絶体絶命
斃れた獣の死骸の先、小道はわずかに右へと曲がりながら斜面を登っていた。
そこを超えれば、南拠点からの小荷車が待つ、薬草の受け渡し地点だ。
「……とりあえず、このまま進むしかないか」
ライルが声を落として言うと、ルリは不安げにうなずいた。
血の匂いはまだ微かに漂っていた。けれど、倒れていたのはどう見ても獣。それ以上の痕跡はない。
二人は警戒を強めつつ、小道の先を進んでいった。
——そして。
開けた場所に出たとき、ライルの表情が一瞬だけ和らいだ。
岩陰に、確かに積荷が置かれていた。
麻布で巻かれた包みが二つ、薬草の香りを含んだ風にふわりと乗っている。周囲に人影はない。予定通り、無人受け渡しだったようだ。この村へかける人手はない、というように、雑に置かれていた。
「よかった……間に合ったね」
ルリがほっと息をつく。
だが、ライルは油断しなかった。
薬草があるということは、運び手はここまで到達した。あの獣の死体は、その運び手の都市付近にいる護衛でアル術士に討伐された可能性はある。だがこの付近に滞在している可能性も、また十分にある。
——それに、あの“潰れたような死に方”。
気配は、まだ残っている。風はそれを確かに伝えていた。さきほどから感じる風の事態の気配は、そこまでライルは自覚しなかった。
「荷を確認する。ルリ、見張りを頼む」
「うん」
ライルは慎重に麻布の包みを検めた。薬草は潰れておらず、封印印も剥がれていない。状態は良好。これなら持ち帰っても問題ない。
「片方ずつ、運ぶしかないな。重いし、二人で……」
その言葉が終わるより早く、異音が響いた。
ず……っ、ずり……っ。
岩壁の上、岩と草の隙間から何かが滑り出すように姿を現した。
「来るぞ、ルリ!」
ライルが叫ぶと同時に、彼の体は無意識に動いていた。
槍を抜き、ルリを背に庇いながら前へ出る。目の前に現れたのは——
一匹の“牙喰い”。
全長は人間の背丈ほど。灰色の皮膚に覆われた四足獣。牙の生え方が異常で、下顎から突き出すように湾曲し、鼻先を超えている。その牙の先に、人間の腕のようなものが、まだ残っていた。運び手の護衛は、精霊術士ではなく一般術士だったのだろうか。殺されてしまったようだ。
“魔物”の中では、比較的最下級に分類される存在。とはいえ、一般レベルの護衛術士が対処するにはもちろん危険な存在だ。
だが、ライルは動じなかった。
ここで退けば、荷は奪われる。村に戻っても“無能”の烙印を押される。それに——
「試すなら……今しかねぇだろ」
風がいた。確かに、近くに。今まで違和感を感じていたが、限界まで研ぎ澄まされた感覚は、"それ"をライルは捉えていた。無自覚であったライルは、今まさに、知覚したのだ。
鼓動が高まる。呼吸を整える。脳に直接術の詠唱が伝わり、今やるべき、有効打になる。自らの生命力を少し使ったような感覚が走り、振り絞る。
精霊術。現在彼がわずかに使える“術”は、ただ一つ。
——風刃。
詠唱は、二秒。
《我が足元に集いし流れよ、刃となれ——》
言葉と同時に、風が巻いた。
視界の端で牙喰いが地を蹴った。飛びかかってくる、その寸前。
「……裂けろ!」
風の力が、空間を断つように弧を描いた。
白い軌跡が、獣の肩口を斜めに裂く。肉が裂け、血が舞った。
牙喰いが悲鳴のような鳴き声を上げ、地面に転がる。暴れる四肢。だが、立ち上がることはなかった。
ライルは、ようやく息をついた。
初めての、術による撃破。
足が震えているのを感じながらも、手から槍は離さなかった。精霊術は、武器を媒介し術を放つ。伝導性が重要となり、ライルの風刃は完璧ではないにしろ、槍から放たれたのだ。
「……ライル!」
ルリが駆け寄り、怪我がないか確かめる。彼女の手が、温かかった。
「大丈夫。……なんとか、なった」
言葉にした瞬間、胸の奥に湧き上がる奇妙な達成感と、それに重なるような、静かなざわめきがあった。
——風が、また囁いていた。
その意味を理解する前に、地面が震えた。
ほんのわずかな振動。それは風ではなく、“質量”によるものだった。
ライルが顔を上げた。
岩陰のさらに奥。暗がりの向こう。
そこに——いた。
先ほどの牙喰いとはまるで異なる。
背丈は二倍。黒くねじれた甲殻に覆われた体。足は六本。眼は赤黒く、焦点の合わないような光を宿している。
