Scene 3
〈好きよ……、でもね……、たぶん……、きっと……〉
〈……離れて見つめないで〉
こっちの鳥肌なんて気にしないで、情感たっぷりに歌い上げた直樹がマイクを置く。
カラオケのリースが入ると黒川オーナーに聞かされてはいたが、それが今日だったって事はすっかり忘れていた。夕方、業者が設置したばかりのカラオケを、店に入るなり一早く見つけ直樹は目を輝かせた。
「いきなりだな」
「だって今、ボックスに一緒に行ってくれる友達もいないし、歌えるチャンスがなくて。だから嬉しくなっちゃった」
テヘペロと出された舌に、歳を考えろと咽そうになったが、永井からの連絡が来ない事には、直樹の相手をするくらいしかやる事がない。
「それで? この店に合わせて『探偵物語』なのか?」
「違うわよ。自意識過剰ね。この歌はあたしのテーマソングなの」
ぷくっと膨らませた頬に再び咽そうになったが、勢いよく開かれたドアに救われる。
「すみません。水、水下さい」
声を上擦らせ慌てる君生。ただ事でない事は分かるが、何故息を切らしているのかは読み取れない。
「何だよ、そんな息切らして。ほら水、飲め!」
「ありがとうございます」
手にしたグラスの水を一息で飲み乾した君生に直樹も心配そうな目を向ける。
「何? 何があったの? そんなに慌てて」
「えっ、あの」
一杯の水で少し落ち着いたのか、君生の声のトーンは戻っている。
「もう一杯飲め」と、君生が手にする空のグラスに水を注ぎ足す。
「気持ちよく歌っていたのに、慌てて飛び込んできたからびっくりしたじゃない」
「あ、あの歌、直樹さんが歌っていたんですね。階段の下まで聞こえていました」
二杯目の水も一気に飲み干したその声はすっかり正常だ。直樹とじゃれ合う姿も見慣れたものだ。
「それで、何をあんなに慌てていたんだ?」
「えっ? えーっと、何だったっけな」
とぼけた様子の君生だったが、本当に忘れてしまったようで、顔をしかめ、困った表情のまま直樹へと救いを求めている。だが救いを求められる直樹はただ首を横に振るだけだ。
「お前は馬鹿か」
思わず投げた呆れた物言いにも反応出来ないようで、困り顔を直樹へと向け続けるから、直樹はただ首を横に振り続けるしか出来ない。
——何なんだ?
次に罵る言葉を探してみるが、可笑しな表情の君生には呆れる事しか出来ない。
「もう、何なのよ。君ちゃん、じっとこっち見ないで。君ちゃんが何で慌てていたかなんて、あたしには分からないし、あたしはただテーマソングを歌っていただけ」
「ああ、テーマソング!」
何かを閃いたように、困った表情を崩した君生だったが、問い質している事の答えを見つけた様子ではなかった。
「そうそう。この店カラオケあったんですか? 一階まで歌声が聞こえてきて慌てて階段駆け昇っちゃいましたよ」
「はあ? カラオケに釣られて、慌てて階段駆け昇っただって?」
「もう秀三! そんな厳しい顔しないで。確かに君ちゃんの慌てっぷりには驚かされたけど、あたしの歌声に慌てたって言うなら納得じゃないの。君ちゃんにもちゃんと聞かせてあげないとね」
「もう充分だよ!」
直樹が手を伸ばそうとした電モクを奪い取る。あんな情感たっぷり、酔いしれながら二度目を歌われたら鳥肌どころじゃ済まない。何がテーマソングだ。四十超えたオカマが。
「ああ、あたしにまで厳しい顔向けないでよ。やだやだ。君ちゃん、焼酎、緑茶で割って」
「あ、はい、分かりました。って、直樹さん、俺、この店の従業員じゃないですからね。酒なら秀三さんに頼んで下さいよ。この『探偵物語』のマスターなんですから」
「そうよね、あたしのテーマソングとこのお店の名前が一緒だから、一曲披露したのに。あたしが秀三に感じていた縁は何だったのかしら。あたしの青春時代返してよ!」
まだ一滴の酒も入っていない直樹が管を巻き始める。どんな縁かは知らないが、腐れ縁には違いない。確かに高校の頃の同級生で、数年前、この二丁目でばったり再会はしたが、それを腐れ縁と呼ばず何と呼ぶ。
「えっ? 直樹さんの青春時代って、縁って。秀三さんと直樹さんって、高校の同級生でしたよね?」
「そうよ。秀三の名前にピンと来たの。これは運命だって」
「えっ? 衝撃過ぎです。直樹さん、秀三さんの事好きだったって」
「好きだなんて一言も言ってないじゃない、運命を感じただけ」
