Scene 6
「それで成田は来ますかね」
「ああ。絶対に来る」
張り込みは慣れている。君生だって既に腹は括っているだろう。
何日。いや、それ以上かも。ただ歩道橋から目を離せないだけの時間。そのうち直樹も合流するだろう。成田が姿を現すまで順番に見張り続ければいい。気休めにもならないだろうがミラー越しに小さく笑みを送る。
「……あっ」
気休めにもならないそんな小さな笑みに気付く事はなく、一丁目側の階段へ目を向けたまま、小さく感嘆する君生。
「今、階段を誰かが昇ろうとしています。顔は見えないですが、多分男です」
君生の肩越しに見えた階段。期待した白装束ではないが、確かに一人の男の姿が見える。
張り込みを始め、三十分と待たずに成田が姿を現すなんて思ってはいない。だが何も確認せず目を逸らす訳にもいかない。階段を昇り始めた男に目を向けたまま、ゆっくりとドアを開ける。
「俺は向こう側の階段へ回るから、お前はこっちの階段から様子を窺ってくれ」
男から目を離さないよう意識しながら、ゆっくりと一丁目北の交差点へ向かう。歩行者用信号は青だ。横断歩道を渡る間も歩道橋からは目を離さない。
歩道橋に上がり、男は一体何をしているのだろう。通りを渡るためではない事は、歩道橋の上、動かなくなったその姿に分かる。
スマホを手にし階段の途中まで昇るよう、君生へ指示を出す。
首を伸ばせば歩道橋の上を覗き込める高さまで階段を昇る。
まだ見えるものは男の足だけで、その顔までは見えない。
君生からの連絡もない。もし男が階段を下り、歩道橋を渡りきったのなら、電話を寄越すはずだ。
男は何をしている? 既に五分は経っているだろう。その時、手にしたスマホが震えた。君生からだ。痺れを切らしてしまったのか。
「……もしもし。成田でした。顔を確認できました」
絞り出すように掠れさせた小さな声は、気付かれないためだろう。君生が言うように歩道橋の上の男が本当に成田なら、ここで慌てて飛び出して行く訳にはいかない。成田の目的は小峰遼の後を追う事だ。気付かれないように近付かなければ。もし騒ぎ立てでもすれば、成田はすぐにでも飛び降りるだろう。
音を立てないように階段を一段、二段と昇る。ようやく全ての段を昇りきり、歩道橋の上に立った時、男の顔が確認できた。成田和弥だ。あの粒子の荒いA4の写真。ワーリン・ダーヴィッシュで衝撃を与えられたあの現世での最後。十七年と言う歳月が当時の若々しさを奪ってはいるが、今、歩道橋の柵に右足を掛けようとしている男は成田和弥に違いない。
ゆっくりと足を滑らせ、成田へと近付く。これでようやく小峰駿の依頼に応える事が出来る。だが反対側の階段から歩道橋へ上がった君生の目的はそんな所にはなかった。
「成田和弥だな。警察の者だ。殺人の容疑だ。これから一緒に署まで来てもらう!」
「えっ? 何? 来るなよ。いや、来ないで下さい。って、何?」
初めて聞く成田の声。目の前の男が本当に成田なのだろうか。その声にルーミーだった男の威厳などは感じられない。
「警察が何の用ですか。関係ないでしょ。俺がここから落ちた後に来て下さい」
「馬鹿な事を。こっちへ来るんだ!」
君生が一歩にじり寄る。
「だって、遼が一人で可哀相じゃん。早く俺が行ってやらないと」
三十六歳の男の言葉ではなかった。
やはり成田は十七年間、記憶を失くしていたのだ。目の前の成田は、この歩道橋から忽然と姿を消した二〇〇八年二月十四日から、まだ数カ月しか時間を重ねていない。
二歩、三歩、五歩。
君生はそれ以上にじり寄れないようで、ただ足を固めたままだ。成田は右足を柵に掛けたまま、靖国通りの先、新宿の街に目を落としている。
静かに過ぎていく時間。だがそれでいい。成田の右足が柵から下ろされ、全速力で成田へと駆け寄れる隙を待つ。何分経ったかは分からないが、静かな時間をやり過ごした時だ。
「あれ? 遼じゃん!」
成田が柵に掛けていた右足を下ろした。
そんな成田の視線の先、歩道橋の下には車を降りたばかりの直樹と小峰の姿があった。
だがその小峰は遼ではなく駿だ。
「和弥!」
歩道橋の下、小峰が叫ぶ。
「何だ、生きてんじゃん!」
固まった君生を払いのけ、慌てて階段を駆け下りる成田。
階段の下で小峰が大きく腕を拡げる。
「和弥!」
小峰がその名前をもう一度大きな声で呼んだと同時。階段を下り切った成田が小峰の腕にしっかりと収まった。
「……何か、老けたんじゃない?」
小峰に向けられた甘ったるい声。
だがその声が成田の最後の声となった。階段を駆け下り、成田を腕に抱く小峰へと走り寄った時。既に成田の目は閉じられ、その首は小峰の肩に垂らされていた。
成田は既に心臓を止めていた。救急車を待つ間君生と代わる代わる応急処置を施してみたが、成田の心臓が再び動き出す事はなかった。それは病院へ搬送されてからも同じだった。繰り返された入神によって、成田の心臓は限界を迎えていたのかもしれない。
「辻山さん。本当にありがとうございました」
小峰が深々と頭を下げる。
「新井さんもありがとうございました」
ほんの短い時間ではあったが、生きている成田に会わせてやれた事。自分への赦しを見出せ、小峰の言葉を素直に受け入れる事が出来る。
「……本当に良かったです。和弥は遼の後を追わなかった。病気だったんです。和弥が死んだ理由は心臓病です。抗えない病気です。私を遼と見間違えただけですが、私の腕の中で和弥は最後、生きる意志を見せました」
成田だけではない。言葉通りの意志を小峰の目にも見る事が出来た。囚われた十七年から、これでようやく解放されるのだ。
「ねぇ、秀三。成田が自殺はしないって事、あたしは最初から分かっていたわよ」
小峰を残し先に抜けた病院の自動ドア。四月の風とは思えない程、冷たい風に体が大きく揺さぶられた時。したり顔の直樹が口を開いた。
「お前なんかに分かるはずなんてないだろ?」
「だって分かっていたんだもん」
いつもの顔だ。四十を超えた男が口を尖らせるな。
「やっぱり映画が伏線なのよ」
「何が伏線だ。それにまた映画か」
「だって『シングルマン』よ。八カ月前に交通事故で死んだ恋人を追って自殺する映画だって話したでしょ? でもね、最後主人公は生きる意志を見せるの。周りの影響もあって、自殺を留まるのよ。でも留まった瞬間、主人公は死んでしまうの。あの映画でも心臓発作だったと思うけど。生きる意志を見せた瞬間に死んでしまうの。秀三は映画を観ていないから分からなかったのよ。あたしは映画を観ていたから、成田は自殺しないって分かっていたの」
やはりお口チャックを命じておけばよかった。またくだらない映画の話だ。後悔は先には立たない。
「もう終わりだ。終わり。これでやっと全部片が付いたんだ。後の処理は警察に、君生に任せておけばいい。それより祝杯だ。何処かで花見でも出来ないか」
まだ四月だ。風は冷たいが、何処かでまだ桜が見られるなら、外で飲む酒も悪くはない。本当は樹と交わした方が美味い酒が飲める事は分かっているが、今日は直樹で我慢しよう。




