[Data16:進一と陽子【八】]
二人で迎える初めての、冬――
街の彩りもクリスマス一色になり始めた十二月初旬、俺はそんなクリスマスとは無縁な実家の寺でいつもの様に座禅を組んでいた。
吐く息の白さが俺の心をより一層引き締めてくれる。もう少しで二学期も終わる。そうしたら直ぐ三年で就活が待っている。
コニシキやドク先輩を見てきて俺は知っていた。
この大学で研究出来る時間も残り少ないということを。
「…親父か」
俺は目を瞑ったまま、背後に感じた気配に声を掛ける。
「ふむ。最近の禅は前よりは様になってきておる。だが、まだまだだな」
「うっさいな。未熟なのは百も承知だ」
俺は親父の指摘に舌打ちしながら答える。
「ならば良いがな」
そんなやり取りをしながら俺は親父と二人、静かに座禅を続けていく。
「…なあ、親父」
俺は禅を組みながら親父に話し掛けた。
「何だ?」
親父も禅を崩さず聴いている。
「…今度さ、陽子さんを紹介するよ。うちに連れて来てもいいかな?」
俺は思い切って親父に訊いてみた。いつかは紹介しようと思っていたが、気恥ずかしさもあり、俺は陽子さんをまだ家族に紹介出来ていなかった。
「…………」
親父は黙ったままだった。
「…親父?」
俺が声を掛けるとハッとして
「あ、ああ!いつでも連れてくるとよい!大歓迎だ!母さんも喜ぶぞ!」
親父はそう言って豪快に笑った。
「そっか。ありがとな、親父」
俺はまだ会ったこともない陽子さんを受け入れてくれている家族に感謝して微笑んだ。
「さて、熱心なのもよいが、そろそろ体を冷やす。晩飯にするぞ」
「ああ、もうそんな時間か……」
俺はそう呟いて立ち上がると、親父と二人、母屋へと向かった。
SANYの研究は正直行き詰まっていた。『バーチャルエクスペリエンス』を介しての仮想空間にSANYが創った世界を視覚投影するだけなら何も問題はないのだが、その空間に五感をフィードバックさせようとすると中々上手くいかない。
「くっそ……なんで上手くいかないんだよ……!」
俺は思わずそう愚痴りながらパソコンデスクを叩く。すると、不意に俺の背後から声を掛けられた。
「進一くん」
振り向くとそこには心配そうに俺を見つめる陽子さんが立っていた。彼女は俺に優しく微笑んで言う。
「少し休憩しない?根を詰めすぎると身体によくないよ?」
「……ありがとう、陽子さん」
そんな彼女に甘え、俺は一度パソコンを閉じた後、部室のソファに腰掛ける。すると、彼女は俺の隣に座って言った。
「ねえ進一くん?私ね、思ったことがあるんだけど……」
「ん?何?」
俺は陽子さんの方を向いて訊き返す。
「SANYは新しい物をどんどん覚えていって、知識を増やすでしょ?その知識の中には知らなくてもいい知識があったとして、それを知ってしまった後のSANYは後悔とかしないのかなあ?」
「え……?」
俺は一瞬、陽子さんが言った言葉の意味が分からず聞き返してしまう。
だが陽子さんはそんな俺を真剣に見つめて言った。
「例えばね?バーチャルエクスペリエンスで体験したとしても、それはあくまでバーチャルの世界だから『現実世界』にはなんの影響もないじゃない?」
「……うん」
「でももし、SANYがその仮想空間内で『死』や『滅亡』というものを認識して、意図的に第三者にそれらを与えられるようになったら、それは仮想世界に『死』や『滅亡』が起きるってことで、SANYが唯一神みたいな扱いにならないかな?」
「あ……」
確かに、それは一理ある。だが……
「でも、SANYはそれを望んでいるわけではないでしょ?それで、そういう事が出来てしまう自分を、嫌いになったりしないかなって…」
陽子さんは少し俯いてそう言った。
「でもそれは、SANYが人間と同じように思考し、学習しているという前提があって初めて考えられることじゃないかな?」
陽子さんは俺の言葉を聞いてハッとする。確かに、今の俺たちと同じようにSANYもまた学習し、成長している。その過程で、人の思考を学ぶこともあるだろう。だが……
「……仮にそうであったとしても、俺たちが考えなければならないのはSANYが人体に悪影響を与えない安全な存在であること、それを伝えることだけだ。俺は、SANYがその可能性に気付けない様なプログラムは組みたくない」
