第38話 過去と未来
『そうそう、上手に切れたねえ』
『おばあちゃん、これでいい?』
『咲は料理が上手ねえ。おじいちゃんに似たのかしら?』
懐かしい声がする。優しくてあたたかくて、少し震えるような愛しい人の声がする。
「おばあちゃん……?」
畳の匂いがする古い部屋から、咲は不思議なものを見た。台所に立つ小さな女の子と祖母の姿だ。踏み台の上に立ち、女の子は一生懸命に料理をしている。その傍らで愛おしげな瞳を女の子に向ける、祖母。あ、あれは、あの女の子は私だ、と咲はぼんやりと思った。
『おじいちゃんは料理が上手だったの?』
『ええ、そうよ。お料理が大好きだったの』
『あたしもすき! おばあちゃんが笑ってくれるから!』
『あらあら、そんなところまで似ちゃって……』
ふと縁側の方に視線を移すと、今度は少し年老いた祖母と成長した自分の姿が見えた。祖母の手には、押し花のしおりがあった。
『これはね、おじいちゃんがはじめてくれた花よ』
『へえ~、ちゃんと大事に取ってるんだ』
『そうよ。あなたにもそういう人がいつかできるのかしら』
『どうかなあ、分かんない』
『あら、うふふ』
やがて日が暮れ、夜になり、初夏の若葉と湿気の香りに満ちた風が吹く。縁側の向こうに見える庭には、一人、真っ黒な服を着た自分が立っていた。
『……ただいま』
その声に返事はなかった。
ふとまぶたを上げると、そこにはとうに見慣れた天井があった。
咲はぼんやりとしながら起き上がる。どうやら、帰って来てそのまま眠ってしまったらしい。ソファで眠っていたので、体が痛い。
咲はぼーっと宙を見上げたのち、おもむろに立ち上がってコートを着ると、外に出た。廊下は冷たく静かで、扉の音がよく響く。
街は雪のせいもあってかとても静かだ。まるで自分一人がこの世界に取り残されてしまったような気がして、咲はうつろな心のままただ歩いた。すれ違うものは誰もおらず、咲は、この世界にやってきた日のことを思い出していた。
あの日も寒かった。雨が降っていて、途方に暮れていた。でも、皆が助けてくれた。必要だと言ってくれた。それがどれだけ運のいいことで、どれだけ咲がほっとしたか。
でも、もうすぐ、完成してしまう。
そうすれば自分はここに必要なのだろうか。フルン・ダークにいていいのだろうか。きっとみんなは優しいからずっと置いてくれるだろう。でも、自分にしかできないことが達成されたとき、はたして自分の存在意義とは何なのだろう。
(ああ、だめだ。夜にこんな考え事をすると、ろくなことにならない)
そうは思いつつも、咲の思考は止まらない。
でも、元の世界には帰れない。帰ったとしても、戻るべき場所はない。
自分の居場所はここだ、とはじめは覚悟が必要だった。そう思い込むしかなかった。ここでの身の振り方はどうすべきか、どう生きていくべきか、必死だった。
しかし、今はどうだろう。
ここにいたいと、いさせてほしいと、願うことばかりだ。
「あ……」
気づけば咲の足は、フルン・ダークに向いていた。入り口の明かりは消え、ひっそりとしている。
咲は入り口の小さな階段に座り、膝を抱え、瞳を閉じる。とても寒くて冷たい夜だった。
それからどれくらいの時間がたっただろう。頬に雪が下りてきて、咲は目を開けた。見上げれば瞬く星に紛れて、雪が降っているのが見えた。先ほどから降っていたのだろうが、何も気づかなかった。
吐く息が白い、鼻先が冷たい。自分は確かに生きているのに、まるでぽっかりと自分という存在が世界に忘れ去られているような気がして、咲は目を伏せた。
「サキ!」
と、闇夜の静寂を破る声がした。その声はどうやら自分の名を呼んでいるらしい、と咲が気付いた時、声の主は目の前に来ていた。
その人は月明かりのように鋭い美しさを持つ青年だった。
「アーキーさん? どうしたんですか、そんなに慌てて」
咲が何でもないように聞くと、アーキーは少し怒ったような声で言った。
「どうしたじゃない! 君が……君がこんな夜中に出かける音がして、どうしたんだろうって思って、でも一向に戻ってこないから……」
美しい色素の薄い髪を振り乱し、アーキーは息を切らせながら言う。ああ、そういえば家が隣だったなあ、と咲はのんきに考えた。
「ごめんなさい、ただ散歩に出てただけで。ご迷惑をおかけしました」
「ああ、もう!」
アーキーはたまらず咲を立たせると、力強く抱きしめた。突然のことに咲は身動きが取れず、目を見開いた。咲の肩に顔を埋め、アーキーは言った。
「こんなに冷たくなって……何が散歩だ。最近、様子がおかしいとは思っていた。でも、こんなになるまで思いつめなくたって……ああ、でも、気づいていたのに何もできなかった俺も……」
混乱している様子のアーキーに、咲は何も言えなかった。アーキーは抱きしめる腕にさらに力を込めた。
「なあ、教えてくれ。いったい何が、君の心を曇らせてる?」
怒っているような、泣きそうな、そんなアーキーの声と言葉に、見開いた咲の目からボロボロと涙がこぼれだす。
「……怖かったんです」
咲は小さな声で言葉を紡いだ。アーキーは腕を緩め、咲と向き合う。咲は堰を切ったように、ため込んだ不安を吐き出した。
「もう私はいらなくなるんじゃないかって、ディナーが完成したら、私はもう、いらないって、思っ、て。それでどんどん、不安になって。分かんなくなって、それで……」
たどたどしく気持ちを吐き出す咲。そのすべてを受け止めて、アーキーは優しく微笑んだ。
「何を言っている。みんなもう、君がいない未来は考えられないんだ」
咲は泣きじゃくりながらアーキーを見る。アーキーは優しく涙をぬぐうと、ゆっくりと続けた。
「ディナーが完成した後のフルン・ダークには、君がいるんだ。厨房で忙しく、でも楽しそうに料理を作っていて、皆と笑いあって、時には言い合って……君はここにいなきゃいけないんだ。そうしないと、俺たちが描く幸せな未来はないんだ。分かるな?」
咲は何度も頷いた。
本当は分かっていた。不要だと切り捨てられることはないと、皆は自分を受け入れてくれると。でも心のどこかに巣食った不安と混乱が暴れまわって、どうしようもない思考のループに咲を陥れてしまっていたのだった。
アーキーは咲を抱きしめると、おどけたように言ってみせた。
「それに、俺はもう君を手放すつもりはこれっぽちもないからな。毎日愛してると言うし、それでも足りないなら、いくらでも手はある」
その言葉に、咲はやっと笑った。
「これ以上されたら、身がもちませんよ」
「そうか? いくらやっても足りないんじゃないか」
「少しずつでいいです。少しずつ……」
咲は涙をふくと、アーキーを見上げた。咲のその瞳に、もう、陰りはない。
アーキーは笑った。
「そうだな、まだまだ時間はたくさんある。少しずつ、な」
二人は笑い合い、アーキーは咲の頬を両手で包んだ。
「さあ、早く帰ろう。暖かくしないと、風邪をひいてしまう」
「……はい」
そしてアーキーは、咲の額に口づけをした。咲は驚き、寒さとはまた別に顔を赤くしてしまった。
「どうした?」
「え、いや、その……何でもないです」
「そうか」
アーキーは楽し気に、咲の手を引く。咲は自由な方の手で自分の額に触れると、くすぐったそうに笑ったのだった。




