訓練の日常、忍び寄る影
朝は、まだ世界が静けさに包まれている。
帝都の空に淡い橙が差し込みはじめたころ、《大密林エレメンター》近くの訓練施設の裏では、ほとんど人気のない中庭に、一人の少年が立っていた。
ライルだった。
草が湿り、土は夜露を含んで柔らかい。足裏の感覚を確かめながら、彼は深く息を吸う。風が頬を撫でて、肺の奥へと流れ込んだ。
「……はぁっ」
一通りのトレーニングを終え、ライルは一息ついた。術士としての戦闘力を測る指標として、出力がある。出力は心技体、契約精霊に依存するが、ライルは、すべて不十分だった。ただ特に今すぐに向上すべきことは、肉体であると、ライルは確信しており、走り込みや筋肉トレーニングを行っていた。特例契約者として食にも困らないため、すべて利用し出力を上げるため奮闘していた。
一拍。
空気を吐き出すと同時に、ライルは踏み込む。槍を模した訓練用の木製武器を構え、脚を半歩引き、右手を肩の高さに構える。次に取り組むのは、このように技量の上昇である。
(風の流れと同調する……)
意識を全身に巡らせる。呼吸と、姿勢と、感覚を繋げる。魔力は使わない。術式も構文も唱えない。ただ、身体の中心を「風」に明け渡す。
それが、彼の“型”だった。
あの日、ギガントを倒したとき——確かに風が、彼の中に“在った”。
それを、もう一度掴むために。
(……昨日より、少し近い)
掌にかすかに感じる気流。それは、空気の揺れではない。“風の意思”に触れたときにだけ感じられる、柔らかなざわめきだった。
「……エア・スライス」
低く、声に出す。
詠唱はせず、魔力も流さない。ただ、名前を確認するために。初級の術式であっても、効率的に出力することにより、威力は天と地ほど変わる。この訓練も、ライルは重要と考えている。
そして、次の瞬間。
ざっ。
訓練槍を払う。空気が裂けるような音が中庭を切り裂いた。木々の葉がざわつく。
だが、発動はしない。術は、起きていない。
(……でも)
発動の一歩手前。その“緊張”を、ライルは掴んだ。
それは、日々積み重ねた“輪郭”の成果だった。魔力を流せば、確実に術が起こるであろう直前の“質感”。
(確かに、俺は今……風に、近づいてる)
その手応えに、わずかに口元が緩んだ。
そしてそのときだった。
「……良くなってる」
風に混じって、低い声が届いた。
驚いて振り返ると、そこにいたのは——
フィノア・エスフェリアだった。
風帝と契約する、四大貴族の後継者。冷ややかな灰銀の瞳。整ったミントグリーンの髪。感情の読めない、無口な少女。
ライルは、思わず姿勢を正した。
「……見てたのか?」
「見た。風が動いてたから」
フィノアは中庭の縁、苔むした石の上に腰を下ろした。視線はライルを向いているが、彼女自身はまったく動じた様子を見せない。
「……訓練、毎日してる。知ってる」
「……そうだな」
「黙ってると、気づかれないと思ってた?」
「いや、まさか貴族様に“見張られてる”とは……」
皮肉を込めたつもりはなかったが、フィノアはほんのわずか、眉をひそめた。
「見張ってない。……“興味”ってやつ。たぶん」
その言葉は、彼女にとって相当に勇気を要するものだったのかもしれない。
ライルは静かに槍を地面に置き、彼女の正面へと歩く。
「ありがとう。でも……俺、まだ“なにも掴んじゃいない”んだ。何か一つでも、風に応じてもらえるだけで——それが、どんなに難しいか」
その声に、フィノアはかすかに瞼を伏せた。
「わたしも、似たようなもの」
「……え?」
「“才能”なんて言われても、全部がうまくいくわけじゃない。風は、思い通りにならない。“家”のやり方と、精霊のやり方が、違うこともある」