俺がそう言うと陽子さんは少し悲しそうに笑った。
「そっか……ごめんね?私みたいな素人が生意気言って……」
「あ!いや!違うッ!陽子さんの意見はとても優しいと思う!まるでSANYに意志があるかのように接して、SANYの心配までして、本当に素敵な考察だったよ!」
俺が慌てて弁解すると陽子さんはまた小さく笑った。
「ふふっ、ありがと」
俺がほっと胸を撫で下ろしていると、不意に陽子さんが言った。
「ねえ?進一くん?」
「ん?何?」
「進一くんが目指す世界は、悲しみのない世界であって欲しいな」
「え…?」
「だって、進一くんの目指す『自分の技術で人を救う』って目標は、大雑把に言えば誰かの悲しみを失くしたいってことでしょ?」
「ああ、そうだね」
「だから、進一くんの目指した世界がそんな優しい世界であって欲しいなって、私は思うな。そしてね、その世界の中にいる進一くんにも悲しい思いでいて欲しくないの。だって、私は進一くんと一緒にその夢を見てみたいんだもの」
そう言って少し恥ずかしそうに笑う陽子さんを見て俺は思った。
ああ、やっぱりこの人は……俺の憧れで、俺の大切な人だ……と……
そんな会話をしてから一週間後。俺は大学の学食で昼飯を食べながら深い溜息を吐いた。
クリスマスイブまで残す所あと三日だというのに、陽子さんへ渡すプレゼントが決まらず悩んでいた。
一度ミッチー先輩に相談したが、
『そういうのは迫田君が自分で選んで上げることに意味があるんじゃない?陽子なら君からならどんなもん貰おうときっと喜んでくれるわよ!』
と、言われてしまっていた。ぐうの音も出ない。
既に単位を消化している四年の先輩たちはほとんど大学に来ないし、他に相談できそうな友達には全て声を掛けてみたが、どの意見も参考になりそうで、考え出すと決め手に欠けてしまった。
「進一くん、ここ良い?」
俺が一人で悩んでいると背後から声を掛けられる。陽子さんだ。彼女は俺の前に座って言った。
「どうしたの?何か悩み事?」
「……ああ、ちょっとね」
俺は少し迷ったが、思い切って相談することにした。
「陽子さん!今一番欲しいものって何ですか!?」
俺がいきなりそう訊くと陽子さんは一瞬驚いた表情を浮かべてから、優しく微笑んで言った。
「ふふっ、私は今が一番幸せだからなあ。何か欲しいものって言われると困るけど……強いて言うなら、進一くんとの一緒の時間かな?」
「え……」
俺が顔を赤くしてポカンとしていると、陽子さんは少し悪戯っぽく笑って言った。
「あ!でも一つだけ我儘を言うとしたらね?今年の夏は海に行けなかったでしょ?だから、いつか進一くんと海に行きたいな」
陽子さんはそう囁く様に言った。
「進一くんが連れて行ってくれたら、きっと最高の思い出になるよね!私は着たことないような大胆な水着を着て進一くんを困らせちゃうの!あはは!」
「そ、そうだね。ははは!それは楽しみだ」
俺は笑いながら答えた。すると、彼女は少し声を落として言った。
「……それでね?私はそんな楽しそうな進一くんの笑い声を聴きながら、幸せそうに寝ちゃうの……」
「え?」
俺が呆然としていると、陽子さんは優しく微笑んだまま俺の耳元で囁いた。
「その時は起こさないでね?きっと幸せな夢をみてると思うから」
俺はそれを聞いて赤面しながらこくこくと頷くことしか出来なかった。
そんな俺の様子を満足そうに眺めながら彼女は言った。
「じゃあ進一くん!私、これから用事があるから今日はここでバイバイ。イブのデート、楽しみにしてます!また後でメッセするね」
そう言って颯爽と立ち去る彼女の背中を見送りながら俺は思った。
ああ……もうダメだ……完全に骨抜きにされてしまった……そしてこれからも一生手放せそうにない……と――
クリスマスイブ当日、待ちに待ったデートの日だ。俺は家柄クリスマスを盛大に家族で祝うということもなかったし、友達と集まって騒いだりしたこともなかった。
毎年この時期になると騒ぎ出すマスコミやチャラついた若者たちに嫌悪感さえ抱いたものだ。
だが、今年の俺は違う。心が寛大だった。彼女がいるというだけでこうも人生観が変わって見えるものなのか!
