魔羊と野ネズミ
サンディ達が泊まっている宿屋の周囲は、すでに真夜中の闇に包まれていた。
今夕、近くに根城を持つ盗賊団が一網打尽にされた記念すべき場所は、今はもう誰もいない。
そのすぐ近くに、一階が店舗になっている三階建ての建物がある。その屋根の上で一人の女が腰掛けたまま、宿屋の屋根を物憂げに見下ろしていた。
「……ふん。あいつらは弱すぎですわ」
女の豊かな暗赤色の髪はふわふわとカールを描きながら、大胆に露出する豊満な胸元へとこぼれ落ちている。
艷やかに光る黒く短いマントの下には、深紅のシンプルなドレスが見えていた。そのドレスの下半身は太腿までスリットが開いており、組まれた褐色の脚線を惜しげもなく晒している。
男好きのするぽってりとした厚い唇は、夜目にもしっとりと赤く潤んでいる。黒く長いまつ毛に縁取られた切れ長の目と、触れば吸い付きそうな滑らかな肌。――この女を『絶世の美女』と呼んでも、否定する者はいないだろう。
しかし……深紅の瞳の奥で横に細まる瞳孔は、どう見ても地上人のそれではない。
「ヘルダ様。それでもあの娘を間近に追えているだけでも、今は大きな収穫かと……」
女の目の前で這いつくばっている小柄な男が、暗灰色のマントを目深に被ったまま呟いた。
ヘルダと呼ばれたその女は、つまらなそうに夜空を仰ぐ。
「……それだけじゃまだ全然、ギベオリード様に喜んで頂けないんですの」
(私はあの方をこそ、手に入れたいのに……)
しかし、その言葉は声に出さない。
ギベオリード様に喜んで貰う為、あの邪魔な隠蔽を解除させたい。そのためには術の鍵となるアイテムを発見し、奪ってしまえばいい……。
そう踏んでやっと結界から出てきた小娘一行を追ってきた。
『魔女の森に伝わる宝玉の欠片』という風説の術は、想像以上にうまく通った。
あとは欲に溺れた地上人どもを唆して、小娘を拐わせるだけだったのに……これは想像以上にあっさりと防がれてしまった。
でもこれは盗賊連中の弱さというよりも、娘の取り巻きが意外なほど強かったせいだろう。
魔法を使う天界人……精霊師が帰ってくる前を狙ったまではよかった。
あと御者の男の剣技は確かだったが、これは普段から荒事に慣れているのだろう。
しかし紅毛大山猫の青年が、魔弓まで使っているのには驚いた。ヘルダの中では完全にモブ扱いだった獣人が、まさか天界にあるという武器を使いこなすなど……これは完全に想定外だった。
そして室内にいた小娘の戦いっぷりはあいにく見えなかったが、やられた盗賊どもを見ると幻術をかけられた形跡がある。せいぜい強力な四大精霊の力を扱う程度だと思っていたので、これも認識を改める必要がありそうだ……。
「ヨス。明日はあの娘の乗る馬車に潜り込んで王都に入りなさい。そのまま、彼らが泊まる宿を突き止めるのですよ」
ヨスと呼ばれた男は、狼狽えた様子で顔をあげた。歳は三十代後半位だろうか。眉はハの字になり、つぶらな黒い瞳は恐怖に潤んでいる。鼻の下にある細く伸びた髭は、地面に向けて下がっていた。
「え、ええっ!? ちょ、ちょっと待ってくださいヘルダ様っ! 以前から思ってたんですけど、あの馬車の御者は……よくわからないけど、すごくすごく怖いんですよぉぉっ!!」
「まったく……ヨスが怖くないものなんて、この世に一つも無いじゃない。それに私は弱い男は嫌いって何度も言ってますわよね? ……荷台の後ろでじっとしてればわかりっこないですし、万一バレた所で、いつもの姿ですぐに逃げればいいだけでしょう」
「そうは言いましても……」
ヨスは今にも泣きだしそうだ。
「――いいから言うことをお聞きなさい。でないと……わかってますわね?」
「ひぃっ……」
ヨスは再び屋根に額を付けて平服した。
――ヘルダはヨスのこういう卑屈な態度が大嫌いだ。それでも彼を使っているのは、ヨスは隠密行動がめっぽう得意だからである。
本来ならばお互いに相入れない性質だが、今の所諸々の利害が一致していて……かれこれ何年も行動を共にしてきた仲だ。
「――さあ、わかったらさっさとお行きなさい。私は別ルートで先に王都へ向かいますわ。……明日、また会いましょう」
ヨスは情けない顔のまま小さく頷いた後、ためらうことなく屋根から飛び降りた。三階の屋根から落下して、その身が地上に叩きつけられる寸前……ふわりと光ると同時に、小さな灰色の野ネズミに变化して着地する。
野ネズミはそのままちょろちょろと走って、宿屋裏手の植え込みへと消えていった。
その様子を最後まで見ることなく、ヘルダはすでに立ち上がっている。無言のまま屋根を蹴ると短いマントの下がめくれ……細い腰から大きい蝙蝠のような羽が広がって風を掴んだ。
(それにしても……なぜギベオリード様は、あんな小娘に執着しているのかしら……?)
ヘルダはそのまま音もなく飛び立つと、暗赤色の髪をなびかせながら闇の中へと消えていくのだった。





