02.騙された花嫁
振り返ること無く部屋を出ていくキリルを、リシーは呆然と見送った。
やがて気力を振り絞りベッドから降りると、二人の寝室からよろよろと隣接の自室に戻った。
その日は朝から緊張し通しで、今すぐにでも横になりたかったけれど、朝までにこの屋敷から出ていくことはもう決めていた。
要するにこの結婚は、体の関係を含め普通の夫婦らしい体裁は取りつつ、夫の愛情だけは与えられない契約結婚のようなものと言うことのようだ。
弟との関係を誤解されていることに気がついても早々に反論を諦めたのは、「愛していない」という言葉に心を深く抉られたから。
突然現れた美しい男性に始めは戸惑うばかりだったリシーだが、短い間に逢瀬を重ねるうち、出会って3ヶ月というスピードで今日の結婚に至ったのだった。
キリルは戴冠の可能性こそ無いものの、王家の血筋に与えられる公爵位についている。
対してリシーは物心がついたときには父は無く、一年前に母も亡くした何も無い平民。
キリルがその立場ゆえにかなりの自由を持っていることを差し引いても、世間的に歓迎される結婚ではないことは明らかだったから、二人だけで結婚式を挙げたのだった。
「誰かに邪魔される前に一緒になりたい。周りからの信頼はこれから二人で築いていけばいい。」
キリルのそんな言葉を信じて──
実際は、名ばかりの結婚に手間をかけるつもりは無かったということだ。
幼馴染を守るためと男の欲を適当に満たすためだけの妻だ。
それを貴族の女性から選ぶ訳にはいかず、都合のいい女が私だったのだろう。
自分の軽率さの結果が先程受けた仕打ちであり、身の程も知らずに愛されていると舞い上がった罰だとリシーは自嘲した。
(でも。愛されていると思ったわ。
彼は私を愛していると。あれが愛じゃ無いなら私はもう──)
今夜夫に提示された条件の中にリシーが欲しいものは一つもなかった。
それどころか唯一求める愛だけが欠けた結婚には、何の意味も無い。
虚ろにそんなことを考えながら、荷解きしたばかりの僅かな持ち物を鞄に詰め直し、屋敷に移ってきた二週間前に着ていた服に着替えた。
そうして、使用人達が寝静まり、早朝起き出すまでの短い時間を見計らって、リシーは屋敷を後にした──
結婚を決めて以降矢継ぎ早に贈られた色とりどりの宝石も、美しい装飾の手鏡も、彼にまつわる物は何一つ持ち出すつもりは無かった。
ただ、出会ってすぐの頃に街で買ってもらった赤い石の指輪だけは、何となく残していけなかった。
宝石箱の中のきらびやかな宝石達に比べると安価なそれが、この場に不釣り合いな自分と重なり不憫に思えたのだろうか。
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翌朝──
キリルは非道い言葉を投げつけた罪悪感とリシーを手に入れた喜びで浅くなった眠りを早々に切り上げると、身支度を手早く済ませた。
新妻を気遣うよう執事に声をかけた上で、普段より少し早く仕事場である城に向かった。
この結婚は取引きと同じだと自分に言い聞かせるため、結婚式の翌日にも関わらず無理やり登城したが、仕事はほとんど手につかなかった。
上司であり幼馴染でもある王太子には、「痩せ我慢して仕事に来ておいて、結局日暮れ前に帰るのか」と揶揄われながら帰路についた。
(昨夜は言い過ぎた。取引きとは言えこれから共に暮らしていくのにもう少し敬意は払って良かったかもしれない。)
自分の気持ちに気づかない愚かな男は、馬車に揺られながら見当違いの考えを巡らせていた。
屋敷に戻り自室に向かいつつ執事に妻の様子を尋ねると、まだ部屋にこもっているという。
昨日の今日とは言え、流石に遅すぎると自室から共通の部屋を抜け女の部屋に立ち入ると、人の気配は無かった。
不穏な考えがよぎったが、婚約者のいるアイアスにも手を出す欲深い女に我が家の贅沢な暮らしを捨てられるわけがない、屋敷内を見回ってでもいるのだろうと頭を振る。
自室に用意されていた紅茶を一気に飲み干すと、妻の部屋に戻りその不在を改めて確認した。
無作法とは思いつつ衣装部屋の扉を開くと、キリルが贈ったドレスや鞄、宝石箱、様々な小物が並んでいた。
あれだけの美貌だ、飾り立てるのも好きに違いないと様々な物を贈ろうとしたが、これまでのところ受け取ってもらえたのは花束くらいであった。
ふと、リシーが持ち込んだ鞄が見当たらないことに気づいた。
(あれにはお母さんから受け継いだ裁縫道具が入っていると言っていた。)
平静を装いつつ執事に屋敷内にいるであろう妻を探すよう指示し、先ほど確認した部屋を無意味に歩き回るなどしたが当然ながらその姿は無い。
自身で何もしないのも落ち着かず、リシーが起きて軽く整えただけであろうベッドのブランケットをめくった。
そうして、キリルはシーツの上に残されたしるしを目にしたのであった──