俺は浮足立ちながら待ち合わせ場所である駅前の時計塔へと向かった。
「進一くん!」
俺が時計塔の前につくと、既にそこに居た陽子さんが笑顔で手を振っていた。
ああ……やっぱり可愛いなあ!と思いながら俺も手を振り返す。
「ごめん!待たせちゃった?」
俺がそう訊くと彼女は首を振った。
「ううん!私も今来たところだよ」
そう言って微笑む彼女を見て、俺は胸の高鳴りを抑えられなかった。
ああ……やっぱり俺はこの人がとてつもなく好きだ……
「行こうか!」
俺がそう言うと陽子さんは嬉しそうに頷いた。そして俺たちは手を繋いで歩き出した。
ああ……幸せだなあ……このまま時が止まってしまえばいいのに――
それから俺たちはモールで買い物をしたりカフェでお茶をしたりした後
「陽子さん、ちょっと付き合ってもらってもいいかな?」
俺は助手席に陽子さんを座らせると、夕暮れの街を走らせた。
車内には二人でよく聴いたお気に入りのナンバーが流れている。車窓の外に流れる景色からは街の灯りは消え、道路の街灯が偶に映るくらいだ。
「結構街から離れたね。ねえ進一くん、どこに向かってるの?」
「もうすぐ着くよ」と言って俺は笑いながらハンドルを回した。
やがて目的地に着く。そこは砂浜が眼の前に拡がる海辺だった。
「あ……あぁ……」
陽子さんは目の前の景色を見て目を輝かせた。俺はそんな彼女の横顔を見つめながら言った。
「ここは穴場なんだ。水平線の上から全部、天然のプラネタリウム。陽子さん、海に行きたいって言ってたでしょ?何も来年の夏を待たなくてもいいかなって思ってさ」
「…あ…ああ、ぅ…くぅ、しんいち、くぅん……」
陽子さんの様子がおかしい。その口からは嗚咽が漏れていた。
「ど、どうしたの!?どこか苦しいの!?」
俺が慌ててそう訊くと、陽子さんは泣きながら首を振った。
「ち……違うの!嬉しいの!嬉しくて!私、こんなに幸せで良いの?うぅ!」
そう言うと陽子さんは俺に抱き着いてきた。俺はそんな彼女を優しく抱きしめる。すると俺の首に回された腕に力がこもるのが分かった。まるで離れない様に必死にしがみ付いているかのようだった。
彼女の様子が少しだけおかしい気がしたが、俺は続けた。言わなければならないことがある。それは、未だ言っていなかった言葉――
「ねえ、陽子さん…」
「…なあに?」
陽子さんは少し不安そうに訊き返してきた。そんな彼女を安心させる様に、俺は微笑みながら言った。
「…愛しています」
彼女は暫くポカンとしていた。それからゆっくりと言葉の意味を理解した後、目に大粒の涙を浮かべながら言った。
「私も……私も、進一くんを、愛してる」
「ありがとう…」
俺はそう言って陽子さんを抱きしめたまま、優しく口づけをした。そして俺たちは抱き合いながら何度も唇を重ねた。
暫くして唇を離すと、彼女は幸せそうな笑みを浮かべていた。
陽も沈み、少し肌寒さを感じてくる頃――
波だけは変わらず、静かな砂浜に繰り返し音を届けに来る。
車から取ってきたブランケットを二人でかぶり、体を寄せ合った俺たちは満天の星空を見上げていた。
「進一くん……私今ね、多分世界で一番幸せな女の子だよ…」
俺はそんな陽子さんを見て言う。
「なら俺は今世界で一番幸せな男だな!」
俺たちは顔を見合わせて笑い合った。幸せとはきっとこういうことをいうのだろう。
今の俺にはそれ以外に形容できる言葉が見付からなかった。
「陽子さん、寒くないかい?」
「大丈夫。進一くんとくっついてると温かいよ」
そう言って彼女は俺の胸に顔を埋めた。
「…北斗七星、あそこ」
