オーラ
朝は静かだった。
いや――静かすぎた。
風さえも息を潜め、街は呼吸を忘れていた。
その中心に、見知らぬ“選ばれし者”がいた。
彼の歩みは嵐の心臓へと続き、
見る者すべての魂を裸にする。
人は、己の影を直視できるのか。
それとも――影に飲み込まれるのか。
【場面 I ― ティベリウム市街 ― 午前8時33分】
カエルは煙の柱の間を進む。
世界は止まってしまったかのようだ。叫び声も、サイレンも、もうない。
ただ静止した死体と、足元で砕けるガラスの音だけが残っている。
倒れた自転車から垂れるマフラーで口元を覆う。
焦げた匂いが、感覚を鋭く裂く。
立ち止まり、地平線を見据える。
選ばれし者の姿が歩み続けていた。
まるで自分こそが災厄の中心ではないかのように、静かに。
(心の声)カエル:
――これが……神々の言う“秩序”なのか?
視線が、薬局の扉にもたれかかる一体の遺体に向く。
老人だ。目は開いたまま、しかし乾ききっている。
魂だけを抜き取られたかのように。
(小声で)カエル:
――お前は……誰だ……?
空気が微かに震える。
まるで何かが応えたかのように。
だが言葉はない。
ただ胸を押し潰す、目に見えぬ重みだけがあった。
【場面 II ― オーラの影響 | 午前8時39分】
カエルは壁に背を預ける。視界が霞む。
まだ内側には入っていない……だが、縁に立っている。オーラの外郭に。
体が震える。耳でなく――記憶で音を聴く。
> 母の声(歪んで):
――また逃げているの……?
> 死んだ友の声:
――お前は誰も救えない、カエル。自分すらな。
頭を抱える。理性を保とうとする。
まだ中ではない……だがオーラが背後から触れる。
奈落に落ちる前の、指先の感触のように。
(心の声)カエル:
――これは力じゃない。これは……裁きだ。純粋で、剥き出しの。言葉すらいらない。
一つの人影が近づく。
先ほどの災厄を起こした男ではない。
清掃員の制服を着た青年だ。まだ意識はあるが、完全に衝撃に呑まれている。
カエル:
――大丈夫か? お前も……感じているのか?
青年:
――……思い出したくなかった……あれを、もう一度見るなんて……
青年は膝をつき、泣き崩れる。カエルは沈黙したまま見つめる。
(心の声)カエル:
――これは攻撃じゃない。試練だ。内側からしか開かぬ、心の牢獄。
【場面 III ― コーデックスと決意 | 午前8時47分】
上着の下に隠していたコーデックスが震える。
カエルが取り出すと、ページ上の文字が赤熱する。
> 「嵐の眼へ入れ。己を生き延びよ。」
カエルは息を吐く。震える手。
崩れた塔の前に立つ“彼”を見やる。両腕を広げ、十字のように。
(小声で)カエル:
――生き延びる……? それだけが……残されたことか……
ゆっくりと、しかし決して揺るがぬ一歩を踏み出す。
(小声で)カエル:
――クソくらえだ……神々め……
一歩。また一歩。
黄金のオーラが彼を完全に包み込む。
目を閉じた。
コーデックス・グノーシス・デイ ― 第九断片
> 魂が境界を越える時、
そこに待つのは神でも魔でもなく――己自身である。
己を知らぬまま光に入る者は、
自らの影に皮を剥がれるだろう。
選ばれし者は炎で裁かず、
真実で裁く。
埋葬できぬ記憶ほど純粋な地獄はない。
裁きは天からではなく、内から訪れる。
光の中には答えはなかった。
あったのは、問いだけだった。
「お前は誰だ?」
その声は外からではなく、内から響いた。
神々はただ見ている。
裁くのは、いつだって自分自身だ。
そして、カエルは一歩を踏み出した。
二度と戻れぬ場所へ――。