そう言って、彼女は目線を逸らす。共鳴を手にしていて、帝国にとっての重要戦力としての未来が確約されているだろう彼女にも、そんなことがあるのか、そうライルは思った。
「契約精霊に頼って地道に努力することを、みなやめてしまう。なぜなら、見えない壁に立ち向かうことが、だんだん辛くなっていくから。それに立ち向かえるのは、才能だと、わたしは考える。」
ライルはその言葉を、静かに胸に落とし込んだ。
それは、思ってもみなかった評価だった。
そして——
「……また来るかも。ここ、風が通るから」
そう残して、フィノアは中庭を後にした。
無言の別れ。だが、ライルの中には確かな何かが残った。
“認められた”わけじゃない。
けれど、彼女がその存在を“否定しなかった”という事実。それは、少しだけ嬉しかった。
ふと、なにかが直感し、中庭を出るところだったフィノアのほうを見た。
——それだけで、少しだけ、風が味方になった気がした。ライルの中で、何かが宿りだしているとも知らずに。
◇
夕刻前、学府の敷地内には柔らかな夕陽が差し込み始めていた。
ライルは日課である呼吸訓練を終え、ひとまず寮に戻ろうと中庭を横切っていた。今日の風は、なぜか不安定で、方向が定まらず、空を彷徨うようだった。
(……気圧のせい、か?)
何気なくそう思いながら歩いていたときだった。
「——緊急通達。対象は、アルカナ学府新入生の所在不明。帝都東方《大密林エレメンター》にて術理観測をしていたが、予定時刻を過ぎても帰還せず。風属性の痕跡が残っていたため、現地にて捕縛された可能性が高い」
街の拡散器による大音量が響いた。
帝都衛術団の徽章をつけた青年術士が、《大密林エレメンター》へ向かって行った。だがそれは、さきほど感じた感覚の方向ではなく、フィノアはいない。と直感した。
「……フィノアが?」
思わず声が漏れた。
そのまま拡散器により、魔物の説明が流れた。
「——“苗床型魔物”の兆候。
おそらく《苗床型》が出現──人間の魔力を内部に閉じ込め、徐々に吸い取ることで自己増殖する異常個体。知能が高く、意識あるまま捕らえられた者は、日数単位で“魔力を食われ続ける”。
そして、多くの場合、“助けられても術士として再起不能”になる。
対応可能な術士に協力を依頼する」
聞いた瞬間、喉が凍りついた。説明が、繰り返し流れ続ける。すぐに動ける人間が、最近の情勢や緊張でいないようだ。レアンドロ・ゼス学府長が言っていたことが、現実となっていると、そこで認識した。
(あいつが、そんな目に……?)
想像したくなかった。
ライルは、拳を握った。
まだ正式入学前。術士としての階級も、技術も足りていない。ただの市民“特例契約者”。
だが——。
(関係ない。……今、行かなきゃ、誰が行くんだよ)
その考えがめぐると同時に、ライルはすでに駆け出していた。
◇
《大密林エレメンター》。
帝都から東へ十数キロ。古来より“精霊の眠る森”と呼ばれる一帯で、年ごとに魔力の変調が報告されていた。
地形は複雑。濃霧。湿気。そして、術式をかき乱す風。
走る途中、ライルの肺は焼けるようだった。それでも足は止まらない。
《風》が導く。
意志ではない。“声”でもない。
——ただ、胸の奥に、風が“流れ”を伝えていた。
それは、契約精霊の意思ではない。
むしろ、“まだ名を知らぬ風”の核——
図書館で見た、あの《終律》と呼ぶべき、存在の“核”だった。
(……わかってる)
誰に語るでもなく、ライルは答える。
「お前が行けっていうなら、行くさ。だって、俺は“選ばれた”って……証明したいんだ」
森が、目前に迫る。
陽は傾き、夕闇が足元を吞み込もうとしていた。
風は、静かに——しかし、確実にライルの背を押していた。