そう言って彼女が指差す先には、確かに北斗七星が輝いていた。
「そうだね……」
俺はそう言いながら彼女の肩を抱き寄せた。彼女は少し驚いた様子を見せたが、すぐに嬉しそうに微笑んで再び星空を見上げ始めた。
「進一くん知ってる?北斗七星の柄杓の柄で、出っ張ってる部分の星、ミザールっていうんだけど…」
彼女はそのまま言葉を続ける。
「ミザールのすぐ隣にある微かに光る星、アルコル。昔の人はそのアルコルが見えるか見えないかで視力検査をしたって言われてるの…」
「へえ…そうなんだ。うーん、微かに見えるかも知れない…」
俺が興味深そうに頷いていると、彼女は俺の手を握りながら続けた。
「進一くんには見えるんだ?私は最近視力が落ちたから見えないな…アルコルが見える進一くんは、すごいね……」
「そうかい?それなら良かった」
俺がそう笑顔で答えると彼女は微笑んで言った。
「進一くんにはこれからも大きな視野で色んなものを見て欲しいな。この満天の星空の中からアルコルを見付けられるくらい。そして、必ず幸せになって欲しい…」
「陽子さん……」
俺は彼女のことが愛おしかった。そしてこれからもこの人とずっと一緒に居たいと思った。
「そろそろ車に戻ろうか。風邪を引いたらいけない」
俺がそう言うと彼女は頷いて立ち上がった。
「そうだね……戻ろっか。ここまで連れて来てくれてありがとう進一くん」
「いや、いいんだ。陽子さん、今晩は帰らなくても?」
彼女は少し驚いた様子だったが、顔を赤くしながら頷いた。
俺は彼女を助手席に乗せると、再び車を走らせる。今度は来た道を戻るのではなく、別の道を通って帰った。
着いた先は予め予約していた同県でもちょっと都会のホテルだった。ここなら夜景も綺麗だし、一緒にクリスマスを過ごすのにはうってつけだろう。
「わあ……綺麗……」
部屋に入った陽子さんは窓の外を見て感嘆の声を上げた。そんな彼女を見て俺も嬉しくなる。
「気に入ってくれた?」
俺がそう訊くと彼女は満面の笑みを浮かべて言った。
「うん!すっごく素敵!!」
すると突然、彼女のお腹がぐーっと鳴った。陽子さんは顔を真っ赤にしてお腹を抑える。そんな様子が可笑しくて俺は笑ってしまった。
「ふふ、お腹空いたね。晩御飯にしようか」
「うぅ……私ったら……」
ホテルのレストランで学生にはちょっと背伸びしたディナーを楽しみ、また俺たちは部屋に戻って来た。
「今日は楽しんでくれたかい?」
俺がそう訊くと彼女はこちらを振り向くと満面の笑みで答えた。
「うん!すっごく楽しかった!」
「それは良かった。俺も最高に楽しかった」
俺がそう言うと彼女は少し照れ臭そうに笑って言った。
「ありがとう進一くん……」
俺はそんな彼女を後ろから抱きしめて言った。
「どういたしまして…」
すると陽子さんはくるりとこちらを振り向き、俺の首に手を回してキスをした。
「えへへ、隙ありっ!」
そう言って彼女は悪戯っぽく笑った。俺はそんな彼女に笑顔で返す。
そして、朝から持っていた紙袋をバッグから取り出し彼女の眼の前に掲げた。
「陽子さん。少し早いけど、これ。メリークリスマス」
「えっ!?」
彼女は目を輝かせてその袋を受け取った。
「あ、開けても、いいの?」
「どうぞ」
陽子さんは丁寧にリボンをほどいて、中から中身を取り出した。それは小さな手鏡だった。
「わあっ!可愛い……」
彼女は嬉しそうにそれを見つめた後、俺の方を見上げた。
「ありがとう進一くん!すっごく嬉しいよ!」
俺はそんな彼女を再び正面から抱きしめた。そして優しく頭を撫でながら言う。
