Scene 5
「こんばんは」
ホワイトボードを眺めていた背中に男の声が響いた。
朝っぱらなら黒川オーナーの登場も考えられるが、年寄りのものではなく若い男の声。直樹と君生以外の客が訪れる事なんてないのに、一体誰だ?
「あのう、こちら辻山さんのお店で間違いないでしょうか?」
名前を口にされてもドアを開けたその若い男に見覚えはなかった。二十歳そこそこにしか見えない茶髪の若い男。茶髪と言っても、流行りの前髪系ではなく、この二丁目で受けそうなショートカット。
——あっ、可愛い。
思わず漏れそうになった素直な感想を急いで飲み込む。
「辻山は私ですが」
「あっ、すみません。恭介ママの使いなんですが、ママはまだ来ていませんか?」
「ちょっと、やだ。その薄緑色の紙袋。ラデュレじゃないの? えっ? マカロン? マカロンなの?」
茶髪の若い男より、直樹の興味は男が手にした紙袋にあるようだった。
「あっ、そうです。ママに頼まれて、二十四個入を買うようにって」
「ええ、二十四個入! ラデュレのマカロン一粒三百円よ! それが二十四個入だなんて。しかもさっき『猫が行方不明』の話をしてからパリの口になっていたのよ」
「おい、直樹。黙っていろ」
一人で舞い上がる直樹に釘を刺す。猫探しの礼で間違いないだろうが、まだそうとも言い切れない。それなのに直樹の視線は薄緑色の紙袋を捕えて離れない。それよりも鳴子の使いと言う事は、この若い男も二、三万の金を出せば手に入るのか。一舐めしたその体に見惚れながら浮かべた、邪な考えを二人目の来訪者に遮られる。
「辻山さん。先ほどは本当にありがとうございました」
若い男に遅れて来た鳴子が、男が持つ紙袋に封筒を忍ばせ手渡してくる。
「カズキ、ありがとう。あなたはもう戻っていいわよ」
カズキと呼ばれた若い男へ鳴子が向いている隙、封筒を抜き取り、薄緑色の紙袋を直樹へと手渡す。
「カズキ君って言うんですね。鳴子さんのお店の子ですか?」
「あら、やだ。カズキを気に入ってくれたんなら、いつでもお店に来て頂戴よ。グリを見つけて下さった辻山さんですもの、たっぷりサービスさせますから」
全てを見透かされているだろうその誘いに言葉が詰まる。二つ返事で、是非。と言いたいところだが、背後にいる直樹と君生に何を言われるか分からない。
「いえいえ、折角お越し頂いたんだから、少しだけでも飲んでいって下さいよ」
「ありがとう。それじゃあ、折角だからおビールを頂くわ」
促したカウンターの椅子に鳴子が腰を落とす。そんな鳴子の声が聞こえていたようで、君生は冷蔵庫にしゃがみ瓶ビールを取り出している。だが直樹は紙袋から取り出した箱のリボンを早速解いている。
「おい、直樹」
「いいじゃない。皆さんで召し上がって頂きたくてお持ちしたのよ。どうか遠慮なさらず召し上がって下さい。それにオカマは可愛い物が好きなんです。だから可愛いマカロンも大好きなんですよ。ねぇ」
「さすが鳴子さん。ママだけあってオカマの気持ちがよく分かっていらっしゃる」
「すみません。はしたなくて」
「はしたないって、何よ。だってラデュレって、こんな小さなマカロンが一粒三百円よ。早々口になんか出来ないじゃない。一粒三百円が二十四個入だなんて、テンション上げるなって言う方が無理な話なのよ。分かった? 秀三? さっ、まずはフランボワーズから戴きます」
淡いピンクのマカロンを手にし、鼻を近付けている。そう言えば鳴子の部屋のベッドカバーのレースも、直樹が手にするマカロンのように淡いピンク色だった。そんなベッドカバーの向こうで見え隠れするグリとグラ。確かにグリの居場所に気が付いたのは直樹だ。その報酬としてのマカロンなら安い物だ。
「ああ、やっぱりゲイバーだけど、ここは探偵事務所なのね。あのホワイトボード。やっぱり新宿公園での事件かしら?」
