中 第四十一幕 ミセリコルデ
(故郷に……帰りたい……!)
僕はその思いだけを胸に走っていた。
走るのに邪魔な血の紅と脂に塗れた剣を手放し、金属音を置き去りにして走ることに集中する。
ここまでに何度か手傷を負ったが、怖くて傷を見ていない。
ただ今は体が許す限り走るだけ……
追い縋ってくる理不尽を振り解こうと思うように上がらない手と脚を必死に動かす。
僕の生まれ育った国は戦争に負け、国民はほとんどが死ぬか奴隷に身を窶した。
僕はその身を戦争での捨て駒として買われた。
理不尽な暴力と辛辣な言葉を浴びせられ、家畜の餌のような食事を食わされ、糞尿の臭いが立ちこめる劣悪な環境の中に浸され、訓練という名の虐待を受けた末に戦場に放り込まれ、同じ境遇に身を置く仲間達と共に殺されることを戦奴となった僕は運命付けられた。
そして、僕は逃げ出した。
ただ故郷に帰りたかった。
もう父母も恋人もそこにはいない……戦火に飲まれて僕の目の前で皆殺されてしまった。
それでも帰りたかった。
最初は生きたかったから敵だと言われた人間を恨みも何もないか殺した、死に物狂いで……
殺したくは無かったが殺し続けた。
だが、状況は変わらなかった。
……いや悪くなっていく一方だった……
このまま消耗し続けて使い捨ての駒同然に殺されるのなら、今すぐ死んだ方がマシだと思えた。
……そう思ったから逃げた。
僕は山に分け入る。
もう追手を確認するために振り向く余裕すらない。
ただひたすらに進む。
やがて山道に出ると、四人の男女に出くわし立ち止まった。
軍属ではないことは格好から一目で知れたため僕は少し驚いたが同時に安心した。
しかし、足を止めた代償は大きかった。
もう動くなと早鐘を打つ鼓動と、詰まる呼吸、抗い難い倦怠感、そして傷口から広がる灼熱感に耐えきれず膝をついた。
そして、俯くと同時に自分の血に塗れた体が嫌でも目に入ってきた。
そこで僕は……自身の死を悟った。
四人の内の若い女性二人が俺に声を掛けながら駆け寄ってくる。
異邦人の僕にその言葉は理解できなかったが、気遣いが伝わってきた。
こんな時にも関わらず自分が人間として扱われていることが嬉しかった。
久しく忘れていた感情だった……
女性二人は僕の身体の治療を始めた。
しかし、身体から血と共に何かが抜け出ていくような感覚が止まらない。
初めて味わう感覚……
生きようとする体が痛みと熱さ、苦しみという形で命の危機を訴えてくる。
しかし、僕はただ呻くことしかできない。
苦しみに苛まれながらも目を開けると、二人の女性は懸命に治療を続けるているが、残る二人になにやら説得されているようだった。
言葉が通じなくてなくても、内容は推察できた。
やがて治療の手が止まる。
「……僕のことは……もう、いい……行け」
僕は通じないことは承知でそう声を絞り出した。
少しの間女性は動きを止めていたが、やがて口を開く。
「……"慈悲"が必要ですか?」
女性の口から発せられたのは故郷の言葉だった。
必死に僕を救おうとしていた先程までの様子とはまるで別人のようにその声は落ち着いていて、僕はそれにどこかやすらぎを覚えた。
しかし、その言葉の意味は自分が助からないことを意味していた……
「ははっ……死にたく……ないなぁ…………でも、結構な数の……人を殺したから……その報い、かな……すごく、熱くて……苦しいんだ…………頼むよ……」
僕は目を瞑り息をきらせながらも無理矢理に笑って戯けて見せる。
それが今の僕ができる精一杯の強がりだった。
そうしなければ何かに押し潰されそうだった。
突然、温かな雫が僕の顔の上に落ちる。
目を開けると女性は涙を流していた。
「……すみません、失礼ながらあなたの記憶に触れてしまった……ご苦労をされましたね……辛かったでしょう……もう強がらなくてもいい……」
その言葉に堰を切ったように感情が溢れ出し、それが嗚咽となり涙となって溢れ出す。
そうだ、ずっと辛かった、悲しかった、怖かった……そんな感情さえも忘れてしまうほど僕の心は絶望感に沈んでいた。
自分のために涙を流して看取ってくれる人がいる……そんな状況で死ねると思っていなかった。
戦奴に身を窶した時から、ただ無惨に山野に屍を晒す……自分の最後はそうだと信じて疑っていなかった。
「僕の為に……泣いて……くれるのか?……こんな……じあわぜで……い"い"のかな……人をごろじて……僕……地獄に……」
僕は突然襲ってきた寒さに震えながらずっと抱えていた恐れをどうにか声に乗せて絞り出す。
目に焼きついた殺してしまった人達や助けられなかった仲間達が僕を責め立てる夢を毎日のように見ていた。
彼らに連れられてきっと自分は地獄に落ちる……そう思っていた。
「今日を生きるためにパンを盗んだ者に何の罪があるでしょうか……それと同じです、この残酷な戦場で貴方は人を殺さなければ生きられなかった……神が許さずとも誰が許さずとも私が貴方を赦しましょう…………貴方はよくぞここまで生き抜いた……誇りなさい……」
その言葉と共に炎の文字と幾何学的な模様が宙に現れる。
音もなく揺らめき美しい火の粉を巻き上げながらそれは優しく僕を包み込んだ。
(ああ……僕は、赦してもらえるんだな……)
そう思うと、やがて寒さや苦しみは嘘のように消えていった
そして、瞼が重くなっていく……抗うことなく目を瞑ると闇が広がった後に優しい光が広がり、春の陽射しと新緑に包まれた平和だった頃の故郷の景色が広がる。
そこには懐かしい、会いたかった人達……父母や恋人、仲間達や飼っていた犬の姿があった。
信じられない光景に立ち尽くす僕を進み出てきた親友が半ば強引に肩を組んで人々の輪の中へと導く。
そして、皆笑顔で僕を迎え入れてくれた。
父母も、恋人も寄り添って僕を労ってくれた。
照れる僕を友人達がからかいながらも祝福してくれた。
犬も尾を千切れんばかりに振って喜んでいる。
この上ない歓喜と安らぎに包まれ滂沱たる涙と共に僕の顔から笑みがこぼれる。
いつまでも……いつまでも続いて欲しかった光景がそこにはあった。
そして、僕の意識はゆっくりと喜びと優しい春の陽射しに溶けていった……
ミセリコルデは慈悲の意です。
世界が優しくあらんことを……