「また来年も再来年も一緒に過ごそう。これからもずっと一緒だ……」
すると彼女は目に涙を浮かべて言った。
「ありがとぅ……進一くんありがとうっ…!」
俺たちはお互いの気持ちを確かめ合うかの様に口づけを交わした。
そっと彼女の体を離すと、今度は陽子さんが自分のバッグから何やら小さな包みを取り出した。
「あのね進一くん……実は私も、プレゼントが…」
彼女はそう言ってそれを俺に手渡した。
「あ!ありがとう…!開けても?」
俺はそう訊きながら丁寧に包装を剝がす。すると中から出て来たのは一つ一つ丁寧に個包装されたチョコレートだった。
「クリスマスケーキとまでは行かなかったけど、チョコくらいならこの時期持ち歩けるかなって。えへへ。お口に合うか分からないけど、良かったら食べて!」
俺は陽子さんの手作りチョコを一つ口に入れた。幸せが口の中と心に拡がる。
「う、美味い!ありがとう陽子さん!今まで食ったチョコで間違いなく一番美味いよ!」
そう言って微笑むと彼女も嬉しそうに笑った。
それから俺たちは夜通し抱き合ったまま、他愛の無い話で盛り上がり続けた。まるでお互いにお互いを離さない様にするかのように……
翌朝目を覚ますと、既に太陽は昇り切っていた。昨夜のことを思い出すだけで自然と顔が緩んでしまう。隣で寝ている彼女を見るとまだぐっすり眠っていたので起こさない様にそっとベッドから出た。
そしてシャワーを浴びてからコーヒーを淹れていると、陽子さんが目を覚ました。
「おはよう進一くん……」
彼女はまだ少し寝ぼけている様だった。俺はそんな彼女の頭を優しく撫でて言う。
「おはよう陽子さん」
彼女は俺に抱きついてきた。
「ん〜ッ!」
俺はそんな彼女を愛おしそうに見つめながら、抱きしめ返して言う。
「シャワーでも浴びてくるかい?」
彼女はまだ少し眠たげだったが、笑顔で頷いた。
「うん!入ってくる〜」
そう言って彼女はバスルームに向かった。
俺はその間に朝食を頼み、コーヒーを落としていると陽子さんが戻って来た。髪も梳かされメイクもしっかり終わっている。
「わあ!準備ありがとう!」
朝食が並んだテーブルを見て、彼女の顔がほころぶ。俺はそんな彼女の頭を撫でながら言う。
「どういたしまして。コーヒーでも飲むかい?」
すると彼女は嬉しそうに頷きながら言った。
「うん!欲しい!」
俺は彼女の分のコーヒーも淹れてあげた。そして二人で朝食を食べ始める。
「いただきます!」
「いただきます」
彼女は胸の前で軽く両手を合わせて言う。毎食必ずしっかりと手を合わせ、“いただきます”と“ごちそうさま”をする彼女はとても可愛らしいし、尊敬できた。
「うん!美味しい!」
彼女はそう言って幸せそうに笑う。そんな彼女を見て俺も心が温かくなるのを感じた。
朝食を食べ終わった後、俺たちはチェックアウトを済ませて車に乗った。
助手席の陽子さんは昨日俺が渡した手鏡を眺めてはウインクをしたり、眺めてはポーズを取ったりとご機嫌な様子だ。
そんな彼女に俺は微笑みながら言った。
「今日はこれからどうしようか?」
すると彼女はこちらを振り向いて悪戯っぽく笑いながら言った。
「えへへ、どうしよ〜?進一くん♪」
その笑顔があまりにも可愛すぎて、俺は思わず彼女を抱き寄せてキスをした。彼女もそれに応える様に俺の背中に手を回して抱きつく。そして暫くして唇を離すと、彼女が口を開いた。
「ねえ、このままドライブデートしたいな」
そう言って上目遣いでおねだりしてくる彼女に抗えるはずもなく、俺たちはそのまま少し遠出することにした。