この鳴子も先週の野次馬の中にいたのかもしれない。この店よりも鳴子の店の方が新宿公園には近い。
「まあ、一応そうですね」
軽く流したからかホワイトボードに向けられた鳴子の首が動く事はない。
ん? ぽかんと開いた口。さっきまではそうは見えなかったのに、いつの間にか鳴子の目は曇っている。何だ? 地雷なんて踏んでいないはずなのに。
「鳴子さん。どうかしましたか?」
「えっ、あの河野太一って先週新宿公園で見つかった被害者よね。それに今野陽介と高橋潤って先々週見つかった」
「ええ、そうですけど。鳴子さん、お知り合いなんですか?」
「いや、そうじゃなくて。どうして前城一樹の名前が並べられているの?」
「鳴子さん。どう言う事ですか? 前城一樹をご存じなんですか?」
「あの」
鳴子の顔から血の気が引いていく。見る見るうちに青白くなったその顔に途轍もない衝撃を受けた事は分かるが、その衝撃が何なのかは見当さえ付かない。
「私の知っている一樹なら、少し前に亡くなったはずよ」
「亡くなった? どう言う事ですか?」
「あたしもネットの記事で見ただけだから、詳しくは分からないのよ。何か宗教的な団体の代表だった一樹が死んで、新しい代表が誕生したとか、そんな記事だったの。もう久しぶりに目にした一樹の名前がそんな記事だったから、あたしもびっくりしたんだけど。でも同姓同名かもしれないって、その時は。でも、また今、一樹の名前を目にしたからびっくりしちゃったわ。ねぇ、一樹が今回の事件に何か関係でもあるの?」
「いえ、それはまだ分かりません。ところで、鳴子さんと前城一樹とのご関係は?」
「やだ、秀三ったら。ご関係だなんて。何を聞いているのよ、やらしいわね」
フランボワーズのマカロンを食べ終わり、薄い黄色のマカロンを手にした直樹が野次を飛ばしてくる。何か可笑しな事を妄想している表情だが、口にしたご関係には、そんな色恋を含んでいるつもりはない。だが鳴子は直樹が意味するご関係を素直に受け入れたようだ。
「確かにお店で働いている子とは全員関係を持ってきたわ。入店初日の日かその前に。こんな商売だからこそ、その子がどんな子か見極めなきゃ。もちろんお店に出た時と同じだけの金額は払っているわよ。だからうちの店の子にとっては、みんな初めてのお客はあたしなの」
鳴子の言い訳に薄緑色の紙袋を持ったカズキを思い出す。きっとあのカズキも。そんな思考に流されそうになるが、今は本筋から逸れる訳にはいかない。聞きたい事はそんな色事ではない。
「って、事は、前城一樹も鳴子さんのお店で働いていたんですか?」
「ええ、そうよ」
「それっていつの話ですか? 最近の事? それとも」
「もう随分と昔の話よ。あたしもネット記事を見て、もしかしたら? って、思い出したくらいだから」
「そうなんですね。それでいつ頃まで働いていたかとか覚えていませんか?」
「今すぐは思い出せないけど、お店に戻れば一樹がいつまでうちで働いていたかは分かるわよ。今年で二十五周年なんだけど、今までうちにいた子の情報は捨てられないのよ。一樹みたいに何も言わずに辞めていった子も多いけど、みんな家族同然だから」
「突然辞めたんですか?」
「そうよ。よくある話じゃない。こんな商売だもの、今日まで何も言わず普通に出勤していた子が、次の日から来なくなるなんて。あの子もそうだった。でもね、カズキが来てから時々思い出していたのよ。何か顔が似ているって言うか、面影があるって言うか、それがあんなネット記事見たから、変に引っ掛かっちゃって」
君生が注ぎ足したビールはすっかり泡を失っていたが、鳴子は一息で飲み乾す。夕方に見せた収拾のつかない一面は陰を潜め、やけに凛とした出で立ちには神々しさすら見える。二十五年もの間この町を走り抜けてきた貫禄なのだろう。