帝都とは
静寂が戻った森の中で、ルリはライルの顔を見つめていた。
その頬は青白く、まるで血の気が引いたように見えた。息はかすかにある。だが、昏い眠りに落ちたように目を開ける気配はない。
「……ライル」
思わず名を呼ぶ。けれど、返事はなかった。
彼の身体に触れると、まだ微かに熱が残っていた。けれど、それが命の灯か、残り火なのか、彼女にはわからない。ただ一つ確かなのは、さっきの《術》——あれは、彼の限界を超えた何かだったということ。
「護られるだけなんて、御免だ……」——彼がそう言った言葉が、耳の奥に残っていた。
その時、肩越しに男の声が聞こえた。
「この状態で、よく意識が持ったな。よほど、強い意志だ。この少年が気絶してから、どのくらい経ってる?」
ルリが振り返ると、ライナスが腰を落とし、ライルの魔力反応を調べるための装具を手にしていた。長い棒の先に結晶のようなものが取り付けられた簡易の観測具。淡い蒼光が揺れ、ライルの体表にかざされた。術式を発してから1時間ほどで半分ほどの出力しか測定できないが、逆算することによっておおよその数値を知ることができる。
「10分くらいだと思います。多分ですけど……」
心ここにあらずな状態でルリが答える。
「魔力量……やはり、限界の数段下だな。よくこの出力を引き出したものだ」
ライナスは小さくつぶやくと、結晶を慎重に収納し、立ち上がった。
「少年は、このままでは危うい。しばらく村で療養させたとしても、完全に回復するには……帝都での治療が必要だ」
「帝都……に?」とルリが言った。
「そうだ」
ライナスは木々の間に視線を移し、陽が差し始めた森の奥を見つめる。
「この“ギガント”を討てるのは、本来ならA級術士のみだ。それを呼応段階で突破した。報告は伏せたが、術団としては放っておけない存在になる。早かれ遅かれ、学府に呼ばれるだろう」
ルリは唇を噛んだ。
帝都——それは、夢の場所だった。皇族や貴族の統治下にあるが、表向きは平等が謳われみな自由に栄えていると聞く。けれど、同時に怖い場所でもあった。彼女は、市民が精霊契約者としてあそこに行くというのが、どういう意味を持つか、少しずつわかってきていた。
「……ライルは」
ルリは小さく呟く。
「ずっと……ひとりで耐えてきたんです。あの村で、ずっと……」
声が震えていた。悔しさでも、悲しさでもない。どこにもぶつけようのない、熱を帯びたものが喉の奥からこみ上げてくる。
ライナスはそれを、黙って聞いていた。
「私……」
ルリは言いかけて、言葉を止めた。立ち上がり、再びライルの傍に座ると、その額に手を置いた。
「……いくなら、一緒に行く。私は、治癒術士だから」
まだ起動してあった観測具の反応を見て、ライナスの眉がわずかに動いた。その数値は、B級でも混合術式の出力であったから。
「そうか。では、術団の搬送班に申請しておこう。村には私が報告を入れる。君たちはそのまま、帝都へ行けるようにする」
ルリは頷いた。彼女の手が、ライルの手を包み込む。小さな手の中で、少年の手は冷たかった。
けれど——まだ温もりは、残っていた。
◇
馬車の車輪が、かすかに揺れるたび、座席にかけた布が音を立てた。
車窓の外には、広大な帝都郊外の平野が広がっていた。遠くに見える石造りの城門はすでに帝都の“外郭”であり、その内側に、かの巨大な都心部——《アルストレイン区》が存在する。
その中心、天を衝くように建つ白亜の尖塔は、皇宮ではない。精霊契約者育成の中枢たる機関、《アルカナ学府》である。
ルリは、荷台に横たわるライルの顔を見つめていた。
彼はまだ目を覚まさなかった。
だが、時折指がわずかに動く。呼吸も穏やかで、顔色にも血色が戻ってきている。輸送中、帝都術団の回復師が施した術式が効いているのだろう。
その隣で、術服の袖をまくったままのライナスが、疲れたように首を鳴らしていた。
「……まだ目を覚まさんか」
ぼそりとした呟きは、独り言のようでもあり、誰かに聞かせるようでもあった。
ルリは、小さく頷いた。
「はい。でも、術師の人は“意識は戻る”って……。ただ、しばらくは深い眠りが必要だって」
「そうだろうな。……あれほどの出力。しかもあれは、術士の“構築詠唱”ではなく、“精霊術式”だった」
ライナスの口調には、わずかな驚きが残っていた。
「正式な契約なしに、あの術の片鱗を発現させた例を……私は、見たことがない」
そう言って、彼は窓の外へ目を向けた。
「昔のことを、思い出す」
ルリが顔を向けると、ライナスは苦笑するように続けた。
「俺も、かつては“ただの市民”だったよ」
「……え?」
「血統もなければ、家柄もない。ただ、少し風の流れを読むのが上手かっただけの、下町育ちだ」
ライナスの口元が、皮肉気に歪む。
「十五のとき、偶然“呼応”した。雑踏の中で暴れた馬車を止めた風、それが俺の転機だった。貴族の娘を救ったとかで、報告が上に上がって、アルカナ学府に入れられた。……“特例契約者”として、な。まあ、アストリア全土からかなりの数いるみたいだったけどな。」
ルリは息を呑んだ。術団の肩章を背負うその姿からは想像できなかった。