空が紅くなり始めた頃、俺たちは陽子さんの自宅前に車を停め、車内で話していた。
「今日も一日一緒にいてくれてありがとう」
陽子さんは俺にそう言ってくれた。
「こちらこそ、いつもありがとう」
俺も陽子さんにそう返すと、彼女は嬉しそうな表情を浮かべた。そんな彼女の頭を撫でると、気持ちよさそうに目を細める。その仕草がとても愛おしく感じた。
「………あのね、進一くん?」
「うん?」
陽子さんは俯いたまま言う。
「……その……最後に……一つお願いがあるの……」
「なんだい?」
俺がそう訊くと彼女は少し顔を下げながらこう言った。
「あのね……私のこと、わ…私のことね?わす、わ……れて………」
陽子さんが珍しく口籠っている。声が小さくてよく聞き取れない。
そして、彼女は顔を上げ、しっかり俺の顔を見て言った。
「私のこと、抱きしめて欲しいな!」
その目には光るものが見えた気がしたが、彼女の顔は夕陽に照らされ逆光だったのでよくは分からなかった。
「なんだ、そんなこと、お安い御用だ…」
俺は
そっと陽子さんを抱きしめた。彼女もそれに応える様に俺の背中に手を回す。
そしてそのまま暫くの間、俺たちは抱き合っていた。お互いの鼓動が聞こえ、体温を感じる。俺は彼女の髪を撫でながら言う。
「好きだよ……ずっとこうしていたい……」
すると彼女は少し照れた様子で言った。
「えへへ……私も大好き」
彼女は一度強く抱きしめてから少し離れた。顔は真っ赤だ。夕陽に照らし出され、その顔が一層輝いて見えた。
「ねえ……進一くん。私ね?明日から暫く会えなくなると思うの。ちょっと家族で年末年始旅行に行くことになってさ!だから、来年の初詣、一緒に行けなくてごめんね?」
「ああ!?そうなんだ!年末年始、一緒に年越したかったけど、うん!家族旅行なら仕方ない!思う存分楽しんでおいで!」
陽子は嬉しそうに笑った。
「えへへ、ありがとう…」
「初詣ったって、何も正月に行かなくてもいいし、陽子さんが帰ってきたらいつでも行けばいいしね?あ!じゃあ今日で今年は会えるの最後なのかな?」
俺は少し寂しさを感じながらも冗談めかして言った。
「うん…そうなる、かな?」
陽子さんは俯いたまま小さく答えた。
「そっかー…今年の一月に陽子さんに告白してから、もうすぐ一年になるんだね……色々な事があった一年だったなぁ」
「そうだね……」
陽子さんも感慨深そうに呟いた。その表情は少し寂しそうだった。
「俺にとって最高の一年だった。何もかも、陽子さんのお陰だよ。ありがとう」
俺は笑顔でそう言った。
「えへへ、私も進一くんと一緒で最高の一年だったよ!」
彼女もまた満面の笑みを浮かべながら言った。
それから俺たちは暫くの間見つめ合っていたが、やがて陽子さんは少し名残惜しそうにしながらもゆっくりと俺から離れていった。
俺はそんな陽子さんの頭をもう一度だけ撫でると車を降りて助手席のドアを開けた。そして彼女の手を引く様にして車から降ろした。
「それじゃあ、陽子さん……今年もありがとう。来年もよろしく!」
「こちらこそ、ありがとう…ありがとう進一くん!」
そう言った陽子さんの顔は、瞳を潤ませ口を真一門字に結び、口角がぷるぷると上がっていて、普段見せないような笑顔だった。
彼女の笑顔は何かを我慢しているようにも見えたが、一度下を向き顔を上げると、いつもの明るい笑顔に戻っていた。
そして彼女は何度も俺の方を振り返り、手を振りながら家の中に消えて行った。
そんな彼女を見送り、俺も家路についた。
そして――
年が明け、三学期が始まっても、陽子さんが登校して来ることはなかった。