中 第九幕 一歩
『さあ、舞台は整いました……術式を開始しましょう』
私はレインフォルトの言葉に目を瞑りゆっくりと呼吸をする。
今まで確かに上流貴族として教育を受け何不自由なく生き、そして同時に目を逸らしてきた。
戦争や奴隷制、貧困や格差……そういうものから目を逸らし、アリエラの教えを信じることで自らを正当化してきた……
しかし、アリエラの教えでは救えない命が今、目の前にある……
目を逸らすのはもう……やめよう。
今までの私は、標榜していたそれは正義ではなかったのだから。
私は目を見開き少女と向き合う。
(今ここで、上流貴族であり聖騎士であった自分を私は殺すんだ……彼女を救うために……)
私は言い聞かせて覚悟を決めて一人の人として一人の人を救う……それに集中する。
レインフォルトの示す光明の筋に私は握った刃を添わせた。
しかし、私の手は意に反して止まる。
『自分を信じなさい……彼女の未来を切り拓けるのは貴女を於いて他には居ません』
私はイメージの中で何度もした感覚を思い出して少女の皮膚に刃を入れ、手を動かした。
そこからは正に無我夢中だった。
レインフォルトの指示の下、手を動かす。
予想より大きく膨らんだ虫垂の根本を二つのクリップで止めてその間で腸を切除して取り出し、腸の縫合を行う。
縫合はイメージ内でも苦手だったが、なんとかこなせた。
レインフォルトは複雑で繊細な術式を展開し幻術の維持と患部からの血の排出、吹き出す私の汗の対応まで同時にしながら私に指示を出し続ける。
この男と関わってから魔術に触れる機会が増えた、だからこそこういった時にこの男の凄さを実感させられる。
この男は医術は勿論だが魔術も達人級だ。
私は切開した皮膚を縫合し、術式を終えることができた。
最後の一針を通して糸を結んで切る。
私は大きく息をついた。
『なかなかヤキモキもさせられましたが……まぁ、いいでしょう……ひとまず彼女は助かりました』
レインフォルトの皮肉混じりの言葉に反抗する気力もなく、私はしばらく動けずにいた。
『さて、アリアのご両親が心配しています、報告をするとしましょう……術後のケアの説明もありますし、まだ仕事は残っていますよ』
レインフォルトの言葉に私は身体……いや、心に鞭を打って立ち上がり、アリアの両親の下に赴いた。
アリアの両親は成功の報告をした私に涙ながらに何度も礼を言った。
今までの私の人生でこんなに人から感謝されたことがあっただろうか……いくら考えても思い当たらない。
だが、それでもまだ私は人を救ったことを実感できずにいた。
先程までの極限の緊張がそうさせているのだろうか。
半ば放心状態で術後のケアを説明を終える。
『やり切りましたね……お疲れ様でした』
「ありがとうございます……このご恩は決して忘れてません……本当にありがとうございます」
レインフォルトの言葉と改めてかけられたアリアの母親からの感謝の意に私はへたり込んでしまう。
私の中に、解放感、達成感、喜び、そして喪失感が沸き起こり洪水のように押し寄せる。
私の頬を熱い雫が伝う。
アリアの母親は私を抱きしめて何度もありがとうを連呼した。
こうして私はアリエラの教えに叛き、異端者としての一歩を踏み出した。