09.男の幸福と後悔
いったんはキリルの説得に応じたリシーだったが、馬車に揺られながらまだ迷いもあった。
一方キリルの方は、少なからず浮き立つ気持ちを抑えられなかった。
もちろん自分の犯した罪が簡単に許されないことは自覚していたが、これからのすべての時間を使って償っていくつもりだ。
いくつかの街を経由し、かつて束の間に暮らした屋敷に到着すると、リシーは自室に通された。
部屋には埃一つ見当たらず、一年不在にしていたとは思えないくらい何も変わっていなかった。
気詰まりな二人きりの移動を過ごしたせいか、風呂に入った後、少しのつもりでベッドに入るとすぐに眠ってしまった。
昼過ぎまで起きてこないリシーを、主人の指示で、侍女が何度も確認に来ていたことには気づかなかった。
********************
屋敷に戻り、周囲を見渡す余裕が少し出てきてみると、仕事のし過ぎだと心配していたはずのキリルは、さほど忙しそうには見えなかった。
「調査は良かったの?すぐに帰ってきてしまったけど。」
「ああ。ほとんど終わっていたからね。巧妙に隠していたけど、あちらで帳簿を検分すればすぐに分かったよ。」
(でもあの辺でリシーを探すのに都合が良かったから、引き伸ばしてた。)
そこまでは口には出さない。
不正は長く疑われていたのだが、これまでの調査では証拠が掴めず、王室としても処分を決めあぐねていた事案だった。
目の前の男が並外れて有能な男であることなどリシーには知る由もない。
仕事には行っているようだが、日暮れまでには必ず帰ってきて夕食をともにするし、むしろ隙を見てはリシーの周りをうろついている気がする。
目の下のクマは瞬く間に消え、今では元の、やや筋肉質なスラリとした体躯の眩い貴公子に戻っている。
(これなら私は戻って来る必要無かったんじゃないかしら?まあ彼が元気になったならとりあえずいいか。)
少し騙されたような気にもなったが、安心の方が大きかった。
そんな自分にリシーは少しほっとした。人を憎み続けるのは、辛い。
かと言って、これからのことを話し合う気にもなれず、時間だけが過ぎていった。
キリルとしてはリシーが側にいてくれるという事実だけで幸福だったが。
しかし、傷つけたことと向き合わないまま、いたずらに時を過ごすべきではないことはキリルにも分かっていた。
それをきっかけに本当に捨てられるかもしれないという恐怖から、このぬるま湯にいつまでも浸かっていたい気持ちもあった。
しかし、伝えたくても伝えられなかった日々の苦しさが甦り、キリルは己を奮い立たせたのだった。
朝食の席でキリルはリシーに言った。
「今日は天気もいいようだし、午後になったら庭でお茶を飲まないか?」
********************
「応じてくれてありがとう。」
リシーが庭に出ると、キリルはすでにテーブルで待っていた。
木陰に設置したテーブルにはすでにティーセットと茶菓子が用意されている。
使用人達はカップに紅茶を注ぐと下がっていった。
庭には二人きり。
キリルは妻のいる幸福を噛み締めた。
暖かくなってきたとは言えまだ肌寒さを感じさせる日だった。
「寒くはない?」
「大丈夫。それにこのストールすごくあったかいわ。」
「それなら良かった。」
リシーはキリルがあらかじめ用意させておいたそれを羽織った。
「あの時は本当にすまなかった。」
キリルは改めて、過去の愚かな振る舞いを謝罪しようとした。
「その話は今日はやめない?」
しかし、リシーは謝罪をやんわり拒絶した。
まだ、何となく、自分に過去と向き合う勇気が無いような気がして。
謝罪の出鼻を挫かれたキリルは、仕方なく、当たり障りのない庭に咲いている花の話をしたり、昼間の過ごし方などを尋ねたりした。
しかし、元々不思議と気の合う二人で、だんだんと話が弾んでいく。
キリルは先日の調査のこぼれ話などを聞かせ、リシーの方でもあの街で戸惑った生活習慣の違いなどを笑いも交えながら語り合うまで打ち解けた。
──どこかで少しでも冷静に幼馴染のことを尋ねていれば、幼馴染のことなど構わず正直に愛を乞うていれば…──
こんな幸福に満ちた時間を、自らの行いのせいで遠ざけたことに、キリルは改めて後悔を募らせるのであった。
一方でリシーは、この二人の時間は偽りでは無いのかもと思い始めていた──