アルカナ学府
学府本棟の正面玄関は、城塞の門のようだった。
ライルはその石畳の前に立ち、無意識に息を詰めていた。
——ここまで、来た。
森での戦い。帝都での査定。そして、自分だけが「最低評価」を受けた現実。
身体は回復していた。術師たちの処置のおかげで傷もほとんど癒えている。だが、胸の奥の鈍い痛みは、まだ残っていた。
(俺だけ……本当に、B級最低、かよ)
あの一撃。あの瞬間の風。あれがただの錯覚だと?
本当は、幻だったのかもしれない。ライナスの助けが間に合い、ライルの才能は風刃の発現だけだったのか。
ルリは隣で、緊張しながらも顔を上げていた。彼女は誇るべき“才能”を持っている。自分を守り、回復し、さらにはあの混合精霊を引き寄せた。
——俺とは、違う。
「ライル、行こう」
ルリの言葉に小さく頷くと、二人は並んで、玄関をくぐった。
玄関を抜けてすぐ、石造りの回廊を進むと、開けた講堂に通された。
《迎賓講堂》——新入生のために用意された式典空間であり、アーチ状の天井には四属性精霊の象徴文様が描かれていた。天井中央の水晶燈には術式の光が常に巡り、時刻ごとに色彩が変わる仕組みになっているらしい。
講堂には百名近くの生徒が整列し、同じ制服を身にまとって並んでいた。ライルとルリは、事前に通達されていた席番を頼りに後方の席に腰を下ろした。4月に入学をする、15歳の新進気鋭がアルカナの事前講演、講義ともいわれる会が行われていた。OBや学府の教師、術団の現役術士などの話を聞くらしい。強制ではないので、ここにいるものはとても意欲的だといえるだろう。
前列には四大貴族の筆頭たちが並んでいたが、彼らは誰ひとり周囲に目を向けず、当然のようにそこに“いる”。己以外眼中にないといわんばかりに。
市民出身のライルからすれば、その光景はまるで“選ばれた者たちの余裕”だった。
そこで、ライルは一際目立つ少女と目が合った。彼女はきれいな赤い髪をしており、尋常ならざるオーラのようなものを纏っていた。すぐに目をそらしたが、ライルがあとから入ってきたため見ていただけだろう。
彼女はアストリア帝国第三皇女、『サリア・アストリア』。アストリア家には皇帝候補が11名おり、男女比は7:4。裏で皇帝を争い、四大貴族を巻き込み派閥を成している。サリアは第一皇子と並ぶ圧倒的な才能から、派閥争いの矢面に立たされている。
(違う、俺もここに——いや、俺は“ここから”なんだ)
そう思った矢先、壇上の奥から一人の人物が現れた。
——静かに歩くその姿を見た瞬間、空気が変わった。
中背。黒と銀の交じる長衣。顔立ちは精悍で、年齢は五十を越えているはずなのに、目は澄んで鋭く、若者すら射抜くほどの覇気を持っていた。
「——静粛に」
その一言で、講堂全体が凍りついたように静まった。
「我が名は、《レアンドロ・ゼス》。この学府の長を務めている者だ」
その名が発せられた瞬間、会場の端々で小さなどよめきが走った。
アルカナ学府学府長。《四属性》すべての契約を持ち、共鳴を超えたと噂される唯一の人物。35年前の虚獣による大進行の際、ゼス家であるレアンドロは才能と努力で次々と戦術的な拠点で活躍し、アストリア帝国において5本の指に入るほど強い。
——皇族に非ずして、皇族に匹敵すると謳われた“精霊術の巨星”。
「貴公らはもうすぐ、《アルカナ学府》に名を連ねる者として、その責を担う立場となる。……だが、忘れるな」
レアンドロの声は静かでありながら、言葉の一つひとつが重く胸に響いた。
「ここは、“才能”を守る場ではない。“努力”でなければ意味を持たぬ。おのれの力を知らぬ者、己の階層に甘んじる者は、やがて脱落する」
その言葉に、ライルの指先がわずかに震えた。
(……俺に言われてるようだな)
「精霊契約とは、“共に在る”ということだ。支配ではなく、従属でもない。“呼応”は入口に過ぎず、“共鳴”を得られねば真の術者ではない」
(——俺は、まだその入口にすら……)
「されど、我が学府は等しく門を開く。皇族であろうと、無名であろうと。鍛え、進み、越える意思のある者には、道を示す」
そのとき、レアンドロの視線が、ほんの一瞬——会場の後列、ライルの方に向けられたような気がした。
錯覚かもしれない。だが、ライルの胸に“熱”が宿った。
◇
講義が終わった後、生徒たちは中庭で小休止を取ることになった。
花崗岩で整えられた中庭の中央には、精霊の泉があり、そこから水と風の魔力が静かに立ち上っている。貴族生徒たちはその周辺に集まり、各家の序列や過去の術試合の話に花を咲かせていた。
ライルはその輪には入らず、泉から少し離れた石椅子に腰を下ろしていた。
すると——
「君だな。あの森で、“ギガント”を倒したという少年は」
静かに、しかし重い声が背後から聞こえた。
振り返ると、そこにはあのレアンドロ学府長がいた。驚くライルに一瞥をくれると、隣に腰を下ろす。
「ある術士から報告を受けた。A級相当の魔物を“呼応”の市民術士が倒したと。にわかには信じ難い。だが、確かに——力が反応していた、と記録されていた。20年ほど前の災禍は今やなく。英雄たちによって守られた平和の世では、派閥争いが激化し、アストリア内部だけでなく他国も緊張を募らせておる。A級レベルの魔物でさえ、現代では実戦経験がほとんどない術士ばかり……」
ライナスが報告したのかとすこしよぎったが、ライルはうまく言葉が出せなかった。だが、彼の口が勝手に動いた。
「……俺は、もっと強くなりたいです。でないと、また……誰かを護れないかもしれないから」
その言葉に、レアンドロの眉がわずかに動いた。
「……欲する意思があるならば、教えることはある。だが、教えとは、苦痛と背中合わせだ。なぜなら、それは“自らの弱さ”を直視することだからな」
ライルは、その言葉にただ頷いた。
「どんなに苦しくても、“今のまま”でいる方が怖いです」
その返答に、学府長は微かに目を細めた。
「ならば、己を信じることだ。己を信じ、研鑽を続ければ、望む答えを得られるだろう。ではの。」
そう言い残して、レアンドロは静かに立ち去った。
残されたライルは、拳を握りしめた。
その胸の中には、もう“諦め”ではなく、“渇望”があった。
自分もまた、風に選ばれた者であることを——証明するために。