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精霊契約と辺境村のライル

陽はまだ登りきっていなかった。空の端がわずかに白んでいるだけの、帝国暦3月の早朝。空気は冷たく澄み、地面には霜が残る。


 ここは、アストリア帝国の南端、辺境地域に点在する村の一つ——《セイル村》。地図の上では帝国の領土に含まれてはいるが、中央の目が届くことはほとんどない。


 貴族の管理官が視察に来るのは年に一度。精霊術師が通るのは五年に一度。帝都の暮らしからすれば、ここはまるで“帝国の皮膚の裏”のような場所だった。


 その村の裏通り、炊き場の石板に腰かけて、少年がひとりパンをかじっていた。


 ライル。十五歳。姓なし。孤児院育ち。現在は村の「雑務兼見張り要員」として、報酬の代わりに宿と食事を得ていた。


 彼が食べているのは、前日の残り物。小麦の皮だけで焼いた固いパン。味はしない。けれど、腹はふさがる。


 「……ん、今日の炊き場、当番誰だっけ」


 口の中でもそもそと呟きながら、パンを引きちぎる。その手は凍え、袖口は綻びていた。古着の上着は何度も縫い直され、裾の糸はもうほとんどほどけている。


 それでも、文句はなかった。生きていられるなら、それだけで十分だった。


 帝国の市民階級の中でも、この村の孤児は最下層に位置する。姓を持たず、土地を持たず、精霊との契約など夢のまた夢。


 ライル自身、自分が“ただの労働力”として数えられていることを、よく理解していた。


 「おーい、ライル! 今日の任務、確認したか?」


 遠くから声がした。背を向けるように振り返れば、鍛冶場の前から壮年の男が手を振っていた。


 トーヴ老人。村の道具鍛冶で、ライルに簡易槍を作ってくれた人物だ。


 「森道の見張りと、荷の受け取りです。南の拠点から……薬草が届く予定だと」


 「そうだ。薬草だ。だがな……」


 男の顔が曇った。


 「昨晩、森のほうで“痕跡”があったって話があってな。動物じゃねぇ。……魔物の気配だとよ」


 ライルの手が止まる。


 「もちろん虚獣じゃない。が、相手次第じゃ厄介だ。慎重にな」


 「はい……ありがとうございます」


 礼を言い、ライルは槍を背にかける。長くはないが、木製の柄に鉄の刃を取り付けたもの。使い込まれているが手入れはされていた。慎重にとは言うが、そんなモノがでたらこの貧弱な体で何ができるんだと、心の中でつぶやく。精霊と契約さえすれば、一般術士の何倍もの出力を出せるため戦闘力が文字通り桁違いに上がる。

しかし、貴族血統のみがA級以上の精霊と契約できるため、その格差にうんざりする。市民でも契約することもあるため、それを夢見る。契約した暁には、毎年4月に訪れる貴族の管理官により査定され、アルカナ学府への入学が認められる。


 見送りの言葉を背に、彼は村の南端へ歩き出した。見張り台へ向かう道。霜を踏み、石の舗装を越えて、森へと続く古道へ足を向ける。


 村の外れには、日雇いの任務掲示板があり、そこに張られた依頼に名前を書き込むと、数日分の報酬が得られる。ライルはここ数ヶ月、単独任務を受けられるようになったばかりだった。


 「……ようやく、認められたってことだよな。下働きから、一歩前に」


 その言葉は、誰に言うでもなく自分に言った。声にすることで、自分の立ち位置を確認しているかのようだった。


 そのときだった。


「おーい、ライルー!」


 高い声が風を切って届く。振り返ると、家々の隙間からひとりの少女が駆けてくる。


明るい栗色の髪が朝の光を柔らかく反射している。頑丈な造りの長靴は泥にまみれてもびくともしなさそうで、肩に提げた袋からは、干した草花や薬草のすがすがしい香りが風に乗って漂っていた。


 ルリ。ライルと同じ孤児院で育った幼馴染であり、村の治癒士見習いだ。年はライルと同じ十五。だがその目には、年齢以上の落ち着きと強さが宿っていた。精霊術士ほどの治療をすることはできないが、大抵の怪我は治すことができる、才能あふれる少女だ。同い年なのがこの村にはルリしかいないため、すっかり馴染んでしまったが、客観的に見てかわいい...とライルは思う。遠目で見ると、最近は女性だとわかる程度には、成長しているようだ。


 朝露の残る道を小走りにやってきた彼女は、木陰で支度を終えたばかりのライルの前に立ち止まると、少しだけ息を弾ませながら言った。


「……なんだよ、ルリ。今日は当番休みって言ってたろ」


 ライルは怪訝そうに眉を寄せる。普段は真面目な彼女が、当番日でもないのにこんな朝早くから姿を見せるとは珍しい。しかも森の入り口まで来るとは。


「うん。でもさ、ちょっと気になって。なんか今朝、変な夢見てさ。森の中で、ライルがすっごく困ってる夢」


 その言葉に、ライルは一瞬だけ目を伏せた。


「……また夢?」


 ルリは夢を見る。それ自体は珍しくない。だが、彼女の“夢”は、ときに現実を言い当てるような不思議なものを含んでいた。かつて村の子供が井戸に落ちたとき、ルリは前夜に「水の中で誰かが泣いてる夢を見た」と言っていた。偶然かもしれない。だが、偶然が何度も続くと、それは無視できない。