ライナスは指を組み、重ねた拳を膝に置く。
「だが、入ってからが地獄だった。貴族どもは鼻で笑い、教師すら期待しない。“契約精霊の出力はB級止まり”“共鳴など一生無理”——言われ続けた。もちろん、俺の同期の市民階級のやつらも同じだ。」
彼の目が細くなる。
「みんなどこかであきらめる。強くなることを。精霊とそこそこの契約ができてそこそこの術団に拾われればいい。共鳴なんて、夢のまた夢。だがそれでも、諦めなかった。俺はどうしても、あの力の“意味”を知りたかった。なぜ風が、あのとき応じたのか。……なぜ俺なんかを選んだのか」
静かだった馬車の内部に、かすかな緊張が走る。
ルリは、ライナスのその横顔をまっすぐ見つめていた。どこか、ライルと似ている気がした。
「その後、三年かかった。学府の卒業試験でようやく“共鳴”に達し、術団に拾われた。……貴族たちはそれでも納得しなかったが、戦場で結果を出せば、誰も文句は言わなくなる。出世するには十年かかったが、今ではこうして市民でもA級として、後輩を見ている」
彼は少し笑った。
「だから……ライルには、期待している。あれは、俺よりも、はるかに“深い”ところで風と繋がっている。あんな術、俺でも出せんよ。しかも、呼応段階で、だ」
ルリは唇を噛んだ。そして、小さく頷いた。
「ライルは……昔から、変な子でした。空の音が聞こえるとか、風に何かが混じってるとか……私には見えないものを、よく話してました」
「……なるほどな。だから、気づかないうちに“選ばれていた”のかもな」
ライナスはそう言うと、ゆっくりと立ち上がり、窓の外を指差した。
「見ろ。帝都だ」
車窓の向こうに、ついに帝都アルストレイン区の城壁が迫ってきていた。
その白壁には精霊紋が刻まれ、術障壁の揺らぎが視認できるほど明瞭だった。
「あと五分もすれば、門が開く。そしたら、すぐに学府の査定棟へ運ばれるだろう。そこで正式な術契約の判定が行われる。……ルリ、お前も付き添いとして通されるはずだ」
「……はい。ちゃんと、ついていきます」
◇
帝都の門は、想像していたよりもずっと高く、そして、無慈悲だった。
ルリは無意識に息を呑んでいた。
石造りの白壁は三層構造で、高さはおそらく十メートル以上。上層部には術士兵が常駐しており、その足元には、複雑な魔術障壁の紋様が刻まれていた。魔力の“通過”そのものを監視する防衛結界が常に展開されているという。風を読む者であれば、城壁の内外を流れる空気が、まるで別物のように“切り離されて”いることに気づくだろう。
《帝都》——それは、まさに別世界だった。
ライナスは、術団の証印を掲げ、門番とのやりとりを終えると、ルリへと目を向けた。
「緊張するのはわかるが、堂々としていろ。ここで怯えたら、全ての視線が刺さる」
「……はい」
ルリは背筋を伸ばしたが、その手はまだ膝の上で震えていた。
城門がゆっくりと開かれる。蒼白の光が扉の継ぎ目から漏れ、光の壁のように術式が解除されていく。
その光の向こうに——帝都が、あった。
空が広い。だが、それは“建物が低い”のではない。“造りが整っている”からこその広さだ。
街並みはすべて計画的に設計され、石畳の道は碁盤目状に走り、建物の間には等間隔の精霊導管が通っていた。
ルリは、ただ呆然と見ていた。
村の景色とはあまりにも違いすぎる。ここには“自然”の風ではない。人が制御し、精霊が流れを整えた“意図ある空気”が流れている。
「……息が、詰まる……」
ぽつりと呟いた言葉に、ライナスが僅かに頷いた。
「それが“帝都”というものさ。力を持つ者が、力のある空間を作る。ここでは風も、光も、水すらも、意思に従って流れている」
「まるで……精霊が、支配されてるみたい」
その言葉に、ライナスの目が少しだけ鋭くなった。
「——それに気づく者は少ない。だが、君は見えているようだな。“力の秩序”とは、美しくあると同時に、恐ろしいものだ」
彼の言葉には、どこか経験者としての重みがあった。
道中、移送馬車はすでに《査定棟》へ向かっている。
アストリア帝都の中央、学府施設の中でも“門”に位置するその棟は、精霊との契約階梯を測定する施設であり、また“帝都に受け入れられる者”かどうかを判定する最初の関門でもある。
——門を超えた市民が、ふたたび“市民”のままでいられる場所ではない。
その門に、ライルは、横たわったまま運ばれている。
車輪の音が変わる。敷石がより硬質になり、建物の気配が近づいてきた。
そして、車が停止した。
ライナスが最初に降り、受付の術士と何かを話している。
ルリは深呼吸をした。
ライルの頬に手を添える。
「……着いたよ。ライル」
返事はない。だが、彼女にはわかっていた。
——この場所は、ライルの“現実”を変える始まりだ。
そして、自分の“立場”もまた、ここで試される。
どれほど信じようと、どれほど近くにいようと、彼が前に進んだとき、それに相応しくなければ隣には立てない。
心にそんな想いが浮かびながら、ルリは小さく呟いた。
「……私は、ちゃんと護るから。今度は、私が」
その言葉が届いたかどうかは、まだわからなかった。