれど、どう考えてもBLになりそうに無いですm(__)m
新しいジャンルはヒューマンドラマです。