それは、“対応不能”とされる分類に該当する魔物だった。通常、A級精霊術士。そのレベルの術士が対応する、貴族が戦うレベルの魔物である。
「嘘……なんで……こんな……!」
ルリの声が震える。
ライルは言葉を失っていた。
風が、ざわめきを止めた。
それはまるで、“警鐘”のようだった。
◇
空気が、変わった。
森の奥から現れたその魔物は、ただの獣ではなかった。
六本の足で大地を踏み鳴らし、節くれだった甲殻が軋み音を立てている。
「……っ」
ライルは反射的にルリの前に立った。けれど、心臓の鼓動が強すぎて、鼓膜の裏まで震えていた。
精霊術は、確かに使える。だが——この魔物は違う。
《牙喰い》とは次元が違う。
「……名前も知らない魔物なんて、聞いてねぇよ……!」
声が震えた。だが、足は止まらなかった。
ライルは風を感じた。
“奴は脚が六本ある。だがそのうち、前足は地を叩いて威嚇に使い、後足で体重を支えている——”
頭で分析するよりも早く、体が動いていた。
「短詠——!」
風がライルの足元に集まる。
《裂けろ——!》
跳ぶ。地を滑るように間合いを詰め、獣の後脚めがけて槍を振るう。
風刃が唸り、甲殻の関節部に命中する。
——ぐしゃり、という重く鈍い音が響いた。
甲殻の裂け目から液体が吹き出し、魔物がバランスを崩した。
「っ!いける!まだ……っ!」
すかさず次の詠唱へ。だが、その間にも魔物の前足が唸りを上げて振り下ろされる。
「っ、くそっ!」
間一髪で横跳びに逃れる。土煙が舞い、地面が抉れる。
目の前で森が歪んだように見えた。
それでも、ライルは動いた。
反撃の機会は限られている。相手が体勢を崩している“いま”しかない。
術を連続で詠唱する。精霊術の短詠は反復可能だが、魔力量には限界がある。
《裂けろ》
《裂けろ……!》
二撃、三撃、四撃——風の刃が次々に放たれ、魔物の脚部を切り裂いていく。
傷は深く、確かに効いている。
だが、倒れない。
体格差。耐久力。質量の暴力。
それに、術の連発は——すでに限界を越えていた。
「っ、く……」
足がもつれた。視界が揺れた。呼吸が乱れ、膝がついた。
《風》が、遠く感じた。
「——あ……」
その瞬間だった。
魔物の脚が振るわれた。バキ、というようなおよそ人間への衝撃で出される音とは思えない、致命の一撃がライルを襲った。
受け止める力は、残っていなかった。
視界が跳ねる。痛みが、胸に走った。
空中に投げ出され、地面に叩きつけられる。
……視界が、暗転していく。
聞こえたのは、風の音でも、敵の足音でもなかった。
誰かの、泣きそうな声だった。
◇
「……ライル!」
ルリは叫んだ。
その手には、小さな輝きが宿っていた。
それは、治癒の術とは違う“色”だった。
「お願い……誰でもいい。……ライルを、助けて……!」
その瞬間。
ルリの足元に、風と光が混ざったような紋様が浮かび上がった。
草がそよぎ、空気が震え、ルリの脳に直接術が浮かび上がる。それは、確かに精霊の“声”とも言えるものだった。
だが、単なる属性精霊ではない。
水と風。癒しと支援。二つの流れが交差する。
——混合属性精霊。
現在の出力としては、B級。だが、混合属性は明確に階級が決まっているモノではなく、出力が低かろうと用途によってはA級、はたまたS級に分類されることもある。そして、今回のルリの契約は緊急のもの。精霊を引きつけるルリの才能にたまたま呼応しただけであり、正式な手順を踏んでいる訳ではない。それでB級の出力がでているのは、才能の表れと言えるだろう。
それに、応じるだけの“心”が、ルリにはあった。
「……力を貸して」
即席の契約が成立した。
次の瞬間、ルリの両手から淡い蒼緑の光が溢れる。
「ライル……お願い。起きて」
ルリは、倒れたライルに駆け寄ると、その胸元に手を重ねた。
涙が頬を伝い落ちるのも構わず、彼女はそっと目を閉じ、息を整える。
「風よ、水よ——命の流れに寄り添いて、
傷を癒やし、歩む力を与えたまえ。
この願いに応じるならば……今、ひとときの契約を、我が手に」
言葉が終わると同時に、ルリの足元に浮かんだ紋様が光を増した。
蒼と翠が溶け合うような輝きが、彼女の両手から流れ出し、ライルの身体を包む。
活力付与が発動した。
彼の体に触れたその瞬間——
風が、再び走った。