「勝手に運命なんて感じるなよ。それにこの名前は父親がふざけて付けた名前だ。兄貴が優作と純で、たまたま生まれた日が映画の公開日だったって……」
「全然、意味分からないんですけど」
まだ全てを言い切る前に君生が遮る。確かに兄弟の名前を突然出されても、それはどこにも繋がらないだろう。だが直樹は違った。
「何だ、秀三もちゃんと命名の理由知っていたんだ」
「どう言う意味だ?」
「あたしに蘊蓄を語らせたら長くなるわよ」
「手短にお願いします!」
君生も少しは直樹の事を分かってきたようだ。くだらない知識を披露する前に見せるその目の輝きに気付いている。
「一九八三年七月十六日。これが映画『探偵物語』の公開日なの。この日に産まれたのが秀三なのよ。秀三のお父さんはかねてから優作の大ファンだった。だから長男には優作と名付け、次男にはジーパン刑事から純って名前を付けた。そこで『探偵物語』の公開日に産まれた三男。お父さんは気付いちゃったのよ。『探偵物語』の中で優作が演じた役名が辻山秀一だって。さぞかし嬉しかったんじゃないかしら? まさか優作の役名が自分と同じ辻山だなんて。でも三男に秀一の一の字を使う事を躊躇したお父さんは一の字を三にした。これが辻山秀三の命名秘話よ」
「直樹さん、すごい、名推理ですね」
「何が推理だ。人の名前で遊ぶな。それに俺の名前に勝手に運命を感じるな」
強く捲し立てたつもりだったが、直樹がにやりと上目遣いで笑う。
「だ、か、ら。ここからが運命なの。あたしが生まれたのは、一九八三年五月二十五日。これはひろ子の『探偵物語』の発売日なの」
ついさっき鳥肌を立てた歌声を思い出す。
〈好きよ……、でもね……、たぶん……、きっと……〉
脳裏を掠めた歌声は武者震いを呼ぶだけだ。何がテーマソングだ。
「生まれた日が発売日だって、それだけでも運命なのに、あの映画の中でのひろ子の役名は新井直美なのよ。あの役はひろ子のための役でもあったけど、あたしのため、新井直樹のためでもあったのよ。だから子供の頃ずっと思っていたの。あたし女子大生になったら、ひろ子になるんだって。そんなひろ子の、いや、あたしの前に、新井直樹の前に現れたのよ、辻山秀一が、いや、辻山秀三が。これを運命と呼ばずに何と呼ぶのよ!」
「直樹さん、運命なのは分かりましたけど、女子大生にはなれませんからね」
「そんなの君ちゃんに言われなくても分かっているわよ。でもね、運命だったからこうして今、チームでやっていられるんじゃない?」
「おいおい、チームって何だよ。俺を巻き込むな!」
「やだ。調査員だって言ったのは秀三よ。あたしは辻山秀三探偵興信所の調査員。その所長の秀三とチームなのは当たり前じゃない」
ガリッと言う大きな音が聞こえた。首を回すと、苦虫を潰すって言い方が丁度いいだろう表情で君生が氷を噛み砕いていた。直樹も厄介ではあるが、この君生も充分厄介だ。
どうして俺が機嫌を取ってやらなきゃいけないんだ?
そんな気がしてならないが、君生は拗ねた子供と何ら変わらない顔で二つ目の氷を噛み砕き始めた。
「チームだなんて、直樹が勝手に言っているだけだから気にするな。それに俺と直樹の名前だって運命じゃなく偶然だ。この店の名前もオーナーが勝手に付けたんだし、全部がたまたま、偶然なんだ!」
「えー、俺一人、仲間外れですか? 俺はその映画に登場しないし」
「君ちゃんもチームよ。あたし君ちゃんにも運命感じているもん」
「俺にも運命? まじすか!?」
やはり子供と一緒だ。どれだけ拗ねて手古摺らせようが、些細な事でころっと態度を変えやがる。
「君ちゃんもちゃんと登場するわよ。あたしの、いや、ひろ子の家のお手伝いさんが長谷沼なの。君ちゃん長谷沼でしょ? 君生じゃないけど、長谷沼君って名前のお手伝いさんがちゃんと登場するの。だから安心して、ねっ、だから焼酎に緑茶、よろしく」
「はい。でも、お手伝いさんなんですね」
「いいじゃないか、お手伝さんだってなんでも。それより今野と高橋、それに河野だ。今日、捜査本部が立っただろ? 連続殺人事件としての」
「連続殺人!」
直樹が大きな声を上げる。
「そりゃ、そうだろう。十七年前の事件の加害者が、いや、罪に問われてはいないから加害者ではないが、事件に関わった三人が全員殺されたんだ」
三人と口にしながら、四人と言う数字が脳裏を掠める。永井からのメッセージは届いているだろうか? もし届いていたとしても、まずは河野だ。現場状況は君生が詳しく知っている。