「当たるって、前にも言ったじゃん。……で、ついて行く。心配だもん。」


 その声音は穏やかだったが、はっきりとした意志が込められていた。


「勝手に決めんなよ……あぶねぇぞ。今回は魔物かも知れないって」


 ライルは一歩踏み出して、少しだけ語気を強めた。夢がどうあれ、今回は簡単な探索任務じゃない。実際、昨夜の村の集会でも“森の東側で異変が起きている”という報告があったばかりだ。薬草採集や食糧探しのついでに入る森ではない。人が死ぬかもしれない場所だ。


 だが、ルリは――


「……知ってるよ。だから、行く。私だったら、治せるし!」


 ――動じていなかった。


 ライルの胸の奥が、すうっと冷える。


 強情だ。昔からそうだった。間違っていると思えば誰が相手でも引かない。優しいのに、頑固だ。そして今、その目には迷いも恐れもない。


 言葉を重ねても、意味はない。説得しようにも、もう心は決まっている。ライルは、小さく息を吐いた。


「わかった。……でも、俺の後ろにいろ。絶対に、勝手に動くなよ」


 その声音には、諦めと、それでも彼女を守ろうとする決意が混ざっていた。


 ルリはふふっと笑って、軽口を返す。


「はいはい。了解、任務指揮官さま」


 その表情は柔らかく、けれど気を抜いているわけではない。すでに肩の袋を結び直し、薬草袋の中身を指先で確かめていた。包帯、解毒草、鎮痛の粉。治癒士見習いとしての装備は、彼女なりに万全だ。


 ライルはちらと彼女の横顔を見た。陽に透ける明るい髪、真っ直ぐな瞳――


 昔から、こうだった。何度も喧嘩して、何度も助けられてきた。


 きっと今日も、何かが起こる。それを、ライルはもう感じ始めていた。


 二人は並んで、森へ向かった。


 風が、その背を押していた。



森はまだ眠っていた。


 木々の枝は朝露をまとい、葉の一枚一枚が微かな光を受けてかすかに揺れている。小道にはまだ霜が残っており、踏みしめるたびに、かすかな音が響いた。


 「静かだな……」


 ライルが小さく呟いた。


 この森は、南の交易拠点《カレッタ集積所》と村を結ぶ唯一の道に沿って広がっている。狩人たちが作った簡易な踏み道が一本、南北を貫いており、今はその道を二人で歩いていた。


 「冬の森って、音が通りやすいんだよね」


 ルリがそう言って、肩の袋を握り直した。


 「風も枝も、全部冷えてるから。余計な音が消えて、ちょっとした変化が響くようになる」


 「……お前、ほんとに治癒士見習いなのかよ」


 「薬草も拾ってるし、ほら、植物は“風の通り”で判断するのが一番って教わるの。だから、風の動きには敏感なんだってば」


 ライルは何も言わずにうなずいた。


 確かにルリの言うとおりだった。風の流れは、森の息遣いと密接につながっている。枯れ枝が落ちる場所、動物の通った痕跡、毒のある花の咲く位置。すべてが“風”に教えられていた。


 それは、ライル自身もなんとなく感じていたことだ。


 ——いや、“感じすぎて”いた、と言った方が正しいのかもしれない。


 ときおり、風の中に混ざって何かが囁くような気がすることがあった。音ではなく、意味でもなく、ただ“存在”だけが触れてくるような感覚。


 それが精霊なのかどうか、彼には分からなかった。分からないからこそ、口には出せなかった。


 「……なあ」


 ライルが、口を開く。


 「ん?」


 「夢のこと。あれ、どんな内容だったんだ」


 「へ?」


 ルリが一瞬きょとんとして、すぐに思い出したように笑った。


 「……うん。森の中でね、ライルが一人で何かと向き合ってて。あたしが助けようとしても、なぜか足が動かなくて……。で、最後は、風が……すごく怒ってるみたいに吹いてた」


 「怒ってた?」


 「うん、なんかこう……怒ってるというか、苦しそうというか……うまく言えないけど、そういう風だった」


 ルリの表情から、冗談めいた色は消えていた。彼女の“直感”が当たることは、これまでも何度かあった。治癒士見習いとしての経験というより、もっと根源的な勘のようなものだった。


 ライルはしばらく黙って歩いた。


 ふと、足元の小枝が妙に湿っていることに気づく。


 ——露じゃない。これは……。


 しゃがみ込んで、枝をつまむ。指にぬるりとした感触。赤黒い液体が、陽の光を鈍く反射していた。


 「……血?」


 ルリが顔をしかめた。


 ライルは頷く。道のわきに目をやると、かすかに踏みならされた痕跡があった。小動物にしては広い。人間か、あるいは……。


 「ルリ。後ろに下がれ」


 「な、何かいるの?」


 「分からない。でも、少なくとも“誰かがここで傷を負った”のは確かだ。人か、魔物か……」


 周囲を警戒しながら、ライルは歩幅を狭め、ゆっくりと進む。木々の間から射す光が、かえって視界を妨げていた。薄い体をいっぱいに広げ、ルリをかばうように前を進んでいく。もし少しの怪我をしても、ルリなら治せる。もし重傷であったなら、そのときはもう、無理だ。


 数歩進んだところで、道の先に何かが転がっているのが見えた。


 それは……獣だった。


 灰色の毛皮。三つに裂けた背中。目は見開かれたまま。明らかに、何者かに斬られたような痕跡がある。


 だが、それは“槍”でも“剣”でもない。


 ——圧力で、潰されている。


 しかも、身体の中心ではなく、周辺が“外側からねじ込まれた”ように崩れていた。


 「これは……」


 ライルの背筋に、冷たいものが走った。


 ただの獣ではない。


 何かがここを通り、何かを“潰して”いった。


 そしてその何かは——まだ近くにいるかもしれない。

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